前夜に東京駅を発つ夜行高速バス「ドリーム」号から、名古屋駅桜通口のバスターミナルに降り立つ旅の形が、好きだった時期がある。
ところが、狭い通路を抜けて開放的なコンコースに出れば、ちょうどkioskや土産物店がシャッターを開け始める頃合いで、改札の頭上に掲げられた表示板には、各方面への列車がずらりと並んでいる。
つまり、朝の駅の溌剌とした1日の始まりの雰囲気が好きなのである。
東京だって幾らでも味わえる光景ではないか、と思われるかもしれないけれど、旅先での高揚感と、その先の列車や高速バスを乗り継ぐ期待感が、東京とは異質の旅情に繋がるのだろう。
名古屋を中継地にした旅の中でも、東海道新幹線や「大垣夜行」375M列車で来た場合に比べると、「ドリーム」号は、降りてからの旅の余韻も殊更に好ましかった。
新幹線は如何せん速すぎて、名古屋まで来ているのだぞ、と自分に言い聞かせる必要があるくらいで、名古屋駅が日常生活の延長のような感覚である。
「大垣夜行」は、名古屋の遠さを実感する一夜を過ごすことになるが、幾ら夜行列車が好きでも、お尻が痛くなるボックス席で寝苦しい時間を耐え忍ぶのは、さすがに身体がきつい。
その点、「ドリーム」号は僕の性に最も合っているようで、当時の車両の横4列席が狭くても、リクライニングシートの寝心地は決して悪くないし、深夜営業のうどん屋で夜食が食べられる三ヶ日ICをはじめ、車外に出て身体を伸ばせる休憩が適度に設けられているのも良い。
「大垣夜行」のように、しんどかったな、と精魂尽き果てたような気怠さを、「ドリーム」号で感じた覚えがないので、僕も余程のバス好きなのだろう。
昭和62年初秋の週末、「ドリーム」号を降りた僕は、そのまま駅舎を縦断して、広小路口の先にある名鉄バスセンターに足を運んだ。
目指すは、この年の7月に開業したばかりの「北陸道特急バス」名古屋-金沢線である。
この旅の時代は、我が国にまだ高速バス路線が少なく、「北陸道特急バス」名古屋-金沢線は、北陸地方で初めての定期高速バス路線だった。
JRの特急列車「しらさぎ」と競合するにも関わらず、30分足らずの所要時間差と廉価な運賃が人気を博し、同じ年に開業した池袋-富山線をはじめ、翌年に名古屋-福井線と池袋-金沢線、京都-金沢線、平成元年に東京-福井線、難波-富山線、平成2年に難波-福井線など、北陸三県を発着する高速バスが続々と拡充する礎となった。
金沢は僕の生まれた街である。
信州生まれの父が金沢の大学に進学し、しばらく金沢で仕事をしていた関係上、3歳で長野市に引っ越すまでをこの街で過ごした。
幼すぎてその時代のことは全く記憶にないけれど、その後も父に連れられて繰り返し金沢に出掛けているので、こよなく懐かしい土地である。
この旅の3年前に父は急逝したが、父がこよなく愛した街であるから、その後も、僕は、鉄道や航空機を使って幾度か金沢に足跡を印している。
亡き父と同じ道を歩こう、と決心していたこともあり、学生時代に挫けそうになると、僕は父と語り合っているつもりだったのかもしれない、と思う。
その街に高速バス路線が通じたのであるから、僕が飛びつかないはずがない。
名鉄バスセンターから高速バスに乗るのは楽しい。
名古屋駅広小路口を出て、雑踏を掻き分けるように狭い歩道を歩き、建物の入口からエスカレーターで乗り場のある3階に昇っていくだけで、旅心が掻き立てられるような気がする。
桜通口のバスターミナルよりも古い昭和42年の完成であるから、エスカレーターを昇り切ってバス乗り場に出れば、薄暗い構内に排気ガスが立ち込めて、ムッとすることも少なくない。
それでも、うらぶれた感じがしないのは、竣工当時に、世界にも類のない本格的なバスターミナルと評された威容と、到着での利用ばかりだった桜通口に比べて、名鉄バスセンターは出発便で利用することが圧倒的に多かったためであろうか。
今回の旅までは、信州方面の「中央道特急バス」で利用するだけだったが、毎回、エスカレーターの下にある喫茶店が気になってしょうがない。
いつかは名にしおう名古屋のモーニングを試してみたい、と思うのだが、「ドリーム」号の三ヶ日うどんで腹は満たされているので、この日もお預けである。
巨大なバスセンターの3階から名駅通りに繋がる長大なスロープを下りていく間に、JRと名鉄の電車が行き交う何本もの線路が並ぶ名古屋駅構内と、その向こうにビルが林立する名古屋の中心部が、一望の元に開ける。
さあ、これから金沢まで行くぞ、と朝の名古屋駅のコンコースに劣らず元気が湧いてくる演出である。
バスは名駅通りを左へ曲がると、名古屋駅舎を左手に見遣りながらロータリーを横切り、僕が先程出て来たばかりの桜通口のJRバスターミナルに潜り込んでいく。
「北陸道特急バス」名古屋-金沢線の開業にあたって、名鉄バスと北陸鉄道バス、そしてJR東海バスと西日本JRバスの2グループが競願となり、運輸省が調整する過程で、それぞれのバスターミナルを経由することになったらしい。
「ドリーム」号を降りたまま待っていても、「北陸道特急バス」に乗れたのだが、桜通口から名鉄バスセンターまで程よい朝の散歩になったので、気にはしていない。
今では名古屋高速16号一宮線の高架が覆い被さっているけれども、この時代は、名古屋を発着して名神高速や中央自動車道を使う高速バスの殆どが、名岐バイパスを行き来していた。
幅員が広く複数の車線が設けられて、如何にも自動車王国名古屋に相応しい立派な道路であるが、それにも増して交通量が多いために、渋滞に巻き込まれることも少なくない
一宮ICから名神高速道路に入ると、「北陸道特急バス」は、水を得た魚のように速度を上げ、濃尾平野を西へひた走る。
岐阜羽島IC付近で、東海道新幹線と並走する直線区間の爽快感は、なかなか他の高速道路では味わえないのではないだろうか。
丘陵地帯を抜けて関ケ原に差し掛かると、いきなり分厚い雲が垂れ込めて、車窓が物哀しい翳りに包まれる。
いつの間にか、窓にぽつぽつと水滴が当たり始め、路面が濡れている。
名古屋も晴れていた訳ではなかったけれども、高曇りで、雨が降るとは思ってもみなかった。
東海道の交通の要所でありながら、冬になれば新幹線が雪に悩まされることでも明らかなように、関ケ原から米原にかけては北陸の入口なのだ、と改めて実感する。
伊吹山の手前で米原JCTを右へ折れれば、北陸自動車道である。
ここからは初めて通る道路であるから、僕は身を乗り出した。
「北陸道特急バス」は、琵琶湖の北端にそびえる賤ヶ岳や柳ヶ瀬山の麓を縫うように、北へ進路を変えている。
道路に迫る山肌を覆う木々の緑が色褪せて、靄が漂い、ここだけ一足先に秋が深まったかのような寒々しい光景だった。
北国に近づいているのだと、心細さがこみ上げてくる。
幾許かの休憩を取った南条SAでは、俄に雨足が強くなり、僕を含めて一部の客が小走りにトイレを往復しただけだった。
本線に復帰して敦賀ICを過ぎると、折り重なる山並みの向こうに、ちらりと敦賀湾が顔を覗かせた。
風が強くて、僅かの間だけ、霧が切れたようである。
いつの間にこのような高度まで登って来たのか、と目を見開いた。
海ぎわまで山塊がせり出す杉津越えを、バスは、きつい曲線で右に左に揺さぶられながら、橋梁とトンネルで山から山へと渡っていく。
琵琶湖北岸から敦賀にかけては地勢が険しく、9世紀に官道として北国街道が設けられたのは、海ぎわの杉津越えの東に位置する木ノ芽峠であり、畿内と北陸を行き来する旅人たちは、あまりの険しさに大層難儀をしたことが伝えられている。
源頼朝に追われて都落ちする義経主従や、足利尊氏に敗れて再起を誓う新田義貞、永平寺を開いた道元禅師、一向宗を広めた蓮如上人、奥の細道の松尾芭蕉など、数知れない歴史上の人物が、この峠を越えた。
旧暦の10月に木ノ芽峠を越えた新田義貞の軍勢は、厳しい寒さと深い雪に阻まれて、多数の凍死者を出したと言う記録が、「太平記」に残っている。
草の葉に かどでせる身の 木部山 雲に路ある ここちこそあれ
道元禅師が詠んだ歌であるが、「雲に路ある」とは、木ノ芽峠の様子をよく表している。
越前、越中、越後の「越」の由来となった峠であり、16世紀に、柴田勝家が、更に東の栃ノ木峠に北国街道を移したほどであった。
明治29年に建設された北陸本線も、木ノ芽峠を避けて杉津越えで建設されたのだが、急勾配が続く線形は如何ともしがたく、坂に弱い蒸気機関車は難渋したと聞く。
海の眺めの類いなき
杉津をいでてトンネルに
入ればあやしやいつのまに
日はくれはてて闇なるぞ
と、鉄道唱歌に歌われる景勝地でもあった。
明治42年に皇太子時代の大正天皇が行啓した折りに、余りの絶景に見惚れて、杉津駅で汽車の発車を遅らせたという逸話も残っている。
昭和37年に木ノ芽峠の直下に長さ1万3870mの北陸トンネルが貫通し、鉄道における難所は過去のものとなった。
勾配には弱いものの、電化により長大トンネルでも問題がない鉄道と、勾配には強いけれども、排気ガスのためにトンネルを避けたい自動車という特性の違いなのか、高速道路は、昔の街道に回帰した経路で造られていることが少なくない。
杉津越えもその1例で、昭和52年に建設された北陸自動車道は、かつての鉄道に倣って杉津越えを選んだ。
敦賀ICと今庄ICの間は北陸本線の廃線跡を使用し、上り線の杉津PAは、杉津駅の跡に設けられている。
駅舎跡に建つ記念碑のすぐ背後を、北陸道の高架が横切り、無粋な、と廃線めぐりのファンを落胆させているらしい。
とろん、とした心地になりながらも、何もすることがない、何もしなくて良い、という車中の退屈は、至福のひとときでもある。
僕の眠気を吹き飛ばしたのは、小松ICから松任海浜公園にかけての区間だった。
ともすれば松林や防音壁に隠れてしまいがちだが、高速道路がこれほど海の近くを通るものなのか、と目を見張った。
この日、海は荒れ気味で、沖合いまで白い波頭が幾つも折り重なっている。
雪でもちらつかせれば似合うのではないか、と思うほどの、暗い日本海だった。
小学生の頃、家族揃って車で能登を回ってから金沢を訪れた時に、水平線に没する夕陽を眺め、その巨大さと荘厳さに圧倒されたことを懐かしく思い出した。
時間も天候も全く異なるものの、石川県に来て日本海を眺めたのは、その時以来、20年ぶりだった。
この付近の北陸本線で、これほど海を眺めさせてくれる区間は思い当たらない。
「北陸道特急バス」に乗って良かった、と思う。
金沢西ICを降りたバスは、武家屋敷の風情が残る片町や、金沢きっての繁華街である香林坊と武蔵が辻の停留所で、少しずつ客を降ろし始める。
これらの停留所は金沢駅から少々離れているので、特急「しらさぎ」から路線バスに乗り換えるよりも、「北陸道特急バス」の方が早く着けるのかもしれない。
東京への復路は、21時40分発の上野行き寝台特急「北陸」のB寝台を押さえていた。
金沢から北陸本線と上越線回りで上野までの走行距離が520.9km、我が国で最も短距離を運転する寝台特急である。
上野着が6時22分だから所要8時間42分、早朝に叩き起こされて、さぞかし乗り足りない思いがすることだろう。
人影もまばらになった金沢駅の改札を通ってホームに足を運び、14系寝台車を連ねた「北陸」を前にすれば、心が踊る。
短かろうが何だろうが、一夜を寝台特急の車中で過ごせるのは愉快である。
隣りのホームには、信越本線経由の金沢発上野行き夜行急行「能登」が、発車を待っている。
「北陸」が発車した4分後の21時44分に「能登」が発車時刻を迎え、上野には「北陸」の20分後の6時42分に到着する。
当時の「能登」は、「北陸」と変わらない機関車牽引の客車列車でありながら、所要時間差が僅か16分とは、「北陸」が鈍足なのか、「能登」が俊足と考えるべきか。
そのからくりは、「北陸」が走る上越線経由よりも、信越本線経由の「能登」の走行距離が469.5kmと51.4kmも短く、「北陸」は見た目よりも頑張って走っている。
なぜ「北陸」を「能登」と同じ信越本線経由にしないのか、そうすれば時間短縮にもなるし、僕の故郷の長野市に寝台特急が通っていたのに、と、寝台特急ファンだった子供の頃は恨めしく感じたものだった。
信越本線は上越線よりも山岳部分が多く線形が悪いこと、何よりも軽井沢と横川の間の碓氷峠で補助機関車を連結しなくてはならないという手間と経費が理由であろうか。
経費が問題であるならば、全車寝台車で特急料金も徴収できて「能登」よりも稼げる「北陸」の方が信越本線に相応しいではないか、と長野市在住の幼い鉄道ファンとしては諦め切れなかった。
当時、上野と金沢を結ぶ昼行特急電車でも、信越本線経由の「白山」と上越線回りの「はくたか」があり、遠回りにも関わらず、「白山」よりも「はくたか」の方が所要時間が短く、無性に悔しく感じられたものだった。
「能登」が深夜帯に停車する新潟県内や長野県内の区間では、結構乗り降りが見受けられることから、停車駅を絞る訳にもいかず、かと言って停車駅を維持したまま信越本線に回すのは寝台特急の沽券に関わる、という思惑なのかもしれない。
仮に「北陸」が信越本線経由だったとしても、長野駅は通過になる可能性があり、僕は大いにがっかりしたことだろう。
「北陸」と「能登」を比較してみると、前者はA寝台1両と開放型2段式B寝台11両、後者は開放型3段式B寝台3両と自由席の座席車5両という編成で、利用客の差別化が図られている。
東京に帰る僕の立場からすれば、3段式B寝台の狭ささえ我慢すれば、寝台料金が2段式より1000円ほど、急行料金も特急料金より1800円ほど安く、到着時刻も大して変わらないので、「北陸」よりも「能登」の方がお得な選択肢ということになるけれども、この夜、僕は、幼い頃から憧れていた寝台特急に乗りたかったのである。
僕が生まれた土地を行き来する寝台特急を、1度は経験しておきたかった。
指定された客車の乗降口をくぐり、自分のベッドに腰を下ろすと、余裕がある2段式B寝台の構造に感心した。
何よりも、座っていて頭が上の段にぶつからないのが良い。
小学生の頃と昭和59年に夜行急行「ちくま」と「妙高」の3段式B寝台を経験し、昭和60年に初めて寝台特急「あさかぜ」と「はくつる」の乗車経験があったものの、前者では身分不相応な個室寝台を奮発し、後者は逆に節約してグリーン車だったので、噂に聞いていた2段式B寝台を利用するのは「北陸」が初めてだった。
これならば、幅が若干広いだけのA寝台に高い金を払って乗る必要がないではないか、と思う。
当時の時刻表を紐解けば、「北陸」の編成表には「★」と「★★★」の2種類のマークが付いていて、2段式B寝台と3段式B寝台が混在していたようである。
後に全車両が2段式に統一されたが、そのような移行措置の時代があったのか、と驚いてしまう。
僕は「北陸」の寝台券を購入する時に、特にどちらを指定した覚えはないのだが、空いていれば2段式を優先して販売したのであろうか。
と、発車前の放送が繰り返されるうちに、ホームで発車ベルが鳴り響き、「北陸」はゴトリ、と動き始めた。
ホームの人影やベンチ、自販機、売店などが溶けるように輪郭を失ったかと思うと、一瞬にして車窓が闇に塗り潰された。
市街地の東側を流れる浅野川を渡るか渡らないかのうちに、案内放送の開始を告げる「ハイケンスのセレナーデ」のチャイムが聞こえた。
『今日もJR西日本を御利用下さいましてありがとうございます。特急寝台「北陸」号上野行きです。停まる駅を御案内致します。津幡、高岡、富山、魚津、糸魚川、直江津、高崎には明朝4時44分、大宮には5時53分、終点上野には6時22分に着きます。車内の御案内を致します。列車は前の方から12号車、11号車の順で1番後ろが1号車です。全車寝台車です。A寝台車は2号車です。B寝台車は1号車、3号車から12号車です。寝台の中は禁煙です。お煙草をお吸いになる時は通路側、灰皿のある所でお願い致します。車内販売はございません。あらかじめ御了承下さい。車掌はJR西日本の〇〇です。終点上野まで御案内させていただきます。車掌室は2号車です。御乗車ありがとうございます。次は津幡です』
JRが発足してから寝台特急に乗るのは、今回が初めてである。
乗務員の態度や言葉遣いが急に軟化でもしようものなら、大いに戸惑うところだったが、「特急寝台」「北陸号」などの古めかしい言い回しをはじめ、国鉄時代とさほど変わりがない内容に、何となく安堵感を覚えた。
上りの「北陸」はJR西日本からJR東日本へ乗り入れる訳だが、境界駅の直江津で車掌が交替しないのも、意外だった。
この夜の車掌の放送は少々甲高い声で、歌っているかのような甘い口調だった。
直江津までの停車駅の到着時分を全て省略していることと言い、何を焦っているのか、と首を傾げたくなるような早口だったのは、運転時間が短いためかもしれない。
それでも、駅の名を聞いているだけで、子供の頃から幾度となく行き来した町の情景が、ありありと眼に浮かぶようである。
日中の列車で帰れば良かったかな、との思いが胸中をかすめたが、寝台特急の魅力には勝てない。
単独であればそれほど目立たなかったのかもしれないけれど、同じ起終点を走る夜行急行「能登」の存在が、「北陸」の牛歩のような走りっぷりを際立たせている。
「北陸」と「能登」が同じ線区を運転する金沢-直江津間は、前者の停車駅数が7駅で所要2時間45分であるのに対して、後者が停車駅数13駅で所要2時間53分、また高崎-上野間では前者が停車駅数3駅で所要1時間36分、後者は停車駅数5駅で所要1時間42分となっている。
別経路を走る直江津-高崎間で比較すると、上越線を経由する「北陸」は停車駅が1つもなく所要4時間14分を費やし、信越本線経由の「能登」は8駅に停車しながら4時間01分で走り切っている。
直江津から高崎に移動したい利用者が、乗車時間を短くしたいのであれば、特急よりも急行を選ぶべき、という面白い結果になっているが、高崎から先で「北陸」と「能登」の順序が逆になっている訳ではないので、あまり実用的な話ではない。
50kmを超える遠回りをしながらも、所要時間が13分しか上回らないのは、さすが特急列車と、ここは「北陸」を褒め称えておくのが無難であろう。
東京と西鹿児島を結んでいた寝台特急「はやぶさ」や、東京と長崎を結ぶ「さくら」は、東京-京都間を6時間40分で走破する。
電車よりも遅いとされる機関車牽引の客車列車でも、この程度の性能は出せる訳だが、一方で、東京と大阪を結ぶ夜行急行「銀河」は、東京-京都間を8時間32分で結んでいる。
一時、「銀河」を寝台特急に格上げする案が俎上に上がったらしいが、所要時間を短縮しても深夜・早朝の乗降を強いることになり、料金が高くなるため、利用客離れを招くとの判断で見送られた、と聞く。
北陸本線と上越線・高崎線が東海道本線に劣らず高速運転が可能な線形であることを考慮すれば、東海道本線の夜行急行列車並みの「北陸」の低速運転は、意図的であると解釈せざるを得ない。
北陸と東京を結ぶ夜行列車における特急と急行の差とは、速度ではなく、車内設備の格差であるのだろう。
寝心地の良さを売り物にするならば、「北陸」が近道の信越本線を経由しないのは、速度やコストの問題ばかりでなく、急勾配で寝台が傾斜したり、逸走防止のために台車の空気バネをパンクさせて乗り心地が極端に悪くなる碓氷峠を避けたことも、納得できる。
そのような商売があっても良い。
「北陸」の愛称は、戦後の昭和22年に上野-金沢・新潟間で運転を開始した急行601・602列車が、翌年に上野-金沢間だけになり、更に昭和24年に北陸本線経由の上野-大阪間の急行列車に延伸され、昭和25年に「北陸」と命名されたのが始まりである。
昭和31年に「北陸」は上野-福井間に運転を短縮され、昭和50年に特急列車に昇格したのである。
ちなみに、急行時代の昭和「北陸」を昭和45年の時刻表で追ってみると、
下り1号:上野20時00分-金沢5時46分-福井7時14分(上野-金沢9時間46分)
下り2号:上野21時28分-金沢7時55分(同10時間27分)
上り1号:福井18時35分-金沢19時58分-上野5時54分(同9時間56分)
上り2号:金沢20時15分-上野6時34分(同10時間19分)
という2往復の運転ダイヤで、寝台特急になった直後の「北陸」は、
下り:上野21時18分-金沢6時05分(8時間47分)
上り:金沢21時00分-上野5時45分(8時間45分)
と、きちんと、急行時代に比して2時間近くの時間短縮を果たしている。
同じ時期に、上野と福井を信越本線経由で結んでいた急行「越前」と、上越線経由で上野と金沢を結んでいた急行「能登」に眼を向けると、
「越前」下り:上野20時51分-金沢6時00分-福井7時12分(上野-金沢9時間09分)
「能登」下り:上野21時48分-金沢6時51分(同9時間03分)
「越前」上り:福井20時32分-金沢21時43分-上野7時04分(同9時間21分)
「能登」上り:金沢21時07分-上野6時38分(同9時間31分)
と、信越本線経由と上越線経由では殆ど差がなく、また特急と急行の差が20分程度に縮まったようであるから、「北陸」の低速運転は登場した時からの伝統なのであった。
それできちんと顧客がついたのだから、今更、「北陸」が「九州特急」並みにしゃかりきに走り出して、金沢発が午前0時近くになったり、上野着が4時台にされたり、はたまた鈍足を理由に急行に格下げされては面白くない。
「北陸」はこれでいいのだ、と思う。
明日は早いのだから、もう寝なければ、と思いながらも、能登半島への入口である津幡、城端線の乗換駅の高岡に停車する気配に、うつらうつらしながら耳を澄ませたことは覚えている。
富山では、僕が乗る車両にも数人が乗り込んで来る足音が聞こえたが、それっきり、ひっそりと静まり返ってしまった車内に、おやすみ放送が流れた。
『特急寝台「北陸」号上野行きです。停まる駅を御案内致します。魚津、糸魚川、直江津、高崎には4時44分、大宮5時53分、終点上野には6時19分に着きます。車内の御案内を致します。列車は前の方から12号車、11号車の順で1番後ろが1号車です。全車寝台車です。A寝台車は2号車です。B寝台車は1号車、3号車から12号車です。寝台内は禁煙です。お煙草を吸うことができるところは、通路側、灰皿のある所でお願い致します。深夜帯になりましたので、この放送をもちまして、明朝、大宮到着15分前まで、放送での御案内を一時中断させていただきます。また、これから先、車内の電灯を暗くさせていただきます。お休みの際には、貴重品等の保管に、充分御注意下さい。車掌室は2号車です。御用件はお気軽にお申し付けください。御乗車ありがとうございます』
疲労が重なっている2晩目の方がぐっすり眠れるのはいつものことだが、バスファンとしては多少悔しくても、列車寝台の寝心地が段違いに良かったことも認めざるを得ない。
進行方向が変わる長岡駅の運転停車や、昭和37年に北陸トンネルに抜かれるまで日本一の長さを誇っていた9702mの清水トンネルくらいは、起きてみたいものだと思ったが、結局、どちらも白河夜船だった。
昨晩の宣告通りの時刻に流れたおはよう放送で、すっきりと目が覚めた。
夕べの早口の車掌と同じ声音であるが、それだけか、と拍子抜けするくらい素っ気ない放送である。
「九州特急」や「東北特急」のような、挨拶から日付、停車駅を長々と並べ立てるようなことはせず、文字通り、目覚まし時計のような放送と割り切っているのだろう。
この放送で目を覚ます乗客が、放送の前半をぼんやりと聞き逃す可能性も見越しているのか、同じ内容を2度繰り返す物言いが、見透かされているようで心憎い。
カーテンを開けると、すっかり明るくなっている。
北陸と打って変わって、首都圏の月曜日の朝は、抜けるような晴天で明けたようである。
それにしても呆気なかったな、と思う。
よく眠れるように大枚をはたいているにも関わらず、せっかくの寝台特急の一夜を熟睡して、瞬く間に終わってしまうのを勿体なく感じるのは、夜行明けでいつも感じる矛盾である。
『今日もJR線を御利用下さいましてありがとうございます。あと5分の御乗車で大宮、大宮に着きます。ホームは右側、6番乗り場に着きます。大宮を出ますと、次は終点上野です。乗り換えの御案内を致します。東北新幹線は17番乗り場です。やまびこ 号盛岡行きは6時30分、やまびこ201号仙台行きは6時38分、いずれも17番乗り場です。宇都宮、東北線小金井行きは6時01分、9番乗り場です。上野行きは6時ちょうど、4番乗り場です。川越線川越行きは6時05分、21番乗り場です。埼京線新宿行きは6時03分、19番乗り場です。京浜東北線与野、蕨方面は1番、2番乗り場です。御乗車ありがとうございました。間もなく大宮に着きます。本日は、金沢からの特急寝台「北陸」号を御利用下さいましてありがとうございました。またの御利用をお待ちしております』
前夜の「JR西日本を御利用下さいまして」が「JR線を御利用下さいまして」に変わったのは、JR西日本の車掌が「JR東日本を御利用下さいましてありがとうございます」とは言えない掟でもあるのか、などと、どうでもいいような言葉尻が気になった。
分割民営化とは、色々と面倒くさいのだな、と思う。
甲高く歌うような声音は変わらないものの、昨晩よりも幾らか声が嗄れていて、ところどころで間があくので、乗客には呆気ない8時間だったとしても、車掌にとっては重労働だったのだろうな、とねぎらいたくなる。
それにしても、「またの御利用をお待ちしております」とは、国鉄時代には耳にした覚えのない締めくくりではなかったか。
この時点で、金沢と東京の間に、高速バスはまだ運行されていない。
池袋と金沢を結ぶ「関越高速バス」金沢線が開業するのは、この旅の翌年の12月のことで、平成10~20年代にかけて雨後の筍のように首都圏と金沢を結ぶ高速バス路線が増加し、平成22年に「北陸」は廃止の運命を迎えるのだが、それを予感しているかのような挨拶だった、と今にして思う。
それでも、と更に思う。
どれだけ懸命に走っても、全国に新幹線網や航空路線が張り巡らされれば、寝台特急列車が敵うはずもなく、「九州特急」も「東北特急」も、時代遅れとされて、次々と姿を消した。
そのような趨勢の中で、夜行列車が優位を保てる適度な運転距離と所要時間であったからこそ、「北陸」は平成22年まで生き残れたのではないか。
昨今の豪華なクルーズ・トレインが夜行列車の1つの進化形であるならば、速度よりも車内設備で夜行急行との差別化を図った「北陸」は、まさにその先駆けと言えないだろうか。
「北陸」は、夜行列車の真価を体現しながら走り続けていた、と言えるのかもしれない。
寝台特急「北陸」、もって冥すべしであろう。
前日の様々な旅の場面を、遠い日の出来事のように懐かしく思い浮かべながら余韻に浸っていると、沿線に大小のビルが途切れることのない大宮から上野までは、あっという間だった。
『今日もJR線を御利用いただきましてありがとうございました。あと5分の御乗車で終点の上野、上野です。お出口は左側、14番乗り場に着きます。乗り換えの御案内を致します。常磐線特急「スーパーひたち」3号いわき行きは7時ちょうど、17番乗り場です。普通高萩行きは6時30分、9番乗り場です。松戸、安孫子、取手方面の快速電車、普通電車は11番、12番乗り場です。山手線内回り日暮里、田端、池袋方面は2番乗り場、外回り秋葉原、神田、東京方面は3番乗り場です。京浜東北線横浜、大船方面は4番乗り場、赤羽方面は1番乗り場です』
轟々と鉄橋を鳴らして荒川を渡り、東京に入る頃合いを見計らったかのように、最後の案内放送が、北陸をぐるりと1周した僕の旅の終わりを告げた。
『本日は、金沢からの特急寝台「北陸」号を御利用下さいましてありがとうございました。間もなく終点の上野に着きます。お忘れ物のないよう御注意下さい。またの御利用をお待ちしております』
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