蒼き山なみを越えて 第37章 平成7年 特急「白山」 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

金沢行き特急「白山」は、定刻8時30分に上野駅16番線を発車した。

 

転轍機をガチャガチャと鳴らしながら進路を見定め、ようやく速度を上げた時には、左手に鴬谷駅のホームが見え始めていた。

高架で1番線から12番線、地平の頭端式ホームが13番線から16番線まで、広大な敷地を抱く巨大駅の最も東寄りのホームを発車して、西から5本目の東北本線の下り線を走るのだから、本調子になるまで前奏部分が長いのはやむを得ない。

鶯谷駅と「白山」の間に割り込むように、地下から出てきた東北新幹線の線路が更に持ち上がって、窓には高架の柱しか映らなくなる。

 

 

僕が最も頻回に利用した長距離列車は、上野駅から故郷の長野駅へ向かう特急「あさま」だと思うのだが、同じく巨大ターミナルである東京駅や新宿駅を発つ特急列車とは、ひと味異なる独特の滑り出しだった。

沿線には、上野公園や谷中の墓地、飛鳥山など桜の名所が少なくないが、まだ開花には程遠い、平成7年3月18日土曜日の朝である。

心地よく律動的に線路の継ぎ目を刻む車輪の音色が、不意に轟々と高まれば、列車は荒川の鉄橋を渡り始め、日常を払い除けたような爽快感が込み上げてくる。

 

『お待たせを致しました。上野8時30分発、特別急行「白山」号金沢行きです。本日はJRを御利用下さいましてありがとうございます。御案内致します車掌は、私、JR西日本金沢車掌区の〇〇、△△、□□、◇◇の4名が、終点金沢まで乗務致しますので、よろしくお願いします』

 

車掌の案内放送が始まった。

 

『列車は9両で運転しています。後ろの方から1号車、2号車、3号車の順で、先頭は9号車です。後ろ1号車から7号車までが指定席、そのうち4号車がグリーン車です。4号車はグリーン車の指定席、自由席の方は前の8号車と9号車、前2両です。後ろの1号車と先頭9号車は禁煙車です。後ろの1号車から4号車、先頭の9号車は禁煙車になっておりますので、禁煙に御協力下さい。6号車にはラウンジがございます。食堂車はございません。車内での飲み物、雑貨品などの販売がございます。販売員は準備が終わり次第、車内にお伺い致します。お弁当の車内販売は、高崎から先の区間です。高崎までは、車内でお弁当の販売はございません。車掌室は、中程グリーン車の4号車、そして後ろ1号車です』

 

昔の白山は12両編成だったよなあ、とか、食堂車は繋がってないけれどもラウンジとはどのような造りなのか、後で行ってみよう、とか、高崎で積んでくるお弁当は「だるま弁当」なのかな、などと、聞きながら様々な想像が湧き上がって来る内容である。

 

 

『次の停車は、大宮です。大宮8時51分、深谷9時21分、高崎9時40分、横川10時ちょうど、軽井沢10時22分、中軽井沢10時22分、小諸10時41分、上田10時53分、戸倉11時03分、長野は11時18分。長野到着は11時18分でございます。長野を出ますと黒姫11時45分、妙高高原11時53分、新井12時11分、高田12時20分、直江津12時30分、直江津は12時30分です。直江津では列車の進行方向が変わりまして北陸線に入って参ります。直江津を出ますと、糸魚川13時02分、泊13時21分、黒部13時32分、魚津13時37分、滑川13時44分、富山は13時55分、富山13時55分の到着です。高岡14時07分、石動14時18分、津幡14時27分、終点金沢14時36分。終点金沢には午後2時36分の到着です』

 

金沢まで469.5km、25駅に停車して、6時間06分に及ぶ長い汽車旅に、改めて心が引き締まる。

大宮駅までの21分間で案内が終わるのか、と心配になるほどの停車駅数であり、「白山」も様変わりしたものだと思う。

僕が子供の頃には1日3往復が運転されていた「白山」の停車駅と比較したくなる。

上野を出ると、大宮、高崎、横川、軽井沢、小諸、戸倉、上田、長野、妙高高原、高田、直江津、糸魚川、魚津、富山、高岡、金沢の16駅に停車し、中には小諸や戸倉を通過する列車もあった。



ちなみに、急行時代の「白山」の停車駅は、上野、赤羽、大宮、熊谷、高崎、横川、軽井沢、小諸、上田、戸倉、長野、黒姫、田口(現・妙高高原)、新井、高田、直江津、糸魚川、泊、黒部、魚津、滑川、富山、高岡、石動、金沢となっていて、平成時代の特急「白山」と似通っている。

特急が増発されて急行が減っていく世の中で、特急の停車駅が急行並みに増やされるのは珍しいことではないが、それでいて、最盛期の特急「白山」の所要は6時間50分で、停車駅が多い平成の「白山」の方が50分も早いのだから、不思議な話である。

 

大正時代の772・773列車は倍以上の時間をかけていたのだから、50分程度の差に目くじらを立てるのも、さもしい話であるし、今回の僕の「白山」紀行は、時間の長短など問題ではない。

俗世間における用事の類いは全て片づけて来たし、「白山」に乗りたくて出掛けてきたのだから、なまじ楽しい時間を急いで終わらせるのは勿体ない、と思っている。


それにしても、かつて上野発の特急列車は上野と大宮の間を25分程度で走っていたのに、いつの間に4分も縮めたのだろう、と首を傾げた。

上野から大宮まで20分の新幹線に匹敵する速さではないか。


『時間の都合その他で乗車券、特急券まだお買い求めでないお客様、また、お手持ちの乗車券、特急券で変更などされるお客様、車掌まで早めにお知らせ下さい。時折り、車内で盗難事故が発生することがございますので、お手持ちの財布、お荷物、貴重品などにはくれぐれも御用心いただきますよう、お荷物の方は目の届くところに置き、財布や貴重品は必ず身体につけて御旅行下さい。また、各車のデッキに屑物入れが備えてございますので、弁当の食べ殻、その他屑物が出ましたら、デッキの屑物入れにお入れいただきますよう、車内の美化にも御協力お願いします。今日は御乗車いただきありがとうございます。特別急行「白山」号金沢行きです。次は大宮に停車します』

 

車掌の案内が無事に終了し、大宮を出て高崎線に入ると、背の高い建物が減り、住宅ばかりが途切れることなく沿線に連なっている。

平行する関越自動車道ならば、練馬ICを過ぎると程なく田園が左右に広がるが、高崎線の沿線はいつまでも街並みが途切れない。

特急「あさま」で故郷と東京を行き来した時も、欠伸が連発する区間であった。

熊谷を過ぎると、長閑な田畑が目立つものの、だからといって面白味が増す訳ではない。

 

 

上野と金沢を信越本線経由で結ぶ直通列車の歴史は、大正11年に運転を開始した夜行急行772・773列車に遡る。

当時の所要時間は、下り列車が13時間25分、上りが13時間45分であった。

昭和14年に信越本線と北陸本線回りの上野-大阪間急行601・602列車が運転を開始したが、太平洋戦争中の昭和18年に772・773列車が、昭和19年には601・60列車も廃止されている。

 

終戦後、上野発着北陸方面の列車はなかなか復活せず、昭和23年から運転されていた上野-直江津間の昼行準急列車を、昭和29年に急行に格上げして金沢まで延伸し、「白山」と命名したのが最初であった。

昭和34年には上野-金沢間に夜行の臨時急行「黒部」が加わり、2年後に定期化される。


昭和36年に、上野から信越本線・北陸本線経由で大阪まで足を伸ばす特急「白鳥」が、キハ82系特急用気動車を用いて運転を開始した。

「白鳥」は、僕の故郷信州を通る初めての特急列車であったが、昭和40年に「白鳥」は上野-金沢間「はくたか」と大阪-金沢間「雷鳥」の2つに分割され、「白鳥」の名は併結されていた青森-大阪編成が受け継ぐことになる。

同年に、上野と福井を結ぶ夜行急行「越前」が運転を開始し、昭和44年に特急「はくたか」は電車化されて上越線経由に変更された。

 

 

昭和47年に急行「白山」が特急に格上げされて、3年間途絶えていた信越本線経由の上野-北陸間直通特急列車が復活し、同じ年に2往復、昭和48年に3往復へと増発されている。

1日3往復が運転されていたこの時代が、特急「白山」の絶頂期であった。

羽田-小松間の航空路線が存在していたとは言え、半世紀前は東京と北陸の間は6時間が当たり前という時代があったのである。


昭和57年の上越新幹線開業と昭和60年の上野駅延伸に伴い、長岡駅で上越新幹線から特急列車に乗り換える方法が主流となって、「白山」は2往復に減らされ、平成4年に1往復になる。

平成5年には夜行急行「越前」が廃止され、代わりに、「白山」に使われている特急用車両を間合い運用する夜行急行「能登」が、上野-金沢間で運転を開始した。

 

首都圏と北陸を結ぶ直通特急として、輝かしい歴史を歩んできた「白山」であったが、僕が上野から「白山」で旅立った平成7年は、平成10年2月開催の長野冬季五輪を見据えた長野新幹線の工事が、佳境を迎えた時期だった。

長野新幹線の正式名称は北陸新幹線で、昭和48年に公布された全国新幹線鉄道整備法に基づいて建設される初めての「整備新幹線」であり、並行在来線がJRから分離されることが前提となっていた。

長野新幹線の開業が平成9年と定められ、信越本線の長野県内区間の第三セクター化と、横川と軽井沢の間の碓氷峠区間の廃止が囁かれるようになったのが、この頃だったように記憶している。

特急「白山」も、半世紀に及ぶ歴史の幕を閉じるのだろう、と予想された。

 


平成7年は、終戦後50年という区切りの年であったが、何よりも、この旅の2ヶ月前に発生した阪神・淡路大震災の混乱が収まらず、世情が騒然としていた。

この年の1月17日午前5時46分、M7.2、最大震度7という巨大地震が、阪神地域と淡路島を襲ったのである。
眠っていた街は、僅か10秒の揺れにより、一瞬のうちに壊滅した。
近代建築物はもろくも崩れ落ち、火災が家々をなめ尽くして、6000名もの尊い生命が犠牲になったのである。


震源地に近い兵庫県南部は様々な幹線交通機関が集中しているため、震災によって、日本の東西交通は長期に渡って完全に遮断された。
高架橋が崩落した山陽新幹線をはじめとするJRや私鉄の鉄道網、高速道路や幹線国道が軒並み不通となり、関西国際空港が連絡橋の不通で一時孤立化、神戸港も埠頭が沈下して港湾施設が破壊されるなど、阪神地域の交通網はずたずたになってしまった。

太平洋ベルト地帯を貫く大動脈が麻痺したことで、京阪神のみならず、日本の経済・流通機能は危機に直面した。
残された幹線交通機関である航空機に旅客が殺到し、多数の臨時便を運航しても、なお座席が不足した。
貨物輸送を担うトラックも、代替ルートとなった日本海側の国道や四国・紀伊半島などのフェリー港に溢れ、いつ目的地に到着できるのか見当もつかない有様だった。



惨々たる状況の中で、バス輸送が脚光を浴びたことは見逃せない。
我が国が戦後初めて遭遇した都市型の震災において、地域輸送や都市間輸送でバスが果たした役割は計り知れなかった。
特に、線路が破壊されて不通が長引くJR、阪急、阪神、山陽、神戸電鉄などの代替輸送に膨大な数のバスが投入され、道路の損傷や渋滞に悩まされながらも懸命の地域輸送が行われている様子は、連日マスコミでも取り上げられていた。
北海道から九州まで、路線バスや観光バスの種別を問わず、全国の事業者が車両を送り込んで、地域輸送を支援したのである。

 

震災当日、交通機関は全面ストップという状態だったが、翌日には、午前8時から、神戸市営バスが垂水・須磨区の9路線で運行を再開し、阪急が、宝塚-西宮北口間などで独自に代替バスを走らせ、1月19日に灘区と中央区の間で路線バスの一部が運行を再開するなど、早くもバスが活躍を始めている。
震災から1週間後の1月23日、国道2号線が開通したのを受けて、市内を東西に貫くJR東海道本線、阪急神戸線、阪神本線の3路線が、不通区間の西宮市内と三宮の間で代替バスの運行を開始、途絶えていた大阪-神戸間の動脈が、かろうじて繋がった。

JR:阪神バス上甲子園口-三宮リクルートビル前
阪急:西宮北口駅コマスイミング前-三宮NTTビル前
阪神:阪神甲子園-三宮そごう前

国道2号線と山手幹線を経由して、午前6時半から午後10時まで10~20分間隔のピストン輸送を行い、所要時間は約1時間と見込まれていた。

当初、JR西日本は西日本JRバス、神姫バスなどから42台を、阪急と阪神は自社または系列会社からそれぞれ40台と20台を調達し、代替バスは災害対策基本法による緊急車両に指定された。



コート姿の通勤客は、家族や壊れた自宅を心配しながら久しぶりの勤め先へ向かい、避難所から出勤する人も少なくなかったと言う。

避難生活を送る血縁者や知人などに救援物資を届ける人々も繰り出して、被災地に、久々に活気が戻ってきた。
休校が続いていた小・中・高校も、およそ半数が登校を再開し、再生に向けて大きく動き出した日になった。


鉄道とバスの輸送力の差をまざまざと見せつけられる混乱も起きた。
午前中は三宮方面行きの便が混雑し、阪急西宮北口駅では一時800人の積み残しがあり、阪神甲子園駅では常に100人前後の列が続いて、JR甲子園口駅でも正午に500人が並んだという。
午後からは三宮駅出発便が混み始め、午後9時にはJR便に約1000人、阪急便に800人の列ができた。

午前9時過ぎからはひどい道路渋滞が始まり、6時間以上もかかる便が出たが、この日、3万5000人が代替バスを利用したという。



1月25日にJR東海道本線甲子園口-芦屋間が開通、代替バスは三宮-芦屋間に短縮され、1月26日は阪神電鉄甲子園-青木間の線路が復旧、代替バスが三宮-青木間に変更された。

1月28日から国道43号線が全線で2車線が確保され、警察庁と建設省は神戸市中央区から東灘区まで鉄道代替バスの専用車線を設置、兵庫県警は警官300人を動員して主要交差点における一般車の進入を規制した。

JR西日本、阪急、阪神の3社は、計935便にものぼるノンストップの代替バスの運行を開始し、いずれも午前7時から9時、夕方18時から21時のラッシュ時は3分おき、その他の時間も5~10分おきに運行した。
この時点での鉄道代替バスの詳細は以下の通りである。

【国道43号線バスレーン経由ノンストップ直通便】
・JR:芦屋駅-三宮駅 距離12.7km 所要60分 1日430便
・阪急:西宮北口駅-三宮駅 距離17.0km 所要80分 1日165便
・阪神:青木駅-三宮駅 距離9.0km 所要40分 1日340便

【国道2号線・山手幹線経由各停便】
・JR:芦屋駅-三宮駅 距離13.5km 所要80分 1日160便
・阪急:西宮北口駅-三宮駅 距離17.0km 所要110分 1日110便
・阪神:青木駅-三宮駅 距離9.0km 所要60分 1日190便

2月8日にJR東海道本線芦屋-住吉間が開通して代替バスが住吉駅-三宮間に短縮、2月11日に阪神本線青木-御影間が開通、代替バスは御影-三宮間に短縮された。
2月13日、阪急神戸線不通区間の真ん中に当たる御影-王子公園間が開通、両側の西宮北口-御影、王子公園-三宮は未開通だったが、代替バスに代わる鉄道が復活したのは混雑の緩和に大いに貢献し、加えて阪急御影駅-JR住吉駅-阪神御影駅を南北に結ぶ3線連絡バスがピストン輸送を開始している。
2月20日には、JR東海道本線灘-三宮-神戸間と、阪神本線岩屋-三宮間が開通、ついに三宮に鉄道が戻ってきた。



大阪と神戸を結ぶ動脈として、鉄道代替バスが定着し、利用者も増加の一途をたどったものの、朝夕のラッシュ時に1000人を超す行列で2時間以上を待つのが当たり前となり、バス待ちの行列に並び始めてから目的地にたどり着くまで、最高3~4時間を費やすのも珍しくない状態だった。


3社とも、調達車両が100台前後に膨れ上がった大規模な代替バス運行の舞台裏で、過酷な勤務に携わった運転手ばかりでなく、夜行高速バスの車両で寝泊まりしながら保守点検作業をこなした整備員の努力を思うと、目頭が熱くなる。

急な坂道が多い神戸では、酷使されるクラッチとブレーキの点検が欠かせなかったが、本来ならばバスをピットに入れ、リフトやジャッキで車体を持ち上げるところを、オイルジャッキで1輪ずつタイヤを浮かせて車体の下に潜り込み、懐中電灯が頼りの作業だったと聞く。


当時、新聞で貪るように読み漁った代替バス関連の記事から漏れ伝わってくる人々の肉声を見れば、被災地の状況がまざまざと目に浮かぶようであり、日本中が応援しているぞ、頑張れ、と思ったものだった。


「家族が心配ですから(宝塚市内で立ち往生した鳥取発大阪行き高速バスを降りて徒歩で大阪に向かった乗客)」

「バスが落ちかかってるんや」「そんなアホな。車検証は持って帰れ」(阪神高速で前輪を落として止まったツアーバス運転手と営業所の電話のやりとり)

「少々時間はかかっても、弱音を吐いたら被災者に恥ずかしい(新幹線代替バス利用者)」

「腹が立つのも通り越した(新幹線代替バスの大幅な遅延に)」

「会社はまだ来なくていいと言ってくれているのですが、周りに迷惑をかけるから(鉄道代替バス利用者)」

「長年のくせでしょうが、つい会社へ行かなければ、という気になる(同上)」

「得意先を放っておけないから、出勤しなくては(同上)」

「(避難している)市役所から出勤するのは妙な気分だが、このな時だから贅沢は言っていられない(同上)」

「(職場に)顔を出すこと自体に意義がある(同上)」

「自転車で出勤したが、4時間半もかかり、もうこりごり。バスの方がまだまし(同上)」

「下着やお餅、カイロなどを持ってきました。妹の話では、神戸でバスを降りてから2時間ぐらい歩かなければならないそうです(同上)」

「医療ボランティアに行くので、一刻も早く現場に着きたい(同上)」

「バスは時間が読めない。早く三宮まで(鉄道が)繋がって(同上)」


JR東海道本線や阪急神戸線、阪神本線以外にも、1月24日に阪急新伊丹-伊丹間、神戸電鉄有馬口-有馬温泉口間、1月25日に埋立地の液状化で復旧が遅れている神戸新交通ポートライナー線の市民病院前-税関前、同六甲ライナー線六甲アイランド北口-御影本町で、代替バスが運行を開始した。

1月30日にJR山陽本線須磨-神戸間が開通し、神戸-元町-三宮間に代替シャトルバスが走り始め、神戸市の西側地域でも2週間ぶりに動脈が復活、高速神戸駅と三宮を結ぶ代替バスも登場し、三宮駅周辺の道路の復旧作業が進んだため、神戸市営バスの6路線が、震災後初めて三宮中心部のそごう前に乗り入れている。

山陽電鉄は霞ヶ丘-滝の茶屋間で列車の運転を再開したが、滝の茶屋-西代間は復旧に6ヶ月かかる見込みで、代替バスの運行を開始した。

2月4日に阪急西宮北口駅-甲陽園駅間、2月7日に神戸電鉄長田駅-新開地駅間に代替バスが登場、2月12日に山陽電鉄西代-東垂水間に代替バスが運行を開始した。


3月1日に、阪神本線西灘-岩屋間、3月13日に阪急神戸線王子公園-三宮間が開通し、鉄道の乗り換えによる大阪-神戸間輸送の目処が立った。
4月1日にJR東海道本線が全区間で開通し、大役を終えて、JRの代替バスが運行を終了した。
阪神間の動脈輸送を担い続けた鉄道代替バスの役割もひと段落したのだが、復旧になおも時間がかかる鉄道路線も残っていた。

阪神本線御影-西灘間と阪急神戸線西宮北口-御影間は8月まで、阪急夙川-西宮北口間は7月まで、神戸新交通三宮-市民病院前間と本住吉神社前-アイランド北口間は8月まで、神戸電鉄五社-新開地間は4月まで、新開地-長田間は8月まで、山陽電鉄西代-東垂水間は7月まで、代替バスの運行が必要だった。

 


震災発生当初は、同地域を通る高速バスもことごとく運休した。


神戸発着路線のみならず、首都圏や名古屋発着の西日本方面路線、関西発着の各方面路線など、120近い高速路線が、震災当日に運転を見合わせている。
鳥取発大阪行き「山陰特急バス」は、震災当日も運行を試みたが、道路の破壊と渋滞に阻まれて、第1便は大幅に遅延したあげく、午後1時に宝塚市内で引き返した。

復旧が長引く新幹線に代わる輸送手段として、運輸省からの要請を受け、多くの定期高速バスが道路事情の改善を待たずに運行を再開している。
東京と岡山・倉敷を結ぶ夜行高速バス「ルブラン」号は、震災の翌日、1月18日出発便から運行を再開した。
東名・名神高速から北陸自動車道に回り、日本海側の国道を経て舞鶴自動車道・播但連絡自動車道へと大きく迂回するため、大幅に遅延して、到着が夕方になった日もあったという。
長時間運転に備えて運転手を3人乗務させた日もあり、人件費・燃料費・高速料金等がかさんで採算も危ぶまれたが、公共交通機関としての使命感から、果敢に運行再開に踏み切ったのだ。
この話を聞いた時には、バス事業者の心意気を感じて胸が熱くなった。


四国各地から名古屋・東京方面を結ぶ夜行バスが1月20日から運転を再開するなど、「ルブラン」号に倣って、迂回路を開拓して運行を再開した路線は多い。
大変な遅延が予想されたので、この時点で運行を再開した路線のほとんどが夜行高速バスだった。

「所要時間は、ちょっと予想がつきかねます」(名古屋-高知線「オリーブ」号の運行事業者)

と、慣れない経路を手探りする状態が続いたが、各社とも実績を重ねながらルートを研究し、数日後には、

「少しでも流れている道を探してきましたので、今では5時間以内の遅れで運行できます」(「ルブラン」号運行事業者)

と胸を張る事業者も見受けられたのである。


吹田ICと西宮北ICの間で不通になっていた中国自動車道が全線復旧したのは、震災から10日後の1月27日である。
開通の当日は、久しぶりに蘇った大動脈に大量の車が集中した。
加えて、宝塚トンネル付近の高架橋で危険を避けるために1台ずつ通す措置が取られ、付近を対面通行にしたために、下り線が48km、上り線が25kmに渡って数珠つなぎになった。
中国道に接続する名神高速や近畿道も、幾つかのインターを閉鎖しなければならないほどの渋滞だった。

その混乱は、山陽新幹線に代わる代替バスとして、同じ日に運行を開始した高速バス新大阪-姫路線の顛末が、如実に示している。
JR福知山・播但・加古川線などを経由する鉄道山間ルートが、連日120~200%の混雑を呈しているため、運輸省が新たな対策として、バス会社に運行を打診したのである。

上下便とも、第1便は、定員55人のバスが3台ずつ用意された。
姫路駅前には、午前6時30分発の第1便に乗るため、早朝4時頃から、大阪へ通勤するサラリーマンや、生活用品を手に被災地を見舞う利用客が並び始めた。
新大阪駅には午前6時半頃から列ができ、出発前には200人に膨れ上がった。
8時40分発の下り第1便は、用意した3台がすぐに満席になり、発車時間を20分繰り上げて出発、約70人が積み残された。

姫路発の第1便は、中国道吉川IC付近から、1時間に100mしか進まないというひどい渋滞に巻き込まれてしまう。
動けなくなったバスに痺れを切らした乗客は、出発から7時間後の午後1時頃に、西宮名塩SAの3kmほど手前で150人が下車し、動かない乗用車やトラックの列を横目に路肩を歩いて、およそ2時間かけてJR西宮名塩駅にたどり着き、電車に乗り換えたという。
 

この便は、12時間たっても新大阪駅に到着できず、午後7時に、西宮名塩SAで姫路へ引き返した。
後続の7便も途中で中国道を降り、三田駅で乗客全員を下車させた。
1台のバスも新大阪駅に到着できないという、惨々たる結果だったのである。
新大阪発の下り便も、先行したバスの大幅な遅延を受けて、6便が運休という結果に終わった。
臨時高速バスを運行する神姫バスと西日本JRバスは、翌日から姫路-三田間にルートを変更した。



中国道の開通に合わせて、震災の4年前に乗客数の低迷から運休していた梅田と岡山を結ぶ下津井電鉄の高速バスが、昼行便2往復で復活した。
従来から昼行便1往復で細々と走り続けていた両備バスの堺東・難波-岡山・倉敷線「リョービエクスプレス」号も、新幹線代替輸送の性格を強め、1便あたり2~4台態勢をとっていた。
その他にも、2月10日に昼行4往復の大阪・上本町-福山線、2月17日に昼行4往復の新大阪-岡山線と昼行1往復・夜行1往復の上本町-防府線、3月5日に昼行2往復の新大阪-広島線と、昼行1往復の難波-広島線、そして3月17日に夜行1往復の東京・品川-尾道線が、新幹線代替輸送を謳う臨時高速バスとして続々と登場した。


ただし、中国道の渋滞は長期に渡って慢性化して、高速バス関係者を悩ませた。
遅延が続出し、品川-今治間夜行バス「パイレーツ」下り便などは、再び日本海側を迂回したくらいである。

「大動脈である中国道の復旧を早急にしてほしい。開通後も通り抜けに3時間以上を要している」(大阪-鳥取・倉吉・米子間「山陰特急バス」運行事業者)

という悲鳴も上がった。


 

小回りの利く機動性を発揮して、鉄道や航空機に先んじて、東西を結ぶ幹線交通を再建した高速バスの功績は大きい。
定員不足を運行台数で補おうにも、阪神地域内の鉄道代替輸送に多数のバスを拠出しており、乗員も車両も払底していた。
渋滞のために所要時間が読めない状況下で、トイレがない車両を投入しにくいことも、増便を妨げたと聞く。
それでも、限られた乗員と車両をやりくりして、殺人的な混みようの鉄道や、航空機の長時間のキャンセル待ちに翻弄されている人々に、温かい手を差し伸べるべく、できる限りの努力を払ったバス事業者の姿勢は評価したい。


震災から3ヶ月が経った4月8日に、山陽新幹線がようやく開通し、臨時高速バスも大役を果たし終えた。
4月7日に品川-尾道線、4月8日に三田-姫路線、4月9日に新大阪-広島線、4月14日に新大阪-岡山線、4月20日に梅田-岡山線、4月28日に難波-広島線が、それぞれ運行を終了している。
上本町-福山線は好評を得たため、定期高速バス「備後ライナー」号として運行を続けた。
 

 

山陽新幹線の不通を受けて、航空各社も全力で臨時便を繰り出した。

羽田と岡山の間では、既存の定期航空便の他に、1月の震災以降に53往復、2月に114往復、3月に100往復もの臨時便が運航されている。
山陽新幹線が不通だった期間における臨時便の総数は292往復にも及び、羽田-広島間の207往復、羽田-福岡間の133往復と比べても突出した運航本数であった。

伊丹・関西-福岡、伊丹・関西-高松といった定期路線でも臨時便が運航された。
震災前に定期便が運航されていなかった伊丹・関西-岡山、伊丹・関西-広島・広島西、伊丹・関西-宇部山口などを結ぶ航空路線も、運航を開始している。
伊丹と岡山を結ぶ臨時便は、1月に53往復、2月に166往復、3月に212往復が、関西と岡山を結ぶ臨時便は、1月に12往復、2月に28往復、3月に31往復が運航された。
伊丹発着と関西発着を合わせた大阪-岡山便の運航本数の合計は540往復にものぼり、合計688往復が運航された伊丹・関西-広島間や、701往復が運航された伊丹・関西-福岡間に次ぐ運航本数であった。

これら多数の臨時便は、冬期で需要が減っていた観光路線や、震災の影響で総じて流動が減少していた伊丹・関西発着路線などを減便すること、または整備期間を調整することにより機材を捻出したという。
 

岡山は、姫路と並ぶ東西交通の西の玄関口となった。
姫路では、大阪方面の足が山間ルートを迂回する鉄道と三田行き臨時高速バスに限られるが、岡山からは、臨時便で増強された航空路線や高速バスを使って、東京や大阪などに直行できる利便性が買われたのであろう。
 

航空需要の急増を受けて、岡山駅と岡山空港を結ぶリムジンバスは連日大混雑で、運行する中鉄バスは他の会社に応援を求め、多数の臨時便を出した。



阪神大震災から1ヶ月が経過した2月中旬に、僕は所用で岡山に出かけた。

情勢が多少落ち着いてきたとは言え、往路で利用した品川発岡山・倉敷行き夜行高速バス「ルブラン」号がどれほど遅れるのか、乗ってみなければ分からなかった。
未明に車中で目を覚まし、バスが匍匐前進のように小刻みに動いたり止まったりを繰り返していることに気づいて、中国道の宝塚付近まで来たのか、と、ぼんやり思ったことを覚えている。
この日は、2時間程度の遅れで岡山に到着した。


問題は、帰路であった。

僕は北陸に所用があったので、取り敢えず大阪に出たかったのだが、両備バスに電話で問い合わせると、

「難波行きは、5時間遅れの日もあれば、1時間程度の遅れで済んだ日もあります。到着時刻が全く読めんのです」

という返事であったから、乗り継ぎを控えている身としては、高速バスを選ぶことはためらわれた。
姫路まで出て、新幹線代替バスと鉄道を三田で乗り継ぐ方法が最も簡便であったけれど、とにかく大変な混雑と聞いていたから、僕のような風来坊が割り込むことは気が引けた。



岡山駅は、常ならぬ奇妙な雰囲気が漂っていた。
新幹線乗り場の人影はまばらで、震災の甚大な影響を改めて噛み締めた。
北口へ回ると、閑散としたコンコースとは対照的に、岡山空港行きのリムジンバス乗り場は黒山のような人だかりだった。
駅に来る途中で通りがかった大阪行き高速バス乗り場にも、長蛇の列が出来ていた。


僕は、伊丹行き臨時便の航空券を手にしていた。
補助席までぎっしり詰め込まれた満員のバスに揺られて、黄昏に染まる市街地を北へ抜けて岡山空港に向かうと、ターミナルビルも大変な賑わいだった。
普段は山陽新幹線に押され気味で、小型機や中型機が多い岡山空港だが、駐機場に目を向ければ、羽田線にはボーイング747型機などの大型機材が投入されている。
この渋滞知らずの大量輸送能力は頼もしい限りで、バスは到底かなわないな、と思った。

 


僕が乗る伊丹行きには、日本エアコミューターのSAAB-340型機が用意されていた。
スウェーデン製の傑作機であるが、座席数34席の小型機で、搭乗してみれば、右側2列、左側1列の横3列シートが並んでいる小振りな機内が、まるで高速バスである。

この便は満席と案内されていたが、定員が少ないから、あっという間に搭乗は完了した。
SAAB-340型機は勇ましいプロペラ音で機体を震わせながら、すっかり日が暮れた駐機場を離れ、居並ぶ大型機の合間をきびきびとタキシングして、瞬く間に漆黒の夜空へと駆け上がった。

ビジネスマンらしい装いの客が大半を占める機内は、張りつめた雰囲気を漂わせながらも、静まり返っていた。
新幹線でもわずか1時間足らずの距離だから、飛行時間は40分程度である。
下界は一面の闇に覆われて、何処をどのように飛んでいるのか、最初は全くわからなかった。
そのうちに、関西空港らしい角張った人工島を雲の切れ間で右下に見下ろしながら左へ旋回したので、淡路島の上空を飛行して、大阪湾から伊丹へアプローチしたのではないかと思う。
ならば、被災地の上を通過した訳である。
犠牲者の冥福と、1日も早い復興を祈る思いで、粛然と身が引き締まった。

この旅に出てくるまでは、報道されている臨時高速バスの運行事業者の使命感と熱意は認めるものの、定員50人程度のバスを幾ら投入しても、1500人近くを乗せた長大編成が1時間に何本も往復する新幹線と比れば役不足なのではないか、という無力感を拭い去ることが出来なかった。
ところが、同じく代替輸送を担う航空機でも、バスと大して座席数の変わらない小型機を駆り出しているのである。
それぞれが出来る役割を精一杯果たしながら、危機に瀕した被災地や僕らの国を支えればいいのだ、と元気づけられた。
 


伊丹空港から地下鉄御堂筋線でミナミへ向かうと、活気に溢れた大阪の街の様子を目にして、ホッと肩の力が抜けた。
無表情にせわしなく行き交う人々や、楽しげに手をつないで店を出入りする家族連れ、千鳥足になりながらも大声で談笑する酔客などの姿に、被災地から20km程度しか離れていないことが信じられない思いだった。

普段は物足りなく感じても、何の変哲もない平凡な日常ほどありがたいものはないのだと、心から思った。

  


1ヶ月前の旅の強烈な思い出を噛み締めながら、僕は、上野発金沢行き特急「白山」に揺られている。

凄まじい勢いでJR東海道本線や阪急神戸線、阪神本線、そして国道2号線や43号線の復旧が進む様子に、我が国の底力を目の当たりにする思いがしたし、少しは被災地も落ち着いてきたのかな、と胸を撫で下ろしていた時期だった。

 

高崎駅でひと休みした後に、信越本線に進路を転じた「白山」は、少しばかり鄙びた乗り心地になって、榛名山と妙義山の間に入り込んでいく。

安中駅の近くにある東邦亜鉛安中製錬所が視界に入れば、信越本線に入ったのだな、と実感する。

やがて平地が先細りにすぼまって来て、碓氷川に沿う緩やかな勾配が始まる。

左右から寄せてくる山々で空が狭くなる頃に、「白山」は、群馬県と長野県を隔てる碓氷峠の麓の横川駅に到着した。


 

上信国境に立ち塞がる碓氷峠の66.7‰という急勾配を通過する列車に連結する補助機関車専用として開発されたEF63型電気機関車が、構内に何両もたむろしているのは、見慣れた光景である。

横川の標高が387m、峠の最高点が956m、軽井沢は標高939mであり、直線距離で10km程度の間に標高差が600m以上に達する片勾配となっているので、中途にトンネルを設けられる両勾配の峠と異なり、この落差を登り切らなければ信州に行けないのである。

 

『横川です。ここで機関車連結のため5分停車します。発車は10時05分です』

 

放送を聞き流しながら、昼食にはまだ早いけれども、名物の「峠の釜めし」でも買おうかと、僕は腰を上げた。

車外に出ると、関東平野の生暖かい空気の余韻と、信州から吹き下ろしてくる冷たい風が入り混じった奇妙な感触がある。

ホームに「峠の釜めし」の売り子がずらりと並び、乗客が群がっている。

 

 

ホームに整列して最敬礼する売り子に見送られ、「白山」が横川駅を発車すると、すぐに急勾配が始まる。

それまでの軽快な走りっぷりとは打って代わって、砂利道を走る車のような、ゴツゴツと硬い乗り心地になる。

勾配の途中で制動をかける場合や、傾斜角度の変化による車輪の浮き上がりと脱線を防ぐために、車両が跳ねないよう、全車両の台車の空気バネの空気を抜いてしまうのである。

乗り心地は悪いけれども、出でてはくぐるトンネルの合間から見下ろす碓氷川の渓谷や、折り重なる山肌の新緑が目に優しい春の峠だった。

 

車窓に目を遣りながら、温かみを残す「峠の釜めし」の蓋を開けば、利尻昆布と秘伝の出汁で炊きあげた醤油風味の炊き込み御飯に鶏肉、牛蒡、椎茸、筍、グリーンピース、栗、うずらの卵、杏といった具材がこんもりと盛りつけられ、別容器に茄子や胡瓜、梅干、山葵漬けなどの漬け物も添えられている。

どれから箸をつけようか、と迷いながら頬張るのは、至福の時だった。

 

 

釜飯もいいけれど、食堂車で食事をしたかったな、と思う。

 

僕が鉄道ファンになった10歳前後の頃、特急「白山」は、長野駅を出入りする列車の中で、唯一、食堂車が連結されていた。

それだけで、「白山」が格上の列車に感じられたものである。

 

僕が最も「白山」を利用したのは1日3往復の時代で、育った街である長野市と、生まれた土地である金沢市の行き来であり、信州生まれで金沢の大学を卒業した父に連れられての家族旅行だった。

父と母は金沢で結婚し、僕と弟が生まれ、僕が3歳の時に長野市へ引っ越したのだが、その時も急行時代の「白山」を利用した白黒写真が残されている。

おそらく、僕が生まれて初めて利用した列車が、「白山」だったのではないだろうか。

 

「白山」の家族旅行で、僕は初めて食堂車を体験している。

昭和60年に「白山」が3往復から2往復に削減された際に、食堂車は廃止された。

全国で長距離列車の食堂車が次々と廃止される趨勢にあって、「白山」の食堂車は、我が国の電車特急で最後まで残されていたのだから、もって冥すべし、とも思うけれど、懐かしい思い出が消えるのは、やはり寂しい。

 

 

軽井沢駅で補機を外し、身軽になった「白山」は、再び快速を取り戻して信濃路をひた走る。

軽井沢から小諸にかけても案外の下り坂で、車内に響いてくる走行音は踊っているかのように軽やかだった。

 

軽井沢から先の信越本線は、馴染みである。

右手を流れる白樺の木々の合間に、流麗な浅間山が全貌を現した。

千曲川が刻んだ河岸段丘に開けた小諸の街を過ぎ、右手から国道18号線が近づいてくると、更に懐かしさが増す。

上田駅を過ぎ、家々や雑木林ごしに見えていた国道が線路際に寄り添うと、北国街道の風情を残す町並みや、カーブの曲がり具合、坂城から戸倉上山田温泉にかけて両側に迫ってくる山々の形など、車で走っているかのような錯覚に陥ってしまう。

 

 

長野電鉄河東線の古びたホームがある屋代駅を過ぎ、千曲川を南岸から北岸に渡ると、「白山」は善光寺平に飛び出した。

信越本線は長野盆地の西の縁に敷かれているので、篠ノ井線と合流する篠ノ井駅を通過すると、右手に住宅が林立する斜面が続き、左手には、完成間近の長野新幹線の高架の橋脚が見え隠れする。

 

『御乗車お疲れさまでした。あと4分で長野に着きます。お出口は左側、1番乗り場です。長野でお降りになるお客様はお忘れ物、落し物などございませんよう、お支度をしてお待ち下さい。乗り換えの御案内を致します。松本、塩尻方面へお越しの方、快速「みすず」号天竜峡行き、11時22分、4分の待ち合わせですので、階段を上がって5番乗り場へお越し下さい。その後、特急「ワイドビューしなの」12号名古屋行き、11時48分、6番乗り場です。長野を出ますと、次は黒姫です。北長野、三才、豊野方面の各駅へお越しの方、普通列車直江津行き、11時49分、3番乗り場です。飯山線へお越しの方、戸狩野沢温泉行き、11時56分、同じく3番乗り場です。長野電鉄、信州中野、湯田中方面へお越しの方、改札を出まして駅前の地下乗り場へお越し下さい。長野の発車は11時20分です。今日もJR線を御利用下さいましてありがとうございました。長野に着きます』

 

 

千曲川の支流である犀川の橋梁を渡るあたりで、金沢を7時44分に出てきた上り「白山」とすれ違う頃に車掌の案内放送が流れ、上野駅から2時間48分が経過した11時18分、「白山」は長野駅に滑り込んだ。

 

ざわざわと3分の2以上の乗客が席を立ち、賑やかだった車内が一挙に閑散として、仕切り直しのような雰囲気であるが、僕は腰を上げなかった。

駅から徒歩で10分ほどの実家に1人で住んでいる母の顔が、ちらりと脳裏に浮かんだけれども、この日の僕の汽車旅は、帰省ではない。

 

これまで、「白山」を上野から金沢まで乗り通した経験がなかった。

今回の旅で特急「白山」の全区間を走破すると決めていたから、長野で降りる訳にはいかない。

母には親不孝ばかりしているな、と後ろめたさが込み上げてくる。

 

2分停車で、「白山」はそそくさと長野駅を後にした。

母には会えないけれど、長野から先の「白山」の行程には、家族の思い出がたっぷりと詰め込まれている。

北長野駅や三才駅を吹き飛ばすような勢いで通過し、郊外のリンゴ畑の中を走っているだけでも、何かの拍子に、父と母、弟が一緒に乗っているかのような甘酸っぱい気持ちになる。

4人向かい合わせにした座席で、僕と弟は窓際に坐らせて貰ったのだが、どちらが進行方向を向くのか喧嘩した記憶に苦笑したりする。

 

 

飯山線を分岐する豊野駅を過ぎると、「白山」は左に大きく弧を描きながら、信越国境の山越えに挑んでいく。

牟礼駅の手前で左から山肌が近づき、窓の外は鬱蒼と生い繁る木々に覆われてしまう。

右は鳥居川が刻む山峡で、対岸に連なる山々の中腹を巻く国道18号線が並走する。

 

線路が単線で急曲線が多いために、ここの「白山」は速度が上げられず、国道を行き交う車に抜かれるばかりの情けない走りっぷりである。

飯縄、黒姫と連なる山々も、手前の尾根に遮られて拝むことができない。

 

古間駅を過ぎると少しばかり平地が広がって黒姫山が顔を覗かせ、日陰に雪を残した田圃の中に集落が身を寄せ合っている。

信越本線は国道18号線と絡み合いながらも、前者の沿線は田畑が開け、後者には家々がひしめいている場所が多く、全く異なる土地のようである。

子供の頃に家族で幾度か訪れた野尻湖も、国道18号線では湖面をちらりと覗くことができるけれども、信越本線はかなり離れている。

 

 

長野と新潟の県境は碓氷峠と同様に片勾配で、信濃町野尻地区の標高が788m、麓の妙高高原町関川地区の標高が644mであるから、150mの落差がある。

国道18号線は九十九折りの山道で真っ直ぐ降りていき、豪雪地帯でもあるため冬には肝を冷やす区間だが、信越本線は緩やかなカーブで大回りしているので、それほどの険しさは感じられない。

 

昭和53年5月18日に、妙高高原駅と関山駅の間の白田切川に土石流が発生し、川を暗渠にしていた築堤が崩壊したために、白田切川橋梁を新設して前後の線形も改良したので、殊更に滑らかな線形に感じられる。

 

 

僕は災害の前も後も信越国境を通ったことがあるのだが、旧線のことはよく覚えていない。

 

妙高山を車窓から眺めると、初めて買って貰ったカメラを「白山」の窓から妙高山に向け、父や母に笑われながら、流し撮りを試みた子供の頃を思い出す。

デジタルカメラではないので、現像に出さなければ出来映えは分からなかったが、手前を流れるススキの向こうに、流麗な妙高の山容がブレずに写っている写真を手にした時には、得意になったものだった。

 

 

新井駅から先は頸城平野が開け、猫の額のような狭隘な平地ばかりの山国を伝って来た者としては、目がぱちくりするような眩しい水田が広がる。

「白山」が直江津駅に停車したのは、上野駅からちょうど4時間が経過し、半分程度の座席を占めている乗客にも長旅の気怠さが漂っていた。

 

『直江津に到着です。ここで進行方向が変わりますので、7分停車します』

 

という短い案内放送が流れ、僕は座席の向きを変えてからホームに降りてみた。

 

直江津駅は久しぶりだった。

子供の頃に車窓から眺めた時には、如何にも鉄道の要所らしく広い構内に圧倒された記憶があるけれども、改めて見回してみれば、古びたホームや、何本も敷き詰められた線路に変わりがある筈もないのに、

 

直江津駅ってこんなんだったっけ?──


と拍子抜けした。

子供の頃は、何でも大きく見えたのだろうか。

故郷を素知らぬ顔で通り過ぎてしまったことに、まだこだわりがあったけれども、遂に日本海側に来たのか、という新たな感慨が湧いてくる。

 

 

直江津を逆向きに発車すると、すぐにトンネルが断続する。

直江津と糸魚川の間は、フォッサマグナと糸魚川静岡構造線が交わる複雑な地形で、山塊が海ぎわまで張り出しているため、繰り返し土砂災害に悩まされたという。

この区間を一気にトンネルで貫く新線が完成したのは昭和44年であるから、金沢から長野に引っ越した時の急行「白山」は旧線を使った訳である。

 

名立、頸城、木浦、浦本と4本のトンネルを続け様に抜けると、落石防止や防雪の設備なのか、坑口に仕切り板が格子のように一定間隔で貼られている箇所がある。

高速で疾走する「白山」の窓から眺めると、彼方に広がる青い海原や手前の草むらが、コマ送りの映画のように見える。

子供の頃から、日本海のコマ送りを見るのが「白山」の楽しみの1つだった。

 

谷浜や能生といった「信州の海」と呼ばれる海水浴場も垣間見える。

海がない長野県では、この辺りへ海水浴に来る県民が多く、僕の小学校の臨海学校は谷浜、高校の臨海合宿は能生であった。

 

 

無骨な工場が目立つ姫川を渡り、糸魚川駅を発車した「白山」は、新潟と富山県境の名勝親不知・子不知に差しかかる。

子供の頃から、ここが「白山」の車窓の白眉と決めていた。

トンネルの合間に見える海面が眼下に遠ざかり、下を覗き込める区間はないものの、断崖の上を走っていることがありありと想像できる。

青海駅から親不知駅を経て市振駅に至るこの区間も、直江津-糸魚川間に劣らず災害が多発したが、昭和40年に新親不知トンネルと新子不知トンネルを含む新線が建設され、「白山」は事もなげに通過する。

 

親不知・子不知越えは、平行する国道8号線の方が迫力がある。

金沢への家族旅行は車で往復したこともあり、未明に長野を発ち、親不知で夜明けを迎えることが多かった。

そそり立つ断崖の中腹にトンネルや洞門が連続する狭隘な道路で、黒い排気ガスを吐きながら、坂道でみるみる速度が落ちてしまう巨大なトラックばかりに囲まれ、大変な難所であることが子供心にも察せられて、息をつめながら車窓に見入ったものだった。

 

 

『今日は親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて疲れ侍れば、枕引き寄せて寝たる』

 

松尾芭蕉の「奥の細道」では短く触れられているだけだが、昔は、断崖の麓の波打ち際を張りつくように歩くより方法がなかったと聞く。

越後国へ流された平頼盛の妻が、京から夫を訪ねる途中で子供を波にさらわれて、


親知らず 子はこの浦の波枕 越路の磯の 泡と消え行く


と歌ったという悲しい伝説が、親不知・子不知の由来である。


昭和63年に完成した北陸自動車道は、海上に張り出した高架橋を建設し、親不知・子不知を易々と越えてしまう。

同年に開業した池袋と金沢を結ぶ高速バスでこの区間に差し掛かった時は、このような方法があったのか、と度肝を抜かれた。

設計者の発想と、現代の建築技術には敬意を表するけれども、北陸道の橋脚の影響で海流が変化し、崖が削られてしまったため、旅人が命がけで越えた砂浜は跡形もなく消えてしまったと聞いている。

北陸道の橋脚は目障りではあるけれども、白い波頭の上を海鳥が舞う、早春の日本海の眺望には心が洗われた。

 

 

北陸本線に入った「白山」の走りは見違えるようだった。

首都圏及び中京圏・関西圏と北陸を結ぶ重要幹線であると同時に、数々の難所が昭和30年~40年代の近代化工事で生まれ変わってからは、越後湯沢発着「はくたか」、新潟発着「北越」、名古屋・米原発着「しらさぎ」、大阪発着「雷鳥」といった在来線特急が俊足を競い合うように行き交う、我が国有数の特急街道であった。

 

首都圏に直行する特急は「白山」だけであるが、本州を横断してきた疲れを見せることなく、小気味よいほどの走りっぷりである。

最高速度は時速120km、高速道路でもそれくらいの速度を出してしまう車が見受けられるけれども、鉄道は市街地を貫くことも多く、線路際を櫛の歯を引くように建物が過ぎ去っていく感触は、スピード感を殊更に煽る。

目まぐるしく街なかを駆け抜けると、こんもりとした屋敷林に囲まれた散居村が散在する砺波平野の単調な眺めが、眠気を誘う。

この日は、立山連峰が山襞まで手に取るように見えた。



富山駅と高岡駅を過ぎると、上野から乗り通して来たのは僕の他に何人いるのだろう、と数えたくなるような寂しい車中になった。

 

「白山」最後の見所は、能登半島の付け根で越えていく倶利伽羅峠である。

線路際に山肌が迫り、カーブもきつく、煉瓦積みの古びたトンネルも含めて、峠越えの雰囲気が満載である。

宮脇俊三は、処女作「時刻表2万キロ」の第1章で、富山発米原行きの特急「加越」に乗って倶利伽羅峠に差しかかる。

 

『トンネルを出て2キロほどの地点に倶利伽羅駅がある。

北陸本線屈指の小駅で、急行券なしで乗れる列車にさえ通過される気の毒な駅である。

が、駅名の魅力においては北陸本線随一だと私は思っている。

だから、いつもながら駅名標をしかと見ておきたい。

右側の窓に頬を近づけて待機していると、下り線との間隔が少し広くなったなと思うまもなく、特急電車は一気に通過する。

飛び去る駅名に合わせてすばやく首を振るようにすると、「くりから 倶利伽羅」という文字がはっきり見えた。

1つ、2つ、もう1つ見たいと思ったら、もう駅はなかった』

 

流し撮りのテクニックだな、と頬が緩む一節であるけれども、北陸を旅する者にとって、源平の古戦場としての歴史や、独特の漢字を当てた地名も含めて、強く印象に残る峠であるのは間違いない。

ただし、「平家物語」で倶利伽羅峠を知った者としては、北陸本線にしろ、国道8号線にしろ、実際に車窓から眺めた地形と合戦の描写が微妙に合致しないような気がしてならなかった。

木曽義仲が放った牛の大群に追い落とされて、

 

『平家一万八千騎、十余丈の倶利伽羅が谷をぞ馳埋みける』

 

と描かれた深い谷があるような峠に、どうしても見えない。

 

厳密に言うならば、北陸本線や国道8号線が通っているのは、昔の倶利伽羅峠の北に位置する天田峠である。

明治11年の明治天皇の北陸巡幸の際、倶利伽羅峠は輿が通れないため、天田峠が改修されたことで、以後は天田峠越えが国道となり、北陸本線も天田峠の下に倶利伽羅トンネルを掘削したのであるが、かつては補助機関車の連結を要する急勾配だったという。

昭和30年に勾配を緩和するための全長2459mの倶利伽羅トンネルが完成し、古いトンネルは国道8号線に流用されている。

 

 

東京から関東平野は高曇り、碓氷峠は曇っていたが、信州から富山にかけては快晴、そして倶利伽羅峠から西では、今にも泣き出しそうな雲行きになっていた。

猫の目のように変わる空模様の下を、「白山」は駆け抜けて来たのである。

 

『皆様、長らくの御乗車お疲れ様でございました。次は終点、金沢でございます。14時36分の到着です。あと4分少々で金沢でございます。どなたも車内にお忘れ物、落し物ございませんよう、お支度を願います。お出口は右側でございます。2番線に到着します。乗り換えの御案内を致します。小松、加賀温泉、福井方面へお越しの方、1番線にお越し下さい。大阪行きの特急「サンダーバード」30号、14時55分、19分の待ち合わせで、乗り場1番線です。米原方面名古屋行きの特急「しらさぎ」12号を御利用の方、15時04分です。28分の待ち合わせで2番線です。北陸本線上り各駅停車を御利用のお客様、大聖寺行き、20分の待ち合わせで14時56分です。3番線にお回り下さい。七尾線方面お越しの方、14時56分、各駅停車七尾行きに連絡です。20分の待ち合わせで5番乗り場です。七尾で、のと鉄道輪島行きに連絡します。本日はJR西日本を御利用下さいましてありがとうございました。次は終点金沢に着きます』

 

金沢平野に飛び出した「白山」が、速度を落としながら浅野川を渡り、古い街並みに囲まれた金沢駅に滑り込んだのは、上野から6時間06分が経過した14時36分、見事な定時運転であった。

 

 

終点だから、降りなければならない。

高架駅になって防雪ドームに覆われた金沢駅の佇まいも、489系車両の塗装も、前に乗車した時と全く異なっているけれども、生まれた土地に「白山」から降り立つ感慨に変わりはなかった。

 

ただし、旅の終焉をこれほど寂しく感じたことがなく、少しばかりうろたえた。

今回が、子供の頃から縁のあった「白山」に乗る最後になるのだろう、という予感が、不意に込み上げてきたのである。

 

 
金沢から先は、仙台行き夜行高速バス「エトアール」号に乗車し、仙台から上野行きの常磐線特急「スーパーひたち」に乗り継いで、3月19日の昼前に上野駅に着いた。
日曜日の上野駅は、長野、金沢、仙台を回ってきた者としては目が覚めるような賑やかさで、前日の朝に上野駅を「白山」で発ってからの1日半が、夢のように感じられた。
1ヶ月前に、岡山から航空機と地下鉄を乗り継いで、難波駅に降り立った時のことを、不意に思い浮かべた。

実行犯の1人が上野駅から乗り込んだ地下鉄日比谷線中目黒行きの電車をはじめ、日比谷線2本、丸ノ内線2本、千代田線1本の電車にサリンが撒かれ、15名の死者と6300人もの負傷者を出した地下鉄サリン事件が勃発したのは、翌日のことであった。



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