一夜を、バスの中で過ごしたくなった。
行かなければならない場所も、片付けなければならない用事も、何にもないけれども、夜行バスに乗りたくなったのである。
21世紀が始まったばかりの平成13年のことだったと思うのだが、季節も日時も忘却の彼方である。
はっきりとしているのは、土曜日の朝、仕事に出掛ける直前に、今夜は夜行高速バスに乗りに行きたい、と恋い焦がれるような気持ちになったことである。
『金曜日の朝、眼が覚めたとき、きょうはどこかへでかけそうな予感がした』
紀行作家の宮脇俊三氏は、処女作「時刻表2万キロ」の第6章「左沢線・長井線・赤谷線・魚沼線」を、このように書き出している。
『上野から北の方へ向かいたい気がするので、鞄に時刻表とその方面の地図、洗面道具などを詰めて家を出た。
地図帳をいろいろ入れたので鞄が重い。
私の鉄道旅行はスケジュールが決まりすぎていて味気ないように思われるだろう。
たしかに、時刻表をたよりに暮夜いろいろ検討した結果を実行するのだから、列車事故でもないかぎり身動きならぬ計画となるのだが、それは方面別の計画内容であって、どの方面の計画をいつ実行するかは、恣意的なものである』
宮脇氏の文はこのように続くのだが、当時の宮脇氏は、国鉄全線を乗り潰すという命題を御自身に課して汽車旅をしている。
僕は、昭和の終わり頃に高速バスに取り憑かれて以来、数多くの路線に乗ってきたが、同じく手間暇をかけて乗るのならば、未乗の路線を選びたい、という一種の収集癖があり、国鉄全線完乗を目指し、乗車済みの線区を白地図に書き込んでいたという宮脇氏と似ているのかもしれない。
僕は、宮脇氏が国鉄全線完乗を達成した足尾線間藤駅を訪れて、展示物に眼を通したことがある。
宮脇氏の行為が偉業であることに異論はないけれども、僕の趣味でそのような日は来ないのだろうな、と、どこか他人事のように感じたことを覚えている。
高速バスの路線数は膨大で、例えば、首都圏と関西圏の間で同じ道路を行き来するのが数十本に及び、東海道本線に乗車すれば済ませられる鉄道趣味とは、自ずと性質が異なる。
「夜行バスだけならば全線完乗も可能ですよ」
と豪語した同趣味の御仁も知っているけれど、もとより、我が国の高速バス路線の全線制覇などは、端っから諦めている。
一時期、東京から全ての道府県庁所在地に高速バスだけで行ってみる、という目標を掲げたこともあったが、こちらは、福岡発の高速バス「フェニックス」号夜行便で訪れた宮崎県を最後に、呆気なく達成されてしまった(「九州高速バス大リレー~ひのくに号・フェニックス号・はまゆう号~」 )。
人が目標を立てるのは、やり遂げるためだろうと思う。
ところが、いざ達成してしまうと、それはそれで、なかなか厄介なようである。
『まもなく来るべきものが来た。
相変わらず時刻表は開いていたが、どうにも張り合いがないのである。
眺めるだけで、かつてのあの読み耽る力が出てこないのである』
『時刻表がつまらなくなっては、これは由々しいことである。
なにしろ、私は40年余にわたって時刻表を愛読してきた。
昼間気に障ることがあっても、夜、時刻表を開けば気が晴れさえしたのである。
それが、なまじ国鉄全線完乗などという愚かな行為に及んだがために、かえって大切な元手を失ったのかもしれない。
とにかく何かが終り、何かを失ったことはたしかなようであった。
それは全線完乗でも時刻表でもない、もっと大きなものであったようにも思われた。
よく、停年で現職を退いたり、ひとり娘を嫁にやったりすると俄かに老け込む人がいるが、その気持ちが理解できるような気がした』
『足尾線を最後に、私はどこへも行かなくなった。
時刻表の新刊を買い忘れた月さえあり、庭につくったわずかばかりの菜園の手入れに精を出していた』
と、国鉄全線完乗を果たし終えた時の心境を、宮脇氏はこのように振り返っている。
もともと目標が矮小であったためなのか、全ての都道府県にバスで足跡を印しても、宮脇氏のような虚脱状態には陥らず、その後も高速バス旅への情熱が持続しているのは、幸いである。
目標もないのに、何のために高速バスに乗るのか、と言われれば、言葉に詰まる。
強いて言うならば、高速バスに乗っている時間に幸せを感じるから、と答えるしかないし、こうしている間にも、夜行高速バスの座席に収まって、まったりしている自分の姿が心に浮かんでくる。
映画を観たり、プラモデルを作ったり、ショッピングに興じたり、盆栽をいじったりする、世間一般で認められている余暇の過ごし方と、何の遜色もないと思っている。
それならば、同じ路線に繰り返し乗車したって構わないはずではないか、と反論されれば、人間の心理とはそのように単純ではないのです、と言葉を濁すしかない。
僕の旅立ちは、時刻表を開いて、未乗の高速バス路線を探し出すことから始まる。
恵まれているのは、新路線の開業が少なくない時代に高速バスファンになったことだろう。
宮脇氏も、国鉄全線完乗後に開業し、救われたように乗りに出掛けた気仙沼線の章で、「時刻表2万キロ」の筆を置いている。
仕事に出掛けるまでに、行先を決め切れなかったので、旅支度だけ整えて自宅を出た。
宮脇氏も、駅の「みどりの窓口」で係員と向かい合ってもなお、行先を定められなかったようで、乗りたい列車を次々と申し出て、どれも満席と断られた挙げ句に、
「お客さん、いったいどこへ行きたいの」
と呆れられる始末であったが、僕は、昼過ぎに仕事を終えて、最寄りの旅行代理店に立ち寄るまでに、何とか候補を絞ることができた。
購入した高速バスの乗車券を懐にしまって、午後の東海道新幹線に飛び乗り、新大阪駅で在来線に乗り換え、大阪駅桜橋口の高速バスターミナルに歩を運ぶと、今にも泣き出しそうな曇り空だった。
ちょうど夕刻のラッシュの時間帯を迎えていて、各地に向けて大阪を後にする人々を満載したバスが、次々と発車していく。
明石海峡大橋を渡る高松行き、名神高速道路を上る名古屋行き、阪和自動車道に向かう南紀白浜行き、山陽自動車道を下る広島行き、中国自動車道経由の津山行きなどなど、大阪駅を発着する路線もあちこちに出向くようになったものだ、と感心する。
バスに乗るのも楽しいけれど、このような発車の光景を目にするだけで心が浮き立つ。
僕が手にしている乗車券は、大阪駅を17時50分に発車する岡山・倉敷・総社行き「吉備エクスプレス」号である。
夜行高速バスに乗るのではなかったのか、と思われるだろうが、これは前座である。
今夜、狙いを定めている夜行高速バスは、岡山発だった。
新大阪まで乗ってきた「のぞみ」は博多行きであったから、そのまま岡山まで足を伸ばしても良かったのだけれど、大阪から岡山まで未乗の高速バス路線が存在し、利用する時間の余裕が作れたのだから、乗らない訳にはいかない。
大阪から岡山へ向かう高速バスには、10年ほど前に乗車したことがあった。
平成元年12月に、南海電鉄バスと両備バスの共同運行による「堺・なんば-岡山・倉敷線」と、阪急バスと下津井電鉄バスの共同運行による「梅田-岡山・倉敷線」が、どちらも1日2往復ずつで運行を開始したのである。
僕が、その2路線を往復で利用したのは、平成4年2月のことだった(「大阪-岡山・倉敷間高速バスの光と影~山陽道がなかった時代の贅沢なバスの旅~」)。
当時は山陽自動車道が未完成の時代で、中国道から播但連絡自動車道で姫路に出て、国道2号線バイパス、部分開通の山陽道、そして東備西播有料道路「ブルーハイウェイ」を使って岡山に向かう、非常に煩雑な経路であった。
現在ならば体験できないような見知らぬ土地を通ったので、車窓は変化に富んで面白かったけれども、岡山まで3時間半、倉敷まで4時間以上を費やした。
これでは利用者が根づかないかもしれない、と心配になったものだった。
案の定、僕が乗車した1週間後に、梅田発着の路線が運行を休止してしまう。
堺・難波発着路線も、南海バスが運行から手を引き、両備バスによる「リョービエクスプレス」号だけが孤軍奮闘していたのだが、同年6月に3往復、平成12年4月に5往復へと増便する積極策を打ち出していた。
同じ年の8月に、中国JRバスが大阪駅と岡山・倉敷を結ぶ「吉備エクスプレス」号を1日4往復で登場させたのである。
背景としては、平成9年12月に山陽道が全線開通したことが挙げられるだろうが、新幹線で1時間もかからない区間を3時間も要し、他社がいったん諦めた路線に手を染めるとは、少々意外だった。
時代が変わりつつあるのかもしれない、と感じた。
ただ、「吉備エクスプレス」号が、そこに商機を見出したのは確かである。
そのおかげで、僕は大阪から岡山までのバス旅を再び楽しむことが出来るのだから、「吉備エクスプレス」号には感謝である。
17時50分に「吉備エクスプレス」号が大阪駅を後にした頃は、深い黄昏が大阪の街並みに漂っていた。
梅田ランプから阪神高速11号池田線に乗り、伊丹空港の灯の瞬きを左手に見下ろしながら、池田ICで中国道に入ると、バスの走りがビシッと安定した。
神戸JCTで山陽道に乗り換える六甲山地の北麓は、少しばかり山深く感じられたけれども、その先の中国山地は、特に際立った地形の変化がある訳でもなく、車窓にこれと言った見所もない。
忙しく身を乗り出して車窓に見入る必要もないから、まったりするには良い道筋である。
車内は静まり返って、エンジン音が低く聞こえるだけで、居眠りをする乗客も多く、気分はもう夜行バスと変わらない。
前座などと言って悪かったな、と思う。
無為に過ごしているだけで、「吉備エクスプレス」号は、僕を岡山の地へ運んでくれる。
暮れなずむにつれて、窓外を過ぎ去る景観も、だんだんぼやけて来るから、退屈なだけである。
車中における、この退屈さを味わいたくて、僕は旅に出てきたのである。
座席に収まっているだけなら、所要1時間の新幹線の方がマシ、という理屈が、僕には理解できない。
そのような考えの人は、目的地に、飛びっ切り面白いことが待ち受けているのかな、と思ったりする。
僕は乗り物の車中が面白いのだから、早く終わらせる理由は何処にもない。
でも、何が面白いのだろう、と突き詰めても、自分でも判然としない。
龍野西SAで短い休憩時間がとられる頃、あたりはすっかり暗くなっていた。
山あいに開かれた、清涼な雰囲気の場所だった。
空を見上げながら思いっ切り深呼吸すれば、昼まで東京にいたことが嘘のように感じられる。
「ここはどこ?」
「タツノ、とかって言ってたやん」
「そやから、どこやねん。岡山に入ってんの?」
「知らんわ」
と、バスを降りた2人連れの若い女性が話し込んでいる。
静かな車内では遠慮していたのか、ここぞとばかりに会話に精を出しているように見受けられる。
「吉備エクスプレス」号は、女性客が多かった。
女性が身を乗り出すような商品は売れる、と聞いたことがある。
新しい時代を導くのは、いつの世も女性なのかもしれない、と思う。
このあたりは兵庫県の西部に位置する龍野市域であるが、市内の駅名は「竜野駅」「本竜野駅」であり、元々は「龍野駅」「本龍野駅」であったところを、国鉄が昭和29年に書き換えてしまったらしい。
龍野市は、武家屋敷や白壁の土蔵など、城下町の面影を色濃く残していると聞くが、平成17年に龍野市、新宮町、揖保川町、御津町が合併すると「たつの市」と平仮名表記になっている。
初期の大阪-岡山・倉敷線は、播但連絡道を出てから、国道2号線姫路バイパス、太子龍野バイパス、そして国道2号線本線と、龍野西ICで部分開通の山陽道に入るまで、目が回るような複雑な経路をたどり、龍野市内で渋滞に引っ掛かったり、もどかしい思いをした記憶がある。
今や、1本の高速道路で呆気なく着いてしまうのだから、進歩したものだと思う。
以前より30分も所要時間を短縮したためなのか、僕が乗車した「吉備エクスプレス」号は、満席に近い盛況だった。
よく、当日の購入で乗車券が手に入ったものである。
大阪-岡山間が3時間という所要時間は、新幹線の半額という安い運賃と相まって、大多数の利用客にとって許容範囲内と受け止められたのか、大阪と岡山を結ぶ高速バスは大きく躍進する。
平成13年に「リョービエクスプレス」号は6往復に、平成14年には9往復、平成15年には16往復に増便され、「吉備エクスプレス」号も西日本JRバスが参入して8往復に増便する。
平成18年には、下津井電鉄バスが「大阪梅田エクスプレス」号と銘打って1日7往復の高速バスを復活させ、「リョービエクスプレス」号は20往復に増え、平成20年に「大阪梅田エクスプレス」号が8往復になったことで、大阪と岡山の間は、3路線36往復の高速バスが競演する一大市場となったのである。
「リョービエクスプレス」号は宇野、「吉備エクスプレス」号は総社、そして「大阪梅田エクスプレス」号は水島と、岡山と倉敷以外の経由地も豊富であったが、利用客の大半は大阪と岡山の間の行き来に限られていたようである。
平成21年に「リョービエクスプレス」号と「吉備エクスプレス」号が共同運行となり、大阪駅と難波以外の乗降停留所や予約方式を統一すると同時に、「吉備エクスプレス」号は倉敷と総社への乗り入れを取り止めて、全便が岡山止まりになった。
「大阪梅田エクスプレス」号は、平成23年に1日10往復に増便されたものの、その後減便を重ねて翌年に廃止され、下津井電鉄バスは「吉備エクスプレス」号に参入している。
龍野西SAで一息ついている「吉備エクスプレス」号は、まだ吉備国にも足を踏み入れていないのだが、僕は、大阪と岡山を結ぶ高速バスの愛称に使われている「吉備」と「両備」の区別がついていない。
調べてみると、吉備国は、現在の岡山県全域と広島県東部、兵庫県西部の赤穂まで跨がる広大な地域の総称で、かつては大和、筑紫、出雲などと並ぶ我が国の古代四大王権の1つであったと言う。
7世紀に備前・備中・備後国に分割され、「リョービエクスプレス」号を運行する両備バスは、岡山市を中心とする備前国と、倉敷市、総社市を中心とする備中国に跨がる営業エリアを、社名に反映したのであろう。
備後国は福山を中心とする広島県東部地域を含むので、「吉備エクスプレス」号は、少しばかり範囲を広げ過ぎた愛称と言うことになる。
ちなみに、備後に向かう高速バスは、大阪と福山・府中・尾道を結ぶ「びんごライナー」号が、平成7年の阪神淡路大震災で不通になった新幹線代替輸送をきっかけに登場し、人気路線に成長しているが、僕は乗ったことがなく、時間が合えば今回の候補の1つだった。
数年前に、大阪と笠岡・井笠・神辺を結ぶ「カブトガニ」号に乗車したことがあり、こちらも楽しい旅であったことが思い出される(「カブトガニ号で消えた井笠鉄道を偲ぶ~旅の終わりにサンライズ出雲で285系初体験~」 )。
龍野西SAで、ガラガラに空いていた10年前の大阪-岡山・倉敷線を懐かしく思い出しながら、これほど混雑するバスに乗るはずではなかったのに、と車内に戻るのが億劫になったが、後に人気が出る萌芽があったのだろう。
龍野西SAから先も、朦朧と時が過ぎ行き、ほぼ定刻に岡山駅前に降り立つと、駅舎の明かりに目が眩むような気がした。
当時は倉敷、総社まで足を伸ばしていた「吉備エクスプレス」号を、岡山で乗り捨てるのは心残りがあった。
高速バス路線が通じていなければ訪れなかったであろう、未知の土地に行くことにも魅力を感じるので、「吉備エクスプレス」号が岡山止まりになった今となっては、殊更に残念でならない。
次に乗るのが、今回の旅の本命として選出した夜行高速バス「チボリ」号である。
この名古屋行きのバスは倉敷仕立てであるから、「吉備エクスプレス」号で倉敷まで行っても一向に構わないはずなのだが、僕が利用した「吉備エクスプレス」号は、岡山駅に20時38分着、倉敷駅が21時21分着、総社駅が21時40分着であった。
「チボリ」号は倉敷を21時30分発、岡山を22時10分発であるから、倉敷で乗り継ぐには10分しか余裕がなく、少しでも遅延したら台無しである。
つまり、時間切れで、渋々岡山に降りたと言うのが正解なのである。
それにしても、宮脇俊三氏が言われた「お客さん、いったいどこへ行きたいの」ではないけれど、旅行代理店で対応してくれた窓口の女性は、大阪から岡山までと、岡山から名古屋まで引き返す高速バスを、僅か1時間半程度の待ち合わせで、同じ日に乗り継ぐという2枚の乗車券を、よくぞ発行してくれたものと思う。
「日付はお間違えないんですよね」
と、念を押された記憶はあるけれども、この客は岡山まで何しに行くのだろう、と首を傾げたに違いないのである。
「チボリ」号に乗る前に、せっかく浮いた1時間半を使って夕飯を済ませなければならないけれど、岡山の名物は何であろうか。
高名なのは吉備団子やマスカットであろうが、夕食にはなりにくい。
夏目漱石に吉備団子を持ち帰ったという岡山出身の内田百閒は、御自身は「大手饅頭」が好物だと記しているものの、僕は見たことも食べたこともなく、夕食に饅頭とはあまりにも侘しい。
後の話であるが、岡山へ出張する機会があり、その時は職場への土産物で悩んだものだったが、夕刻に岡山に着いて夜行列車で折り返した旅程も含めて、今回の旅も同じだったのだなあ、と、今にして振り返れば懐かしい(『吉備団子を求めて~新幹線と寝台特急「サンライズ」で岡山を往復~』)。
晩餐をしたくて岡山まで来た訳ではないのだから、と自分に言い聞かせながら、駅ビルでありきたりの食事を済ませ、頃合いを見計らって乗り場に戻れば、程なく「チボリ」号が姿を現した。
「チボリ」号の運行距離は379.5km、所要9時間であるが、運転手さんは終始1人でハンドルを握ると聞いている。
距離に比して時間が長いのは、運転手さんの仮眠時間が加味されているものと推察するが、重労働に変わりはない。
お疲れ様、よろしく、と頭を下げて改札を受け、客室に整然と並ぶ横3列独立シートの一角に腰を下ろすと、すっかり気分まで落ち着いたのだから、僕はやっぱりバス好きなのだろう。
これこれ、この感覚に浸りたかったのだ、と嬉しくなる。
東京から700kmを旅してきた甲斐があったと思う。
「チボリ」号が開業したのは平成9年7月のことで、愛称は、デンマークにある「チボリ公園」を模した「倉敷チボリ公園」を由来にしている。
「Tivoli」とは、ローマの郊外にある貴族の別荘が多い保養地であるが、デンマークの公園の名前に採り上げられた推移はよく分からない。
童話作家のアンデルセンが、チボリ公園に足繁く通って創作の構想を練ったり、ウォルト・ディズニーがディズニーランドの参考にしたという逸話が残されている。
「倉敷チボリ公園」もアンデルセンの童話世界をモチーフにしたと言われているが、観客数が低迷して平成20年に閉園し、夜行高速バス「チボリ」号も「リョービエクスプレス名古屋」号に改名されることになる。
ほぼ満席になった「チボリ」号は、時刻表通りの22時10分に発車した。
家々の灯が疎らになった岡山市内を走り抜け、岡山ICから山陽道に乗れば、車内は程なく消灯して、深い闇が僕の身体を包み込んだ。
「チボリ」の名から、アンデルセンの「人魚姫」「マッチ売りの少女」などを読み耽った幼い頃の記憶が、甘酸っぱさとほろ苦さを伴って、脳裏に蘇ってくる。
悲恋の人魚や貧しい少女が、天に召されることで幸せを得るという結末は、子供心にも、切ない後味を残した。
「吉備エクスプレス」号や「チボリ」号で過ごした週末のひとときも、少女が擦ったマッチの火に浮かび上がった幻と似ている。
旅を終えれば、焔が燃え尽きて現実に戻るだけである。
それでも、マッチの火を見つめている瞬間、少女は幸せだったのではないか。
乗り物に乗らなければ心が満たされない、僕のような人間であっても、心を癒す手段があるということは、幸せなのだと思う。
ならば、今宵の「チボリ」号の道中を、とことん楽しもう。
東京に帰って、煮詰まったら、2本目のマッチを擦るように、また旅に出れば良い。
闇を突いて山陽道をひた走る「チボリ」号の座席に身を任せながら、僕はすっかり安心して、眠りに落ちたのである。
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