平成10年の初秋の休日の朝、僕は、突如として福島駅前に現れた。
自分の行動に「突如」などという言葉遣いをするのも変であるが、どのように福島まで来たのかが思い出せない。
まだ午前8時前であるし、記憶に残らないほど月並みだけれども、東北新幹線の始発列車で来たのだろうと推測するが、僕の回想における今回の旅は、福島駅から始まる。
日帰りであるけれども、福島県内を走る高速バスを存分に楽しもうと言う趣向だった。
その第1走者として、僕は、平成8年3月に開業した「福島-会津若松線」を選んだのである。
昭和の終わり頃に、老舗の特急バス「平-郡山-会津若松線」を平駅と郡山駅の間だけ利用したことがある(「平-郡山-会津若松特急バスで朦朧と阿武隈山地を放浪」)。
どうして終点の会津若松駅まで乗り通さなかったのか、我ながら不思議だったのだが、その思い残しを解決しようとしたのかもしれない。
会津若松に向かうには、東京からの東北新幹線を郡山駅で降り、磐越西線もしくは「平-郡山-会津若松線」に乗り換える方法が素直である。
東北新幹線の開業後も、乗り換えの労を厭う乗客を思い遣って、特急「あいづ」が上野駅から会津若松駅まで直通していた時代があり、残っていれば必ず利用しただろうが、平成5年に廃止されてしまった。
郡山をすっ飛ばして福島まで足を伸ばし、わざわざ会津若松行きの高速バスをつかまえることにした理由は定かではないけれども、福島駅からバスに乗ってみたい、と考えたのは、理解できなくもない。
昭和61年の冬、僕が2度目の夜行高速バス体験として、東京と山形を結ぶ「東北急行バス」に乗車した時に、僕は福島駅前に降り立っている。
当時の「東北急行バス」は古びた低床車両の窮屈な横4列座席であったが、それでもそこそこに眠り、ふと目覚めると、バスが停まっているのに気づいた。
そこが、福島駅前だった。
時計の針は、深夜の3時すぎを指していた。
暖房の効き過ぎだったのか、無性に喉が乾いて、飲み物を手に入れたくなった。
休憩扱いをしているのかどうか定かではなかったけど、運転席は空で、扉が開いていたので、バスから離れなければ置いてきぼりにされる怖れはないだろう、と思った。
東北新幹線が大宮を起終点にして開業したばかりの、古い駅舎の時代だったが、駅の様子は殆ど記憶に残っていない。
バスは公衆トイレの真ん前に停車していたから、用足しもできた。
暗闇の中に、明かりがいっさい落とされた福島駅の看板がかすかに見えたが、煌々と明かりを放っていた自販機の方が目立っていた。
僅か数分の滞在だったとは言え、「東北急行バス」が、僕を初めての福島に連れて来てくれた、という記憶は、今でも強烈なのである。
バスで訪れた1番目のみちのくの土地、という思い出に浸りたかったのかもしれないが、福島駅東口は大型店舗が入る駅ビルに生まれ変わっていて、十数年前の面影は全く見出だせなかった。
東口バス乗場の瀟洒なロータリーには、路線バスに混じって、仙台、郡山、いわき方面への高速バスが忙しく出入りしている。
戦国武将の木村吉清が、市街南西部の高台にある大森城から福島盆地を見下ろし、霧に覆われた盆地に風が吹くと、信夫山が島のように浮かんで見えたことから、風が吹く島と名づけたのが、福島の地名の由来であると言う。
東北道は、長さ880mの福島トンネルをくぐって盆地を抜け出すと、奥羽山脈から伸びる山裾を縫って南へ進む。
右に左に、大蛇のように身をくねらせている高速道路を走れば、運転が大変そうだな、といつも思う。
この辺りの東北道が完成したのは昭和48年と比較的早く、決して平坦な地形には見えないけれど、出来るだけトンネルを避けて建設したように見受けられる。
起点の川口JCTから250km近くも離れている福島トンネルまで、東北道にいっさいトンネルが設けられていないのは、関東平野の区間が長いとは言え、首都圏から放射状に伸びている高速道路では珍しい。
この日はよく晴れていて、安達太良山がよく見えた。
数十分で郡山JCTに達すると、バスは滑らかな曲線を描く出入路に入って、磐越自動車道に進路を定めた。
ここからは、初めての道行きである。
郡山と新潟を結ぶ国道49号線を導くのは五百川で、奥羽山脈の東麓に源を発し、磐梯熱海温泉を流れ下って、郡山盆地で阿武隈川に合流する。
東北道のように、工夫すればトンネルを避けられるような生易しい地形ではない。
安達太良山系と磐梯山系に挟まれている磐越道は、磐梯熱海ICを過ぎると目に見えて峻険になり、猪苗代磐梯高原ICまでの間に、長さ1120mの高玉東トンネル、990mの高玉西トンネル、1820mの新中山トンネル、1670mの鞍手山トンネル、1490mの関都トンネルといった長大トンネルが続く。
この辺りから、標高514mの猪苗代湖までが分水嶺で、福島県南会津町と栃木県日光市の境にそびえる荒海山に発する荒海川や、猪苗代湖から流れ出る日橋川などの支流を集めた阿賀川が、新潟県内で阿賀野川と名を変えて、日本海に注ぐ。
トンネル群を抜け終わると、車窓が明るく開けて、バスは会津盆地に下っていく。
琵琶湖、霞ケ浦、サロマ湖に次ぐ我が国で第4位の面積を持つという猪苗代湖は、道端のこんもりとした丘陵や生い繁る木々に隠されて、ちらりと垣間見えるだけである。
猪苗代磐梯高原IC付近で、磐越道は猪苗代湖に最も近づくが、同じ地平に降りてしまうので、湖面は全く見えなくなった。
前方に磐梯山を抱く風景は、清冽な高原の趣がある。
ここをバスで走りたくて、今回の旅に出てきたのであるから、天候にも恵まれたし、満足である。
「福島-会津若松線」を降りた後は、「平-郡山-会津若松線」で折り返すつもりだった。
郡山で降りるか、平駅を改称したいわき駅まで足を伸ばすのかは決めていなかったが、磐越道を郡山からいわきまで、初めて走る区間の車窓も楽しみである。
ところが、1時間半たらずのバス旅を終えて、時刻表通りの9時22分より早めに到着した会津若松駅で、思いもかけない展開が待ち受けていた。
「福島-会津若松線」は会津若松駅が終点ではなく、神明通り停留所を経て合同庁舎若女前停留所が終点であるが、次に乗るつもりだった「平-郡山-会津若松線」は会津若松駅止まりで、次の発車は10時55分発のいわき行きである。
若女、とは気になる停留所名であるけれど、大正13年創立の福島県立若松女子高等学校の略で、「わかじょ」と読むらしい。
若女は若松城址のすぐ近くにあり、そのままバスに乗っていれば、鶴に例えられる華麗な天守閣を観光する時間くらいは捻出できたのか、と臍を噛んだが、駅前の年季の入ったバスターミナルで、
『間もなく、9時28分発の仙台行きが参ります。このバスを利用なさるお客様は、前もって乗車券をお買い求め下さい』
とのアナウンスを耳にした僕は、出札窓口に歩み寄ると、あろうことか、
「次の仙台行きの乗車券を下さい」
と言ってしまったのである。
そこは「郡山行き」もしくは「いわき行き」と言うべきで、言い間違えたのか、と我ながら仰天したのだが、差し出された乗車券には、紛れもなく「会津若松駅⇒仙台駅東口」と印刷されている。
ハンバーガー屋やドラッグストア、衣料店、レンタルビデオ店など、東京でも馴染みの全国チェーンの店舗ばかりが集まっている会津アピオ前停留所をはじめ、会津若松駅から磐越道会津若松ICまでの景色は、たった10分ほど前の「福島-会津若松線」の焼き直しである。
乗るつもりだった「平-郡山-会津若松線」でも同じ眺めなのであろうが、僕が呆気に取られているのは、
『御乗車ありがとうございます。このバスは仙台駅東口行きでございます』
などという車内放送が流れていることであった。
この旅で、仙台行き、などというアナウンスを聞くはずではなかった。
郡山JCTまでの窓に映る光景も、福島からの往路と変わるべくもない。
来る時は正面にそびえていた磐梯山が、後方にあるので、身体を捻らないと拝むことが出来ない。
郡山JCTで東北道への流出路に逸れている最中でも、本来ならばこのまま直進して、10年前の国道49号線とはひと味違うであろう磐越道の景観を楽しむはずだったのに、との困惑が払拭できない。
どうして、いわきではなく仙台行きのバスに衝動乗りしてしまったのだろう、と自問しても、そこがマニアのマニアたる所以で、「平-郡山-会津若松線」は乗り残しがあると言えども体験済みであり、それに引き換え「仙台-会津若松線」は、平成10年7月に開業したばかりの新路線の初乗りなのだから、結論は分かり切っている。
郡山JCTから福島西ICの間も、1~2時間前に見たばかりの眺望である。
けれども、澄み切った青空を背にした安達太良山の流麗な山容を目にすれば、この景観に接するのであれば、同じ道路を何往復したって構わない、と思う。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ
高村光太郎の「智恵子抄」の一節が、自然と心に浮かぶ。
福島西ICを過ぎると、福島盆地を右手に見下ろしながら、この日の初走行区間に入った。
東北道は、福島トンネルの先も、岩手県の一関ICと中尊寺PAの間の一関トンネルまで、170kmもトンネルがない。
福島西ICから先の道路が平坦なのかと言えば、福島・宮城県境の国見峠をはじめ、蔵王連山の山裾が迫り出しているので、それまで以上に登り下りが激しく、カーブも更にきつくなる。
交通量は福島以南より増えた感があり、バスは、登り坂で速度が鈍る大型トラックをなかなか抜くことが出来ず、もどかしい。
山形自動車道が合流する村田JCT付近から、高速道路の勾配も曲線も大人しくなるが、宮城仙台ICも、東北随一の都会の最寄りとは信じられないくらいの山並みに囲まれている。
広瀬川の清流に沿って、青葉山を潜り抜ける仙台西道路のトンネルを飛び出すと、ビルが建ち並ぶ都市景観が忽然と現れて、目がぱちぱちする。
これだけ劇的な車窓の変貌を見せてくれるのは、仙台を発着する高速バスならではだろう。
定刻11時55分に、バスは仙台駅東口に到着した。
福島県内だけで完結するつもりだったのに、杜の都まで来てしまったか、と、あまりに衝動的な旅程の組み換えに我ながら苦笑してしまうが、仙台駅東口の変貌ぶりには度肝を抜かれた。
仙台駅を発ち、青森、弘前、八戸、秋田、本荘、盛岡、宮古、釜石、気仙沼、大船渡、相馬、山形、鶴岡・酒田、福島、郡山といった東北地方の代表的な諸都市に向かう昼行路線や、金沢、富山、長野・松本、高崎・前橋、水戸、さいたま、八王子、新宿などに向かう長距離夜行路線は、西口に近い広瀬通りの宮城交通高速バスセンターを出入りしている。
一方、東口に拠点を置くJRバス東北は、西口発着の路線にも幾つか参入しているものの、独自の路線も開拓している。
平成2年:新宿「政宗」号
平成2年:秋田「仙秋ナイト」号
平成2年:新潟「WEライナー」号
平成4年:むつ・田名部「エクスノース」号
平成5年:横手・湯沢「グリーンライナー」号
平成7年:いわき
平成7年:花巻温泉「けんじライナー」号
平成8年:会津若松
平成11年:古川
平成11年:大館
平成12年:江刺
平成14年:米沢
平成15年:新宿「ドリーム政宗」号
平成17年:品川・横浜「ドリーム横浜・仙台」号
平成18年:新宿「ドリームササニシキ」号
首都圏や県庁所在地に向かう王道の路線よりも、ニッチな需要ばかり拾っているような観がある。
その分、行き先は多様で、バスファンとしては、こちらの方が面白味を感じてしまう。
僕が初めて東口バスターミナルを使ったのは新宿線「政宗」号だった。
新潟線や湯沢線、田名部線を利用した時も、華やかな西口とは対照的に、東口はうらぶれた雰囲気で、東西自由通路から降りる階段も狭く、JRバス東北の発券窓口と待合室は階段の下のプレハブ造りであった。
この方がJRバス東北に相応しい、と思ったのだから失礼な話であるが、会津若松からのバスを降りてみれば、数年ぶりの東口は様相を一変していて、ホテルや家電量販店、アミューズメントの入った商業施設などが賑々しくロータリーを取り囲み、西口に比べると粗削りな印象であるものの、行き交う人々も多く、おやおや、と思う。
目の前を楽しそうに語らいながら行き来する若い人々を眺めながら、これからどうしよう、と思案した。
このような迷いは楽しい。
選択肢は豊富である。
日帰りのつもりなので、仙台から更に遠くへ離れる訳にはいかないけれども、西口に足を運んで郡山行きの高速バスを捕まえ、「平-郡山-会津若松線」で初志を貫徹するのも一案である。
ところが、新装なったJRバス東北の営業所にふらりと足を踏み入れると、「いわき」の文字が目に飛び込んできた。
平成7年8月に開業した高速バス「仙台-いわき線」の案内である。
これだ、と思う。
東北道の仙台-郡山間は来た道を折り返すだけであり、特に福島-郡山間は3度目になるけれども、これに乗れば郡山からいわきまで常磐道の車窓も楽しめるではないか。
何よりも、未乗の路線に初乗りできるのが良い。
開業当初は1日2往復、この旅の当時でも1日3往復しか運行されておらず、次の発車が15時10分と待ち時間が長くなるのが玉に瑕であるけれども、仙台ならば、3時間くらいの暇潰しは難しくないだろう。
僕は窓口で乗車券を買い求めてから、ゆったりと昼食を摂り、散歩がてらJR仙石線を多賀城駅まで往復してから、仙台駅東口に舞い戻ってきた。
仙石線は、もともと宮城電気鉄道が建設して国有化された線区であるが、大正14年に仙台-西塩釜間が最初に開通した当時の仙台駅は、東北本線と交差するため地下に設けられた。
東京地下鉄道、現在の東京メトロ銀座線が開業する3年前のことで、我が国初の地下鉄道と言われている。
昭和27年の国民体育大会に先立ち、仙石線の地下ホームは東側の地上に移され、同時に仙台駅に東口改札が併設されて、従来の仙石線地下ホームは連絡通路に改築された。
仙石線の移転で東口が誕生したのだから、そこを発着する高速バスの待ち時間を、同線の散策に振り当てるのは意義のある行為である、というのは、もちろんコジツケである。
仙台市内区間を立体交差にするために仙台トンネルが掘削され、仙石線が再び地下に潜るのは、この旅の2年後だった。
定時に仙台駅東口を発車したいわき行きの高速バスは、跨線橋で駅の西側に出て、仙台西道路を仙台宮城ICに向かう。
いわきまで200kmを超える3時間もの長旅に相応しく、スーパーハイデッカーの新車だったので、僕は嬉しくて仕方がない。
山あいをうねうねと縫う東北道や、田園の彼方にそびえる安達太良山の眺めも、ハイデッカー車両の「福島-会津若松線」や「仙台-会津若松線」とは違う味わいに感じられる。
仙台から郡山にかけての東北道は、蔦が絡まる側壁や木立ちが多く、はたまた切通しだったり、なかなか外を見せてくれない。
スーパーハイデッカーの高い視点ならば、少しは見通しが効くのである。
ただし、車内の座席を占める乗客の姿は、数える程であった。
そうだろう、と思う。
仙台といわきの間はJR常磐線が直通していて、距離にして151.9km、特急列車であれば2時間で走り切ってしまうので、高速バス「仙台-いわき線」は、廉価な運賃を除けば優位に立てる要因に乏しい。
「仙台-いわき線」の運賃と所要時間は、常磐線の普通列車とほぼ同程度であり、50kmも迂回しながら、普通列車と同じ所要時間とは、むしろ高速バスが頑張っている、と言っても良い。
いわき市が東北における有数の工業都市であっても、用事のある利用者は特急列車を使うであろうし、僕のように、鉄道とは異質の車窓や乗り心地を楽しみたい、という人種は稀なのだろう。
仙台発着の高速バスの中には、新幹線と競合しても賑わっている盛岡線、秋田線、福島線、郡山線のような例もある。
いずれは利用者が定着するさ、と楽観していたのだが、「仙台-いわき線」は、開業の次の年にいわき駅から湯本駅、スパリゾートハワイアンズまで延伸されたものの、この旅の翌年、平成11年2月に運行を休止してしまう。
当時、常磐自動車道はいわきと仙台の間が未完成で、いわきの人々にしてみれば、仙台を行き来するのにどうして郡山を回らなければならぬのか、という心理が働くのかもしれない。
奇妙であるのは、いわき側の停留所がいわき好間、いわき中央IC、いわき湯本IC、いわき勿来ICとインターチェンジばかりになっていて、いわき駅に立ち寄らないことだった。
平成22年に、一部の便が上中田、勿来支所、植田駅入口、金山、早稲田、泉駅前、泉ショッピングセンター、宮下、小名浜を経由して、いわき勿来ICに近い「アクアマリンパークふくしま」まで延伸されたが、相変わらず、いわき駅を無視し続けていた。
特急利用が便利ないわき駅で乗り降りする需要を諦めたのかもしれないが、地域の中心駅を経由しない高速バスも珍しい。
一方で、路線環境は変化しつつあった。
プロ野球の再編に伴い、平成17年に、「東北楽天ゴールデンイーグルス」が仙台のフルキャストスタジアム宮城を本拠地とし、「仙台-いわき線」もナイターの開催日に一部の便が同球場まで運行されるようになった。
加えて、平成18年の映画「フラガール」の公開に伴い、舞台となった「スパリゾートハワイアンズ」や「アクアマリンふくしま」の入場者数が増え、仙台圏からも休日の利用客が増大したのである。
高速バス「仙台-いわき線」が本領を発揮したのは、何と言っても、平成23年3月11日に発生した東日本大震災の後であろう。
深刻な津波の被害と福島第一原子力発電所の事故により常磐線の復旧が遅れ、同年の3月28日に仙台駅といわき駅の間で1日3往復の運行が再開された。
4月28日には4往復、6月20日に5往復に増便され、いわき側の起終点を上荒川に延伸、10月7日に6往復に増便されて週末の臨時便も設定され、平成24年7月1日に8往復まで増便されたのである。
画期的であったのは、平成30年6月15日に、常磐道に乗せ換えられたことだろう。
いわき中央ICから北の常磐道は、平成11年にいわき中央-いわき四倉間の開通を皮切りに、平成14年にいわき四倉-広野、平成16年に広野-富岡、平成21年に山元-亘理がそれぞれ開通した状態で、東日本大震災が起こる。
奇しくも、震災の時点で未開通だった区間は、福島第一原発事故の避難地域と一致していた。
平成24年に南相馬-相馬、平成26年に浪江-南相馬及び相馬-山元間が開通、そして平成27年3月に富岡-浪江間が開通したことにより、三郷JCTから亘理ICまでの全線が完成、亘理の先で仙台東部道路に接続し、浜通りが仙台市内と直結されたのである。
高速バス「仙台-いわき線」の所要時間は2時間49分に短縮し、50kmも近くなったのにその程度なのか、と拍子抜けするけれども、新しい区間は対面通行が多いことが一因かもしれない。
重要なのは、震災後に建設が急ピッチで進められた常磐道を、時の政府が復興の象徴として位置づけたことである。
平成27年の8月に、僕は、その2年前に開業した高速バス「仙台-水戸線」に乗りに出掛けた(「原発事故に揺れる街へ~迂回運行を余儀なくされる水戸-仙台高速バス~」)。
既に常磐道が全通しているにも関わらず、いわきJCTで磐越道、郡山JCTで東北道へと迂回する経路に、17年前に乗車した「仙台-いわき線」を思い浮かべたものだった。
「仙台-いわき線」は常磐道が開通していなかったための迂回であるが、「仙台-水戸線」は、高速道路が完成しているにも関わらず、やっぱり遠回りを強いられていることに、忸怩たる思いを抱かざるを得なかった。
その頃に、以下のような新聞記事を眼にした。
『平成26年12月の常磐自動車道相馬-山元IC間の開通後、南相馬市と仙台市を1日4往復する高速バスの直行便は利用客が増え、1月は約3700人と2、3往復だった前年の約2.5倍になった。
だが、運行する東北アクセス は、全線開通で直結するいわき市方面の運行には慎重な姿勢を崩さない。
南相馬周辺は関東方面からの作業員も多く、いわき方面への潜在需要は高いとみられるが、遠藤竜太郎社長は「被爆が課題」と新路線開設に踏み切れない理由を説明する。
「事故時の乗客への対応はもちろん、何度も行き来する運転手への影響も無視できない」
最終開通区間の常磐富岡-浪江IC間(14.3キロ)は、福島第1原発事故の帰還困難区域を通り、常磐道の中で最も空間放射線量が高い。
空間線量は最高地点で毎時約5.5マイクロシーベルト。
短時間の通過による影響は限定的とされるが、住宅地であれば年間20ミリシーベルト以上の被爆が想定される値だ』
『東北道と磐越道を経由し、1日8往復する高速バスのいわき-仙台線。
常磐道に乗れば40キロほど距離を短縮できるが、利用を計画していない。
利用客からは「近い方がいい」と常磐道ルートを支持する声の一方で、「線量が高い場所があるので遠回りでもいい」と不安も聞かれる。
同路線をジェイアールバス東北と共同運行する新常磐交通は、
「輸送の安全確保を検討している段階」
と説明。
当面、現行ルートで運行を続ける方針だ。
福島県内の常磐道は、福島第一原発がある大熊、双葉両町に建設される中間貯蔵施設への除染廃棄物の輸送ルートにもなる。
近く試験輸送が始まる予定だが、本格化すれば大型ダンプが1日1500台以上通行する見込みだ。
こうした状況から、旅行業界も全線開通を歓迎しつつも、企画商品の販売に二の足を踏む。
地元旅行会社の幹部は、
「現時点では常磐道を使う商品を販売しにくい。東北道を使うケースが多いだろう」
と話す。
東日本高速道路がかつて想定した常磐道常磐富岡-山元IC間の交通量は、1日5000~7000台。
昨年12月の2区間開通後の実績は1日2300~8000台と近似するが、避難者の利用や工事車両が多く、原発事故前と様相は異なる。
「東北の復興の起爆剤にしたい」
と、首相が全線開通を急がせた常磐道。
多方面に効果が表れ、被災地の再生を牽引できるかどうか。
道のりは平坦ではない』
関係者の困惑と迷いを乗り越えて、被災地を貫く常磐道を現在も走り続けている高速バス「仙台-いわき線」の歩みを思えば、目頭が熱くなる。
僕が「仙台-いわき線」に注目したのは、平成11年の運休と、いわき駅を省いての復活、そして東日本大震災後の活躍だった。
貴重な乗車体験だったというのに、平成10年のバス旅の記憶は、ぼんやりと薄まっている。
磐越道で越えた阿武隈山地も、いつの間にか通り過ぎたような印象である。
特急バス「平-郡山-会津若松線」に乗って国道49号線を走った時には、阿武隈山地の奥深さが心に刻まれて、平行する磐越東線を『阿武隈山地をいつの間にか横切ってしまう線』と書いた紀行作家の表現に違和感を覚えたものだった。
高速道路は、鉄道以上に安易に過ぎるのだろうか。
今でも残る記憶の残渣は、郡山JCTの手前の安達太良SAの休憩である。
ぽつぽつとバスを降りた乗客を見遣りながら、客層が若いなあ、と思った。
誰もがラフな格好をして、用務客らしい装いは皆無だった。
胸元が大きくはだけたTシャツを羽織り、バスの脇にしゃがみながら携帯電話で話し込んでいる若い女性が、艶やかな流し目で、僕に笑いかけて来る。
眼のやりばに困って視線を上に逸らせば、くらくらするような紺碧の空が広がっていた。
福島も会津若松も仙台も、そして上野行きの特急列車に乗り継いだいわきの街も、夏が戻って来たかのような暑い1日だった。
この日、3本の高速バスで福島と宮城県内を右往左往しながら、僕は「ほんとの青い空」の下を旅したのだな、と思った。
↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>