蒼き山なみを越えて 第45章 平成12年 関越高速バス池袋-臼田線・高速バス長野-佐久線 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

朝の8時50分に池袋駅東口を発車した「関越高速バス」池袋-臼田線は、ぎらぎらと照りつける真夏の太陽の光を浴びながら、一目散に関東平野を走り続けている。


車内に冷房が稼働しているものの、南に面している左側の窓から容赦なく日光が差し込み、車体そのものが熱せられているのか、座っているだけでじんわりと汗がにじんでくる。

隣りに座っている妙齢の女性は、Tシャツにジーンズの短パンと、これ以上ない薄着でありながら、時々溜め息をついては、ハンカチを取り出して顔に当てている。


暑いですねえ、と一声でも掛ければ会話が弾むのかもしれないけれど、それさえも億劫だった。



何処まで走っても、車窓は緑に染まった真っ平らな田園を映し出すばかりである。

思い出したように工場や倉庫、住宅が目に入るが、屋根の照り返しが眩しくて、体感温度を殊更に上昇させているようである。


高速バスばかりでなく、長野新幹線が開通する前の特急「あさま」で並行する高崎線を走っていても、盆の帰省では湯だるような車中だったことを思い出す。

どうして、外出すら躊躇われる猛暑の季節に、民族大移動が必要な盆を設定したのか、と恨めしくなる。


陽も月も「草に出でて草に沈む」と詠われ、日光を遮るものが何もない関東平野である。

我が国で最大の沖積平野である関東平野は、12万年前の大海進で海の底となり、海退後も、利根川やその支流の大河が暴れ始めると手がつけられない一面の氾濫原であったという。

古代の人々の居住が可能であったのは、右手の彼方に広がる北関東の河岸段丘や山裾など、一定の標高を超える地域に限られ、今でも貝塚などの古代遺跡は関東平野の辺縁に多いと聞く。



埼玉県や群馬県が、真夏になると40℃近い猛暑に晒される土地として、ニュースや天気予報で耳にする機会が増えたのは、この頃ではなかったか。


我が国で記録された最高気温として、昭和8年7月25日に山形市で観測された40.8℃という数字は、長らく更新されることがなかった。

その日は、日本列島を挟んで太平洋側に高気圧、日本海側に台風が存在する天気概況で、高気圧から台風に向かう熱風が蔵王連峰を吹き下ろし、気圧が高い地表で圧縮されて気温が上昇するフェーン現象が原因と言われている。


この記録が更新されたのは、埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市で、それぞれ40.9℃が観測された平成19年8月16日のことだった。

この前後には、群馬県桐生市で、最高気温が2日連続で40℃を超える記録も生まれている。

発達した太平洋高気圧がもたらす熱風が赤城山系から吹き降ろすフェーン現象が原因と言われているが、関東平野の諸都市では、猛暑日の年間日数が30日にものぼる状態が、毎年続くようになった。

平成になって、埼玉県や群馬県が我が国有数のヒートランドとして注目されるようになったのは、あまりに肥大しすぎた東京が発するクーラー熱などの都市型気候が一因ではないかと、僕は邪推している。



新しい酷暑地域を貫く関越道は、僕が乗っている臼田行きのバスの前身である「関越高速バス」池袋-小諸線が、平成3年に開業して以来、信州の往復で何度も通ってきた。

それ以前の東京から信州に向かう高速バスは、中央自動車道経由の一択であったから、池袋から小諸に向かう高速バスの登場はとても嬉しかったのだけれども、八王子を過ぎれば山中に分け入る中央道に比べて、関越道の前半部分は、陽を遮るものなどあろうはずもない関東平野である。


真夏に走れば、中央道の甲府盆地の車窓も暑そうだったが、埼玉、群馬県内の関越道の比ではない。

行く手に、ごつごつした容姿の赤城山系が見えてくると、あそこから熱風が吹き下ろしてくるのか、と溜息が出る。

関東平野が姿を現した海退現象も、海面の下降や土地の隆起ではなく、強い熱射で干上がったのではないかと思いたくなる。



「関越高速バス」池袋-小諸線が開業した当初は、関越道の藤岡ICを下りると、国道254号線に入って「吉井」「富岡」「下仁田」の群馬県内停留所に立ち寄ってから、内山峠を越えて長野県に足を踏み入れ、「中込」「岩村田」の佐久市内の停留所を経由してから、小諸駅に向かっていた。

信州ばかりでなく、群馬県西部の上信電鉄線沿線と東京の直通機能も果たしていたのである。


高崎駅と下仁田駅を結ぶ上信電鉄は、上野鉄道の社名で明治30年に開業している。

その後、下仁田から余地峠を越えて、長野県佐久穂町にある小海線の羽黒下駅まで延伸する計画を立て、上信電気鉄道に社名を変更した。

余地峠は、国道254号線が越える内山峠の南に位置する県道93号線の田口峠と、国道299号線の十石峠の間に挟まれているが、現在、余地峠を越える車道は地図には掲載されていない。

昭和初期の世界恐慌により信州への延伸は頓挫し、中込駅へのバス路線を開設しただけで、中込に置かれていた同社の営業所も昭和45年に千曲自動車に売却された。


上信電鉄で県境を越えてみたかったな、と残念であるが、見果てぬ夢であろう。



群馬県と長野県を結ぶ主な峠道として、北から、国道292号線志賀草津道路の渋峠、長野原と上田を結ぶ国道144号線の鳥居峠、長野新幹線と信越本線、国道18号線の旧道が越えている碓氷峠、国道18号線バイパスの入山峠、上信越道碓氷軽井沢ICと軽井沢を結ぶ和見峠、上信越道が越える八風山、そして内山峠、田口峠、余地峠、十石峠、更に上野村と北相木村を結ぶぶどう峠が挙げられる。

昭和60年に日本航空123便が墜落した御巣鷹の尾根は、ぶどう峠のすぐ北に位置する峻険な山奥であった。


渋、鳥居、碓氷、入山、内山峠は鉄道やバスで、また和見峠と十石峠は自分の運転で越えたことがある。


信濃の国は十州に 境連ぬる国にして


と県歌に歌われ、県境の延長が我が国で最も長い932.6kmにも及ぶ長野県と接する県の数は、子供の頃にクイズとしてよく聞かれたものだった。

新潟、富山、岐阜、愛知、静岡、山梨、群馬の7県は誰もが答えられるのだが、正解は8県で、埼玉県が抜けることが多い。

十石峠の南に、秩父と川上村を結ぶ中津川林道の三国峠があり、ここは埼玉県との境になる。


ちなみに「十州」とは、越後、越中、飛騨、美濃、三河、遠江、駿河、甲斐、武蔵、上野で、甲斐国、武蔵国、信濃国の境が集まっている峠なので、三国と呼ばれたのだろうと解釈している。



三国峠も自分で運転して越えたことがあるのだが、埼玉県と長野県が接していることは子供の頃から知っていた。

なぜならば、江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズの1作「奇面城の秘密」に、三国峠の南にある甲武信岳が、怪人40面相の秘密基地として登場するからである。


『「きみは、その奇面城がどこにあるのか、わかっているんだろうね」


総監が、ポケット小僧にたずねました。


「はい、それは奇面城にかくれているあいだに、40面相の部下たちの話を立ちぎきしてわかりました。それはこぶし岳という山です。その山の北がわの深い森の中に、あの恐ろしい顔の岩があるのです」


それをひきとって、明智探偵が説明しました。


「甲武信岳というのは、埼玉県と長野県の境にそびえている山です。そこから食料などを仕入れるのに、いちばん近い町は埼玉県のT町です。奇面城からT町へは、2日か3日にいちど、40面相のヘリコプターが、かよっているらしいのです。ポケット小僧は、そのヘリコプターにかくれて逃げ出してきたのです」』


この一節を読んで、長野と埼玉が接しているのか、と地図を見直したものだった。


ポケット小僧は、明智小五郎探偵と助手の小林少年が率いる少年探偵団の一員で、身寄りのない戦災孤児であった記憶がある。

小学校の図書館に揃えられていたポプラ社の「少年探偵団」シリーズを片っ端から夢中で読破し、自分も少年探偵団に入って明智先生と仕事をしたい、と憧れていた幼少時が懐かしい。


「奇面城の秘密」は話のスケールが大きく、故郷の甲武信岳が登場したことで、最も心に刻まれた1編となった。



平成5年に上信越自動車道が佐久ICまで延伸すると、池袋-小諸・上田系統と臼田系統に分離されたが、群馬県内の停留所は残された。

池袋-小諸・上田系統には勇んで乗り直したけれども、佐久・臼田系統は利用していなかった。


僕は未乗の高速バス路線に乗るのが好きである。

たとえ同じ区間を行き来するにしても、出来るだけ異なる路線を利用するように計画を立てるのが楽しみでもある。

あたかも、鉄道ファンの間で人気がある全路線完乗を目指している観があるけれども、高速バスはあまりにも路線数が膨大なので、全てを制覇することは、端から諦めている。


それでも、故郷の信州を発着する高速バスくらいは全部に乗っておきたいと思っているのだが、「関越高速バス」池袋-臼田線を未乗と定義すべきなのか。

乗車体験のある高速バスが延伸したり、経路を変更すると、もう1度乗るべきなのか、と必ず悩んでしまう。

池袋から小諸に向かう高速バスが途中で佐久を通っていたので、体験済みと解釈することも可能であるが、今回乗車しているバスの終点の「佐久・臼田」停留所には寄っていない。


何を細かいことをぐだぐだ考えておるのか、と呆れられるかもしれないが、「関越高速バス」池袋-臼田線の乗車が済んでいると解釈するならば、別の経路で帰省したいのである。

あれこれ理屈を捏ね回した挙げ句、


迷うなら 乗ってしまおう ホトトギス


と考えて、結局は座席を手配した。

 

 

鳴かないホトトギスの川柳は、戦国末期に活躍した3武将の性格を端的に言い表した句として知られているが、出典は肥前国平戸藩主の松浦清が記した「甲子夜話」である。


『夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く恊へりとなん。郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、

なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府

鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤

なかぬなら鳴まで待よ郭公 大権現様』


鳥の名前が全部違うではないか、との疑問が湧くが、ホトトギスは時鳥、杜宇、蜀魂、不如帰、子規、田鵑など様々な漢字が当てられ、杜鵑もその1つである。

郭公はどうなのか、と言えば、ホトトギスがカッコウ科カッコウ目であることから、ほぼ同じ鳥として用いられていたようで、カッコウには呼子鳥、閑古鳥などという別の呼び方がある。

ホトトギスによる人物評価は、他にも例があり、


鳴け聞こう我が領分のホトトギス


という加藤清正の気配りを示す句があったり、松下電器の創業者である松下幸之助による、


鳴かぬなら それもまた良し ホトトギス


との句がある。



高速バス路線の選択にホトトギスを持ち出したのは、少しばかり不味い例えであったかもしれない。

ホトトギスと同種のカッコウの別名「閑古鳥」は、鳴き声が元になっているのだろうが、交通機関として好ましくない言葉である。

かつて、小諸駅から支線を伸ばしていた布引電気鉄道は、もともと人口が希薄な地域に敷かれたことと、昭和初期の恐慌のあおりを受けて利用客が極端に少なく、「四十雀(始終カラ)の電車」と地元で呼ばれていたという逸話を思い出す。


幸いにして、「関越高速バス」池袋-臼田線は、閑古鳥や四十雀とは程遠い盛況であった。



上信越道に分岐すると、バスは群馬県内の停留所の案内を流し始めた。

国道254号線を使っていた時代に比べると、「吉井」停留所は姿を消し、「富岡」と「下仁田」は、どちらもインターで本線を離れて料金所をくぐり、前者は500mほど離れた鎌倉街道沿いに、後者は1kmも離れた国道254号線に面した「JA農産物直売所しもにた」に置かれている。


高速バスが途中停留所に寄るために、これほど高速道路から遠く離れたのは初めてで、いつまでもだらだらと一般道を走り続ける車中で、このまま佐久に向かうつもりか、と腰を浮かし掛けた。

停留所でUターンし、もと来た道を戻り始めたので胸を撫で下ろしたが、いずれにしろ富岡と下仁田の利用者のために、それぞれ10分弱程度を費やした。


「下仁田」の停留所がある農協では、麦藁帽子をかぶったステテコ1枚の直売所の店員が、軒の日陰で団扇を使っている。

夏だな、と思う。



上信越道は国道254号線に沿って敷かれているので、山を1つ隔てて北側を延びている信越本線や国道18号線とは異なる経路が新鮮だったが、下仁田を過ぎるとほぼ直角に真北へ進路を変え、妙義山の東麓を縫うように、国道18号線と信越本線に近寄っていく。

群馬県内で3つ目の停留所である「松井田」バスストップは、松井田妙義ICの料金所の直ぐ外にあって、これくらいならば許容範囲かな、と思う。


上信国境の山あいに分け行っても、陽の光はいよいよ強烈になり、前方の路面に目を凝らせば、陽炎や逃げ水が見られる。

子供の頃は、父が運転する車の助手席で逃げ水をよく目にしたものだったが、バスに乗って目にしたのは初めてだったかもしれない。

「地鏡」という別名の通り、幼い僕は逃げ水の可憐な美しさと、何処まで進んでも手に届かない儚さに心を惹かれた。


アスファルトの舗装路を走る車が登場してからの現象と思い込んでいたのだが、12世紀に、


東路に 有といふなる 逃げ水の 逃げのがれても 世を過ぐすかな


という句が残されているので、舗装路でなくても、歩く速度でも見られた現象のようである。



信越本線の終着駅となった横川駅の近くにある横川SAを過ぎると、上信越道は、碓氷峠を越える国道18号線旧道から離れ、入山峠を越える国道18号線バイパスとも袂を分かって、長さ4471mのトンネルで八風山を越えていく。

鉄道の時代から、上信国境はトンネルの中であるが、いつ県境を越えたのか判然としない鉄道と異なり、上信越道はトンネルの壁に大きく県名が書かれているので親切である。


中山道から伝統的に使われてきた碓氷峠や、古代の東山道の遺跡が残る入山峠とは異なる、平成の御代における新しい国境越えであるが、上信越道の八風山トンネルの建設工事で、驚くべき遺跡が見つかったのは記憶に新しい。



現生人類であるホモサピエンスが、ユーラシア大陸から日本列島に移住したのは、後期旧石器時代とされているが、それより以前の前期・中期石器時代に人類が住んでいたのかどうかは、平成12年に発覚した発掘捏造事件であやふやになっている。


八風山トンネルの南側、標高1080mの地点で発見された香坂山遺跡は、後期旧石器時代を特徴づける石器製作技術の「石刃」技法で造られた石器が多数発掘され、分析の結果、3万8000年前に造られた我が国最古の「石刃」と認定された。

特に、「大型石刃」「小型石刃」「大型尖頭器」の3種類の組み合わせは、20万年前にアフリカに端を発した現生人類がユーラシア大陸に渡り、西から東へ拡散していく時に保持していた技術であり、後期旧石器時代の始まりを示す最古の石器の組み合わせであるとされているが、その3種類が、我が国で初めて香坂山遺跡で発掘されたのである。


この3種の石器の組み合わせが、中東で4万8000年前、中央アジアで4万5000年前、中国北部で4万4000年前、朝鮮半島で4万2000年前と、時代を下りながら東へ移り、3万8000年前に我が国に達したと聞けば、山深い上信国境に、ユーラシア大陸を横断する壮大な歴史のロマンが感じられるではないか。

当時の関東平野は海進期にあたり、古東京湾と呼ばれる海の底だったので、辺縁の高地に現生人類の祖が住みついたのだろう。

関東平野が陸地として姿を現わす海退期は、2~3万年前のことである。


それにしても、現生人類が中東から朝鮮半島まで6000年ほどで達したのに引き換え、朝鮮半島から日本列島まで4000年を費やしたのは、日本海が隔てているためなのであろうか。

それとも、もっと古い現生人類の遺跡が、我が国の何処かにあるのだろうか。



八風山トンネルを筆頭とする9つのトンネルが穿たれた県境を越えると、折り重なる山裾の合間に、佐久平が一望の下に開けた。

帰ってきたな、と心が弾む。


佐久ICを降りて停車する「岩村田」、「千曲パークホテル」、「中込駅」の停留所は、初期の「関越高速バス」池袋-小諸線が国道254号線で内山峠を越えていた時代の経路を、逆にたどっている。

その頃には通らなかった「野沢相生町」停留所に停車したバスは、佐久市域を出て、12時13分に終点「佐久・臼田」停留所に滑り込んだ。


佐久地方の地理は、よく分からない。

佐久市はこの地域の中心都市であり、長野県内では長野、松本、上田に次ぐ4位の人口を擁し、信越本線の特急停車駅であった小諸を差し置いて長野新幹線の駅が置かれたのだが、昭和36年に浅間町、東村、野沢町・中込町が合併して佐久市が発足したためなのか、市内を貫くJR小海線には、中佐都、岩村田、北中込、滑津、中込、太田部と、佐久の名を冠した駅がない。


「関越高速バス」池袋-臼田線の終点は、佐久市の南隣りにある臼田町に置かれているのだが、「佐久・臼田」とは、まるで佐久市内に臼田と言う名の地区があるかのように曖昧な名前である。

当時の臼田は独立した町であり、佐久市と合併するのは平成17年のことだった。



臼田町は、平安時代に最澄が越えた記録が残る、下仁田から田口峠を越える街道の出口に位置しているが、有名なのは宇宙航空研究開発機構(JAXA)臼田宇宙空間観測所であろう。


昭和61年にハレー彗星が地球に接近した時に、欧州宇宙機関(ESA)の「ジオット」、ソ連の「ヴェガ」、米国NASAの「ISSE-3」とともに、JAXAがハレー彗星と太陽系各惑星の探査を目指す「PLANET計画」を立ち上げ、彗星観測用惑星探査機「さきがけ」「すいせい」を打ち上げる計画を立てた。

我が国が惑星間空間へ探査機を投入するのは初めてで、無人の探査機を操作する自前の通信設備として、臼田町に、当時は東洋一の大きさを誇る直径64mのパラボラアンテナを含む通信用観測所を設置したのである。

その後、火星探査機「のぞみ」、小惑星探査機「はやぶさ」と「はやぶさ2」の制御も、臼田からの送受信で行われた。



今回の旅より後の話になるが、平成15年に打ち上げられ、途中の通信途絶や複数の故障などのトラブルを乗り越えて小惑星イトカワに着陸し、平成22年に地球に帰還するも大気圏で燃え尽きた「はやぶさ」の60億kmに及ぶ軌跡は、日本中が注目した。


帰還途上の通信途絶において、「はやぶさ」からの信号を最初に拾ったのは、臼田のパラボラアンテナである。

3基中2基の姿勢制御装置や全ての化学燃料推進器が故障し、バッテリーは全て放電し切っているという満身創痍の状況で、「はやぶさ」が最後のミッションとして行った地球の撮影は、機体の回転の制御が困難な状態で行われ、最後の1枚だけが、ぎりぎりで地球の姿を捉えた。

送信中に通信が途絶して下部が欠けた写真を目にして、そこで「はやぶさ」が力尽きたのだな、と思うと目頭が熱くなった。

広大な宇宙の中で、地球と僕ら人類がかけがえのない存在であることを、「はやぶさ」が語りかけてくれたように感じた。

この壮大な計画に、故郷が関わったことを誇らしく思った。



びっくりしたのは、「佐久・臼田」停留所が佐久総合病院の敷地内だったことである。

救急以外の診療は休みなのか、玄関はひっそりとしている。

病院が高速バスの起終点になっているのは、三重県の津と尾鷲・熊野・新宮・紀伊勝浦を結ぶ「南紀特急バス」の三重大学病院くらいしか思い浮かばない。


佐久総合病院は、高度専門医療とともに地域密着医療を担っていることで知られ、我が国で初めてとなる集団検診を、昭和34年に八千穂村(現・佐久穂町)全村民を対象に行ったことはよく知られている。

「早期発見、早期治療」の予防医学に繋がる集団検診は、やがて長野県全県に広がり、日本でも有数の長寿県となる土台を築いた。


いわゆる「気づかず型」「我慢型」の潜在疾病が潜む農村特有の健康問題を解決する観点から、「農村医学」という学問を生んだのも佐久総合病院であり、その先頭に立ったのが若月俊一であった。

東京帝国大学医学部で学んだ若月は、戦時中に工場の労働災害の研究で検挙、拘留された経験があり、佐久総合病院に着任すると、労働組合を結成して委員長となり、全従業員の投票で院長に就任する。

「農民とともに」の精神から、無医村への出張診療など住民と一体となった医療実践に取り組み、「予防は治療に勝る」とのテーマで自ら脚本を書いた演劇などをセットにする出張診療で、減塩運動や一部屋温室運動に繋がる衛生活動の啓発に努めたという。


信州と言えば「ピンピンコロリ」である。

在宅死の比率が少ない我が国にあって、佐久地方は、5割以上の住民が在宅死を迎えていると聞く。


「病気になりたくないというのは全ての人の願いですが、人はいつか必ず死を迎えます。勉強が苦手な子どもがテストを受けたくないのと同じで、健康診断を受けたくないと思う人が出てくる。しかし早めに受診したほうが病気が重くなる前に治療ができ、医療費も安くなる。ピンピンコロリに近づける。自宅で大往生する身近な人たちを目の当たりにした結果、住民の方々が何が得なのか分かったのではないでしょうか」


「長野には『お互いさま』『おかげさまで』というような日本古来の感覚が残っている。農村に息づくソーシャルキャピタルがピンピンコロリを支えているのです」


「家族に看取られて住み慣れた家で逝く。理想的な死に方です。親しい人や家族が在宅で大往生したとなれば『自分もあやかりたい』と考える人も出てきます。看護師や医師と力を合わせて看取った家族は、成し遂げたという充実感を抱く。好循環が生まれているのです」


とは、佐久総合病院を取り上げたテレビの特集番組における医師の話である。

「ソーシャルキャピタル」とは、地域の結びつきや信頼、規範などを社会の豊かさとしてとらえた概念と言われている。

都会では軽視されがちの祭や寄り合いなどといった地域の行事も「ソーシャルキャピタル」の1つであり、信州の長寿が「ソーシャルキャピタル」に支えられている。


「なぜ長寿なのか、その答えはやはりよくわからないんですよ」


と、佐久総合病院の医師が笑いながら付け加えたのが、印象的だった。


「でも、どうすれば寿命が短くなるか、医療費が高くなるかは分かります。それは、アメリカ式の医療制度にすればいいんです」



僕は、大学を卒業した時に、佐久総合病院の研修を希望したことがあったが、定員がいっぱいで叶わなかった。

「関越高速バス」池袋-臼田線が、思いがけず佐久総合病院に連れてきてくれたので、白亜の建物を見上げながら、学生時代をほろ苦く思い起こした。

大学の図書館に置かれていた若月俊一の著書は何度も読み込んだし、地域こそ違えども、東京での仕事で、僕は故郷・信州の佐久総合病院の精神を受け継いでいるものと自負している。


僕は、前年から、所属する医療法人の別の病院に出向を命じられていた。

品川区の一角にあるその病院は、入院ベッドが20床と小規模で、備わっている検査機器も最小限であったが、外来、入院、そして訪問診療と総合病院に負けない忙しさだった。

常勤の医師は僕を含めて2人だけだったが、僕と同じく信州出身の院長は、その病院が診療所であった時代から50年に渡って地域の医療を支えてきた大先輩で、一緒に働くだけで勉強になったし、職員もいい人たちばかりであったので、楽しかった。


出向の直前に、東京の郊外にある300床クラスの総合病院で専門研修をしていたのだが、毎朝、出勤のたびに顔を覚えきれない職員を目にして、この人は誰だったっけ、と記憶の底をまさぐるような巨大病院よりも、職員1人1人と顔見知りになり、何でも相談できる小さな職場の方が、僕の性に合っているようだった。

†ごんたのつれづれ旅日記†


僕が小さな病院に着任した平成11年から平成12年にかけては、東海道・山陽新幹線で、カモノハシを思わせる独特の先頭部分を持つ700系車両が登場した一方で、開業時から馴染みだった0系車両が東海道新幹線から姿を消し、山形新幹線が新庄へ延伸、都営地下鉄三田線の三田-白金高輪-目黒間と、営団地下鉄南北線の永田町-白金高輪-目黒間が開通して東急目蒲線の武蔵小杉まで乗り入れたり、都営地下鉄大江戸線が全線開通するなど、鉄道の話題で賑わった。


都営地下鉄の新線は、「東京環状線」など様々な名称が取沙汰されたが、前年に就任した石原慎太郎知事の、


「大江戸線しかないだろう」


という鶴の一声で決定したと聞く。


えらく大時代的な名前を好む都知事だな、と思ったが、石原知事は、運輸大臣を務めていた時代に、放置されていた未成の成田新幹線の設備をJRと京成電鉄の延伸に活用して、成田空港のアクセスを大幅に改善させた実績があり、都知事在任中にも、赤字体質の都営バスにラッピング広告を導入するなど、交通政策で辣腕を振るった印象が強い。



平成12年3月8日に営団地下鉄日比谷線の中目黒駅で起きた事故は、同駅が山手通りと交差する高架になっていて、路線バスやバイクで何度も潜り抜けたことのある見慣れた駅であっただけに、注目した。

北千住発東急東横線菊名行きの電車が、護輪軌条のない急曲線の線形と、車輪の輪重比不均衡など複合的な要因で脱線し、中目黒発東武伊勢崎線竹ノ塚行き電車の側面に接触して、後者の車両で死者5名を出したのである。

大した速度が出ている訳でもなかったようだが、脱線して大きく傾いた電車が、対向の電車の側面を大きく削り取ったテレビ画像を目にして、これで5人も亡くなってしまうのか、と驚愕した。


平成11年7月23日に、羽田発千歳行きの全日空61便がハイジャックされて機長が刺殺され、翌年5月3日には、佐賀発福岡行き高速バス「わかくす」号が17歳の少年に乗っ取られて乗客1名が殺害される西鉄バスジャック事件が起き、事故や犯罪が決して他人事ではないことに慄然とした。



平成11年9月30日に、茨城県東海村のJCOで我が国で初めてとなる臨界事故が発生し、被曝した2名が犠牲となったのも、痛ましくも不安な出来事だった。
後に、この2人の身体を蝕んだ凄惨な放射線障害の詳細を知る機会があり、絶句した。

自然災害では、平成12年2000年6月26日に三宅島で最大震度6を記録する激しい群発地震が始まり、7月8日に雄山で水蒸気爆発が続発、8月10日についに噴火するに至った。

カルデラに大きな火口が開いたため、1日あたり最大5万トンという世界でも類の見ない大量の火山ガスが放出されるようになり、全住民が三宅島から避難することになった。

5年に及ぶ避難生活が終了し、住民が三宅島に戻ったのは平成17年のことである。


政局では、平成12年4月2日に小渕首相が脳梗塞で倒れたために、病床の小渕首相が指名したとして森喜朗首相が後を継いだが、病状から指名の真偽について騒がれることになる。

後に病室を写した写真が写真週刊誌に掲載され、医療機器を見ればどのような病状であったのかは容易に察することが出来たので、担当した主治医や看護師は大変だったろうな、と身につまされた。


就任当時は「冷えたピザ」などと米紙に揶揄された小渕首相であったが、平成不況の対策を次々と打ち出しており、そのまま首相を続けていれば「失われた20年」はなかったのではないか、とする評価もある。

小渕首相の選挙地盤は、「関越高速バス」池袋-臼田線で通り抜けてきた高崎市、藤岡市、富岡市、安中市、多野郡、甘楽郡、碓氷郡などを含む群馬3区だったな、と思う。



個人的には、平成11年の年末に大きな話題になったコンピューターの2000年問題、いわゆる「Y2K」が強く印象に残っている。

コンピューターで日付を扱う際に、4桁の西暦のうち上位2桁を省略して下位2桁だけを処理対象としていたことが原因で、2000年1月1日を迎えた瞬間に、コンピューターが1900年と誤認して誤作動する可能性があるという問題で、僕は"yy-mm-dd"や"dd-mm-yy"などといったプログラムに疎かったので、よく分からんけれどもそういうものなのか、と感心するしかなかった。


ところが、鉄道各社が、12月31日から1月1日に跨って運転する全ての列車を最寄り駅に臨時停車して運転を見合わせることとなり、航空便も欠航や年明けの出発に変更、また各地で稼働している原子力発電所も不測の事態に備えたと聞いて、これは大ごとだ、と心を改めた。



停電などで医療機器が動かなくなる事態に備えて、僕は大晦日の当直に志願した。

ナース・ステーションでラジオを流し、看護師、介護士たちと幾分緊張しながらカウントダウンした。

0時の時報が鳴ってしばらくは、いつ停電で真っ暗になるのか、と誰もが不安そうに周りを見回していた。

結局は、病院も世の中も、大きな混乱は起きずに済んだのだが、あの瞬間の異様な緊張感は、今でもありありと思い出せる。


女川、福島第二、志賀原発で警報装置が誤報を発したり一部のデータ管理が不能になったものの、発電や送電、放射性物質の管理に支障なく、携帯電話のショートメールで、既読メールが容量を超えた場合に古いメールから自動削除する機能が誤作動したり、古いビデオデッキの予約録画やワープロの文書管理機能に影響が出た程度だったと聞く。



「そう言えば、ノストラダムスの予言も今年でしたけど、何も起きませんでしたね」


と、NHKラジオの「ゆく年くる年」に耳を傾けていた若い看護師が、ふと呟いた。


『1999年7の月

空から恐怖の大王が来るだろう

アンゴルモアの大王を蘇らせ

マルスの前後に首尾よく支配するために』


16世紀の占星術師ミシェル・ノストラダムスが刊行した「予言集」(百詩篇)における第10巻72番の詩は、子供の頃から、よく耳にしたものだった。

この詩を最初に解釈したのは、17世紀末のバルタザール・ギノーで、「アンゴルモアの大王」をフランスの皇帝ルイ14世と解釈し、恐怖の大王とはルイ14世の再来を思わせるような欧州を震撼させるフランスの王と考えたのである。

1920年代から30年代にかけては、欧州を恐怖させるアジアの王が空から襲来するという解釈が流布し、第二次世界大戦の前後には解釈が多様化して、欧州の局地的破局にとどまらず、人類滅亡に結びつける解釈が見られるようになったと言われている。


我が国では、五島勉が昭和48年に発表した「ノストラダムスの大予言」で人類滅亡説を紹介したことをきっかけに、「恐怖の大王」とは人類を滅亡させる事象である、という解釈が広く流布した。

昭和49年には、「ノストラダムスの大予言」と題された映画も公開されている。



僕は五島勉の著書を読んだことがなく、映画は様々な表現上の問題点からソフト化されていないので未見であり、「ノストラダムスの大予言」は友人との会話で聞き齧っただけだったが、講談社の漫画雑誌「週刊少年マガジン」に平成2年から不定期連載されていた「MMR(マガジンミステリ調査班)」は面白かった。


調査班のリーダーが、ノストラダムスの予言の解釈について、


「○○は✕✕だったんだよ!」


と断言し、他の調査員が、


「な、なんだってー!」


と驚愕する場面が毎回繰り返されるのが、個人的には大いにツボで、よく真似したものだった。


「先生、△号室の□□さんが眠れないから何か睡眠薬をくれって言ってます」

「な、なんだってー!」

「そんなに驚くようなことですか?夕べと同じ薬でいいと思うんですけど」

「ごめん」


「MMR」で取り上げられた「恐怖の大王」とは、核戦争に始まり、超能力の軍事利用、致死的な感染症の蔓延、太陽光線の異常、火山の破局的噴火、環境汚染、遺伝子異常、地球のポールシフト、小惑星の衝突、宇宙人の侵略など多岐に渡り、人類は滅亡を招くような危機と常に隣り合わせであることを実感したものだった。



世紀末ともなれば色々と騒がしくなるものだな、とぼんやり思いを馳せながら、僕は、平成12年の真夏の信州にいる。


せっかく高速バスで臼田まで来たというのに、停留所のある佐久総合病院から離れもせず、茫然と1時間あまりの待ち時間を過ごした。

昼時を迎えているけれども、ファーストフードならばともかく、食堂でゆっくりと食事をするほどの時間はない。

日差しに照らし出された表通りは埃っぽく、殆んどがシャッターを閉ざしている。

地域の商店街の保護を目的とした「大規模小売店舗法」が、米国との交渉で廃止となったのが平成12年で、この頃から「シャッター商店街」との言葉が話題になり始めたのではなかったか。


一角に、「ラーメン大学」の看板を掲げたラーメン屋と、「グリルマルシメ」の看板がある洋食店が仲良く並んでいて、建物の古さを見れば長い年月を営業しているような佇まいだったから心をそそられたが、どちらも閉まっていた。



佐久と言えば、鯉料理が名物とされている。

これまで数えるほどしか味わったことがないけれども、今でも懐かしく思い出されるのは、幼い頃、夕食に鯉こくが出た時のことである。


鯉を筒切りにして、臭みを取るためにざるに置いて湯を掛け回す霜降りを行う。

鍋で煮立てた湯に、日本酒、味噌、砂糖を加えてから、鯉を入れる。

煮立ったら弱火にして、灰汁を取りながら1時間ほど煮込み、椀に汁と切り身を盛りつけ、細ネギ、柚子を乗せ、粉山椒、七味唐辛子を振りかける、と言うのが鯉こくの一般的なレシピと言われているが、残念なことに、その味は殆ど覚えていない。

それでも、鯉料理と言えば、午後の早い時間から、張り切って台所に立っていた母の姿が思い浮かぶ。



鯉料理なんぞを連想したので、殊更に募る空腹を我慢しながら、定刻きっかりに現れた高速バス長野-佐久線の川中島バスに乗り込めば、大層古びていて、座席も狭く感じられた。

池袋から乗ってきた西武バスは背の高いスーパーハイデッカーで、座席数を36席に抑えて広々としていたが、長野行きの高速バスはハイデッカーで45席も詰め込まれている。

始発から乗り込んだ乗客数は、1桁だった。


内田百閒の「阿房列車」の1編「房総鼻眼鏡」に、以下のようなくだりがある。


『新聞社や放送局の諸君が待ち受けていて、インタヴィウをすると云う。


「幹線の列車は、設備もよくサアヴィスも行き届いている。然るにひとたび田舎の岐線などとなると丸でひどいものです。同じ国鉄でありながら、こんな不公平な事ってないでしょう。そう云うのが一般の與論です。これについてどう思いますか」

「表通が立派で、裏通はそう行かない。当り前のことでしょう」

「それでは今の儘でいいと言われるのですか」

「いいにも、悪いにも、そんなことを論じたって仕様がない。都会の家は立派で、田舎の家はひなびている。銀座の道は晩になっても明かるいが、田舎の道は暗い。普通の話であって、いいも悪いもないじゃありませんか」


感心したのか、愛想を尽かしたのか、向うへ行ってしまった』


報道に携わる人間が、あたかも自分が世論を背負っているかのような正義感に駆られて、上から目線になるのは、「阿呆列車」の昭和20年代も平成の御代も変わらないのだな、と苦笑いが浮かぶやりとりである。

百閒先生のとぼけた応対ぶりに、拍手したくなる。



「関越高速バス」池袋-臼田線では「佐久・臼田」と曖昧な名前だった佐久総合病院の停留所を、高速バス長野-佐久線は「臼田佐久総合病院」と呼称している。


臼田から長野まで74.6kmと、池袋と臼田の間の190.7kmより遥かに短く、たかだか1時間半という所要時間であるから、バスが古くても狭くても文句は言えない。

百閒先生を見習い、いいも悪いもないではないか、と気分を改めて、正真正銘の初乗りとなる高速バスを大いに満喫しようと思う。

今回の旅で楽しみにしていたのは、「関越高速バス」池袋-臼田線よりも、高速バス長野-佐久線の方であった。

 

 

長野市と東信を結ぶバス路線の歴史は古く、昭和22年に川中島自動車の長野と上田を国道18号線経由で結ぶ「国道上田線」が走り始め、昭和33年に長野と臼田を結ぶ特急バスを川中島自動車と千曲自動車が1日8往復で登場させ、昭和40年に長野-中軽井沢間の特急バスが1日4往復で運行を開始している。


当時の時刻表を紐解けば、「特急長野線(中軽井沢-臼田-小諸-長野)」と書かれた欄に、長野と臼田を結ぶ系統が所要2時間05分、長野と中軽井沢を結ぶ系統が所要2時間きっかりで走っていたことが分かる。



国道18号線が改修され、東京と長野を結ぶ特急バスが開業したのが昭和36年で、佐久に本社を置く千曲自動車は、昭和22年に上田-松本線、昭和24年に上田-小諸-臼田線、昭和34年に小諸-甲府線といった長距離路線を展開し、この頃が信州における一般国道を使った特急バスの最盛期となったのだが、現在ならば、国道18号線を使って、この所要時間でバスが走れるだろうか。

おそらく、当時の国道18号線は車が少なく、ガラガラにすいていたのだな、と推察する。


昭和40年代に入るとモータリゼーションの発達と並行する信越本線の改良によって利用客数が激減し、昭和47年までに、同社の長距離路線は悉く廃止に追い込まれた。

平成8年の上信越道延伸に伴って開業した高速バス長野-佐久線は、昭和33年の特急バスの再来と言えるだろう。



池袋からのバスでたどって来た道路を折り返した長野行きのバスは、「野沢相生町」「中込駅」「岩村田」「千曲パークホテル」に立ち寄りながら少しずつ乗客を増やしたが、佐久ICで高速道路に乗った時でも10名前後であった。

佐久の人々は長野に行かないのかな、などと首を傾げてしまうが、佐久と長野の間くらいの距離ならば、社用車や自家用車を使うのだろう。


高速道路の整備は、バス業界にとって大きなビジネスチャンスであるものの、同時に、競合する車も便利になるので、常に諸刃の剣に曝されている。



まして、国道18号線を経由していた特急バスの時代は、小諸などの停留所は市街地に設けられていたのであろうが、高速道路の大半が郊外に造られている。

高速バス長野-佐久線が上信越道で停車するバスストップは、県道と交差する本線上の「小諸高原」、サービスエリアに置かれている「東部湯ノ丸」、インターに併設した「上田菅平」の3ヶ所である。

上信越道そのものが市街地と離れた千曲川の河岸段丘に造られているので、小諸市や東部町、上田市に住む人々に使い勝手が良いとは言えない。

それぞれ利用者用の駐車場が設けられているものの、いったんハンドルを握れば、高速バスの停留所に向かうより、直接長野市に向かった方が手っ取り早い。


かつて、佐久市は信越本線から外れていたので、直通する特急バスの需要があったのだろうが、今や、新幹線の駅が出来て、長野駅まで20分という比類なき速達性を発揮している。

昭和20~30年代に運行されていた長野と飯田を結ぶ「みすず急行バス」や、長野と松本を結ぶ特急バスは、平成の高速道路時代を迎えて、それぞれ高速バスとして復活し、それなりの需要を掴んでいる。


長野と臼田の間でも、夢よもう1度、と高速バスを開設した事業者の意気込みは理解できるが、残念ながら、高速バス長野-佐久線は平成16年に運行を取りやめた。



そのような未来のことを知るはずもないし、空いている乗り物は、気を遣わないで済むからありがたい。

何よりも、これで実家に帰れる、と安心した。

信州の県内高速バスが起終点としている長野県庁停留所は、実家のすぐ近くなので、長野駅を発着する東京からの直通高速バスよりも、歩く距離が短く済む。

佐久総合病院のように、乗り換え停留所が同一の場合は、尚更である。

今回の旅の出来映えに、僕は大いに満足していた。


佐久ICに入ってすぐの直線区間で目にした浅間山、独特の形状が面白い「上田ローマン橋」、戸倉上山田付近から見下ろした千曲川の清流、そして五里ケ峯を抜けて眼前に展開した善光寺平など、懐かしい故郷を映し出す上信越道の景観に酔い痴れながら、瞬く間に過ぎ去った高速バス長野-佐久線の1時間半だった。


 

 

 

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