蒼き山なみを越えて 第57章 平成18年 高速バス新宿-坂城・戸倉上山田温泉・屋代線 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

新宿駅西口高速バスターミナルが面した狭隘な路地を抜け出したバスは、高層ビル街を抜けて甲州街道から山手通りに右折し、一路信州を目指して走り始めた。

 

 

関越自動車道を使って軽井沢、佐久、小諸、上田、長野方面を目指す高速バスは、これまで池袋駅東口を発着する路線ばかりを利用してきたので、新宿からの高速バスはどのような経路をたどるのだろう、と楽しみだった。

 

関越道に繋がっているのは池袋のすぐ南側を走っている目白通りで、新宿から目白通りに出るためには、明治通り、山手通り、環状7号線、そして環状8号線という選択肢がある。

甲州街道を何処で折れるのか、と窓外に目を凝らしていたので、山手通りだったか、と1人で頷いた。

車内には20名ほどの乗客が席を占めているが、そのようなことを気にしているのは僕だけであろう。

 

 

関越道は、東京から放射状に伸びる高速道路の中で、唯一首都高速道路と繋がっていない。

 

渋谷と鶴岡・酒田を結ぶ夜行高速バス「日本海ハイウェイ夕陽」号は、昭和63年の開業当初に、関越道を全線走破して国道7号線を北上するという独特の経路だったが、旅の鳥羽口にあたる渋谷から関越道練馬ICまで、実に遠く感じたものだった。

渋滞につっかえながら山手通りを延々と北上し、新目白通りへ左折、高速道路に入るまで1時間程度を要したように記憶している。


だからこそ、夜明けの日本海の眺望が素晴らしく感じられたのかもしれない。
 

 

この頃の山手通りは工事が多く、車線規制があったり、掘り返しては埋め直し、舗装を重ねて継ぎはぎだらけの箇所が、あちこちに見られた。

もともと曲線が多い線形だから、自分でハンドルを握っていても、東京の環状道路では群を抜いて走りにくかった。

 

いったい何を工事しておるのかと首を傾げたものだったが、そのうちに、首都高速道路中央環状線の地下トンネルを建設していることを知った。

後の話になるが、平成27年に中央環状線が開通して、見違えるようにすっきりとした山手通りに、なるほど、と1人頷いたものである。

中央環状線の都市計画が裁可されて工事が始まったのは、平成2年とされている。

 

今回の旅でも、掘削部分を覆う鉄板をタイヤが跳ね上げる金属音が重々しく響き、座面からお尻が浮き上がるほどのバウンドがあったり、左右に身体を振られたり、ジャジャ馬に乗っているかのように揺さぶられた記憶がある。

池袋から関越道練馬ICまで13km、新宿からは14kmと、それほど差がある訳でもなく、長く感じられたのは、僕の思い込みと、山手通りの工事で車の流れが滞っていたことが原因であろう。

 

 

平成8年に開通した上信越自動車道を使って東京と長野を結ぶ高速バスは、池袋発着と新宿発着の2路線があった。

前者は開業当初の運行本数が1日4往復、今でも1日6往復であるが、後者は平成4年に中央自動車道と長野自動車道を回る1日2往復の路線を関越道・上信越道に乗せ換えたもので、今では1日12往復に増便されている。

 

池袋と新宿の集客力の違いと言えばそれまでだが、この差はどうしたことだろうと首を傾げたくなると同時に、判官贔屓からか、僕は池袋発着路線しか乗ったことがない。

いつかは新宿-長野線も乗らねばなるまいと思いつつ、なかなか機会がなかった。

 

 

今回も、新宿西口高速バスターミナルを発車し、関越道と上信越道に向かっているものの、乗っているバスは長野行きではない。

平成18年7月に開業したばかりの、新宿-坂城・戸倉上山田・屋代線で、行先表示には「上山田温泉・屋代」と書かれている。

 

東京からの高速バス路線が停車する信州の都市は、長野、上田、小諸、佐久、松本、大町、塩尻、岡谷、諏訪、茅野、伊那、駒ケ根、飯田と、かなりの数にのぼるものの、飯山、中野、須坂、更埴には高速バス路線が達していない。

中野と須坂は、平成4年に開業した夜行高速バス「ドリーム志賀」号が停車していたことがあったが、平成11年に廃止されたので、東京へ直通する高速バスを失った。

更埴は、今回の新宿-屋代線の開業で、ようやく東京直通の高速バスを持てたのである。

 

平成10年頃までに、長野県ばかりでなく全国の目ぼしい土地を高速バスが網羅し、以後の新規開業路線は細分化の傾向にあった。

新宿-屋代線が停車する坂城町、戸倉町、更埴市の玄関とも言うべき坂城駅、戸倉駅、屋代駅は、在来線時代の特急列車「あさま」の一部列車が停車し、流動は少なくなかったと思われるが、長野新幹線の開業に伴い、東京への直通交通機関をなくしていた。

 

 

この路線の開業を知った時には、なかなか目の付け所が良いではないか、と感心した。

それに、終点の屋代駅は、長野駅から15kmほど南に離れているだけなので、未乗の新宿-長野線の疑似体験にもなる。

 

この日に乗車したバスは、フロントガラスの表示が「特急 新宿⇔長野」となっていて、車両も長野線の使い回しか、と1人で頷いたものだった。

新宿-屋代線は、屋代駅を9時00分に出て新宿駅に13時00分に着く午前の上り便と、僕が乗っている新宿14時00分発・屋代18時00分着の1日1往復に過ぎず、1時間に1本運行されている新宿-長野線と共通にすれば、車両を効率的に運用できるのであろう。

坂城も戸倉も更埴も長野県であるから、「新宿⇔長野」は間違いではないけれども、それならば新宿を発着するかなりの数の路線が同じ表示になってしまう。

 

もちろん、他の乗客は、どのようなバスであろうと、何が書かれていようと、自分の目的地に連れて行ってくれれば良いのだから、気にも留めていないに違いない。

 

 

真夏の関越道は、頗る暑い。

空調は効いているはずなのだが、遮るもののない関東平野を、ぎらぎらと照りつける陽光を浴びて走っているうちに、車体が熱せられてしまうようである。

この日は高曇りで、晴れよりは日差しが弱いけれども、じっといているだけで汗が滲んでくる。

上越新幹線の高架が目に入れば、この区間だけは新幹線で短時間で通過したいものだ、と思う。

 

藤岡JCTで上信越道に入ると、晴れ間が広がったものの、ところどころに山や木々の日陰が出来ていた。

鮮やかな緑を纏った山々が近づいてくると、心が和む。

 

 

幾つものトンネルで上信国境を越え、山裾の合間に佐久平が広がり、浅間山が見える頃になると、同じ陽の光であっても、何処か優しさが感じられた。

信州に帰ってきたな、と嬉しくなる。

 

バスは、ふっと肩の力を抜くように減速すると、坂城ICで上信越道を降りた。

時刻表では、手前の上田菅平ICに停車すると書かれているが、案内があったのかすら覚えていない。

坂城ICは、下り本線の流出路と流入路が平面交差している箇所に信号機がついていて、交通量の少ない地方のインターでしばしば見かける構造である。

 

 

県道で坂城町の中心部に出たバスは、千曲川の川べりの国道18号線を走り始めた。

千曲川を最も間近で見られる道である。

子供の頃から何度も通ったことがあるから、目に入る町並みがいちいち懐かしい。

北国街道の坂木宿として発展し、坂城の字に改称されたのは明治になってからであるが、国道18号線を走ってこの付近に差し掛かると、如何にも昔の街道の雰囲気が漂ってくる気がしたものだった。

 

町内には製造業の工場が多数あり、坂城駅の隣りには、さかきテクノセンターの最寄駅として、しなの鉄道が発足して初の新駅となるテクノさかき駅が平成11年に開業し、このバスも立ち寄る。

坂城駅には寄らず、坂城の中心街の停留所は国道上の町田町である。

 

 
僕が坂城町で思い出すのは、「おしぼりうどん」である。

ねずみ大根を擦り下ろして布巾で絞り、信州味噌を溶かした麺つゆで食べるうどんで、大根おろしを混ぜるのではなく絞り汁を使うのが特徴だった。

 

海から離れた信州では、昆布や鰹などを使う出汁が作れず、江戸時代の中頃まで醤油も高級品であったため、大根と味噌で麺つゆを作ったという。

口さがない江戸の人間は、「蕎麦は美味いが、つゆは江戸から持っていけ」などと言っていたらしい。

蕎麦が名産の信州で、どうしてうどんがこの地に残ったのだろう。

 

 

国道18号線を進んだバスは、戸倉上山田温泉入口の交差点を左折し、万葉橋で千曲川を渡ると、温泉街に足を踏み入れた。

 

懐かしい光景に、胸が熱くなった。

戸倉上山田温泉は、小学校低学年の頃に親戚一同で集まり、生まれて初めて浸かった温泉である。

どうして集まったのか、という事情も、宿泊したホテルも忘却の彼方であるが、広い畳敷きの宴会場に大勢の親戚が集まって一緒に夕食を摂った光景だけは、今でも脳裏に浮かぶ。

 

父の運転する車で万葉橋を渡りながら眺めた温泉街の佇まいも、全く変わっていなかった。

僕が万葉橋を渡るのは、その時以来かもしれない。

 

 

戸倉村も北国街道の宿場であったが、明治21年に信越本線が開通しても戸倉に停車場が設けられず、危機感を抱いた地元の人々が温泉の掘削による村起こしを考えついたと言われている。

 

もともと、千曲川の河川敷に湧き湯があることは知られていた。

「恋しの湯」という、江戸時代の開湯伝説が伝わっている。

戸倉村に住むお政の婚約者が、江戸に出たまま行方知れずとなり、千曲川で赤い小石を100個集めれば婚約者が戻る、とお告げを受けた。

お政は、冬の河原で99個まで見つけたものの、最後の1個が見つからず、探し求めるうちに湧き湯を見つけ、指を温めると、無事に100個目の小石を見つけて婚約者と結ばれたという。

 

 

明治26年に千曲川の中洲に温泉が掘られたものの、明治35年の水害で旅館が全て流失したため、右岸へ移転し、築堤を整えた上で、大正5年に現在の左岸へ移されたのである。

信越本線戸倉駅も、明治45年に開業している。

 

戸倉上山田温泉は、善光寺参りの精進落としの湯として賑わい、また太平洋戦争の終戦後に傷病兵の湯治場となった。

最盛期である昭和の後期には、年間130万人以上の観光客が訪れて、300人以上の芸妓が在籍したと言われており、現在でも約50軒のホテルと旅館が並び、総勢150名の芸妓が在籍して、湯治よりも遊興的な雰囲気が強い温泉街である。


信州の温泉街で最も思い入れが強いので、新宿からの高速バスで大勢の湯浴み客が来るといいな、と思う。

 

 

バスはそのまま千曲川の左岸に留まり、歴史資料館があるさらしなの里、篠ノ井線稲荷山駅に程近い稲荷山温泉入口を辿りながら、県道長野上田線を北に進む。

左手に険しい山なみが連なり、小さく長野道の高架が見える。

長野道の姨捨SA付近やJR篠ノ井線姨捨駅から眺める善光寺平は、最初に、このあたりの光景で始まるのだな、と思う。

 

ここは、古来より更科と呼ばれた土地である。

かつて信濃は「科野」と呼ばれ、「科」はシナノ木を意味したと言う。

 

僕が通った信州大学教育学部附属長野小学校と附属長野中学校が西長野にあった頃、共有の校庭には、真ん中にシナノ木がそびえていた。

大人になって再訪すると、校庭は残されていたものの、シナノ木は跡形もなく消えていたのが寂しかった。

 

シナノ木は、木部が白く年輪が不明瞭であるのが特徴で、その樹皮を剥いで信濃布を織る際に、皮を水にさらすことを更科と言った。

やがて、蕎麦粉の挽出における純白の一番粉が更科と呼ばれるようになり、白い蕎麦の総称となる。

18世紀、江戸に創業した蕎麦屋の老舗が「更科」の屋号を標榜し、「藪」「砂場」と並ぶ蕎麦御三家の一角を占めたため、蕎麦の代名詞として知られた地名である。

 

「更級日記」を著した松尾芭蕉は、岐阜から木曾街道を寝覚の床、木曾の棧橋・立峠・猿が馬場を経て更科を訪れ、姨捨山の名月を愛でて、

 

俤や姥ひとり泣く月の友
十六夜もまだ更科の郡かな

 

との句を残した。

 

 

戸倉上山田温泉の北で交差する県道内川姨捨停車場線が千曲川を渡る橋は、冠着橋と名付けられ、その先の九十九折りの坂道を進むと、姨捨山として知られる冠着山の麓に出て、長野道の姨捨SAに付設したスマートインターや、篠ノ井線の姨捨駅に達する。

先ほどバスが通った万葉橋から、戸倉上山田温泉街を通り抜けて西へ進めば、東山道の古峠越を経由するかなりの悪路であるが、長野道のインターや篠ノ井線の駅が置かれた聖高原はそれほど遠くない。

稲荷山温泉入口停留所を真っ直ぐ進めば稲荷山駅であり、左に折れれば猿ヶ馬場峠を越えて姨捨、聖高原、松本へ抜ける国道403号線・善光寺街道である。

 

聖高原がある麻績には、父方の祖父の兄が住んでいたので、戸倉上山田温泉に親戚が集まったのは、その関係かもしれない、と今にして思う。

 

姨捨の月は、急斜面に設けられた段々畑に映る「田毎の月」で知られ、土佐の桂浜、石山寺の秋の月と並ぶ日本三名月と言われた。

僕は、地元民でありながら、姨捨の月見をしたことがない無風流な人間であるが、千曲川から西へ向かうこれらの道路で、「田毎の月」が見られるのかもしれない、と思えば、気がそそられる。

 

 

国道403号線を右に折れたバスが、千曲橋で右岸に戻ると、沿道の建物に切れ間がなくなり、国道18号線を横断するあたりから車窓が賑やかになって、終点の屋代駅はその突き当りであった。

 

平成15年に戸倉町、上山田町と合併して千曲市となって市名が消えたが、故郷である長野市の南隣りに位置する更埴市の名は、馴染みでありながら、固い名前をつけたものだ、と子供心に感じていた。

昭和34年に更級郡稲荷山町と八幡村、埴科郡埴生町と屋代町との合併により成立したため、双方の郡の名前をとって更埴と名づけられたらしいが、その中心駅は屋代のままだったことも、どこか違和感を感じた一因であろうか。

 

夕陽が赤々と照らしている屋代駅はひっそりとしていて、ロータリーの一隅に「姨捨駅行」の行先を掲げた市営のコミュニティバスが停まっているだけだった。

 

 

僕は、ここから路線バスで長野市内に入ろうと思っていた。

終戦直後の昭和22年に、川中島自動車が長野市内から運行を開始した「国道上田線」は、10年前の平成8年に、末端区間の上山田-上田間を廃止した。

長野市内と上山田営業所を結ぶ区間が残されているならば、屋代駅には寄らないけれども、国道18号線に沿う屋代営業所を通るはずだった。

 

僕は、大学を卒業する平成3年の3月に、川中島の国道18号線沿いにある北信運転免許センターで試験を受け、免許証を取得した際に、まだ健在だった「国道上田線」を利用したことがある。

往路は遅刻しないように電車を利用し、最寄りの篠ノ井駅から路線バスを使ったが、帰路は、免許センターの停留所から長野市内まで乗り通した。

 

 

仮免許の取得までは、山形県の庄内地方にある自動車学校の合宿で教習を受けた。

 

大学の生協で、往復の飛行機代と宿泊費が教習所持ち、との条件に惹かれて申し込み、卒業式も国家試験も終わった春休みのある日、大学同期の友人と2人で庄内空港に降り立った。

送迎バスで連れて行かれた教習所は、酒田市と鶴岡市に挟まれた余目町の、広大な水田地帯の真ん中だった。

 
同時に入学した教習生は14人である。

男性は12人で、宿舎では広い畳敷きの部屋に布団を並べての雑魚寝だったけれども、気の良い奴ばかりで、楽しい教習生活になった。

僕の大学もそうだったが、大学や専門学校などに入学したばかりの時期に免許を取るのが大半のようで、僕が最年長である。

落語研究会の奴、ロック好きの奴、寡黙な体育会系の奴など様々で、中にはカップルで来ている2人もいた。

 

 

宿舎は、湯野浜温泉郷から少し外れた、トロン温泉が売り物のホテルだった。

戸倉上山田温泉のような殷賑さはなく、素朴な街並みだった。

 

かつて、庄内交通の鄙びた軌道線が走っていた温泉街である。

昭和50年4月に消えたローカル私鉄の町に、実際に来ることになろうとは、夢にも思わなかった。

教習所とホテルの間の送迎バスから、古びた温泉街のたたずまいを眺めながら、

ここは、古い写真集で見た電車の駅の跡ではないのか?──

などと身を乗り出したものだったが、教習仲間に鉄道ファンはおらず、真偽のほどは確かめようがなかった。

 

 

庄内空港から教習所に着き、座学を受けた後に、初めてハンドルを握った時の感激は、今でもありありと思い浮かべることが出来る。

 

車の周囲をひと回りして安全確認を行い、運転席に座ってシートベルトを締め、サイドブレーキが引かれていることと、ギアがニュートラルになっていることを確認し、ブレーキを踏みながら、おもむろにエンジンキーを捻る。

クラッチを踏み込んで、ギアを1速に入れ、サイドブレーキを解除、発車前の確認はサイドミラー、ウィンカーの合図、目視の順で、教官が何度も繰り返した「ミラー、合図、目視」は今でも諳んじている。

クラッチを緩めながら、アクセルを恐る恐る踏んでみると、おお!動くではないか、と感動した。

 

僕が子供の頃、家族で運転するのは父だけであった。

父は、絶対にマニュアル車しか乗らなかったので、一連の操作は父の運転を見て大抵理解していた。

ただし、子供の目から見ても、父は半クラッチや坂道発進が下手だった。

坂道では、ブレーキペダルから右足を離したかと思うと、猛烈にアクセルを踏み込むという力まかせの発進だった。

雪の坂道では、そろそろとタイヤをグリップさせながらの発進が出来ず、スタックするか、動輪を凄まじい勢いで空転させながら力ずくで登っていく有り様だった。

 

教習所で、坂道発進に際してサイドブレーキを使う方法を教えてもらった時は、何たる頭の良さか、と感心した。

幸い、僕は運転が性に合っていたらしく、ギアチェンジや半クラッチなどが面白くてしょうがなかった。

一連の操作が上手くいくと、父を超えたような気分になったものだった。

教官は優しかったし、教え方も具体的だった。

 

「クランクは、自分の真横に角のポールが来たら、ハンドルをいっぱいに回して」

「S字は、ここまで来たら、ハンドルを2回転、次にここまで来たら、逆に2回転、な!」

 

といった調子であったから、とても分かりやすかった。

他の仲間も、トントン拍子に課程をクリアしていった。

そこの合宿免許は、たとえ延長になっても、宿泊代が加算される訳ではなく、教習所も支出が増えないように懸命だったのかもしれない。

 

 

ある教習生が、教習所内の模擬踏切でエンストした。

踏切は、意外と凹凸が大きく、マニュアル車では決して侮れない。

通常は、慌てずギアを戻して、エンジンを再始動、坂道発進の要領でゆっくりスタート、という手順だが、

 

「さあ、どうするの?こういう時は」

 

と、教官にせっつかれた教習生は、いきなりダッシュボードの下の発煙筒をもぎ取り、虚をつかれた教官を尻目に、ドアを開けて外へ飛び出すと、発煙筒を焚いたのだ。

教習所内に立ち上る一筋の白煙。

 

ウソかホントか、昼休みに教習仲間から聞いた話であるが、その光景を思い浮かべて吹き出した。

 

「間違いじゃないだろ?」

 

とは彼の総括であったが、まさか、彼自身の逸話じゃあるまいな、と頬が緩んだ。

 

印象深かったのは、急ブレーキの体験教習だった。

母校の内科の助教授に似た、額の広い赤ら顔の教官が、僕を助手席に乗せ、

 

「じゃあ、やってみせるよ!」

 

と笑顔のまま、いきなり外周コースを猛然とダッシュし、隅のカーブの寸前でブレーキを強く踏むと、右へぐるぐるハンドルを回しながら急停車した。

教習所に鋭いブレーキ音が響き渡り、僕の身体にシートベルトが食い込んだ。

唯一無二のドリフト体験だったかもしれない。

それ以降、僕が運転する車が、そのような音を立てた記憶がないのは、幸いと言うべきか。

まさか同じことをしろと言うのか、と緊張したけれど、さすがにそれはなかった。

 

普通免許で原動機付自転車にも乗れる制度であるから、原チャリ教習もあった。

小雪が舞う寒い日だったが、初めて乗るバイクは面白かった。

途中で1本橋から落ちたのは、僕だけである。

 

オートマチック車に乗る教習もあったが、マニュアル車の方が何倍も楽しいと思った。

課程が進むと、所内コースを単独で運転するようになる。

教官が、中央に立つ塔から見下ろしながら、一方通行の無線で、それぞれの車に指示を出す。

日によってコースが変わるので、みんなで一生懸命に暗記した。

仮免許取得の走行試験も、同じ方法の単独運転だった。

スタートの時に、

 

『はい、◯◯番──ああ、キミはとっても上手い人だね。じゃあ、始めようか』

 

と、教官からの無線を聞いた時には、とても嬉しかった。

その教官は、顔も体型も母方の叔父とそっくりで、親近感を抱いていた。

 

 

全員が目出たく仮免を取得した翌日は、教習が休みになり、教習所がマイクロバスを出してくれた。

観光したい行き先の希望を出すように言われ、僕は、合宿仲間に出羽三山のミイラを提案した。

教習仲間も快く賛同してくれて、教官が運転するマイクロバスで、鶴岡市大網にある真言宗智山派注連寺と、滝水寺大日坊を巡ったのである。

 

江戸時代に出羽三山を訪れた松尾芭蕉は、

 

『雲霧山気の中に氷雪を踏んで登ること八里、更に日月行道の雲関に人かとあやしまれ、息絶身こごえて、頂上にいたれば日没して月顕わる』

 

と「奥の細道」に記している。

芭蕉が月山に登ったのは1689年6月、新暦で言えば7月であった。

数百年前も、真夏にもかかわらず多量の残雪が見られたことになる。

月山の山頂は万年雪で覆われ、氷河期には、アイスキャップと呼ばれる氷河が存在していた可能性もあるという。

 

出羽三山の信仰や修験道で中心的な地位にあったのが、最も奥まった位置にある最高峰の月山であるが、僕は、どちらかといえば湯殿山に神秘的なイメージを抱いていた。

古来より、湯殿山については「語るなかれ、聞くなかれ」と言われ、芭蕉も、

 

『総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめてしるさず』

 

と書くに止め、

 

『語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな 』

 

と一句詠んでいる。
 

 

「奥の細道」とともに、僕が湯殿山に興味を持つきっかけになったのが、SF作家小松左京の「続・妄想ニッポン紀行」だった。

大日坊を訪れた小松左京は、以下のように記している。

 

『中は薄暗い。

煤けた天井から、色褪せた千羽鶴が無数に垂れ下がり、その間に大提灯がぶら下がる。

その奥に須弥壇があって、本尊大日如来がまつられてある。

暗い中に、煤けた金色の仏像、灯明が瞬き、仏具が配置され──という雰囲気は、地方寺院に毎度の事であるが、左手の地蔵尊から右手へ視線を移して、ぎょっとした。

巨大な黒光りする大黒天の像が小槌を振り上げている。

俵を履き、袋を担ぎ、頭巾をかぶったその姿はおなじみだが、その顔は強く口を結んで笑っていない。

振り上げた打ち出の小槌も、福を振り出すそれではなくて、眼前の何かを叩きつぶす武器のように見える。

ミイラは御本尊の裏手に回った所にあるというので、正面の壇の裏へ、廊下を伝って行くと──果たして真如海上人即身仏は、とがった帽をかぶり、美々しい衣を着て、正面本尊と背中合わせの位置に座っていた。

変色した両手を前に揃え、うつ向けの顔にくぼんだ眼窩と、なかば開かれた虚ろな口が、笑っているように見える』


『この異様さは、いったい何と言ったらいいであろう。

「血の池権現」がある。

「飯綱権現」がある。

「愛染明王」はぎらぎらと眼を輝かし、「御滝不動」は赤い口をあけ、「御裏三宝荒神」は忿怒邪悪の相を示し、「波切不動」に至っては、全身鱗がはえて青黒く毒々しく塗りたくられた上、下半身はとぐろを巻く蛇竜であり、渦巻く白波からすっくと立って、眼をむき、真っ赤な口を開いて鋭い剣先にガブリの所は、仏というよりは、さながら怪獣である。

こんな仏が、壇の裏をめぐる回廊に、ミイラを中心にずらりと配置されている光景は──真言密教諸仏の奇怪さを、少しは知っているつもりの私も、圧倒されて声も出ない有様だった。

これは果たして「日本のもの」か?──もしそうだとしたら、「日本的」という概念は大幅に訂正されなければならぬ』
 

 

山形県内には、庄内地方を中心に、8体もの即身仏が安置されている。

 

僧侶が土中の穴に入って瞑想状態のまま絶命し、ミイラと化したものが即身仏である。

背景にあるのは入定という概念で、端的に言えば悟りを開くことなのだが、死を永遠の生命の獲得、とする解釈とも言われている。

「奥の細道」と「妄想ニッポン紀行」を読んだのは中学から高校にかけてのことで、出羽三山を、特に湯殿山を訪ねてみたい、と強く思うようになった。

 

注連寺は、国道112号線を北に逸れ、段々畑の畦道のような狭い急坂を登った傾斜地にある。

 

「こういう道はセカンドで登るだろ?下りのエンジンブレーキもセカンド。エンブレは登る時のギアって覚えるといいよ」

 

と、叔父に似た教官が講義をしながら運転してきたマイクロバスを降りれば、森閑として鳥の声だけが遠くに聞こえる山村の風景に、心が洗われた。

来て良かったと思う。

作家の森敦が滞在し、注連寺と、周辺の七五三掛地区を舞台にした小説「月山」で芥川賞を受けたことでも知られている。

出羽三山が女人禁制だった時代には、「女人のための湯殿山参詣所」として大いに賑わったという。

 

 

ひっそりとしたたたずまいの本堂に足を踏み入れると、最初に圧倒されるのは、天井一面に描かれた絵画である。

無数に並ぶ円形の小絵画の中央に、大きな絵画がはめこまれている。

 

飛ぶ龍が睨みをきかせている様を迫力ある筆致で描いた、村井石斎画伯による「飛天の図」。

合掌した手を描いた木下晋画伯の「天空の扉」。

水を象徴として結界を作り出したという満窪篤敬画伯の「水の精」。

久保俊寛画伯の「聖俗百華面相図」。

十時孝好画伯の「白馬交歓の図」。

 

どこからともなく現れたモンペ姿のおかみさんが、朴訥な口調で説明した内容によれば、千年残る天井画を描いてほしいとの依頼に応えて、現代画家が腕を競ったのだという。

 

ぎしぎしと軋む床を靴下で踏みしめ、ひんやりとした感触を味わいながら回廊を回り込むと、恵眼院鉄門海上人の即身仏が、厨子に納められて安置されていた。

僕らは固唾を飲んで、言葉もなく立ち尽くした。
 

 

次に訪れた大日坊の即身仏と仏像群も、暗記するほど読み込んだ小松左京の記述と寸分違わぬ迫力で、僕の胸を衝いた。

 

木の皮や実を口にしながら命をつなぎ、経を読み、瞑想するうちに、腐敗の原因となる脂肪が燃焼され、筋肉が消費され、皮下脂肪が落ちて水分が少なくなる。

生きながら箱に入り、土中に埋めさせて、節をぬいた竹で箱と地上を繋いで息を継ぎ、読経をしながら鈴を鳴らす。

鈴の音が途絶えれば、入定である。

死を前提にした、想像を絶する苦行である。

伝染病の流行や飢饉などが発生した折りには、民衆の救済を祈願し、その苦しみに成り代わって即身仏になったとも伝えられる。

 

科学技術や医学が未熟で、病や自然との闘いが今より遥かに厳しく、祈るより他に術がなかった時代の人々のことに思いを馳せた。

一方で、大日坊に安置された真言密教諸仏の異様な造形を持て囃した当時の東北の人々には、娯楽に乏しく厳しい時代を生き抜いた力強さと逞しさを感じた。

 

 

精進落としではないけれど、夜はホテルでカラオケ三昧となり、費用は教習所持ちであった。

落研の学生が芸達者で、踊りながらCHAGE&ASKAの「YAH!YAH!YAH!」や「ジンギスカン」を歌うと、大いに盛り上がった。

 

仮免取得後の路上教習は、他の車が殆んど走っていない、風光明媚な田園地帯の教習だったので、長閑の一言に尽きた。

田圃の中を坦々と延びる見通しの良い一本道を、早春の庄内平野の風景や、雪をかぶった山々の眺望を楽しみながら、のびのびとハンドルを握った。

ちょっぴり困ったのは、このように鄙びた道路で教習を受けて、都会で運転が出来るのだろうかという不安と、

 

「先生っ、あそこの、時速10キロで前を走ってる耕運機、追い抜いちゃダメっすか?」

「ううむ、センターラインが黄色だから本当はいけないんだが……時間がない、よく安全確認して抜いちゃって」

 

という場合であった。

 

マジでビビったのは、教官の指示のままに、国道7号線バイパスに進入した時である。

4車線の高架道路には、たくさんの乗用車やトラックがひしめきながら、かなりの速度で轟々と流れていた。

ハンドルを握っていて、あれほど怖かったことはない。

どのような走り方をしたらいいのかわからず、凍りついている僕を横目に、教官は動ずることなく、

 

「はい、アクセルを緩めないで」

 

と、助手席から手を伸ばして、僕のハンドルを巧みに操作し始めた。

次の出口まで、教官のハンドルさばきだけで教習車は走り続け、車線変更も何の滞りもなかった。

自動車教習所の教官を、心から尊敬した瞬間だった。

 

 

同じ教官と組んで、路上に出かけた別の日のことである。

 

いい天気だなあ……いつまで、この道を走り続けるのかな……眠くなりそうなんだけど……

 

と、欠伸を噛み殺しながら助手席に目を遣ると、教官がうつらうつらと船を漕いでいるではないか。

おやまあ、と吹き出しそうになって、しばらく1人のドライブを楽しんだが、じきに教習時間の半分が過ぎ、教習所から離れるばかりだったので、少しばかり強めにブレーキを踏んだ。

カックン、と躓いた教習車の揺れに、ハッと目を覚ました教官は、

 

「あっ──そこの交差点、左折ね」

「ハイ、わかりました!」

 

僕は笑いをこらえるのが精一杯だった。

 

当時の庄内地方には高速道路がなかったため、高速教習は座学でビデオを見ただけだった。

 

『高速道路でのハンドル操作は、急激に行わず、コツン、コツンと少しずつハンドルの抵抗に当てていくように回しましょう』

 

と言われても、全く理解不能であったが、後に実際にハンドルを握ると、分からないでもない表現である。

 

 

いよいよ本免の路上試験という日、誰もが緊張しながらも順調にパスしていった。

僕も、それほど固くなることもなく、楽しみながら走ることができた。

 

約2週間に及ぶ教習生活の締めくくりである。

大学を卒業したばかりの春休みであるから、海外旅行などに出掛ける友人も少なくなかったが、教官や仲間に恵まれて、好きな車の運転ができるようになったのだから、楽しい日々だったと思う。

本免の路上試験が終われば、その日のうちに帰京するので、その朝は全員が荷物をまとめて教習所に来ていた。

次に運転できるのは何時のことなのか、と思うと、不意に寂しさがこみ上げてきた。

 

教習所の建物の前で教習車を降りた時、僕は冷や汗をかいた。

試験終了で気が緩んだのだろう、路面に描かれた停止線が、あろうことか、前輪よりも後ろの運転席の真下にあったのだ。

紛れもなく停止位置違反であるが、教官は、素知らぬ表情で降りていった。

ドキドキしながら迎えた結果発表は、幸いにも合格であった。

 

ただし、1人だけ落ちた奴がいた。

芸達者の落研の学生は、路上試験から帰って来るなり、

 

「先生、勘弁して下さいよぉ!」

 

と強気に抗議し、

 

「すまん、でも、決まりは決まりだから、な!」

 

と、教官も申し訳なさそうだった。

順調だった試験中に、路駐していた車の陰から、突然、牛が飛び出してきたらしい。

彼は完璧にブレーキを踏み、教習車も寸前で停止した。

ところが、驚いた教官も同時にブレーキを踏んでしまい、教官ブレーキとして記録されたために、即座に試験中止になったと聞いて、みんな、笑いを必死で堪えていた。
 

 

クサりっ放しの彼に、口々に慰めの言葉をかけながら、その日の午後に僕らは教習所を後にした。

 

庄内空港へ向かう仲間に別れを告げて、僕は、大学の友人と一緒に鶴岡駅へ向かった。

せっかく庄内に来ているのだから、大宮、浦和、川口を経由して赤羽駅に向かう、平成4年に開業した新路線を利用してみようという企みだった。

渋谷発着の「日本海ハイウェイ夕陽」号とは別路線である。

大学の友人が、面白そうだと同行することになったのだが、彼はバスファンでも何でもないから、

 

「どうして酒田駅から乗りたいの?鶴岡駅の方が近くて安いじゃない」

 

などと注文が多くて、閉口する。
 

 

鶴岡駅前の喫茶店で時間を潰しながら、僕と友人は本免の筆記試験の勉強をして過ごした。

彼は、翌日に東京の免許センターの本免試験を申し込み、車内でも勉強を続けると言う。

 

「だって、バスの後ろがサロンになってるんでしょ?そこで一晩過ごすよ」

 

どうやら、庄内交通が当時の夜行高速路線に投入していた後部2階建てになっているボルボ・アステローペのことを、僕が吹聴したらしい。

だが、後部サロンがない共同運行会社の国際興業バスに当たる可能性もあるぞ、と釘を刺すと、

 

「えー?それは困るよ。騙されたことになるよ」

 

と駄々をこねる有様で、そこまで面倒見切れるか、と内心突き放しながらも、発車時間を迎えた鶴岡庄交モールにボルボ・アステローペが姿を現した時は、胸をなで下ろした。

さっそく後部の階下にあるサロンへ向かうと、各座席の頭上に設けられている読書灯と変わらない小さな明かりだったが、彼は全く気にせず教本を開いた。
 

 

バスは、深夜の国道112号線を内陸へ向かった。

渋谷線「日本海ハイウェイ夕陽」号と異なり、「夕陽」号赤羽線は、山形自動車道と東北自動車道を使う経路である。

僕は、消灯後も、教習を無事終えた安堵感と軽い興奮で、なかなか寝つけなかった。

 

翌朝に大宮駅で目を覚ますと、彼も自分の席に戻っていたから、少しは仮眠を取ったのだろうが、終点の赤羽駅からそのまま免許センターに直行し、きちんと合格したのだから、その馬力には脱帽の他はない。

落研の学生は、2日後に合格したと教習仲間の電話で聞いた。

 

僕が、北信運転免許センターで試験を受けて免許を取得したのは、長野の実家に帰った数日後である。

 

 

あれから15年も経ったのか、と容赦のない時の流れに粛然とするが、あの時が「国道上田線」の乗り納めだった。

 

上山田から長野市内に向かう区間はまだ残されているのか、それとも、昨今のバス路線の衰退に伴って廃止されてしまったかもしれない。

それを確かめに行くのが、不意に億劫になった。

運行されているとしても、本数が減り、乗客も少なく、侘しい気持ちになるだけではないのか。

静まり返った黄昏の屋代駅前で、誰も乗っていない姨捨行きのコミュニティバスを眺めているうちに、虚しさが込み上げてきた。

 

僕が駅舎に踵を返すと、待つほどのこともなく、しなの鉄道の長野行きの電車が入線した。

 

後に知ったが、「国道上田線」は、平成14年に上山田への乗り入れを廃止し、長野市内から篠ノ井駅・免許センター止まりとなっていた。

この旅の時点で、屋代に来ていなかったのである。

高速バス新宿-屋代線も、開業して僅か9ヶ月後の平成19年3月に廃止された。

 

 

 

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