蒼き山なみを越えて 第46章 平成13年 急行バス長野-大町線・中央高速バス新宿-大町・白馬線 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成9年10月の長野新幹線開業は、長野を故郷とする人間としてこよなく嬉しかったが、それにも増して僕の心を躍らせたのは、新幹線に接続して長野駅から各地に走り始めた直通バスの登場だった。



主な路線は志賀高原、飯山・木島平・野沢温泉、白馬、大町方面であるが、僕が最も注目したのは、長野と大町を結ぶ急行バスである。


長野市と大町市は、距離にして50kmと離れていないのだが、直通する鉄道路線が存在せず、長野県の市で唯一、定期運転の直通列車が走っていなかった。

平成になると、長野駅からJR篠ノ井線で松本駅に出て、JR大糸線で信濃大町駅、白馬駅を経て南小谷駅に向かう観光列車「リゾートビューふるさと」が不定期で運転されるようになったが、所用でこの列車を使う人間はいないだろう。

大町市は大糸線沿線の中心都市であり、地図の上では長野市とそれほど離れていないのに、行き来する交通機関は所要2時間あまりを費やす路線バスだけという関係であった。



幼い頃に、父が運転する車で黒部ダムに出掛けたことがある。

黒部ダムの入口は、大町から西へ入った扇沢になるが、往路は鬼無里村経由の国道406号線を、復路は中条村と小川村経由の県道31号線と国道19号線を使った。

前者は乗用車同士がすれ違うのも困難な隘路で、裾花川の渓谷に沿う崖っぷちの箇所も多く、僕が怖くて泣き出してしまうような悪路だった。



長野と大町を結ぶ路線バスが走っていたのは後者で、すれ違いに苦労するような箇所は少なかったが、次から次へと筑摩山地の山並みを越えていく鄙びた田舎道だった。

子供の頃の記憶は、国道406号線があまりにも強烈だったためか、県道31号線の印象が薄いのだが、大学生になって、改めて長野から大町まで途中の高府乗り継ぎの路線バスで乗り通した時は、大町は何と遠いのか、と溜め息が出た。

大町の人々も、同じ思いであったことだろう。



平成7年2月に、長野と大町の間に風穴が開いた。

長野冬季五輪におけるホスト・シティの長野市と白馬会場を結ぶアクセス道路として、国道19号線の信更交差点を起点に、県道31号線の南側を短絡する白馬長野有料道路が建設されたのである。


同時期に、国道19号線と県道31号線も複数箇所で改良工事が進められ、長野駅と信濃大町駅を1時間20分で結ぶ急行バスと、長野駅と白馬駅を55分で結ぶ特急バスが、運行を開始した。



特急バス長野-白馬線は、アルペンやジャンプ競技の会場となった八方スキー場に直通し、地域輸送ばかりでなく、五輪輸送を担う役割を課されており、長野新幹線と接続して東京駅と白馬駅の間を2時間半で結ぶという前代未聞の俊足を発揮した。


それまで東京から信濃大町駅や白馬駅への行き方で一般的だったのは、中央東線から大糸線に乗り入れる特急「あずさ」を利用する方法だった。

長野新幹線が開業する前の「あずさ」は、新宿駅から信濃大町駅まで3時間半、白馬駅まで4時間を費やしていた。

所要時間を1時間半も短縮したのであるから、北アルプスに向かう登山客やスキー客が、長野駅で数多く見られるようになった。

まさにこれは信州における交通革命と言うべきで、北アルプスの玄関口が松本駅から長野駅に移ったのである。



同時に開業した急行バス長野-大町線は、急行便で本数も少なく、白馬系統の特急便と比べれば、どこか地味な存在だった。


そもそも、新しく建設された五輪道路の名称も、大町長野有料道路ではなく、白馬長野有料道路である。

国道19号線と五輪道路を使うと、長野駅から信濃大町駅または白馬駅まで、前者の距離が45km、後者が42kmと殆んど変わらない。

それにも関わらず所要時間が30分も異なるのは、特急と急行の違い、つまり停留所数の違いであろうか。

両者の経路は、美麻村の青具交差点で二股に分かれ、大町へは県道31号線がそのまま南へ延びているものの、途中で中山高原を越える山道になっている。

それに対して、美麻から白馬へ抜ける県道33号線は、五輪道路として整備された曲線の少ない線形であることが、一因なのだろう。


所要時間も道路の線形も、大町系統より白馬系統の方が格上のように見えてしまうのだが、それでも、僕は、長野駅を起点とする新しいバス路線の中で、急行バス長野-大町線を最初に体験することに決めていた。

こちらこそ、生活に密着した都市間路線ではないか、と判官贔屓に似た気持ちだったのである。



長野市の実家で平成13年の盆を過ごした僕は、11時50分に長野駅善光寺口を発車する信濃大町駅・扇沢駅行きの便に乗り込んだ。

今でこそ、長野新幹線に接続するバス路線の乗り場は長野駅東口に統一されているが、当時の急行バス長野-大町線は、他の市内路線と一緒に善光寺口を発着していた。


一緒に車内の席を占めたのは十数人で、昼前の時間帯にしては乗車率が良いけれど、登山客らしい装いの利用者は皆無で、もっと早い時間のバスを使うのだろう。


「速かったですなあ」

「長野までノンストップだったからな、便利になったもんだ」

「今までは、大町に来るのに朝の5時起きで、7時の列車でしたからな」


と、用務客らしいYシャツ姿の2人連れの男性の会話が聞こえ、東京駅と長野駅の間を無停車の79分で結ぶ「あさま」3号が、このバスに接続しているのか、と思い当たった。

僕が長野新幹線に初乗りしたのも同じ列車だったので懐かしいが、「あさま」3号の東京発が10時20分、長野駅で11分という乗り換え時間が多少忙しいけれども、この急行バスの信濃大町駅の到着が13時12分であるから、東京-大町間が2時間52分しか掛からないことになる。


一方で、白馬行き特急バスの長野駅発車が12時10分と間が開いているにも関わらず、白馬駅着が13時05分と信濃大町駅よりも早く、東京-白馬間が2時間45分である。

ちなみに、新宿駅を10時00分に発車した「スーパーあずさ」5号の信濃大町駅着が13時01分、白馬駅着が13時26分である。

直通特急列車における新宿と信濃大町の間の所要時間が、長野新幹線と急行バスの乗り換えと互角に縮んでいるのは、新型車両を投入した「スーパーあずさ」の俊足を称賛すべきであろう。



長野新幹線が開業してから4年になるのか、と思う。


あれほど渇望していた新幹線であるのに、利用回数がそれほど多くないことに気づいた。

故郷へのバス旅も1年ぶりで、仕事が忙しいという理由もあるけれども、困ったことに、僕は同じ路線を何度も乗り直すことにあまり興味が湧かない。

故郷への高速交通機関であっても例外ではなく、1度体験してしまうと魅力が薄れたように感じてしまうのはどうしたことか。

新幹線が便利であることに異議はないけれど、目に見えて利用頻度が減っているのは、玩具に飽きた子供のようで、あまりよろしくない。



平成12年から13年への移り変わりは、いよいよ21世紀を迎えたか、という感慨はあったものの、僕の周辺も世の中も大して変わるはずもなく、20世紀の日常をそのまま持ち越しているような感覚だった。


子供の頃の「21世紀」と言えば、真空チューブの中を走る列車やエアカーが幾何学的な都市を行き交い、核融合発電などバラ色の科学技術に彩られたイメージを抱いていただけに、何となくがっかりした気分だった。

それでも、昭和48年に公開された映画「ソイレント・グリーン」や、昭和57年に公開された「ブレードランナー」、昭和59年公開の「1984」、昭和60年公開の「未来世紀ブラジル」などに描かれたディストピアでないだけマシであろう。

よく考えてみれば、世の中が短期間で劇的に一変することなどあろうはずもなく、平成12年と平成13年の街並みが馴染みのままであるのも当たり前と言われれば当たり前である。


変わらないのは我が国の政治も同じで、平成12年4月に小渕恵三首相が病に倒れ、急遽後を継いだ森喜朗首相は、指名の過程における疑惑を払拭できず、欧米の報道で「クレムリンなみの密室人事」と揶揄される船出となった。

同年5月には、「今、私は政府側におるわけでございますが、若干及び腰になることをしっかりと前面に出して、日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をして戴く」と宗教団体の会合で挨拶した「神の国」発言や、平成13年2月に愛媛県沖で宇和島水産高校の練習船「えひめ丸」に米海軍の原子力潜水艦が衝突し、9名が犠牲になった事故で一報を聞いてからもゴルフを続けたという行状などが批判された。



平成12年11月の衆院本会議において、野党から提出された内閣不信任決議案に対し、次期総裁候補と目されていた加藤紘一が自派閥を率いて不信任案を支持した「加藤の乱」が大きく報じられた。

執行部の切り崩しにより敗色が濃厚になった時に、行動を共にした議員が処分を受けないよう、1人で不信任案に賛成票を投じようとする加藤を抑えて、同じ派閥の谷垣禎一が「加藤先生は大将なんだから!独りで突撃なんて駄目ですよ!加藤先生が動く時は俺たちだってついていくんだから!」と泣きながら説得する場面が何度もテレビで流れ、後年に自民党総裁を務めた谷垣の人柄を偲ばせるエピソードとなった。

結局、森首相では選挙を戦えないとする党内の声に押される形で、平成13年4月に森首相は退陣している。



総裁選を制して首相となった小泉純一郎は、「自民党をぶっ壊す」と放言し、それまでの自民党政治に対する閉塞感も手伝って、80%を超える支持率を叩き出した。

派閥を排した組閣や、「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに、道路関係四公団、石油公団、住宅金融公庫、交通営団、郵政三事業の民営化など、小さな政府を目指す「聖域なき構造改革」を打ち出して、それまでとは異なる型破りな政治家としての手腕に、誰もが期待したのだろう。


大相撲5月場所で、横綱貴乃花が右膝半月板を損傷する14日目の怪我を乗り越え、鬼の形相で横綱武蔵丸を豪快な上手投げで破って奇跡的な優勝を決めた際に、内閣総理大臣杯を授与した小泉首相が、


「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!おめでとう!」


と貴乃花を賞賛すると、場内がウォーッという大歓声に包まれ、貴乃花よりも小泉人気の大きさを感じたものだった。



プロ野球では、平成12年のペナントレースで長嶋茂雄監督率いる読売巨人軍がセ・リーグを、王貞治監督率いる福岡ダイエーがパ・リーグを制し、日本シリーズは「夢のON対決」と騒がれた。

結果は、巨人が2連敗から4連勝で勝利し、6年ぶり19度目の日本一となったが、V9時代の直後に巨人ファンとなった僕は、その時代の主役であった長嶋と王の監督姿に興奮すると同時に、容赦のない時代の流れを感じた。

それでも、2年前の「メイクドラマ」といい、今回の「ON対決」といい、長嶋茂雄のスターとしての幸運な星回りには、舌を巻かざるを得ない。



急行長野-大町線のバスは、長野駅からターミナル南通りで国道19号線に入った。

裾花川を渡りながら、上流に見える長野県庁の近くの実家に思いを馳せているうちに、急行バスは安茂里、小市の住宅団地を過ぎて、犀川の畔に出た。


小田切ダムの手前にある両郡橋と、その先の犬戻トンネル、七二会の集落に渡る明治橋は、いずれも新しく造り替えられていて、大型車の離合に苦労した往年の面影は皆無である。

驚いたのは七二会から大安寺橋に至る区間で、かつては犀川に沿う崖の上の道で、笹平の集落をすり抜けて大安寺橋に下っていたのだが、今では、長さ1145mの笹平トンネルで、七二会と大安寺橋が短絡されている。



国道19号線は幾つもの橋梁で犀川と絡み合いながら筑摩山地を越えているが、どの橋も、建設費を節約するためなのか、川と直角に架けられており、川面からの高さも低く、前後で急坂や急カーブが生じている箇所が少なくなかった。

大安寺橋がその最たる例で、昭和60年1月に発生したバス転落事故は、犀川と平行する下り坂で減速できなかったバスが、橋の手前の直角の曲線を曲がり切れなかったのである。


今や、大安寺橋は犀川を斜めに渡り、前後が直線になって、橋の高さも高く、勾配やカーブが解消されている。

橋の袂に建立された慰霊碑を目にすれば、最初からこのような構造にしていれば、25名もの生命が失われることもなかっただろうに、と思うと、やるせなさが込み上げてくるけれど、事故を教訓として国道19号線が改良されたのだから、もって冥すべきであろう。



国道19号線は、子供の頃から、飯田市にある父の実家や、中条村の母の実家の往来で馴染みの道であり、何度走っても懐かしさが募るのだが、大町行きの急行バスは、何処までこの国道を走り続けるのだろうか。

路線バスが走っていた県道31号長野大町線の分岐は、笹平トンネルの上にあり、とっくに通り過ぎている。

このまま松本市まで行くつもりではなかろうな、と不安になった頃、不意に、「白馬 大町」の文字が路面に描かれた車線が左に増え、バスがそちらに移った。



そのまま分岐した流出路は、右に折れて国道本線の下をくぐり、「HAKUBA-NAGANO TOLL ROAD 白馬長野有料道路」との看板を掲げた料金所が見えた。

そのまま1137mの日高トンネルを潜り抜けると、長閑な田園風景が開けた。

それまでの国道19号線が、犀川が削る谷間ばかりだったので、ここにこのような平地があったのか、と目がぱちぱちするような車窓の変化だった。



右手のなだらかな山々の麓に、家々が建て込んでいる集落が連なっている。

見覚えのあるその町並みに、思わず身を乗り出した。

白馬長野有料道路は、県道31号線が貫く中条村や小川村の中心部を避けて、犀川の支流の土尻川の南岸を走っているので、その集落は母の実家がある中条村ではないか、と気づくのに、少しばかり時間がかかった。

母の実家のすぐ裏手に土尻川の河原があり、幼い頃に従姉妹たちと水遊びに興じたことを思い出す。

懐かしい村の佇まいを裏から眺める視点が、無性に面白かった。


中条村の隣りの小川村に入る手前で、白馬長野有料道路は県道31号線と合流するが、中心部の集落を外れた道路が新設されていて、その先で山越えに差し掛かっても、あくまでも曲線を廃した滑らかな造りになっている。

ところどころで旧道の出入り口が交差して、昔の道路の紆余曲折ぶりが手に取るように分かる。

このあたりでは、土尻川も羊腸の如く曲がりくねっていて、県道31号線も、かつては川と同じように九十九折りだったのだろう。



この区間に、「日影」という停留所がある。

急行バス長野-大町線も停車するので、かなりの集落なのだろうが、如何にも直接的な地名で、のしかかってくるような山塊に日光が遮られてしまう土地なのだな、と察せられる。

このような地名の場所に住む人が知り合いにいれば、何となく後ろめたい気分になるだろうな、と思う。


この旅の当時、僕は宮崎県延岡出身の女性と知り合っていた。

彼女の母親は、延岡市の南隣りの日向市から、九州山地の懐にある椎葉村に向かう国道327号線に沿った「山陰(やまげ)」という土地の生まれだった。

後年に訪れた際には、耳川が削る細長い谷底にへばりつくように家々が散在し、間近にそそり立つ山に遮られて、日中の半分しか日が射さないのだと聞いた。

そのような地形は全国にあるのかもしれないけれど、「日影」や「山陰」などとあからさまに名付けてしまうところに、その土地の見てはならない一面を覗いてしまったような心持ちがした。


ところが、「日影」という地名は、神奈川県や埼玉県、群馬県など各地に存在し、長野県伊那市に至っては市街地の真ん中である。

中央アルプスや南アルプスの山影のことを指しているのだろうか。



美麻村に入ると、間もなく青具の交差点で、白馬へ向かう県道33号線が右手に分かれていく。

青具の地名には見覚えがある。

かつて、長野と大町を結ぶ路線バスをここで下車すれば、青具から白馬へ向かう路線バスに乗り換えることが出来た。


県道31号線からは、北の鬼無里村や南の信州新町へ向かう県道36号線などが分岐していて、川中島自動車がそれぞれ路線バスを走らせていた時代があった。

中条村と信州新町に県立高校があるので、学生をはじめとする周辺地域からの人の往来が盛んだったのだろう。

「人が住むところにバスあり」と言われる昭和20年代から30年代のバス全盛期の話であり、信州が車社会に変貌すると、瞬く間に淘汰されてしまった。


僕は、世の中の進歩を信じている人間である。

利用者が減少して廃止されるのは、自由主義経済ならば如何ともし難いことなのだろうが、かつて公共交通機関で行けた土地に行けなくなっている現在は、果たして進歩しているのだろうか、と首を捻ってしまう。



県道31号線は、青具の交差点で進路を南に転じて、松林の中を中山高原に向かう。

春には菜の花が咲き誇り、真夏の今は、一面の深緑に覆われた高原である。

ところどころに可憐な蕎麦の花が混じっていて、9月になれば、白い蕎麦畑に変じるのであろう。


彼方に北アルプスの山並みが顔を覗かせて、視界が閉ざされた山中を走って来た身としては、心が洗われるように伸びやかな光景だった。

信州の夏だな、と嬉しくなる。



急行バス長野-大町線は、1時間半の行程を難なく走り抜けて、定刻に違わず信濃大町駅前の広場に滑り込んだ。


周囲をなだらかな山嶺に囲まれた長閑な駅である。

このバスの終点は、黒部ダムに向かう「関西電力トロリーバス」が発着する扇沢駅で、間髪を置かずに発車していくバスの後ろ姿を見送りながら、「立山黒部アルペンルート」に行きたかったな、と思った。



子供の頃の家族旅行で黒部ダムを訪れた時には、扇沢駅の駐車場に車を置いてトロリーバスに乗り換えたのだが、観光シーズンだったのか、乗り場に長蛇の列が並び、何台も連続して運行されていたトロリーバスも、立錘の余地がないほど混んでいた。

僕にとって唯一無二のトロリーバス体験だったが、ぎゅうぎゅう詰めの車内で揉みに揉まれた記憶しか残っていない。

大都市の通勤ラッシュ並みの混雑を生まれて初めて経験したのが、「関電トロリーバス」だったと思う。



堤高186m、幅492m、貯水量2億トンという巨大な黒部ダムに息を呑み、放水がないものか、と足がすくむような眼下のダム湖を覗いた記憶がある。

迫力のある放水を目にすることが出来たのかどうかは覚えておらず、脳裏に残っている放水場面は、テレビで観たのかもしれない。


ダムの天頂を対岸まで往復したものの、その先に続くアルペンルートのあまりの混雑に両親が怖れを成したのか、そのまま扇沢に引き返してしまった。

「立山黒部アルペンルート」の乗車時間そのものは3時間にも満たないが、多客期にはそれぞれの待ち時間が2~3時間にも及ぶと言われているので、両親としてもやむを得ない判断だったのであろう。



高度経済成長期における関西地方の深刻な電力不足を解消すべく、昭和38年に完成した黒部ダムの建設については、三船敏郎と石原裕次郎の主演で昭和43年に公開された映画「黒部の太陽」で詳細が語られている。

この映画は、石原裕次郎の「映画は映画館で観るべきである」との強い意向で、平成25年まで、ビデオやDVDにされることがなかったものの、僕は学習雑誌で短編漫画を読んでいた。

余談であるが、あの漫画の写実的な筆致は、「ゴルゴ13」などで知られるさいとうたかをだったような気がする。

人が歩くことすら困難な秘境の地で、幾多の困難を乗り越えて巨大プロジェクトを成功させた我が国の底力を、子供心に誇らしく思ったものだった。



扇沢駅と黒部ダム駅を結ぶ「関電トロリーバス」は、黒部ダムと発電所建設の資材輸送用に掘削された全長6.1kmの「大町トンネル」を使い、昭和39年に開業した。

公式には「無軌条電車」と呼ばれる歴とした鉄道であり、長野県では長野電鉄、松本電鉄、上田交通と並ぶ4つ目の私鉄線である。


映画「黒部の太陽」は、調査に訪れた人々の登山の場面で幕を明け、更に何本もの破砕帯にぶつかって大出水に悩まされた大町トンネル工事の描写が大半を占めていたので、黒部ダム建設は、資材輸送用のトンネル建設の比重が高かったのであろう。



立山黒部アルペンルートは、「関電トロリーバス」に続いて、


黒部湖-黒部平:黒部ケーブルカー(0.8km)

黒部平-大観峰:立山ロープウェイ(1.7km)

大観峰-室堂:立山トンネルトロリーバス(3.7km)

室堂-美女平:立山高原バス(23km)

美女平-立山:立山ケーブルカー(1.3km)


という行程で、立山から富山に抜ける富山地方鉄道線も含めて、鉄道ファンとしてはいつか乗り通してみたいと思っているのだが、未だにその機会に恵まれていない。

急行バス長野-大町線が、広義の意味で「立山黒部アルペンルート」を担うことになったのだな、と思えば、嬉しい。



信濃大町駅の近くには、同駅と扇沢駅を結ぶ路線バスを運行する北アルプス交通の車庫があり、居並ぶバスを眺めているうちに、やっぱりアルペンルートに行く旅程を組めば良かった、と臍を噛んだが、この日は、そうはいかない理由があった。

この年の7月に開業したばかりの「中央高速バス」新宿-大町・白馬線の乗車券を、既にポケットに忍ばせていたからである。


昭和59年の新宿-飯田線、新宿-伊那・駒ケ根線、昭和62年の新宿-岡谷・諏訪線、平成元年の新宿-松本線、そして平成4年の新宿-長野線と信州各地への路線を展開した「中央高速バス」に、久々の新路線が登場したのだから、乗らずにはいられなかった。



開業当初の「中央高速バス」新宿-大町・白馬線は、1日2往復の運行で、午後の上り便は信濃大町駅を16時05分に発車するが、始発は「白馬八方」になっている。

長野冬季五輪の会場になった八方スキー場の近くなのであろうが、始発地から乗りたくても場所があやふやである。

JR白馬駅から「八方」行きの路線バスが出ているのは承知しているし、その終点なのだろうと推察は可能である。

熱戦の舞台となった五輪会場を見てみたい、と思わないでもないけれど、観光地を1人で訪れるのは、形見が狭い思いをすることが分かり切っているので、気が進まない。


時刻表では、続いて「白馬村」と「白馬五竜」に停車してから信濃大町駅に立ち寄ると記載されていて、「白馬」はJR白馬駅の近くなのかもしれないし、「五竜」は我が国で初めてゴンドラリフトを導入した有名なスキー場であるけれども、やっぱり停留所の場所がはっきりせず、駅に寄ることが判然としている信濃大町駅でバスを捕まえるのが無難だろうと考えた。

何よりも、僕は特急バス長野-白馬線よりも急行バス長野-大町線に乗りたかったのだから、大町から乗るのは当然である。


定刻に発車した新宿行きのバスには、信濃大町駅より前に乗り込んでいた先客を合わせて30人ほどが席を埋め、なかなかの盛況である。

観光客なのか、帰省でUターンする地元客なのかは判然としないが、「中央高速バス」の集客力とは凄いものだ、と感心した。



信濃大町駅を出て、国道147号線を走り始めると、左手の木立ちに囲まれた敷地の中に林立する工場らしき三角屋根が見えた。

昭和電工大町工場である。

昭和8年に建設されたこの工場は、翌年に国産アルミニウムの製造に成功し、現在でも世界最大の32インチ黒鉛電極を生産するなど、僕にとって昭和電工、と言えば大町工場、と自然に連想するほどの、故郷の大工場であった。

ここだったのか、と思う。


戦後の芦田内閣総辞職の原因ともなった疑獄事件や、松本清張が、当時としては珍しく経済犯罪を扱った推理小説として昭和32年から連載を始めた「目の壁」にも「昭和電業」として登場するなど、何かと話題の多い企業である。

「目の壁」は、青木湖、中綱湖、木崎湖の仁科三湖を舞台にしているため、僕は興味津々で読破したのだが、昭和34年に連載が始まった同氏の「影の地帯」も、仁科三湖をはじめとする大糸線沿線から、野尻湖や柏原と言った信越国境付近、更には諏訪湖、木曽の大平峠といった信州各地に舞台が移り変わるので、こちらも楽しく読み進めたものだった。



仁科三湖とは、崇神天皇の末子であり、垂仁天皇の弟にあたる仁品王が、現在の大町市に当たる「王町」に下ったという記録があることと関連しているのかと思い込んでいたが、伊勢神宮の荘官である豪族仁科氏がこのあたりに勢力を拡大することで、仁科と呼ばれるようになったという説が有力らしい。

そもそも、「仁」は赤茶けた土壌を、「科」は坂や段差のある地形を指すと言われ、信濃国に「科野国」という漢字が当てはめられていた昔から、「科」のつく地名が多い。

「中央高速バス」に白馬から乗れば、仁科三湖の湖岸を走ったのに、と思うと、少しだけ残念な気分になった。


新宿行きのバスは、右手に北アルプス、左手に筑摩山地を眺めながら、国道147号線を坦々と南下し、信濃大町駅の次の「安曇野松川」、その次の「安曇野豊科」と、乗車停留所の案内が車内に流れる。

どこから安曇野に入ったのか、と首を捻ってしまうが、 豊科町、穂高町、堀金村、三郷村、明科町、池田町、松川村、大町市南部(旧常盤村、社村)、梓川村を含むという説が有力であり、古くは安曇平と呼ばれていたという。


僕は安曇野と松本盆地がほぼ同義語と思い込んでいたのだが、松本盆地の範囲は、松本市、塩尻市、山形村、朝日村を含む松本平と、安曇平を合わせたものと定義されているらしい。

つまり、「中央高速バス」新宿-大町・白馬線が、豊科ICで長野自動車道に入るまでの経路の大半は、松本盆地に含まれている訳である。



安曇野の別の定義として、北アルプスを水源とする梓川、烏川、中房川、乳川、穂高川、高瀬川などが形作った複合扇状地という説もある。


国道147号線は、昭和電工大町工場の南で高瀬川を横切った後に、乳川の東岸を走り、乳川が合流した穂高川は、その先で中房川と烏川と続け様に合流する。

穂高川を南へ渡れば、間もなく豊科ICへの連絡路の分岐が現れる。

豊科ICの南で、長野道は梓川と交差するが、槍ヶ岳に端を発した梓川は、中央アルプスの茶臼山を水源とする奈良井川と合流して犀川と名を変え、更に穂高川、高瀬川の流れを合わせて筑摩山地を越え、善光寺平で千曲川に合流し、新潟との県境で信濃川となって、日本海へ注ぐ。


日本一の長さを誇る信濃川の上流は千曲川とされているが、支流の犀川の方が、延長も流域面積も上回っているのである。



安曇野と言えばニジマスやワサビであり、信濃大町駅から豊科ICまでおよそ1時間弱、ニジマスは無理でも安曇野らしいワサビ畑でも見られないか、と周囲を見回してみたが、平板な水田ばかりを映し出す車窓のまま、バスは長野道に入ってしまった。

ワサビは清流のある土地でないと育たないので、高速バスが走る国道沿いで目にすることは難しいのだろう。


ワサビの歴史は、飛鳥時代の木簡に書かれていることからかなり古いものの、最初は野生種が薬草として用いられ、薬味に使われるようになったのが室町時代、駿府国の有東木で人工的な栽培が始まったのが江戸時代の初期で、寿司の普及に伴い全国に広まったと言われている。

かつて、丹那盆地に湧水を利用したワサビ畑が存在していたが、昭和9年に開通した東海道本線丹那トンネルの工事における異常な出水で、トンネルの上にある丹那盆地では地下水が抜けて湧水が止まり、ワサビ畑も失われたという。

安曇野ワサビは、静岡の有東木、島根の匹見と並ぶ日本三大ワサビと呼ばれているらしいが、静岡のワサビが寿司と共に広がったように、信州におけるワサビの普及は、蕎麦と関係があるのかもしれない、と想像したりする。


梓川SAで幾許かの休憩の後、バスは松本盆地を抜けて塩尻峠を越え、岡谷JCTで中央自動車道に入った。

残されているのは、何度も通い慣れた道筋である。

国道147号線の大町以南の区間は初めて走るので、豊科ICに乗るまでの車窓を大いに楽しみにしていたのだが、何となく拍子抜けの観がある。



新宿西口高速バスターミナルへの到着予定は20時ちょうどの予定で、真夏の長い日も、甲府盆地を過ぎればとっぷりと暮れるのだろう。

信濃大町駅を16時14分に発車する上り特急「あずさ」68号の新宿着が20時06分であるから、「中央高速バス」新宿-大町・白馬線も頑張っているではないか、と思う。


西に傾き掛けた陽を遮る山並みが遠く近くに連なり、早くも山の影が長く伸びて、「日影」「山陰」と名付けても良さそうな土地が幾つも見受けられる。

信州や甲州は山深くて、平地に比べれば日の入りが早いのかもしれないが、夜だって、地球そのものの影ではないか、「日影」を後ろめたく感じる必要が何処にある、と突飛な発想が心に浮かび、何だか無性に可笑しくなった。


地球の裏側の米国で同時多発テロが発生し、世界情勢が一挙に不安定となったのは、この旅の数週間後のことだった。


 

 

 

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