蒼き山なみを越えて 第47章 平成14年 急行バス長野-野沢温泉線・長野電鉄木島線代替バス | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

長野電鉄に初めて乗ったのはいつのことだったか。

実は、はっきりと憶えていない。


確実であるのは、自宅から1kmと離れていない西長野にあった信州大学教育学部附属長野中学校が、市街地を東に外れた朝陽に移転したために、生まれて初めて電車通学をすることになった昭和55年12月のことである。

僕は高校受験を控えた中学3年生だった。



長野駅を発車すると、殷賑な繁華街に囲まれた錦町駅、昭和通りと交差する手動の踏切の脇にある緑町駅、市内随一の繁華街のアーケードと交差する権堂駅、善光寺参拝には距離があり過ぎる善光寺下駅、橋上に「本郷デパート」が置かれていた本郷駅、そして郊外の雰囲気が醸し出されてくる桐原駅、信濃吉田駅とこまめに停車しながら、水田地帯の真ん中に新築された中学校の最寄りの朝陽駅まで6.3km、十数分の電車の旅は、呆気ないほど短かかったとは言え、心が踊る時間だった。

大半の生徒の家が市街にあり、それまでバラバラの通学だった友達が同じ時間帯の電車に集中したのだから、楽しくないはずがない。



同じ時刻に運転される電車でも、使われる車両は日々異なることが多く、新旧様々だった。


当時の長野電鉄の通勤電車の主力は、東急から譲り受けた2500系だった。

東急時代は緑色一色に塗られて、独特の風貌から「青ガエル」と呼ばれていたが、昭和52年に長野電鉄へ譲渡された際に、赤とベージュのツートンカラーに塗り替えられて「赤ガエル」になった。

それまでの長野電鉄にはない、如何にも都会っ子らしく斬新な外観が特徴的だった。



長野電鉄は、地方私鉄には珍しく、自社開発の車両も揃えていた。


昭和41年に登場した普通電車用の0系は、広々とした車内と、2500系とは対照的に無骨な前面形状が僕の好みであったが、いざ乗ってみると、内装が多少殺風景に感じられた。

0系は、地方私鉄の独自車両としては傑作と評されて、「鉄道友の会」の「ローレル賞」を受賞している。

愛称は「OSカー」で、その意味は「Officemen & Student Car」、通勤通学用車両だからと如何にも直接的な命名方法は、幾ら大手私鉄に負けない車両であろうとも、信州らしい素朴な感性であった。


1両の長さが20mと大型であったが、2両で運転されるばかりで、通勤時間帯に4両編成となったこともあったらしいが、僕は目にしたことがない。

風格のある0系の外観を眺めるたびに、都市部の電車のように10両以上繋げて走らせてあげたい、と思ったものだった。


昭和55年に0系を更新して、前面の貫通扉を廃し、角が取れた新しい風貌になった10系も、僕のお気に入りだった。



たまに、ロングシートの通勤用車両ではなく、長野電鉄オリジナルの特急用車両2000系が各駅停車として運用されることもあり、その時は、みんなで快哉を叫んだものだった。

2000系の座席は転換クロスシートで、4人向かい合わせに座れたため、ちょっとした旅行気分に浸れたのである。

座席を回転させる機能も備わっていたが、4席を向かい合わせるのが流儀となっていて、他社の特急のように2席ずつ前方に向けて揃えようとする乗客は1人もいなかった。


長野電鉄2000系は昭和32年から製造が開始され、地方私鉄でありながら大手にも引けを取らない高性能と、上質な車内設備を兼ね備えた車両として、長野駅と志賀高原の入口である湯田中駅を結ぶ特急「志賀高原」に投入され、平成24年まで、半世紀もの長きに渡って活躍したのである。



曲面を基調とした2枚窓の前面形状、2扉の乗降扉の配置、2段窓といった2000系のスタイルを、僕は、昭和25年に登場して「湘南電車」の愛称で親しまれた国鉄80系電車の系譜を継ぐ「湘南型」の1つとして捉えていた。


国鉄80系電車は、東海道本線のラッシュ対策として機関車牽引の客車列車を置き換える目的で、長大編成を前提とし、加えて100kmを超える長距離運転を目的に開発された。

性能面で客車列車を大きく凌駕し、居住性でも遜色がなかったことで、電車が長距離大量輸送に耐え得ることを世界で初めて実証し、東海道新幹線の実現にも影響を及ぼした先駆的車両である。



外観は国鉄80系に酷似していても、長野電鉄2000系は、昭和30年に登場した名古屋鉄道5000系の影響を受けている。

名鉄5000系は、新たに開発された「カルダン駆動方式」が採用されたことで、安定した高速走行が得られ、航空機の技術を応用して台枠と車体を一体化する張殻構造が、強度を保ちながら1両あたり5トンに及ぶ軽量化を実現した。

当時の名鉄の担当者をして「5000系は今までとは全く異なる概念の車両である」と言わしめた、画期的な車両だったのである。


5000系が投入された名鉄特急は、日中でも立ち客が出る盛況となり、運転士が早着しないよう気を使うほどの俊足だったと伝えられている。

ちなみに、豊橋-名古屋-岐阜間の名鉄本線と平行する国鉄東海道本線で、名鉄5000系としのぎを削っていたのが、国鉄80系であった。


「カルダン駆動方式」と言われても、僕にはチンプンカンプンなのであるが、電車のような動力分散型の車両では、常に振動に晒されている車輪と電動機との位置関係について、技術的に難しい課題となっていたことは理解できる。



旧来の電車は、車軸を支えるバネの下に電動機を吊り下げる「吊り掛け駆動方式」で、車軸に電動機の重みが加わることでレールを傷めたり、乗り心地が悪く騒音が大きくなって、高速運転の障害となるばかりでなく、電動機が車軸と一緒に振動するために破損しやすいと言う欠点があった。

国鉄80系に投じられた技術は、国鉄が蓄積してきた伝統的な設計を継承していたため、駆動方式は「吊り掛け式」が踏襲されていたものの、大幅な改良が加えられたことで、国鉄における「吊り掛け駆動」電車の集大成と評される存在となる。


僕が幼少時を過ごした昭和40年代後半に、国鉄80系は東海道本線などの主要幹線から淘汰されていたが、信州では昭和48年から中央本線、篠ノ井線、飯田線で運用されて、小学校の遠足で篠ノ井線の80系電車に乗った時の拙い写真が、今でも残っている。

昭和58年に全面的に引退した80系が、最後まで活躍していたのは飯田線で、父の実家を訪ねた折りに、短区間ではあったものの、80系に巡り会った。

満席のためにデッキで過ごしたが、武骨な乗り心地と、重々しくも勇ましい「吊り掛け駆動方式」のエンジン音を、まるで飛行機のようだと感じた記憶は、今でも鮮やかである。



一方、電動機を車軸から離してバネの上の台車枠に置き、振動を吸収するカルダンジョイントと呼ばれる継手を電動機と車軸の間に挟んだ方式が「カルダン駆動」で、レールのうねりや捻れに対して車輪がよく追従するため、安定した走行性能が得られ、線路の継ぎ目などによる衝撃から電動機が分離していることで騒音や乗り心地が改善した。


「カルダン駆動方式」の技術は米国のメーカーが先んじていたが、我が国では、昭和26年に小田急電鉄が電動機を車軸と90度の方向に置く「直角カルダン駆動方式」の研究を開始、名鉄も数ヶ月遅れで開発に乗り出している。

「直角カルダン駆動方式」は特殊な歯車装置を要するなど複雑な構造を余儀なくされたが、続いて開発された「中空軸平行カルダン駆動方式」は電動機を車軸に平行して設置し、電動機が若干かさばるものの、軸方向の寸法を短縮できるため、小型の車両に大出力の電動機を搭載でき、保守と整備が容易になった。

昭和29年に、世界初の軌間1067mm狭軌車両向けの「中空軸カルダン駆動装置」が名鉄と南海電鉄に納入され、名鉄5000系や南海1000系に採用されることになる。


鉄道書籍などで南海1000系や21000系を目にした時には、あまりにも長野電鉄2000系とそっくりなので、どちらが真似したのか、と驚いたものだった。

南海1000系を採用した特急「四国」の登場は昭和48年で、難波と和歌山の間の所要時間を大幅に短縮したことで知られている。

昭和60年に、10000系新型電車を使用する特急「サザン」の運転が開始されるまで、1000系「四国」は、南海電鉄の看板列車だったのである。



1000系と外見が酷似している南海21000系車両は、昭和33年に高野線用として製造されている。

1000系の車長が20mであるのに対し、21000系は山岳路線に相応しく17mに短縮されているものの、高野線の最大50‰にも及ぶ急勾配で時速30km、平坦部で時速100kmの運転を両立させる高ギア比の電動機、二重三重にも備えられた強力な制動装置、揺動を極力抑止した台車などが備えられていた。

車内設備も、転換クロスシートに加えて、網棚の下の読書灯など、同社の優等列車の伝統を受け継いだ内装で、高野線の座席指定特急「こうや」としての運用も想定されていたという。



後に、大井川鐵道で余生を送る21000系に乗車したことがある。

南海線よりも厳しい自然条件下であるためか、幾筋もの錆の痕が残る大井川鐵道の21000系の姿には、栄枯盛衰を感じずにはいられなかったけれど、大井川を遡っていく勾配をものともしない力強い走りっぷりと、クロスシートや読書灯など往年の設備が全て温存されていたため、1000系特急「四国」や、今回の旅で高野線21000系に乗車した時のことを、懐かしく思い浮かべたものだった。


長野電鉄にも、信州中野駅から湯田中駅に向かう山の内線に40‰という急勾配があり、21000系は、外見ばかりでなく、活躍した線区も2000系と共通点があるため、親近感を覚えた。



小田急や名鉄、南海など大手私鉄での成功を踏まえ、それまではカルダン方式の導入を躊躇っていた国鉄も方針を一転し、通勤電車の傑作と評される昭和32年製造の101系電車を生み出すことになる。


長野電鉄が2000系を発注するにあたって、日本車輌製造に名鉄5000系を踏襲するよう要望し、それを皮切りに「日車タイプ」と称された地方私鉄向け高性能電車は、5000系を原型とすることとなった。

車体形状と電車運用の基礎を築き上げた国鉄80系、駆動方式など最新技術を取り入れた名鉄5000系と南海1000系・21000系、その技術を地方私鉄まで拡大した長野電鉄2000系に至る「湘南型」電車の歩みは、鉄道大国日本の技術革新の歴史そのものに思えてならない。



中学校の通学で僕が1番好きだった車両は、都会風に洗練された2500系でも、長野電鉄自慢の0系もしくは10系OSカーでも、まして2000系特急用車両でもなく、1000系、もしくは1500系と呼ばれた旧型車両であった。

前者の登場が昭和23年、後者が昭和26年というベテランで、床はニスが黒光りする木製だった。

腹の底に響くような重低音のモーター音は、おそらく「吊り掛け駆動方式」だったのだろう、全力走行の時には友達同士の会話をかき消してしまうほどうるさかった。


それでも、新型車両に比べると、ロングシートの座り心地がとてもふかふかして、腰を下ろすと立ち上がるのが惜しくなるような感触だった。

シートの下に備わった暖房のおかげで、なおさら座面のぬくもりが嬉しかった。



僕が電車通学をしたのは、昭和55年12月から同56年3月までの4ヶ月たらずに過ぎない。

信州は厳しい冬の真っ只中で、当時は今より積雪量が多く、市内中心部でも数十cmを超える積雪が珍しくなかったから、市内を20分ほど歩いてから転がり込む電車の暖かさは、救われる思いがした。


1000系、1500系を思い浮かべると、紺色のビロードの深々としたロングシートと、乗客の靴にくっついてきた雪の塊がところどころに散らばる湿った木製の床、微妙な調整が利かず、かあっと暑くなる床下暖房のぬくもりにくるまれながら、曇った窓から眺めた街の雪景色が心に蘇ってくる。



昭和56年3月に、長野電鉄は、長野駅から善光寺下駅の先の市街地部分を地下化する工事を完成させた。

錦町駅と緑町駅は統合されて市役所前駅になった。

古びた地上駅に比べれば、地下駅は新しく清潔だったが、何処か冷たい感じがした。

電車を待っていると、かなり遠くから、コオーッ、と走行音が聞こえるのが面白かった。

僕にとって初めて利用する地下鉄だった。


耐火基準に満たない1000系と1500系は淘汰されてしまったので、電車通学の最後の数週間を、初めての地下鉄体験にワクワクしながらも、何となく物足りない思いで過ごしたものだった。



生まれて初めての電車通学により、息を潜めていた鉄道趣味が蘇った。

僕は小学生で鉄道ファンになったのだが、中学時代は、鉄道への熱意が少しばかり薄れていたように記憶している。


ところが、毎日の電車通学で鉄道の楽しさを再認識し、高校2年の3月には、好きだったアニメ映画を観るため、親に内緒で国鉄信越本線の電車で上田まで出掛け、後ろめたさとともに、1人旅の面白さを知った。

学校の帰りに長野駅へ寄り道し、何の用事もないのに、湯田中行きの2000系特急「志賀高原」に乗り込んだのは、それから間もなくの高校3年のことだった。

当時の長野電鉄の特急料金は、全線均一の100円だったから、それほど財布は痛まなかったのである。



何度か繰り返した特急「志賀高原」の体験で強く印象に残ったのは、地下化された長野-善光寺下間でも、通学で乗り降りした朝陽駅付近でも、珍しい道路併用橋で千曲川を渡る村山橋でもなく、須坂駅から信州中野駅までの、千曲川右岸を走る河東線の区間であった。

この区間には小布施駅以外に目ぼしい駅がなく、単線の線路の片側に1本のホームが添えられているだけの簡素な駅を初めて目にして、これではバス停ではないか、と驚愕した。


一面のりんご畑を突っ切るだけの、きついカーブも勾配もない区間であるから、2000系特急「志賀高原」は、ガタガタと上下左右に揺れながら、全速力で疾走する。

僕は最前列の席に陣取って、開放的な前方の窓に視線を釘付けにしながら、車窓と、運転手の運転操作の両方を存分に楽しんだ。


電車の運転をじっくり見るのは、初めての経験だった。

前方に踏切が見えてくるたびに、運転手が警笛を鳴らす。

電車の警笛とは、足でペダルを踏んで鳴らすことを初めて知った。

単線の線路を、畑から畑に渡る畦道が交差しているだけの場所が多く、警報機や遮断機が設置されていない踏切ばかりだったが、線路の両側に生え揃ったリンゴの木は背丈が低く、枝が密に茂っているので、見通しは悪く、スリルがあった。

耕運機がひょい、と顔を出しても、電車は止まれるのだろうか。


いったい、どれくらいの速度なのかと、ガラス張りの運転席に目を凝らしてみれば、拍子抜けしたことに、速度計の針は時速60kmを指していただけだった。

あれほど迫力のある時速60kmを、僕は他に経験したことがない。



長野電鉄の起源は、大正9年に設立され、大正11年に屋代-須坂間、同12年に須坂-信州中野間を、同14年に信州中野-木島間を開業させた河東鉄道に遡る。

一方、大正12年に長野電気鉄道が設立され、同15年に権堂-須坂間を開業し、河東鉄道と合併して、権堂-須坂間を長野線、屋代-須坂-信州中野-木島間を河東線と命名した。

昭和2年に信州中野-湯田中間の山の内線が開業し、更に、昭和3年に長野線の長野-権堂間が延伸して、営業距離の合計が70.5kmに及ぶ路線網が完成したのである。


小学校の頃は、同級生に鉄道ファンが多く、地元の長野電鉄が話題になると、


「大手私鉄の阪神より大きい私鉄なんだぜ」


などと誰もが誇りにしていたローカル私鉄の雄であった。

阪神電鉄の路線総延長は48.9km、資本金や輸送人員などと言った小難しいことを知らず、路線長が私鉄の優劣を決めているのだ、と誠に子供っぽい基準だった。



我らが長野電鉄も、世の中の趨勢から逃れることは出来なかった。

特に地方において顕著に見られた車社会の進行と、少子高齢化と過疎化による人口の減少、それに比例する公共交通機関の衰退は信州でも例外ではなく、河東線の信州中野-木島間、通称木島線が利用者の減少を理由に、平成14年4月に廃止されたのである。


昭和50年代に鉄道ファンになってから、故郷の鉄路が消えるのは、平成9年の長野新幹線開業に伴う信越本線横川-軽井沢間の廃止に次ぐ出来事で、少なからず衝撃を受けた。

それでも残された路線の延長57.6kmは阪神電鉄よりもまだ長い、と自らを慰めたのは、阪神に失礼であったか。


平成14年の真夏の週末、僕は、長野駅東口から野沢温泉行きの急行バスに乗り込んだ。

この年の夏は冷夏で雨が多く、この日もどんよりと雲が垂れ込めて、今にも雨が降りそうな1日だった。



長野駅東口を訪れるのは、久しぶりだった。


僕が子供の頃の長野駅東口は、賑やかな西口とは対照的に、ひっそりとした街並みであった。

善光寺の門前町として発展した長野市街は、長野盆地の西の隅に片寄っていて、南北に通じている信越本線から東側に広がる地域は、幼かった僕にとって、未知の別世界のように感じていた。

小さな改札口を出ると、自転車置き場と国鉄長野工場の古びた建物ばかりが目立ち、残りは閑静な住宅街であったように記憶している。

はっきりと覚えているのは、高校1年生だった昭和57年3月に母校の長野高校が選抜甲子園大会に出場し、応援に向かう貸切バスに東口から乗り込んだ時であった。

夜遅くの出発だったから、明かりに乏しく暗い街並みが、ひときわ恐ろしい異世界のように感じられたものだった。


後に、近未来のディストピアを描いた映画「1984」を観て、爆撃に曝されて瓦礫と破壊されたビルばかりがひしめいている戦時下のロンドンの下町の描写に、長野駅東口を連想した、と言えば、あまりに大袈裟かもしれない。



もう少し表現を和らげれば、再開発前の品川駅東口に似ていた、と言うべきであろうか。


僕が品川駅東口を訪れたのは、昭和60年に上京して品川区大井町に住み始めたばかりの頃で、当時、地元の路線バスの乗り潰しに凝っていた僕は、大井町駅東口と品川駅東口を、八潮パークタウン、天王洲を経由して結ぶ「品91」系統や、大井競馬場、大井埠頭を経由する「品98」系統といった都営バスに乗りに出掛けた時であった。


この頃の大井町駅東口も品川駅東口に劣らず鄙びていて、品川公会堂の建物が正面に鎮座している以外は、狭い路地に飲み屋がひしめいているだけであった。

大きなロータリーや阪急百貨店、阪急ホテルなどが建つ西口ですら、平屋建ての駅舎だった時代で、大井埠頭などの臨海地域や国鉄大井工場などで働く人々、そして大井競馬場帰りのおじさんたちが1杯引っ掛けるのに相応しい下町の風情があった。



都営バスに乗って品川駅東口に近づけば、埃だらけの古い家屋や工場の合間を縫い、対向車とのすれ違いも難しいような狭隘な路地を進むばかりであるから、この先に本当に駅があるのか、と心細くなったものだった。

薄汚いラーメン店や飲み屋、パチンコ店が目立つ歩道上の停留所に降り立つと、ここが本当に東海道本線や横須賀線、京浜東北線や山手線、京浜急行の電車がひっきりなしに出入りする品川駅なのか、と狐に化かされたような気分になった。


今思えば、日常と隔絶した異空間に連れて行ってくれる路線バスとして、魅力を感じていたのかもしれない。

駐輪場に接してぽつんと建っている常磐軒の立ち食い蕎麦を味わう楽しみだけが、僕が品川駅東口に見出した用事と言えば用事であった。



ある時、品川駅東口で、不意に外国人から話しかけられたことがある。

喋っているのは英語らしいのだが、かなりの早口でまくし立てているので、さっぱり聞き取れない。


「Shinagawa Prince Hotel」という言葉が何度も聞こえたので、


「Would you like to go to Shinagawa Prince Hotel?」


と聞き直してみると、


「Yes , yes!」


と何度も頷き、再びぺらぺらと喋り続ける。


「Oh , You're in a wrong exit of this station」


少し落ち着きなさいよ、と苦笑しながら答えたものの、どのように案内すれば良いのかが判らない。

引き返して駅の構内を横断し、高輪口に行きなさい、と教えればいいのだが、生憎そのような英語力は持ち合わせていないし、当時は、現在のような自由連絡通路もなかった。

入場券を英語で何と言うのだろう、と思いながら自動券売機で2枚を購入し、


「Follow me」


と、1枚を外国人に渡して地下通路への階段を下り、港南口で第一京浜国道の反対側を指差しながら、そこが品川プリンスホテルだと伝えた。


「Oh!Thank you so much!」

「You're welcome」


と握手をして別れてから、僕はもう1度入場券を購入し、常磐軒で昼飯を摂るため、東口に戻ったのである。


故郷の長野駅ばかりでなく、東京の生活で縁が深かった大井町駅と品川駅が、何れも東口が寂れていたのは、奇妙な偶然だった。



平成の世を迎えると、3つの駅の東口は、それぞれ面目を一新することになる。


品川駅東口では、バブルが弾けて失われた20年が始まるとともに、企業が負債を軽減するために所有していた工場や倉庫の売却を進め、加えて国鉄の分割民営化に伴って貨物ターミナルや機関区、平成4年に八潮団地の海側に移転した新幹線車両基地の跡地が再開発され、品川インターシティ、品川グランドコモンズをはじめとする高層ビルとタワーマンションの建設が始まった。

京浜急行電鉄が、平成10年に空港線を延長させて羽田空港ターミナルビルに直結し、平成15年に東海道新幹線が品川駅に停車するようになると、企業の本社などが数多く集まり、平成16年にはアトレ品川が入ったJR品川イーストビルが完成する。

橋上駅舎から東口に向かう東西連絡通路、通称レインボーロードも、平成10年に完成し、入場券を買わずに行き来できるようになったのか、と感慨深くなった。


平屋だった大井町駅が、巨大な橋上の駅ビル「アトレ」に改築され、それまで蒲田にあった丸井が東口に引っ越して来て、品川区立総合区民会館「きゅりあん」と繋がるペデストリアン・デッキを備えた流麗なビルへと面目を一新したのは平成5年、それまで北側の奥まった線路沿いにあったイトーヨーカ堂が西口ロータリーの正面に移転したのは平成9年のことである。


品川駅や大井町駅の東口を見ながら、何処が不況なのだ、と首を傾げたものだった。



長野駅東口の土地区画整理事業が始まったのは、長野新幹線の開業を4年後に控えた平成5年のことで、小ぶりながらも駅前ロータリーと地下駐車場を備えた瀟洒な駅舎が完成した。

バス乗り場も整えられて、新幹線に接続して大町、白馬、飯山・野沢温泉、志賀高原に向かう特急バスが発着するようになった。


平成14年の夏休みに帰郷していた僕は、橋上のコンコースから東口を見下ろして、あまりの変貌に目がぱちぱちした。

真新しい駅舎の脇に自転車置き場が設けられて、ぎっしりと駐輪されている様子を見ると、やっぱり東口に駐輪場は欠かせないのだな、と妙に可笑しくなった。

ロータリーに接する広い道路の向かい側は、ホテルとレンタカー店、コンビニエンスストアが目立つ程度で、建物が少なくあっけらかんとした佇まいは、未だに新開地の様相を色濃く残していた。


新しいバス乗り場から、五輪道路や高速道路を経由して各地へ向かう特急バスが次々と発車していく光景には、心が踊った。



「急行野沢温泉ゆき」と行先表示を掲げた真新しいハイデッカーバスを目にすれば、感慨が湧いてくる。


野沢温泉は我が国でも有数の温泉地でありながら、長いこと、首都圏との行き来が不便だった。

上野駅から長野駅まで信越本線の特急「あさま」で3時間、飯山線のディーゼルカーに乗り換えて1時間、飯山駅や戸狩野沢温泉駅からバスで20~30分を費やし、業を煮やした野沢温泉村は、補助金を出して上越新幹線越後湯沢駅と野沢温泉を結ぶ急行バス「湯の花」号を運行したこともある。


僕が「湯の花」号に乗車した時は、越後湯沢からの信越国境を超えるバス旅は楽しかったものの、所要時間のお関係で温泉に浸かる時間もなく、やっぱり野沢温泉は遠いなあ、と溜め息が出た。

今や、長野新幹線と急行バスを乗り継げば東京から2時間半あまり、便利になったものである。



長野駅から野沢温泉に直行する急行バスは、十数人の乗客を乗せて、東口通りを真っ直ぐ東へ向かった。

中央分離帯を備え、道幅が広く気持ちの良い道路であるが、昔からあったのかどうかは知らない。


このあたりは七瀬と呼ばれる地域で、小学生の頃に、父の知人の歯科医に通った記憶がある程度である。

南部小学校南交差点で交差する東通りは、犀川に近い信州大学工学部に近い若里、芹田、稲葉地区から、長野市消防局がおかれている昭和通りの鶴賀交差点まで、信越本線の東側地域を南北に貫いている古い道路で、鶴賀病院や栗田病院といった精神科の病院が沿道にあることから、小学校時代に、友達の間で控えめながらも時々話題に上った。

長野駅東口と同様に、僕にとって何となく近寄りがたい印象を抱いていたのだが、バスが進む道路沿いには、コンビニやファミリーレストラン、ラーメン店などの郊外店が軒を並べ、小綺麗なマンションが点在して、どこまでも明るい雰囲気である。


建物の合間に田畑が顔を覗かせ、おそらく最近までは一面の田園だったのだろうと推測されるが、信越本線の東側はこのようになっていたのか、と、ひたすら驚嘆するばかりの急行バスの導入部だった。



上高田交差点で国道18号線バイパスと交差し、長野冬季五輪のスケート会場になった「エムウェーブ」の奇抜な建物を右手に見遣り、屋島橋で千曲川を渡ると、上信越自動車道須坂長野東ICが現れた。

東口通り、長野須坂インター線、エムウェーブ通りと名前は変わるものの、長野駅東口から1本の道路で須坂長野ICまで達したことにも目を見張った。


上信越道に入った急行バスは、千曲川の東岸のリンゴ畑の中を、左手の彼方に長野市街、右手に菅平から志賀に連なる山並みを見晴るかしながら、みるみる速度を上げていく。

平行して長野電鉄河東線が走っているはずだが、2000系特急電車の懸命な走りっぷりとは隔世の感があり、程なく、「高井富士」と呼ばれる標高1351.5mの高社山の流麗な山容が現れた。



信州中野ICを通過した急行バスは、千曲川の東岸から西岸へ渡り、豊田飯山ICで上信越道を下りると、国道117号線替佐静間バイパスに入った。

このバイパスは、豊田飯山ICと飯山市街を結ぶ道路として平成9年に完成したばかりで、立派な道路を造ったものだ、と感心する。


右手を千曲川、左手を斑尾の山々に挟まれて、平地が少しずつ狭まったあたりで飯山市街に入り、バスはJR飯山駅に寄ってから国道403号線に右折し、中央橋で千曲川を渡ってから、木島駅跡に滑り込んだ。



降りたのは、僕を含めて2人だけだった。

急行バスが終点の野沢温泉に向けて走り去ってしまうと、茫然たる静寂があたりを支配した。


質素な木造の駅舎が現役時代そのままの姿で残されていて、向こうのホームに電車が入ってきても、何の違和感もないように見える。

長野電鉄バス飯山営業所となっている駅前には、路線バスや貸切バスが何台も駐車している。

一緒に降りた女性は、木戸を開けて待合室に入っていったはずなのだが、中を覗いてみても、何処にも見当たらない。

雨上がりなのか、地面には幾つも水たまりが残っていて、周囲の田圃を吹き渡ってくる風の湿り気が重い。

蝉時雨が、かすかに空気を震わせている。


時間を潰せるような店舗がある訳でもなく、誠に手持ち無沙汰であるけれども、僕は広い構内を歩き回り、隅っこの草叢で見つけたカエルと戯れながら時を過ごした。

こうして故郷の山河に包まれているだけで、騒然とした世相を忘れて心が洗われる。



21世紀を迎えたばかりの世界は、戦争の真っ只中にあった。


2001年9月11日の朝、ボストン、ワシントン、ニューアークの各空港を離陸した4機の旅客機が、イスラム過激派組織アルカイダによって、ほぼ同時にハイジャックされた。

ハイジャッカーは操縦室に侵入して自ら操縦し、アメリカン航空11便とユナイテッド航空175便をニューヨークへ、アメリカン航空77便とユナイテッド航空93便をワシントンD.C.へ向かわせたのである。

乗っ取られた4機のうち2機がボーイング767型機、2機がボーイング757型機であった。

この2種類の機体の操縦システムは基本的に同じで、2人で操縦できるため、意図的にその2機種が投入されている便を選択し、また長距離を飛行する北米横断路線であるため燃料積載量が多く、衝突後の延焼拡大を狙ったものと推測されている。



ボストン・ローガン国際空港発ロサンゼルス国際空港行きアメリカン航空11便(ボーイング767-200型機)は、乗客81名・乗員11名を乗せて、午前7時54分にローガン空港を出発した。

午前8時14分頃にハイジャックされ、午前8時23分に進路を南向きに変え、午前8時46分に110階建てのニューヨーク世界貿易センター・ツインタワー北棟に突入、爆発炎上した。

機は水平かつ高速で建造物に衝突し、機体の残骸は殆んど原形をとどめなかった。

アメリカン航空11便が衝突する瞬間は、偶然、取材に来ていたフランスのテレビ局のカメラマンが撮影していた。


同じく、ボストン・ローガン国際空港発ロサンゼルス国際空港行きユナイテッド航空175便(ボーイング767-200)は、乗客56名・乗員9名を乗せて、午前8時14分に出発した。

8時43分頃にハイジャックされ、アメリカン航空11便を追うようにニューヨークへ進路を変更、午前9時3分に、同じく110階建ての世界貿易センターツインタワーの南棟に突入し、爆発炎上した。

アメリカン航空11便と違い、強引な左旋回中に大きく傾きながら衝突したため、多くの階を巻き込み、一瞬にして多くの死亡・負傷者を出したという。

その衝撃の強さが、先に衝突した北棟より早く、南棟が崩壊した原因となった。



WTCツインタワー北棟へのアメリカン航空11便の突入で、多くの報道陣と見物人が集まっていたため、ユナイテッド航空175便の南棟への突入では、数多くの映像と写真が記録されている。


アメリカン航空11便が北棟に突入した時点では、多くのメディアが、テロ行為ではなく航空機事故として報じていた。

しかし、南棟へのユナイテッド航空175便の突入は、世界各国に最初の衝突が臨時ニュースとして国際中継されている最中に起きたため、前代未聞の衝撃的な映像がリアルタイムで流され、故意に起こされた事件であることが認識された。



WTCツインタワーは、建設当時の代表的なジェット旅客機だったボーイング707型機が突入しても崩壊しないよう設計されていたが、衝突のダメージのみを換算していたものであり、ジェット燃料による火災の影響は想定されていなかったという。

高速で突入したボーイング767型機によって、ビル上部は激しく損傷し、漏れ出したジェット燃料はエレベーターシャフトを通じて下層階に達し、爆発的火災が発生した。


火災の熱による鉄骨の破断でビルは強度を失い、9時59分に、南棟が突入を受けた上部から砕けるように崩壊し、北棟も10時28分に崩壊した。

南棟の105階にいたエーオン副社長のケヴィン・コスグローヴ氏が、崩壊する最後の瞬間まで911番へ電話で状況を伝えており、轟音とともに、


「Oh, God! Oh……」


という絶叫を最後に会話が途切れるまでの、生々しいやり取りが録音されている。



人的被害はWTC北棟で大きく、死者は救護活動中の消防士を含む約1700人にのぼった。

航空機に突入された92階の階段が大きく破壊され、避難経路が遮断されたために、92階より上層階にいた全員が死亡したと言われている。


WTC南棟も同様に激しく炎上したが、こちらは旅客機が外側に少し反れて激突し、反対側の階段が損壊や延焼を免れたため、突入フロアの上でも延焼の少なかった部分にいた十数名が避難し、突入前の避難者も含めると約7割の人が生還した。

炎上した部分より上にいた人々が、煙による苦痛や絶望感から飛び降り、消防士や避難者の一部が、落下してきた人間の巻き添えになって命を落とした。

一方、タワー崩壊後も館内で奇跡的に生き残っていた人も数名おり、それらの人々は当日の夕方に救助された。


北棟と南棟の崩落に巻き込まれて、敷地内のWTC3~6号棟も崩落、炎上し、8時間後に敷地北隣りのWTC7号棟も崩落して姿を消した。

周辺の道路は完全に封鎖され、地下鉄もトンネルの崩落で走行不能に陥った。

合計で2749人が死亡するという、世界の中心都市を突如見舞った白昼の大惨事だったのである。



アメリカン航空77便(ボーイング757-200型機)は、乗客58名、乗員6名を乗せてワシントンD.C.のダレス国際空港を午前8時20分に離陸し、ロサンゼルス国際空港に向かったが、8時50分頃にハイジャックされた。

午前9時38分、バージニア州アーリントンにあるアメリカ国防総省(ペンタゴン)に、地面を水平に滑走するような形で激突し、建物の西側が部分的に崩壊した。


ニューアーク空港を午前8時42分に離陸したユナイテッド航空93便(ボーイン757-200型機)は、日本人1名を含む乗客37名と乗員7名を乗せてサンフランシスコ国際空港に向けて飛行中、9時27分にハイジャックされた。

目標はワシントンD.C.の連邦議会議事堂もしくはホワイトハウスであったと推測されているが、機内電話や携帯電話による外部と連絡を取り合った乗客は、ハイジャックの目的を自爆テロと察知して機の奪還を図り、犯人と格闘中の10時03分に、ペンシルベニア州ピッツバーグ郊外のシャンクスヴィルに墜落した。


後に映画化された「ユナイテッド93」をDVDで観賞し、どうしてこの人たちが死ななければならなかったのか、と胸に重石を乗せられたようなやるせなさに襲われた。

乗客たちが反撃の合図にしたとされる「Let's Roll」という言葉は、米国が対テロ戦争に乗り出した際のスローガンとなったと聞く。



僕は、WTCに2機目が突入する寸前から、自宅でテレビ中継を見ていた。


前日に台風15号が関東地方を、台風16号が沖縄を直撃して多くの被害をもたらし、9月1日に発生した歌舞伎町ビル火災の続報や、9月10日に国内で初めて狂牛病が疑われる牛が千葉県で発見されるなど、他のニュースで騒然としていたのだが、午後10時頃から始まったニューヨークからのCNNの生中継では、望遠レンズがWTC南棟から一筋の煙が上がっているのをとらえているだけで、説明のアナウンスも断片的で、何が起きたのか全く訳が分からないまま、視線を逸らすことが出来なかった。


2機目の航空機が大きく傾きながら突入し、北棟に吸い込まれるように姿を消して、黒煙とともに炎が上がった時は、ガタガタと身が震えた。

地球の裏側の出来事であるにも関わらず、我が身に降りかかってきた災厄のように、恐怖に苛まれた。


中継中だった女性アナウンサーの、


「Oh my God!Oh my God……」


という、哀しみに満ちた溜め息のようにも聞こえた叫び声が、今でもはっきり耳の奥に残っている。


顔を真っ赤にしたジョージ・W・ブッシュ大統領が、


「This is a War!」


と叫んだ記者会見も、よく覚えている。



ブッシュ大統領は、9月11日のうちにイギリスのブレア首相、フランスのシラク大統領、ロシアのプーチン大統領、中華人民共和国の江沢民国家主席ら4人の常任理事国首脳と電話会談し、テロ対策で共闘を合意した。

中国は、上海で開催されたAPECの議長国として、日本やロシアなど各国首脳とともに、テロとの戦いを呼びかける共同声明をまとめている。

北大西洋条約機構 (NATO)、欧州連合 (EU)、東南アジア諸国連合 (ASEAN)、アフリカ統一機構、米州機構、アラブ連盟、イスラム諸国会議機構などの国際機関も、米国大統領のテロとの戦いの呼びかけに応じ共同歩調をとった。

米国の同盟国ばかりではなく、インドなどアジアの非同盟諸国も米国を支持、リビアやパキスタン、イラン、北朝鮮のような反米国家でさえ、911テロの犯人グループを非難し、米国に対する支援に同意したのである。



ソビエト連邦の崩壊で冷戦が終了し、平和になるはずだった21世紀は、その最初の年から、再び戦争の世紀へと転じてしまった。


冷戦の勝者として繁栄を謳歌していた超大国は、自国最大の都市を見舞った攻撃にうろたえ、泥沼のような戦争に足を踏み入れていく。

2001年10月に、アルカイダをかくまうイスラム過激派組織タリバンが支配するアフガニスタンに侵攻して、アルカイダの追放と、指導者であるビン・ラーディンの引き渡しを要求し、1ヶ月で首都カブールを陥落させている。


これでひと段落か、と思われたのだが、ブッシュ大統領は、2002年初頭の一般教書演説においてイラク、イラン、北朝鮮を大量破壊兵器を保有するテロ支援国家として「rogue state(ならず者国家)」「悪の枢軸」と名指しで非難し、湾岸戦争後もイラクを支配していたサダム・フセイン大統領はビン・ラーディンと同じくらいに危険と決めつけて、2003年のイラク戦争へと踏み込んでいく。

あれだけの被害を受けたのだから冷静になれなくても無理はないと思うけれど、「国家防衛のためには、予防的な措置と、時には先制攻撃が必要」とする米国の行動は、911テロを起こしたアルカイダと何ら変わりがないように思えた。



WTCツインタワーの跡地は、爆心地を意味する「グラウンド・ゼロ」と呼ばれている。

後に訪問したことがあるが、綺麗に整備されているにも関わらず、脳裏にはニュース映像で見た瓦礫の山が蘇り、映画「1984」における戦時下のロンドンを思い浮かべた。

ニューヨークやアメリカのみならず、世界の歴史を沸騰させた爆心地だった。

人類は、911テロが捻じ曲げた新しい歴史を歩むことになったのである。


アフガン侵攻と異なり、イラク戦争に対する国際社会の評価は二分し、日本、イギリス、フィリピン、スペイン、イタリアなどの同調国と、フランス、ドイツ、ロシア、中国などは批判的な立場をとった。

我が国は、米国のアフガン侵攻の後方支援として海上自衛隊の艦艇を出動させ、イラク戦争後の復興支援として陸上自衛隊と航空自衛隊の部隊を派遣している。



911テロからしばらくして僕が思い浮かべたのは、1990年に発表された「レッド・オクトーバーを追え!」を筆頭とする、トム・クランシーのジャック・ライアンシリーズだった。

映画化もされて、主人公のCIAエージェントであるジャック・ライアンを演じたアレック・ボールドウィンよりも、ロシアの原子力潜水艦の艦長に扮したショーン・コネリーの風格が目立つ映画だったが、1992年に公開された映画「パトリオット・ゲーム」と、1994年公開の映画「今そこにある危機」では、ハリソン・フォードがジャック・ライアンを演じた。


映画化はされなかったものの、同じ主人公で1994年に発表された小説「日米開戦(Debt of Honor)」では、日米貿易摩擦の果てに、日本が米国に戦争を仕掛けるという内容だった。

あまりにセンセーショナルな題名を書店で見掛けて、思わず購入してしまったのだが、米国の小説であるから、最後は日本が敗北するのは分かりきっており、途中の経過は殆んど記憶に残っていない。

ただ、物語の結末で、海上自衛隊護衛艦隊の司令だった兄と、航空自衛隊の戦闘機パイロットだった息子を米国との戦闘で失った日本人の民間航空の機長が、復讐のために、自ら操縦するボーイング747型ジェット旅客機をワシントンD.Cの連邦議会議事堂に突入させ、大統領、最高裁判事、閣僚、上・下両院議員など多数の政府要人が死亡するという衝撃的な場面だけは、強く心に刻まれた。

このような物語が米国ではベストセラーになるのか、と、日本人として複雑な読後感に苛まれたものだったが、まさか7年後に、小説の中の突飛な出来事が現実になったことに絶句した。

911テロは、米国にとって、太平洋戦争の始まりとなった日本軍による真珠湾攻撃以来の自国領土への直接攻撃である、と言った論評を見掛けたが、日米対立の結果でないことだけが、唯一の慰めと言えるだろう。


イラク戦争など米国の軍事行動に疑問が生じないでもなかったけれども、価値観を共有する友好国なのだから、小泉政権が米国を支持するのはやむを得ないと思っていた。

一方で、僕ら日本人が、米国と同じ側に立つ国民として、テロの標的になる可能性が出てきたことに、愕然としたのも事実である。

平成16年に、イラクの武装集団が日本人を拉致して自衛隊の撤退を要求する事件が発生し、翌年に、ロンドンの地下鉄や2階建てバスを爆破する同時多発テロが発生したことで、東京でもいつテロが起きてもおかしくないと言う論調が目立ち始めた。


戦争が身近な脅威となり、21世紀が、「1984」をはじめ多くの小説や映画で描かれたディストピアと化してしまうのか、と暗然としながら過ごす日々だった。



平成14年の真夏の信州の風景は、束の間であるが、血なまぐさい世界情勢を忘れさせてくれた。


東にそびえる高社山の北麓に木島平スキー場があり、木島平村が存在するので間違えそうになるが、木島駅があるのは飯山市域である。

昭和29年に飯山町、秋津村、常盤村、外様村、柳原村、瑞穂村、そして木島村が合併して誕生したのが飯山市であり、翌年に穂高村、往郷村、上木島村が合併して発足したのが木島平村である。


高校時代に、用もないのに長野電鉄線に乗りに行った時には、湯田中へ向かうばかりでなく、木島線を終点で降り、路線バスでJR飯山駅に出て、飯山線で長野駅に戻る周回コースが好きだった。

長野電鉄の特急電車と言えば、長野駅と湯田中駅を結ぶ「志賀高原」の方が運転本数も多く知名度も高かったのだが、当時は、長野駅と木島駅の間を直通する特急「のざわ」も運転されていた。



木島駅を訪れるたびに首を傾げたのは、どうしてここで線路を打ち止めにしたのか、という点である。


太平洋戦争前の河東線は十日町への延伸が計画され、戦後も野沢温泉まで路線を伸ばす構想があったらしい。

未成に終わったものの、木島駅が、木島平スキー場や野沢温泉、戸狩温泉への玄関として賑わっていた時代もあった。

広々とした駅前広場は、その名残りなのだろう。

その象徴が、野沢温泉に乗り入れていない特急「のざわ」であり、湯田中止まりにも関わらず「志賀高原」と名づけられた特急電車と同じく、終点の先にある観光地を愛称にする傾向が長野電鉄にあったようである。



昭和50年代の時刻表を開けば、1日18往復の特急「志賀高原」に混じって、1日2往復の特急「のざわ」が運転されていたことが分かる。
長野-木島間の特急として掲載されている太字の電車は1日11往復もあるが、大半は湯田中発着の特急と時刻が同じで、信州中野での乗り換えと推測され、欄外に「長野-木島間は一部列車を除き信州中野乗りかえとなります」という注記もある。
2往復だけ湯田中発着列車と時刻が異なる特急があり、これが「のざわ」なのであろう。
上野駅から湯田中駅への直通急行「志賀」の時刻も載っているが、昭和30年代には、木島駅へ直通する準急列車も運転されていた。


僕が「のざわ」を利用したのは、それこそ数える程度でしかないが、信州中野駅から木島駅までの12.9kmには、高社山や夜間瀬川の扇状地を一望できる夜間瀬川橋梁や、長野電鉄線唯一のトンネルである85.5mの飯綱山隧道など、なかなか楽しめる線区であった。

木島駅と飯山駅の間はおよそ3km程度で、適当なバスがなくて歩いたこともあり、長野県で最も人口が少ない市である飯山の鄙びた町並みを楽しみ、途中で小さな書店を見つけて、長野市内と異なる品揃えに時を忘れたこともあった。


何度か訪れたことがあるはずなのに、木島駅前の風景に全く見覚えがなく、見知らぬ土地に来たかのような心境になったのは、最後に訪れたのが10年以上も前で、すっかり忘却の彼方だったのか、それとも、電車が来なくなって佇まいが変わったのか。

廃線の終着駅らしいような、らしくないような、何処か中途半端な木島駅跡であった。



僕は、信州中野駅行きの鉄道代替バスに乗り込んだ。

前後2扉を備えた一般路線用の車両は真新しかったが、乗客は数えるほどだった。


バスは、千曲川の川縁を行く県道414号線を南へ向かう。

既に線路は撤去されているものの、明らかに鉄道の道床と分かる低い盛り土が左手に見え隠れしている。

交差する道路の踏切には、路面に埋め込まれたレールが残されているものの、前後の線路がなく、バラストが敷かれた道床に雑草が生えている光景は、物の哀れを感じさせる。

信濃安田、田上、柳沢、赤岩、四ヶ郷、中野北の各駅跡も、駅舎やホームがそのまま残されていたが、柳沢駅を除けば線路脇にホームがあるだけの簡素な構造で、電車が走っていようがいまいが、木島線は廃線のような雰囲気だったのだな、と思う。


時折り小さな集落が現れるだけで、後は青々と稲が生え揃う水田が広がるばかりの車窓が続く。



夜間瀬川を渡って中野市街に入ると、木島駅から約35分で、バスは信州中野駅前に到着した。

鉄道は各駅停車でも20分前後で走っていたのだから、所要時間は大幅な退歩である。


それでも、信州中野駅では大した待ち時間がなく、2000系の長野行き特急電車に乗り換えられたので、接続の良さは鉄道代替バスに相応しい。

ただ、木島線代替バスから電車に乗り継いだ客は、果たして何人いたのだろう。

代替バスでは、途中の乗降が全く見られなかった。

往路で利用した急行バスの速達性と利便性を思い起こせば、長野からの直通客が激減していることは、想像にかたくない。

加えて、廃止路線の代替バスは、鉄道時代に比して利用客数が少なくなるのは、日本中で見られる現象である。

木島から中野に向かうにしろ、長野へ出るにしろ、高速道路やバイパスが整備された現在では、自家用車の方が遥かに便利になってしまった。


名実ともに木島線は役割を終え、舞台を降りたのだな、と思うと、言い様のない寂しさが込み上げてきた。


 


ブログランキング・にほんブログ村へ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>