平成10年 夜行高速バス横浜-盛岡線,高速バスヨーデル号,路線バス弘前-青森線 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

東北地方は、多数の長距離夜行高速バスによって、首都圏や名古屋、関西圏をはじめとする他の地方と密接に結ばれている。

その嚆矢となったのは、東北新幹線と接続して盛岡と弘前を結ぶ「ヨーデル」号と言われている。



東北の中を走るだけではないか、なぜ長距離夜行高速バスの登場と関係があるのか、と訝しく思う方もおられるだろう。


風が吹けば桶屋が儲かるではないが、昭和60年3月の東北新幹線上野開業に合わせて開業した「ヨーデル」号は、弘前から東北新幹線を利用する需要を拾い上げて瞬く間に増便を重ね、かつ続行便も多数運行される盛況を呈したのである。

その成功によって、弘前と首都圏を行き来する流動が少なくないものと見込んだ弘南バスが、京浜急行電鉄と共同運行で、弘前と品川・浜松町を結ぶ夜行高速バス「ノクターン」号の運行を開始する。

「ノクターン」号が、常時続行便を従えるほどの盛況を呈したことで、人口20万人程度の地方都市を起終点にしても夜行高速バスが成り立つのか、と蒙を拓かれた全国のバス事業者が、我も我もと高速バス事業に手を染めるようになり、現在に至る高速バスの隆盛が始まったのである。



風が吹けば桶屋が儲かるとは、風が吹いて砂が舞い上がり、その砂が目に入って目が悪くなる人が増え,そのために三味線弾きで生計を立てる人が増えて三味線が売れ、三味線を作るには猫の皮が必要だから猫が捕えられ、それによってネズミが増え、桶が噛られるために、桶屋が儲かるという理屈である。

砂が目に入るだけで三味線弾きで生計を立てなければならないような盲目になるのか、とか、ネズミとは桶を噛るだけなのか、などと多少コジツケめいた部分も見受けられるが、一見、関連がない事象に因果関係が生じることを言いたいがための例え話であり、目くじらを立てるほどのものではない。


新幹線が開業したので、接続する高速バスを運行したら、東京に向かう人間が多いことが判明し、東京に直通する夜行高速バスを運行してみたら人気を博したために、同様の夜行高速バスが全国に登場した、という図式は、風と桶屋を結びつけるよりも単純である。

それでも、「ヨーデル」号と東北新幹線を使って東京を行き来する流動が多いからと言って、その何倍も所要時間が長い「ノクターン」号を計画する論理には、若干の飛躍が感じられる。



当時、我が国の夜行高速バスと言えば、東京と名古屋、京都、大阪を結ぶ「ドリーム」号と、大阪と福岡を結ぶ「ムーンライト」号、そして東京と仙台、山形を結ぶ「東北急行バス」だけという黎明期だった。

横3列独立席を備えた専用の車両を備えるなど、少なからず投資も必要であるため、清水の舞台から飛び降りるような決断だったのではないだろうか、と推察申し上げる。

結果として「ノクターン」号は成功し、追従する事業者を次々と産み出して全国に高速バス路線網が広がったのだから、新しい時代を切り開いた英断だったと思う。


当時の運輸省の担当者と、高速バスについて話をする機会があったのだが、


「いやあ、私どもとしても、本当にいい交通機関が出てきたものだと思っているんですよ」


との言葉が忘れられない。




殊勲甲の「ヨーデル」号であるが、誕生から十数年、ついぞ利用したことがなかった。

北東北に出掛ける機会がなかった訳ではなく、盛岡駅で新幹線に接続する路線だけを取り上げても、


青森線「あすなろ」号

八戸線「ハッセイエクスプレス」号

二戸・金田一温泉線「スーパー湯~遊」号

宮古線「106急行」

大館線「みちのく」号

十和田線「とわだこ」号

釜石線


などと乗りまくっているのに、元祖とも言うべき「ヨーデル」号を旅程に組み込まなかったのは、我ながら不思議である。


高速バス業界は紆余曲折が激しい。

せっかく新路線を開拓しても、利用客が少なく採算が合わないと事業者が見切れば、呆気なく廃止される高速バスも少なくない。

出来る限り未乗の高速バスにたくさん乗っておきたい、という妙な収集癖のある僕は、バス旅の行程を組むに当たって、人気がなさそうな路線を優先する場合がある。


「ヨーデル」号がここまで後回しになったのは、廃止の可能性が極めて低い優良路線、と安心し切っていたからだろう。

僕にしてみれば、乗らなかったことが最大限の賛辞だった、と捉えていただきたい。



平成10年の5月に、青森での所用が持ち上がった。


職場の数人と出掛ける予定で、宿泊場所と往復の乗車券を一緒に手配しましょうか、と言われたのだが、僕はこのような場合、自分で交通機関を選びたいという我儘の虫が抑え切れず、宿泊だけの手配をお願いするのが常だった。

職場でそのような勝手を申し出るのは僕だけだろう、と思っていたのだが、福岡への出張が繰り返された時期に、大半の同僚が航空機を使っている中で、1人だけ、毎回、東海道・山陽新幹線を利用する御仁がいた。


「いやあ、新幹線で5時間近く、まったりするのが好きなんですよねえ」


と、照れ臭そうに笑うその御仁は、職場での仕事もきちんとこなし、別の職場の応援で3ヶ月ほど他県で過ごしたかと思うと、戻る際にそこで働いていた女性を奥様として連れ帰り、なかなか子供が出来ないと嘆いているうちに、いきなり双子に恵まれて怒涛のような子育てに追われている強者である。

公私ともに充実して羨ましい限りであるが、航空機の倍以上の時間を費やす新幹線を好むという述懐に、なるほど、と妙に頷かされたものだった。


そのような気儘が許される職場であったことには、感謝している。



さて、青森行きであるが、束縛されるのは日曜日の1日だけで、昼頃に着けば良い。

東北新幹線が盛岡止まりの時代で、青森までの在来線特急に乗り換えると6時間近くを要した時代である。

東海道・山陽新幹線を愛する御仁は今回の出張に加わっていないので、僕を除く全員が朝1番の航空機に搭乗したのだろう。


当時品川区の大井町に住んでいた僕は、前夜に京浜東北線の電車に乗り込んで、東北に背を向けて横浜に向かった。

目指すは、平成2年7月に開業した夜行高速バス「横浜-盛岡線」である。



登場してから8年も経過していながら、この路線も僕にとっては初乗りである。

首都圏から東北地方へ向かう夜行高速バスは、大抵乗り尽くしているけれども、「横浜-盛岡線」がここまで選外に漏れたのは、その機会がなかったから、と言うしかない。

青森行きの話が持ち上がり、航空機の手配を辞退してから、どのような方法で青森に向かおうか、と考え始めてからも、そう言えば「横浜-盛岡線」が残っていたな、と思いが至るまで、少々時間が掛かった記憶があるので、要するに地味なのである。


後に、横浜を発着して東北地方の諸都市を行き来する夜行高速バスが増えたものの、「横浜-盛岡線」の開業当初は、平成元年7月に開業した横手・大曲・田沢湖に向かう「レイク&ポート」号と、平成2年4月に品川と弘前を結ぶ「ノクターン」号が横浜系統を設けたばかりで、東北から横浜に乗り入れる3番手であった。



若干心配だったのは、「レイク&ポート」号も「ノクターン」号も、浜松町に停車して都内の利用客を合わせて拾い上げ、横浜単独の発着で東北を行き来していたのは「横浜-盛岡線」だけという点である。

運行する神奈川中央交通バスも岩手県交通バスも同様の懸念を抱いていたのか、「横浜-盛岡線」は21時25分発の本厚木駅北口を始発として、22時10分に町田バスセンターにも寄って、神奈川県内や東京西部地域の人々の便宜が図られていた。


出来れば本厚木から乗ってみたいと考えていたのだが、仕事の時間が押すことが目に見えていたので、諦めた。

それどころか、横浜ですら間に合うのか、というぎりぎりの時間になってしまい、息せき切って地下コンコースから横浜駅東口バスターミナルのホームに駆け上がると、乗り場には既に乗客の列が出来ていて、程なくバスも姿を現した。

乗車の順番が後になったので、合計29席が設けられている横3列独立シートを占めている人々のうち、本厚木や町田から乗って来た先客がどれくらいいたのかも判然としない。



定刻23時ちょうどに横浜を後にした「横浜-盛岡線」の車中について、語るべきことはそれほどない。


途中、乗務員交替のために立ち寄るサービスエリアで乗客が降りることは出来ない決まりになっているし、僕も仕事上がりで乗車しているので、ぐっすりと熟睡したのだろう。

寝つくまでの短い時間で、窓を覆うカーテンの隅をそっとめくり、車外の夜景にぼんやりと目を遣りながら、航空機や新幹線ではなく、夜行高速バスを選んで良かった、と安らかな心持ちになったことだけは、はっきりと覚えている。

時間は掛かるし、占有空間は狭いし、バスを忌避する人も少なくないと聞いているが、どうして僕はバス旅が性に合うのだろうと、いつも不思議になるひとときである。


「横浜-盛岡線」は、早暁5時52分着の北上駅と、6時10分着の花巻上町にも立ち寄って客を降ろしていくのだが、降車客がいなかったのか、僕が白川夜舟だったのか、停車したかどうかすら定かではない。


翌朝、予定の6時51分より少し早めに到着した盛岡駅前は、すっかり夜が明けていた。

バスを降りると、容赦なく射し込んでくる陽の光が目に痛いけれども、これまで幾度か高速バスを降りて見慣れた光景に、はるばる東北まで来たのだな、と嬉しくなった。



感慨に浸っている暇はなく、先を急がなければならない。


僕は、宮古や大館に向かう長距離バスが出入りしているロータリーを横切って、駅舎内にある窓口に歩を運び、弘前までの乗車券を手に入れた。

駅舎に面した乗り場には、「特急 弘前バスターミナル ヨーデル」の表示を掲げた7時40分発の岩手県北バスが横づけされている。


運転手さんに乗車券を渡して座席に収まれば、とうとう「ヨーデル」号を体験できる日が来たのか、と思う。

開業以来13年、随分と長い間放っておいたものである。

「横浜-盛岡線」といい、「ヨーデル」号といい、未体験の路線が極めて少なくなってから、数少ない候補を繋げて旅程を組んだ今回の旅は、落穂拾いだな、と苦笑いが込み上げてくる。


収穫を終えた麦畑での落穂拾いは、欧州の貧しい農民の貴重な生活の糧であり、地主が落穂を残さぬように刈ることは旧約聖書でも禁じられていたという。

僕はフランスの画家ミレーの作品である「落穂ひろい」が好きである。

落穂拾いでも、バス旅の価値が下がる訳ではない。



この始発便に接続する下りの東北新幹線はない。

仙台始発や東京からの新幹線が盛岡に着くのは、もっと後の時間帯なのである。

純粋に盛岡と弘前を行き来するだけの乗客しか使わないのに、半分近い座席が埋まっているのは立派である。


盛岡は、我が国で最も美しい県都であると耳にしたことがある。

しっとりと緑豊かな市街地を抜け、雫石川に沿って盛岡ICから東北自動車道に入ると、田植えを待つ水田の彼方に岩手山が見えた。


東北道は、安代JCTで八戸自動車道を分岐すると、東北本線と別れて西へ進路を変え、奥羽山脈の懐に入り込んでいく。

盛岡以南では平坦な印象が強い東北道も、盛岡と弘前の間では本格的な山岳ハイウェイになっているのだ。



山あいに深く刻まれた谷間を、大小のトンネルと高い橋梁で渡っていくと、谷底にJR花輪線の単線の線路が見えた。


本来ならば、盛岡駅の北にある好摩駅と奥羽本線の大館駅を結ぶ花輪線が、東北新幹線と接続して弘前方面への輸送を担うべきだろう。

しかし、陸中花輪-大館間が私鉄として大正年間に建設され、好摩-陸中花輪間も昭和初期に完成した古い線区であり、盛岡-大館間が快速列車で2時間半、大館-弘前間の奥羽本線でも40~50分を要する。

昭和62年に東北道が開通すると、高速道路に匹敵する速度で走れる設備ではないので、乗用車や高速バスに利用客が移り、今では朝夕を除けば2~4時間に1本が運転されるだけの閑散線区になり果てている。


僕のような乗り物ファンは、つい、鉄道も高速道路も共存する未来を夢想しがちであるが、地方の現実はそれほど生易しくない。



東北道は、長さ260mの兄畑トンネルと670mの石通トンネルの間に岩手と秋田の県境がある。


ここを走ったばかりの頃は、岩手県から青森県へ向かうのに秋田県をかすめることに、多少の違和感を覚えたものだった。

僕の頭の中が鉄道地図で凝り固まっていたことの表れであるが、何度も東北道を旅するうちに慣れてしまったものの、どうして盛岡以北の東北道は、江戸時代の奥州街道を踏襲する国道4号線や東北本線と異なる経路で建設されたのか、不思議に思えてならなかった。


昭和32年に国土開発縦貫自動車道の路線として東北縦貫自動車道が計画された時点で、「弘前線:東京都-浦和市附近-館林市附近-宇都宮市附近-福島市附近-仙台市附近-盛岡市附近-秋田県鹿角郡十和田町附近-弘前市附近-青森市、八戸線:(盛岡市附近まで重複)-八戸市附近-青森市」と、現在の弘前回りと八戸道の区間が併記されている。

結局は、先に建設された弘前線が東北道の名を冠したことになるが、その理由は、弘前経由の方が八戸経由よりも短く、沿線人口が多いから、という説が有力である。


ただし、東北道の本線と八戸道を分岐する安代JCTは、道路名と裏腹に、八戸道方面が片側2車線の本線のようになっていて、弘前へ向かう本線は側道に逸れなければならない。

弘前を含む津軽地方と、かつては岩手県とともに南部地方に属した八戸との、歴史上の確執を合わせて空想を膨らませれば、なかなか興味深いところである。



東北縦貫道八戸線の方が弘前線より距離が長い、というのはネットで見かけた話であり、八戸回りで安代JCTと青森ICの間を全通させる工事が完成していないので、東北道の本線より長いのかどうか、僕には確かめようがない。


東北縦貫道八戸線の一貫として、全て東北道と同じ「E4」の番号を与えられている高規格道路は、かなりの区間が建設されている。


八戸道:安代JCT-八戸北IC 77.5km

百万石道路:八戸北IC-下田百万石IC 6.1km

第二みちのく有料道路:下田百万石IC-六戸JCT 8.3km

上北自動車道:六戸JCT-天間林IC 23.8km(七戸-天間林が平成22年度開通予定)

みちのく有料道路:天間林出入口-青森滝沢出入口 21.52km

(県道123号線:青森滝沢出入口-青森東IC 2.2km)

青森自動車道:青森東IC-青森中央IC 9.4km


合計すれば148.82kmで、弘前回りの東北道安代JCT-青森ICの116.2kmより確かに長い。

殆どの区間は、一部対面通行があるものの高速道路と見紛う構造である。

みちのく有料道路だけが、山の中を行く一般道にしか見えないけれど、平成の初頭、山陽自動車道が未完成だった時代に、備讃瀬戸大橋へのアクセスを担い、東京や大阪からから岡山や四国へ向かう高速バスが行き来した東備西播有料道路「ブルーハイウェイ」も、このような道路だったな、と思う。



それにしても、細かく刻んで建設したものだと感心する。

高度経済成長期の計画に則った高速道路としては予算が組めず、様々な財源を寄せ集めて建設しているので、区間や名称が小刻みになっているのだろうが、建設時期が昭和と平成に分かれた時代の格差を如実に表している。

このような事例は全国に見受けられるようになったが、東北縦貫道八戸線の現状を知るほど、我が国は高速道路1本すら満足に造れなくなってしまったのか、と気分が滅入る。


一方で、東北本線と東北新幹線は八戸経由であり、弘前にしてみれば、高速道路くらいこっちに寄こしてくれたっていいじゃないか、と言いたくなるのかもしれない。

はっきりしているのは、東北縦貫道弘前線が先行して建設されなければ、「ヨーデル」号は登場せず、今の高速バスの隆盛もなかったのかもしれない、ということであろう。



「ヨーデル」号は、四方を山々に隔てられた花輪盆地に飛び出すと、花輪SAで一憩した。

バスを降りると、山あいを渡って来る風が心地よかった。

山肌を覆う木々の緑は、関東近辺に比べれば色濃さが足りないけれど、それだけに爽やかさが感じられる。


「ヨーデル」とは、ヨーロッパアルプスでの独特の歌い方で、低い胸声と高い裏声を混ぜ合わせる旋律が特徴である。

東北新幹線新青森延伸で「はやぶさ」が登場するまでの速達列車の愛称「やまびこ」に呼応する意味合いで、盛岡-弘前間の高速バスに採用されたと聞いた時には、「やまびこ」と「ヨーデル」は、片や自然現象、片や人間の歌唱法であり、呼応するのか、と首を傾げたものだった。

ただし、「ヨーデル」は牛飼いたちが動物の群れに声を掛けたり、遠くにいる仲間への通信手段として使われて来たのだから、山あいにこだまするイメージが似ているのは理解できる。


こうして奥羽山脈に囲まれたサービスエリアでひとときを過ごせば、山々に反響する「やまびこ」が聞こえてくるような気分になるけれども、「ヨーロレイヒー」という「ヨーデル」の響きが、みちのくの鄙びた山村に似合うのかどうかは何とも言えない。



花輪盆地の北寄りにある十和田湖ICは、十和田湖に向かう国道103号線への連絡口で、十数年前に盛岡発十和田湖行き高速バス「とわだこ」号で通ったことがある。


「とわだこ」号の開業は、東北新幹線が大宮と盛岡の間で暫定的に開業した直後の昭和57年6月で、新幹線に接続する路線としては最も古い歴史を誇っている。

国鉄時代から国鉄バス大館-十和田湖線と合わせて「十和田南線」と呼ばれ、「ヨーデル」号も、国鉄時代は十和田南線の別系統扱いになっていた。

「とわだこ」号に始発駅から乗車する場合は「バス指定券」が必要で、全国の「みどりの窓口」で購入でき、周遊券での利用も可能だった。


「ヨーデル」号も周遊券で利用できたが、開業当初は国鉄便に限定され、後に他社の便でも使えるようになった。

周遊券が利用できる長距離バスは、東京と中京・関西を結ぶ「ドリーム」号をはじめとする東名・名神ハイウェイバスや、中国地方の陰陽連絡バスなど全国に散見されるが、JR以外の民間事業者が参入している路線が周遊区間に組み込まれているのは珍しい例である。

周遊券の適用を国鉄バス便に限定していたのは、初期の「ヨーデル」号に限ったことではなく、国鉄以外に日本急行バスと名阪近鉄高速バスが参入した「名神ハイウェイバス」も同様だった。



レールウェイライター種村直樹氏が、国鉄の鉄道とバス路線も含めた一筆書きルートをたどった記録「さよなら国鉄・最長片道切符の旅」に、その経緯が触れられている。

昭和60年の8月に、「ヨーデル」号を受け持つ国鉄バス沼宮内営業所管轄の路線バスの運転手さんの話である。


「4社(国鉄・弘南・岩手県交通・岩手県北)で同じように運行していて、周遊券では国鉄しか乗れんなどということでは申し訳なくてね。第一お客さんの方はいちいちどこのバスかなどと考える人は少ないから、よその便に乗せろ乗れんと揉めたりして、結局現場が困るんです。どうも上の人が決めることはよく分からない。よその会社が断れば苦情は国鉄へ集まるから弱ったと見えて、確か先月中頃から全部乗れるようになったはずですよ」


ただでさえ割引率が大きい周遊券で国鉄以外のバスに乗車されれば、その社にどのように分配するのか、国鉄としても頭が痛かったことであろうが、「ヨーデル」号が鉄道網と一体化して定着していることを雄弁に物語る挿話である。


鉄道網と密接に関われば、鉄道事情の変化による影響もまた多大である。

後の話になるが、平成14年12月の東北新幹線八戸開業で、八戸駅から青森駅経由で弘前駅に向かう特急「つがる」の運転が開始され、「ヨーデル」号の利用客数に翳りが見え始めた。

平成22年12月の東北新幹線新青森開業以降は、数度に及ぶ減便が実施され、最盛期には1日15往復を誇った運行本数も、今では僅か6往復になっている。


高速バス業界の栄枯盛衰は、「ヨーデル」号とて逃れ得なかったのである。



車窓を屛風のように遮って峻険な山並みが現れると花輪盆地が尽き、東北道は、秋田と青森の県境を成す山中に分け入っていく。


盆地の北寄りにある十和田湖ICと碇ヶ関ICと間は東北道でも最大の難所であり、昭和61年まで未開通のまま残されていた。

開業当初の「ヨーデル」号も、この区間では一般道を経由していたのである。

東北道最長である4254mの坂梨トンネルの手前が青森県との県境で、やがて左手に見下ろす山あいに家々がひしめき始め、長さ665mの大鰐トンネルを最後に、奥羽の山越えも終わりを告げる。


大鰐弘前ICで東北道を降り、一面のリンゴ畑に浮かんでいるような岩木山を正面に見据えながら、「ヨーデル」号が弘前バスターミナルに到着したのは、定刻10時きっかりだった。



のんびりした津軽に似つかわしくない僕の駆け足の旅は続く。

僕は、青森行きの路線バスに乗らなければならない。


このバスは、2つの点で当てが外れた。

次の便が11時00分発と1時間も先であることと、高速道路を経由する特急便が廃止されていて、一般道経由の便しか残っていなかったことである。



弘前と青森を結ぶ路線バスが運行を開始したのは昭和23年のことであったが、本数は1日2往復だけで利用客が少なく、翌年にいったん運休している。

昭和25年に1日4往復で運行を再開し、昭和27年には運行間隔が1時間おきに増強され、新車の投入や運賃の値下げなどの積極策が功を奏して一挙にドル箱路線へと成長したという。

高度経済成長期には急行便や準急便も設けられ、東北道が開通すると、弘前から国道バイパスを使い、黒石ICから青森ICまで高速道路を経由する特急便も運行された。


平成初頭の高速バス時刻表で、1日4往復、所要1時間の特急便を見掛けた記憶があり、なぜか県内高速バスに惹かれる僕は、いつかは乗りたいものだ、と思っていた。



今回が良い機会だったのだが、いざ来てみれば特急便どころか急行・準急便も廃止されてしまい、高速経由は朝夕の快速便だけ、残りは一般道を使う各駅停車便が、ほぼ1時間間隔の1日12往復で運行されている。


マジか、と僕はいきなり焦り出した。

特急便であれば、少しくらい弘前で待ち時間が生じても正午に青森に着くことが出来るけれども、40ヶ所近くの停留所に停まりながら一般道を行く各駅停車は、どれほどの時間が掛かるのか。


なるようになれ、と気を取り直し、4月末に満開を迎えると聞く弘前城の桜がまだ残っているかもしれないと思い立ち、バスを待つ間に弘前城を往復してみたが、三の丸追手門に着くと時間切れで、お堀端の葉桜を見回しながら、良い城だ、またゆっくり来よう、と踵を返すしかなかった。



発車間際に飛び込んだにも関わらず、11時発の青森行きのバスには乗客数が少なく、僕は最前列の席を占めることが出来た。


弘前市街を抜けたバスは、広大な津軽平野に伸びる国道7号線・津軽街道を坦々と走る。

沿道には途切れ途切れに店舗が並び、合間を水田やリンゴ畑が覆っている。

岩木山が青空に食い込むように聳えている。


走り始めたばかりの頃は、このバスは何時に青森に着くのだろう、とやきもきしていたけれども、あまりに長閑な車窓を眺めていれば、そのような浮世のことはどうでも良くなって来た。


弘前駅前、上土手町、中央通り一丁目、代官町、和徳北口、撫牛子、豊蒔入口、百田、藤崎表町、藤崎青銀前……。


乾いた録音テープの案内だけが、通り過ぎる土地の名前を教えてくれる。

藤崎は、大正14年に初めて弘前からの路線バスが運行された町で、国道7号線は、このあたりで最も奥羽本線から離れている。

この古い路線が「弘前-青森線」の元祖であり、昭和16年に弘前-浪岡間に、戦後に弘前-青森間へと延伸されたのである。



葛野、矢沢、中島、榊、水木、女鹿沢、浪岡、浪岡警察署前、高屋敷、徳才子、大釈迦北口、鶴ヶ坂駅前、戸門、雪印工場前……。


どこまで走っても津軽平野を映す車窓は変わらないし、停留所の案内放送に耳を傾けるくらいしかすることがない。

聞いているだけも興味が湧いて来る停留所名が混じっているのは良い退屈しのぎで、「ないじょうし」「とくさいし」「だいしゃか」など、案内放送だけでは漢字が思い浮かばないものもある。

停留所の「撫牛子」の文字を見て、ああ、そのような名前の駅が奥羽本線の弘前の隣りにあったな、と合点が行ったりする。


撫牛子は、アイヌ語で川を意味する「ナイ」と、砦や柵を指す「チャシ」が由来とされている。

岩木川の支流である平川、浅瀬石川、土淵川に囲まれた土地で、「ナイ・チャシ」に難読の「撫牛子」の漢字を当てはめるとは、昔の人もイジワルだった、と思うのは、漢字に弱くなっている現代人の愚痴に過ぎない。

この土地は弘前城の鬼門の方角に当たるため、自分の身体の病気の部位を撫でてから牛の同じ部位を撫でると治癒するという「撫で牛」信仰を地名に当てはめた、という説を目にしたこともある。


青森県にはアイヌ語が由来とされる地名が多く、例えば、野辺地は野の川を意味する「ヌプ・ペッ」、三厩は沼のような澗のある海岸を意味する「メム・マ・ヤ」が転訛したとも言われ、さすがは蝦夷と海を挟んだ北辺の地である。


「徳才子」は「徳妻子」とも書くが、アイヌ語とは関係なく、水辺に生える野草の木賊(とくさ)に因むらしい。

「大釈迦」は、桓武天皇の御代に、鬼門封じのために釈迦像を安置したことに由来すると言われ、ここでも撫牛子と同じく弘前の鬼門の話が出てくる。

岩木川水系の支流である大釈迦川にもその名を残し、国道を走るバスからも、小さいながらも豊かな清流が垣間見える。



弘前を出てしばらくは、ひっきりなしに乗り降りが見られたが、やがて降りていく客ばかりになり、車内が閑散とするうちに、通過する停留所が増えた。

いいぞ、そのまま特急便みたいにすっ飛ばせ、と手を叩きたくなったが、しばしば時間調整で数分ほど動かなくなったりするので、通過停留所が多いからと言ってバスの行き足が早まる訳ではないのは、各駅停車なのだから自明の理である。


浪岡の街を過ぎると、バスは大釈迦、鶴ヶ坂、津軽新城といった奥羽本線の駅に立ち寄るようになり、国道7号線を走るよりも、横切る方が多くなる。

青森営業所を11時に出て来た弘前行きの便が前方に姿を現したものの、ぷいっと横道に消えてしまい、こちらも反対側の路地に逸れてしまうといった光景が、「弘前-青森線」で最も強く心に刻まれている。



大釈迦では、電柱の影に隠れているような停留所の先に、民家のようなこじんまりとした駅舎が見え、鶴ヶ坂駅は、跨線橋のある立派なホームと柵を隔てただけの道端に停留所が置かれていた。


このあたりの国道7号線は、西寄りの小高い丘陵を貫いているが、バスは鉄道に沿った県道を進む。

こちらが津軽街道の旧道なのかもしれない。

そこまで鉄道に色目を使わず、堂々と国道を走り続けて、道沿いの集落の利用者を拾えばいいではないかと、もどかしいけれども、地図を見れば、散在する集落は線路沿いに多く、国道沿いに目ぼしい人家が見当たらないのだから、やむを得ない。



この旅の翌年、平成11年3月に、「弘前-青森線」は姿を消す。

地元の人々から復活の要望が強く寄せられて、平成12年3月に運行を再開するものの、2年後に再び廃止され、弘前と浪岡、黒石と青森を結ぶ区間運転の路線が残された。


僕が乗車した便も、弘前と青森を乗り通した客は、他にいなかったのではないだろうか。

何処に人家があるのだろう、と周りを見回したくなるほど、田畑ばかりに囲まれた停留所で、よっこらしょ、と呟きながら乗り込んで来る腰が曲がったおばあさんの姿を目にすれば、このような利用者のためにバスだって必要なのだ、と思ったものだったが。



新城駅前、西部市民センター前、西高校前、松ヶ丘保養園前、三内霊園前、石江、あすなろ学園前、マツダ自動車前、ヤクルト前、西滝、西上古川、上古川、古川、平和通り中三前、新町二丁目……


津軽新城駅のあたりから家々が建て込み始めて、バスは国道7号線に戻り、青森市の中心部に足を踏み入れていく。

青森駅に近い新町二丁目停留所で、少しずつ増えていた乗客の多くが腰を上げ、僕も席を立った。


時計の針は12時半を回っていた。

横浜から13時間半を費やして辿り着いた本州最果ての街の目抜通りは、歩きにくいくらいの賑わいを見せていた。


 

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