夜行快速「ムーンライト信州」の長い夜~長野-白馬特急バスで善白鉄道を偲ぶ~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

夜行快速「ムーンライト信州」は、定刻23時54分に新宿駅10番線を発車した。

日中からどんよりと雲が垂れ込めて蒸し暑かった、平成29年7月中旬の週末の夜である。


自販機やkioskなど、眩しく照明に照らし出されたホームのもろもろが、ゆっくり後方に流れ出したかと思うと、速度が上がるにつれて、溶けるように輪郭を失っていく。

最終列車を送り出して脱け殻のようになった長距離ホームには、数人の駅員以外に人影はなく、向こうのホームにぎっしりとひしめいて電車を待っている帰宅客の方が目につく。


見慣れた光景であるけれども、通勤電車とは大違いの、ゆったりしたリクライニングシートに身を任せて眺めれば、別世界のように思える。

日常から抜け出した瞬間である。



『本日はJR東日本を御利用いただきましてありがとうございます。臨時快速「ムーンライト信州」81号白馬行きです』


新宿駅の構内を抜け出して新宿大ガードを渡り、靖国通りや歌舞伎町の派手なネオンが一瞬で過ぎ去って車窓が暗転すると、早々に車掌の案内放送が始まった。

凛とした、よく通る声である。


『この先の停車駅と到着時刻を御案内致します。また、各駅の到着時刻はお手持ちの指定席券にも記載がございます。併せて御確認下さい。次の立川には0時28分、八王子0時39分、甲府には2時21分、甲府には2時21分の到着です。その先、小淵沢3時29分、富士見3時19分、茅野3時41分、上諏訪3時48分、下諏訪に3時55分、岡谷到着は4時ちょうどです。塩尻に4時11分、松本には4時32分、松本4時32分の到着です。その先、大糸線へ入りまして、豊科4時47分、穂高4時53分、信濃大町には5時11分、神代5時34分、終点白馬到着は5時40分、白馬には5時40分の到着です』


20年前に乗車した夜行急行「アルプス」では、停車駅の到着時刻の羅列を大幅に省略した記憶があるのだが、「ムーンライト信州」は、全ての駅をきちんと案内したので感心した。



『なお、この列車は、松本を出まして大糸線へ入りますと、Suica、PASMOの御利用エリア外となります。改札をSuica、PASMOなどICカード乗車券で入られたお客様は、車掌が車内改札で伺いました際にお申し出ください。車内で清算を致します。松本から先、大糸線はSuica、PASMOのエリア外となります。車内の御案内です。先頭は6号車、1番後ろは6号車、6両編成での運転です。この列車は全ての車両、全ての座席が指定席です。全車指定席での運転です。あらかじめ指定席券お持ちでないお客様は、御利用いただけません。お手持ちの指定席券に書かれました号車番号、座席番号をよくお確かめの上、御着席をお願い致します。ただいま空いているお席も、この先、各駅からの御予約がございます。座席の上のお荷物は整理をお願いします』


ICカード乗車券の案内などは、これまで僕が乗車した夜行列車では耳にしたことがない、如何にも現代的な内容である。

「Suica」の使用可能地域が大幅に拡大し、松本駅まで含まれるようになって僕を仰天させたのは、この旅の3年前の平成26年だった。



『深夜帯の運転となります。携帯電話、スマートホンをお持ちのお客様、車内ではマナーモードに設定の上、通話の際はお声の大小に関わらずデッキを御利用下さい。ヘッドホン、イヤホンからの音漏れや、携帯ゲーム機の操作音につきましても、周りのお客様への御配慮をお願い致します。なお、終点白馬まで、車内灯の減光は致しません。現在の明るさのまま、終点白馬までの運転となります。また、車内販売は営業致しておりません。車内に飲み物の自動販売機の設備もございませんので、あらかじめ御承知おき下さい。お手洗いは、各号車のデッキに1両1ヶ所ずつございます。快速「ムーンライト信州」81号白馬行きです。次は立川に停まります。車掌が、各号車に車内改札に伺っております。御協力をお願いします』


案内放送の後半部分は、携帯電話の使用に対する注意点が今風で真新しいだけで、残りは、あれも出来ません、これもありませんのないない尽くしで、ある、と言ったのはトイレだけだった。

近年の夜行列車の常とは言え、聞いていると、だんだん姿勢が前屈みになるような心持ちがする。


JRは、もう、夜行列車を見限っているのだな、と思ってしまう。



同じ経路を、「アルプス」でたどった平成10年の真夏の記憶が、懐かしく脳裏に蘇る。

あの時は、「アルプス」を松本で乗り捨て、大阪からの夜行急行「ちくま」に乗り換えて、故郷の長野市に向かった(「故郷へ最後の夜汽車の旅~急行アルプスと急行ちくまを乗り継いだ一夜の物語~」 )。


前の年に長野まで新幹線が通じるとともに、信越本線の横川-軽井沢間が廃止されて、上野と長野を結ぶ夜行列車が姿を消し、東京から在来線で信州に入るには、中央東線一択になっていた時代だった。

あれから20年近くも経つのか、と思う。


「アルプス」は平成14年に、「ちくま」は平成15年に相次いで定期運転を取り止め、今や、夜行列車で長野駅に降り立つことは出来なくなっている。



ただ、「アルプス」の廃止と同時に、快速「ムーンライト信州」が後を引き継いで走り始めたのは、救いと言うべきであろう。


この20年間で、故郷の鉄路も、僕の人生も、大きく変わった。

列車種別は異なっているけれども、車両の乗り心地も、窓外を過ぎていく夜景も全く変わっていないかのようであり、まるで20年前に引き戻されたかのような錯覚に陥ってしまう。


僕が利用した急行「アルプス」は、昼間の特急「あずさ」と共通運用の183系特急用電車であった。

「ムーンライト信州」に投入されているのは、かつて信越本線の特急「あさま」に使われていた189系特急用電車で、内装は183系と殆んど変わりがないものの、補助機関車を連結して碓氷峠の急勾配を登り降りするための装置を備えていた。



長野と東京の行き来に何度も利用した思い出深い車両だが、長野新幹線が開業した後は、特急「あずさ」や、長野と直江津を結ぶ快速「妙高」などに転用され、「妙高」の運転本数が減り、「あずさ」が新型車両に置き換えられるなど、徐々に活躍の場を失っていた。

「ムーンライト信州」に運用されたにも関わらず、塗装は、平成2年の改装の際に一新された白地に緑のラインが入った「あさま色」のままで、運転台の下には「ASAMA」のロゴまで残っている。


ここで再会するとは懐かしいの一語に尽きるけれども、「あさま」の車両が中央東線を走ることになるとは、時代の容赦ない変遷に愕然とする。


『駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋』


太宰府に左遷される時の菅原道真の言葉が、心に浮かぶ。


往年の信越本線の特急用車両が、中央東線に配されていることを、左遷と言うつもりはない。

むしろ、在来線が寸断されて首都圏との行き来が新幹線だけになってしまった長野に比べて、夜行列車が残されている中央東線が羨ましいのである。



座席の8割程度を占める今宵の相客に、僕のような1人旅は少ないようで、とっくに日付は変わっているのに、あちこちで賑やかな話し声や笑い声が聞こえる。

網棚にも大きな荷物が多く、重装備の登山客や、軽装の行楽客ばかりのようである。


急行「アルプス」には、立川、八王子、高尾の辺りまで通勤客が乗り合わせていたが、全車指定席の快速「ムーンライト信州」に、そのような客は皆無だった。


「お休みのところを畏れ入ります。切符を拝見します」


車掌が姿を現して、検札を始めた。

定期券だけの飛び乗り客に車内補充券を発行していた「アルプス」に比べれば、この列車は全員が指定券を持っているのだから、検札も楽だろうな、と思いながら眺めていると、


「ありゃあ、お客さん、この切符は明日からしか使えないですよ」


と言う車掌の声が、幾つかの座席で聞かれたので、首を傾げた。


「ムーンライト信州」は多客期だけの臨時列車で、僕が乗車した平成29年は、7月14日、15日、21日、22日、28日、29日、8月1日~5日、10日、11日、18日、19日、9月1日、8日と、週末を中心として飛び飛びの日付に運転されていた。


最初は、JRの普通列車に乗り放題の「青春18きっぷ」の使用開始日を間違えて購入した客がいたのかと思ったが、この年の利用可能期間は7月20日~9月10日であるから、まだ5日ほど先である。

新宿を発車して6分で日付が変わってしまう列車であるから、周遊券やクーポン券の類いを、翌日の日付で購入したのだろうか。

座席指定券の日付が間違っていれば、座席が重複して大ごとになるけれども、二言三言、言葉を交わしただけで解決したように見えたので、大した問題ではなかったのだろう。


僕が所持しているのは、単純な白馬までの乗車券と指定券だけであるから、


「白馬ですね。ありがとうございます」


と、検札は至って簡便に済んでしまった。



東西に長い都内区間を軽やかに走り続ける「ムーンライト信州」は、立川と八王子に停車するものの、急行「アルプス」が停車した高尾は通過する。

それどころか、大月、塩山、山梨市、石和温泉、韮崎といった山梨県内の「アルプス」停車駅をすっ飛ばし、甲府と小淵沢に停まるだけで、ひたすら信州を目指す。


快速列車が急行より停車駅が少ないと言う珍しい例だが、だからと言って到着時刻が早い訳ではなく、新宿を「アルプス」より4分遅く出ただけなのに、甲府や小淵沢への到着は15分、松本への到着は25分も遅く、所要時間は急行と快速の序列を守っている。

大半の利用者にとって、夜行列車は早ければ良いと言う訳ではなく、停車駅は少ない方が、停車と発車の衝撃や他の客の乗り降りで眠りを妨げられる回数も減り、あまり早い時間に着かれても身動きが取れないので、こちらの方が使い心地は良いのだろう。



列車の使い心地は良くても、この夜の「ムーンライト信州」の乗り心地は、予想外に苦労した。


20年前に乗車した、183系のグレードアップ車両を使っていた急行「アルプス」の座り具合は、決して悪くなかったと記憶していたのだが、189系電車を同様にグレードアップしたはずの「ムーンライト信州」では、なぜか、座る姿勢がしっくり来なくて、寝苦しかった。

尻の位置やリクライニングの角度、足の伸ばし方などを色々と変えてみても、身体が不安定で、熟睡できない。


こんなはずではなかった、と思う。

20年間で車両や座席が老朽化したのか、それとも、僕が歳をとったということだろうか。



特急券や急行券が不要の夜行列車の経験は少なくないのだが、これほど寝心地が悪かったのは、「大垣夜行」以来だな、と思う。


かつては、全国に長距離夜行普通列車が運転されていたが、僕が夜行列車に乗るようになった昭和60年代は、東京-大垣間の「大垣夜行」など、ごく僅かになっていた。

「大垣夜行」の4人向い合わせのボックス席の硬い感触と、寝苦しかった一夜は、今でもありありと思い浮かべることが出来る(「追憶の375M『大垣夜行』」)。


初めて「ムーンライト」の名を冠した夜行快速列車が、新宿-新潟間に登場したのは、昭和62年だった。

古くさい外観の165系急行型車両が使われていたにも関わらず、シートが全てグリーン車のお下がりだったから、前後のピッチも広く、リクライニングの角度も深くて、座り心地は飛び抜けて上々だった(「函館の女(ひと)~青春18きっぷで東京から北海道へ3泊4日鈍行列車の旅~」)。


「ムーンライト」が好評であったことから、昭和63年には札幌-函館間に「ミッドナイト」と大阪-広島間に「ムーンライト山陽」が登場、平成元年に京都-博多間「ムーンライト九州」、京都-出雲市間「ムーンライト八重垣」、京都-高知間「ムーンライト高知」、平成7年に京都-松山間「ムーンライト松山」、平成14年に新宿-白馬間「ムーンライト信州」、平成15年に東京-仙台間「ムーンライト仙台」など、特急用車両と同程度のリクライニングシートを備え、廉価な座席指定料金だけで利用できる夜行快速列車が、全国に波及したのである。



伝統の「大垣夜行」も、平成8年に「ムーンライトながら」と改称し、それまでの急行型車両から特急型車両に更新され、同時に元祖「ムーンライト」が「ムーンライトえちご」に改称されている。


「ムーンライト信州」は、僕にとって、「大垣夜行」や「ムーンライト」、「ミッドナイト」以来、久方ぶりの夜行快速列車体験だったが、20年前の急行「アルプス」の記憶から、熟睡とはいかないまでも、それほど寝心地を心配していなかった。

まさか、「大垣夜行」よりは楽だぞ、と自分に言い聞かせながら一夜を過ごす羽目になろうとは、思いも寄らなかった。


そのような列車を選んだのは自分だから、自業自得である。



八王子を過ぎてしばらくすると、いつの間にか車内は静かになっていて、誰もがリクライニングを深く倒して眼を瞑っている。


天井の照明が眩しく眼を射る。

夜行列車の減光は中途半端で、眠る助けにならないことは重々承知していても、減光しない、と断言するのはなぜだろう、と不思議でしょうがない。

189系には、そのような装置がないのだろうか。

189系車両を使った時代の夜行急行「妙高」に乗車したことがあるが、あの時はグレードアップ前の旧来の座席のままで、よく眠れなかった記憶だけが残っていて、減光については全く忘却の彼方である。



僕は、他の客のように山に登ったり高原を散策するつもりはなく、実家に帰るだけなので、寝不足になっても何の不都合もない身分である。


眠らなければならない、と言う思い込みをやめて、どうとでもなれ、と真っ暗な窓外に茫然と眼を向ければ、どこまでも続く闇の中に、思い出したように浮かび上がる深夜の通過駅の灯を数える道中は、決して悪くない。

関東山地と笹子峠を越えて甲府盆地に駆け下り、信州に向けた八ヶ岳山麓の登り勾配を走り込んで、「信濃境」の駅名標が過ぎ去るのを眺めているうちに、車輪が線路を刻む律動的な音色に彩られた車中の時間が、1つの交響曲を鑑賞しているかのような心地よい陶酔に包まれて、悠然と流れていく。


信濃境駅の手前の小淵沢に停車した午前3時過ぎから、静まり返っていた「ムーンライト信州」の車内が忙しくなった。

富士見、茅野、上諏訪、下諏訪、岡谷、塩尻、松本と、急行「アルプス」よりも小まめに停車するようになり、乗客が寝起きの眼をこすったり欠伸をしながら客室を出ていく。



『おはようございます。列車は、あと3分程で松本に到着致します。松本駅には5番線に着きます。お出口は右側です。松本でお降りのお客様、準備をしてお待ち下さい』


松本の手前で、しばらく途絶えていた車内放送が久しぶりに流れた。

昨夜と同じく凛とした声だが、どこか疲労感が漂っているようにも聞こえたので、車掌さんにとっても長い夜だったのだな、と思う。


『松本を出ますと豊科、穂高、信濃大町、神代、終点白馬の順に停車をして参ります。松本駅停車時間は2分少々です。松本より先を御利用のお客様は、御乗車のままでお待ち下さい。松本からのお乗り換えの御案内です。松本電鉄上高地線御利用のお客様、新島々行きが7番線から6時40分です。松本電鉄線ではSuica、PASMOは御利用いただけません。あらかじめ御承知おき下さい。この列車がこの先通過致します北松本、一日市場方面、大糸線の普通列車信濃大町行きは、2番線から5時58分です。篠ノ井線明科、篠ノ井方面の普通列車長野行きは、降りた同じホーム5番線、6時18分です。松本からのお乗り換えを御案内致しました。本日は快速「ムーンライト信州」81号を御利用下さいましてありがとうございました。間もなく、松本に到着致します。松本では車掌が交替致します。ここまでの御案内はJR東日本松本運輸区〇〇と△△でした。各種車内マナー、車内改札への御協力ありがとうございました』


これで終わりかと思ったら、ひと呼吸おいて再びスピーカーから声が流れたので、降り支度の手を止め、おっ?──と顔を上げた客も見受けられた。


『この先、登山へお出かけのお客様、北アルプスの天候は大変変わりやすくなっております。天候に応じた安全な登山をお願いします。また、登山計画書は必ず警察へ提出していただきますようお願いします。登山計画書は、長野県警察の携帯サイトからも提出が出来ます。行方不明者捜索の手掛かりとなります。登山計画書は必ず提出をお願いします。ありがとうございました。松本に到着です。定刻通り到着です』


登山客への呼び掛けを付け加えるとは、如何にも「ムーンライト信州」らしい。

この列車が、戦前からの「山男列車」の後継なのだな、と改めて思う。



「到着です」という案内の締め括りと同時に滑り込んだ松本駅で、車内の乗客は半分以下に減った。


「いいよ、そんなに慌てなくて」

「そうそう、上高地への電車は6時過ぎまでないって言ってたじゃん」

「どうやって時間を潰す?こんな時間だから、店だって開いてないでしょ?」


との話し声が、デッキにひしめく降車客から聞こえる。

急行「アルプス」が毎日運転で健在だった時代には、午前4時台の列車を走らせていた松本電鉄も、数えるほどの運転日の「ムーンライト信州」のために、接続列車を運転するのは難しいのだろう。


20年前に、夜行急行「ちくま」が入線した隣りの番線には、車内の照明を落とした特急「あずさ」用のE257系車両が朝を待っている。

20年間で、明らかに人の流れが変わったのだな、と思う。


僕が見た限り、利用者は決して少なくないように思えたのだが、この旅の翌年の平成30年の運転を最後に、「ムーンライト信州」は姿を消し、189系車両も廃車になったという。


夜行快速列車の元祖とも言うべき「ムーンライトえちご」は、平成21年に臨時列車へ格下げとなり、平成28年に運転されたのが最後だった。

全国各地を結んでいた夜行快速列車も、平成20年代に次々と姿を消し、平成21年に臨時列車となりながらも、最後まで残されていた「ムーンライトながら」は、令和2年の春の運転を最後に運休となった。


今となれば、僕は、かろうじて間に合ったのだな、と思う。


松本での停車中に、白々と夜が明けた。

急行「アルプス」よりも日の出が遅いように感じたのだが、見上げてみれば、空は分厚い雲に覆われている。

大糸線に入ってからも、瑞々しい田園の彼方に、飛騨山脈の山並みが現れることはなかった。


乗り心地の悪さよりも眠気の方が勝ったのだろう、大糸線の1時間は瞬く間に過ぎた。


『御乗車ありがとうございました。終点の白馬、白馬です。お出口は左側です。お乗り換えの御案内を致します。普通列車の南小谷行きは2番線から、6時56分です。各種車内マナー、車内改札への御協力ありがとうございました。車内にお忘れ物のないようお気をつけ下さい』



「ムーンライト信州」は、定時の5時40分きっかりに、白馬駅へ滑り込んだ。


この駅へ降りたのは、初めてである。

ホームで周囲を見回すと、緑の田圃が広がるばかりの長閑な駅だったが、改札を出れば、駅前広場は広々として山小屋風の食堂や土産物店が軒を並べ、八方口や栂池方面への路線バスが客を乗せている。

多客期に、登山客やスキー客が駅前を埋め尽くす光景が目に浮かぶようである。



白馬村の村名は、飛騨山脈の白馬岳に由来するのだが、山の名は「しろうま」、村名や駅名は「はくば」である。


駅名が「しろうま」でないことが気に入らない、と書いていた旅行作家の文を目にしたことがある。

そこまで拘ることだろうか、と苦笑してしまうけれども、田植えの季節になると白馬岳の山頂近くに現れる雪渓が馬の形をしていたことから、農耕用の「代掻き馬」に見立てて「代馬岳」と称され、「白馬岳」に変化したというのが、一般に流布している通説で、「はくば」と音読されるようになった推移は明らかではない。


それどころか、明治13年に刊行された「信濃圀地誌畧字引」では「白馬」に「ハクバ」のルビが振られており、白馬岳開山の父と呼ばれた松澤貞逸氏が明治期に建てた白馬山荘も「ハクバサンソウ」、白馬村で最も古い村立小学校の校歌は「高くそびゆるハクバサン」と歌われているという。

「残雪白駒の蒼穹を奔騰するが如し」と、明治期の登山家である志村烏嶺が記したように、


「昔の人は黒くて小さな雪渓より、山をもっと大きく見ていたと思うんですよね」

「地元の山関係者の間では昔から『ハクバダケ』と呼んできた歴史があり、少なくとも私たちは『シロウマ』だとは思っていません」


と、地元の案内人組合の人も言い切っている。



僕は、白馬駅から、長野市の実家に帰らなければならない。


ところが、大糸線沿線と県都長野市の間の行き来は誠に不便で、鉄道ならば松本を回らねばならず、直通列車は運転されていない。

川中島自動車(現アルピコ交通)の路線バスだけが、両地を直結する公共交通機関だったが、この路線は、大正5年に小川村の高府自動車商会が運行を開始した長野と高府を結ぶ路線に端を発する。



その後、国道19号線と県道31号長野大町線を経由して、長野から高府経由で大町を結ぶ路線バスが走り始め、僕も、昭和の終わり頃に1度利用したことがある。


国道19号線を犀川に沿って筑摩山地に分け入り、崖っぷちにある七二会の集落の先で県道31号線に入って、ひたすら奥深い山中を縫っていく道筋は、途中、小川村の東隣りの中条村に母の実家があるので、こよなく懐かしかった。

ただし、九十九折りの山道であるから、途中の高府で乗り換えて、大町まで2時間近くを費やした記憶がある。



長野冬季五輪を目前にした平成7年に、県道31号線の南寄りに白馬長野有料道路が開通し、県道31号線と県道33号線美麻白馬線も改修工事が施されて「オリンピック道路」と呼ばれた。


平成9年の長野新幹線の開業と同時に、「オリンピック道路」を使って、長野駅と白馬、大町を結ぶ特急バスの運行が開始されたのである。

それまで、東京から白馬や大町へは中央東線と大糸線を利用するのが主流であったが、新幹線と特急バスを乗り継ぐと東京から3時間以内に短縮されたので、大糸線沿線の流動は一変したと聞く。

長野駅が、松本と並ぶ飛騨山脈の玄関になったのである。



今回は、その特急バスに乗ってみたいと思っている。

上りの始発便は、白馬駅前を6時35分の発車である。

早々と店を開いていた駅前の食堂で蕎麦を啜れば、ちょうど良い頃合いであった。


起点の白馬八方バスターミナルを6時30分に発って来た長野駅東口行きの特急バスは、白地に虹のような斜線を纏い、「Highland Express」のロゴが描かれたハイデッカー車両であった。


定刻に走り始めた特急バスの車内で、何となく夢見心地になった。

「ムーンライト信州」より狭いけれども、座り心地は、遥かにこちらの方がしっくりする。

このように立派なバスで白馬から長野まで行けるとは、往年の古びた路線バスと比べれば、隔世の感がある。



十数人の乗客を乗せた特急バスは、姫川の西岸に沿う国道148号線・糸魚川街道を南に進むと、側道に逸れて、立体交差の県道33号美麻白馬線に入り、少しずつ国道から東に離れながら、南の美麻村へ向かう。


いつしか雲が晴れて、白馬連峰が流麗な姿を現した。

陽の光に照らされた田園の青さが、目に染みる。


美麻で県道31号長野大町線に合流して、特急バスは、ようやく本格的に東方の長野を目指す。

平成19年に大町市と合併しているが、旧美麻村の地名の由来となった麻作りは、質の良さが全国的に知られ、美麻で作られた麻糸は講道館の柔道畳の表に経糸として使われていたという。

高原の趣のある穏やかな地形に見えるが、ここは既に姫川の流域ではなく、犀川の支流の土尻川の上流にあたる。


県道31号線は、白馬から20kmほど南にある大町と長野を結ぶ街道であるから、白馬と長野を結ぶ直線上から、かなり南へ迂回したことになる。



白馬と長野を結ぶ道路は、他にも存在する。

国道406号線である。


地図の上では、白馬駅のすぐ北で国道148号線を東に分岐し、長野へ短絡しているように見えるが、よく見れば羊腸の如く曲がりくねり、しかも白馬から鬼無里まで南に大きくU字を描いて迂回しているので、白馬駅から長野駅まで45km、県道33号線・31号線と国道19号線経由で42kmであるから、却って長くなっている。



僕が小学校低学年の頃、家族で黒部ダムへ日帰りでドライブした時に、運転する父は、なぜか往路に国道406号線を選んだ。


僕が通う小学校が国道406号線沿いにあったので、初っ端こそ馴染みの道行きであったが、市街地を抜けると、いきなり裾花川の切り立った崖っぷちの道路に豹変して、目も眩む思いがした。

進めば進むほど道路は狭隘になり、そのうちにセンターラインもなくなって、すれ違いに苦労するような有り様になったので、幼かった僕は怖くて泣き出してしまい、


「泣くな、何を泣くことがあるんだ」


と、父に一喝されたことが、今でも忘れられない。


ハンドルを握る父も、内心は冷や汗ものだったのではないだろうか、と今にして思う。



国道406号線の印象は、恐ろしい道路だった、と幼心に刻まれただけで、後は何にも覚えていないのだが、最近、自分でハンドルを握り、長野から白馬へ抜けてみた。


市街地を抜けたばかりの、僕の心を寒からしめた絶壁の上の道路は、驚いたことに、崖から飛び出した橋梁で迂回し、張り出した尾根をトンネルでくぐる新しい道路に生まれ変わっていた。

北陸自動車道が、親不知の難所を海上に架けた橋梁で迂回しているのと同様の荒技である。

橋のたもとで右に分岐して行き止まりになっている旧道に気づけば、このように貧弱な道路を走っていた昔が夢のようである。


ところが、その先は、九十九折りの坂道も、見通しが悪くて離合が困難な隘路も、往時と全く変わりがなく、時代から取り残されているかのようだった。

それでも、この程度の道に恐怖を感じたのか、と苦笑したくなったのは、僕も大人になったということだろう。


裾花ダムの先では、奥まっていく裾花峡の美しさに心を打たれた。

戸隠へ向かう県道を分岐し、鄙びた鬼無里の集落を過ぎて、白沢洞門をくぐり抜けた先で、白馬連峰を一望の下に見晴るかす峠の眺望の見事さには、言葉を失った。

正面の白馬岳には、駆ける白駒の姿がくっきりと浮かび上がっていた。


父は、この車窓を僕らに見せたかったのだな、と思った。



地形図を見ると、国道406号線の鬼無里と白馬の間における南への大回りは、妙高・戸隠連峰の西に連なる標高2000m級の尾根筋を避けていることが分かる。


古来、白馬村では、姫川が刻む峡谷の西に連なる飛騨山脈を西山と呼び、対比する東の山並みを東山と呼んでいたという。

東山連山の最高峰は標高1926mの堂津岳で、東山も1849mの固有の山として存在するが、見上げれば、隣りの黒鼻山と並んで白馬連峰に劣らない立派な山嶺である。


東山連山には、北から奉納峠、柄山峠、柳沢峠、夫婦岩越峠が、塩の道の脇往還として東西を結び、特に柄山峠は白馬の人々にとって善光寺参りの主要街道で、十三曲がりと呼ばれる険しい峠越えであったと伝えられている。

現在は、土砂崩れや草木の繁殖によって荒れ果ててしまい、国道406号線は、夫婦岩よりも更に南を回ることになったのである。


国道を名乗りながらも、そのような悪路であるから、国道406号線が長野と白馬を結ぶ主流になるはずもなく、長野からの路線バスも、県道経由戸隠行きと鬼無里行きが通うだけであった。


ところが、この国道406号線の道行きが、長野と白馬を結ぶメイン・ルートになったかもしれない歴史がある。



善光寺白馬電鉄、という会社がある。

今も長野市に本社を置く運送会社であるが、社名が示すように、かつては鉄道事業者であり、昭和11年から昭和19年まで、長野と白馬を結ぶ構想の鉄道を運営していたのである。


大正期に長野商工会議所が計画した鬼無里鉄道が元祖とされているが、第一次世界大戦後の不況により実現しなかった。

昭和初期に免許を申請したものの、鉄道省がなかなか認可せず、諏訪出身の鉄道大臣が赴任して、やっと認可が下りたという。



昭和初期の不況下での建設となったため、電化の計画をガソリンカーに変更し、昭和11年に南長野-善光寺温泉東口間が開業、昭和17年12月に裾花口まで延伸され、更に信濃四ツ谷駅(後の白馬駅)まで建設が予定されていたものの、資金難と、峻険な山岳地帯を控えていたことで、それ以上の工事は進まなかった。

太平洋戦争下の企業整備による国からの休止命令を受けて、昭和19年1月に運転を取り止め、レール等の資材は蘭領インドシナのセレベス島に送られたと言われている。


終戦後に、長野市や白馬村など関係自治体による復活運動が行われ、民間による建設は困難として、信越本線三才駅から戸隠、鬼無里を経て白馬に向かう「信越西線」の建設を国鉄に請願したが、財政悪化を理由に採用されなかった。

一方、長野県企業局による裾花ダムの建設が決定し、裾花口駅付近の路盤やトンネルが水没することになったため、昭和44年に正式に廃線となったのである。



長野駅の南、国道18号線と19号線が交差する中御所付近に設置された南長野駅から、裾花川の東岸沿いに北上し、市街地を外れると、裾花川を西岸、東岸と渡りながら茂菅、善光寺温泉を経て、鬼無里、白馬を目指した鉄道は、僅か8年という短い運転でありながら、「善白鉄道」と呼ばれて親しまれた。


僕の実家も裾花川東岸に建つ県庁の近くにあり、善白鉄道沿線と言って良い。

実家の南にある山王小学校では、グラウンドと裾花川を隔てる小高い盛り土があって、これは何だろう、と子供の頃から不思議であった。

県庁の上流、中部電力里島水力発電所の近くは、小学校の頃に川遊びや釣りに出掛けた馴染みの場所で、険しい山腹を行く国道406号線を正面に見上げる、峡谷の入口のような地形だったが、ここに、古びた橋脚がせせらぎに洗われて残されていた。


前者は山王駅跡、後者は第一裾花鉄橋の跡で、どちらも善白鉄道の遺構と知ったのは、かなり後のことである。



後に、善白鉄道の写真を見て、近所にあった謎の構造物に線路が敷かれ、列車が走っている姿に、時を越えたような気分になった。

僕が生まれる遥か前に消滅した鉄道であるけれども、善白鉄道は、とても身近な鉄路であった。


運転休止から半世紀が経過し、経路は違えども、颯爽と「オリンピック道路」を快走する特急バスは、善白鉄道の申し子のように思えてならない。

長野五輪の際に善白鉄道が健在だったら、活躍しただろうな、と夢想したくなる。



県道33号線も、美麻で合流した県道31号線も、山々に囲まれた田園の中を走る気持ちの良い道路だった。


黒部ダムへの家族旅行でも、帰路は県道31号線を使ったのだが、怖い思いをした記憶はなく、中条村の母の実家に立ち寄って、すき焼きを囲んだ楽しい思い出が残っている。


路線バスで通った時は、これほど広い道ではなかったから、長野冬季五輪の効果は絶大だと感心する。

これほど立派な道路を造れるのだから、どうして、善白鉄道はこちらに線路を敷かなかったのだろう、と思う。

20世紀最後の冬の祭典が終わって既に20年が過ぎ、強者どもが夢の跡ではないけれど、行き交う車は少ない。



白馬長野有料道路は、中条村の中心部を避けて、犀川の支流の土尻川の南岸を走るので、左手に、母の実家をはじめとする懐かしい家並みを眺める視点が面白かった。

土尻川は、母の実家のすぐ裏手に河原があり、幼い頃は、従姉妹たちと水遊びに興じたものだった。


県道31号線の旧道は、大安寺と七二会の集落の間にある、犀川に面した丘の上で国道19号線と合流するが、白馬長野有料道路は、2kmほど南の信更町で国道19号線に突き当たる。

そこからは、たっぷりと水を湛えた犀川と絡み合いながら東へ向かう、子供の頃から何度も行き来した馴染みの道行きだった。



特急バスの走りはいよいよ滑らかで、7時50分着の長野駅東口には、予定通りに着きそうである。


大安寺橋、明治橋、両郡橋といった犀川を渡る橋梁も、市街地の入口にある小田切ダムの手前の犬戻トンネルも、全て新しく造り替えられていて、昔の面影は殆んど残されていなかった。

悠然と流れ行く川面だけが、今も昔も変わることのない故郷の山影を映して、深い緑色に染まっていた。



ブログランキング・にほんブログ村へ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>