蒼き山なみを越えて 第59章 平成20年 高速バス立川-上田線、松本・長野-仙台線信州ライナー号 | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成20年の7月の週末のこと、立川駅で中央線快速電車を降りた僕は、北口のバス乗り場に歩を運んだ。


ペデストリアン・デッキに出ると、真夏の太陽の眩しさにくらくらした。

駅のコンコースで人混みに揉まれて、いい加減うんざりしているところに、外に出ても猛暑に苛まれるのだから、たまったものではない。

デッキの周囲をぎっしりと囲む、色とりどりの看板を並べた雑居ビルすら鬱陶しい。



この街に来るのは久しぶりだった。


平成8年に僕が立川の病院で3ヶ月の研修を受けていた頃から、北口の賑わいは変わっていなかったが、駅を挟んだ南口は対照的で、昼はひっそりとしていた。

ところが、夜ともなると飲み屋の暖簾が連なり、改札の正面で日中はシャッターを下ろしている店が、成人向けの書籍を専門に売っている書店であったり、妙に猥雑な印象に変貌した。


研修時代は、北口よりも、近寄りがたい雰囲気の南口に惹かれていたが、この日は足を向けなかった。

南口に何も用はないし、平成11年に「グランデュオ立川」と称する駅ビルが建ち、街並みも一新されて、小綺麗になったのを知っているからである。



発車時刻の16時20分の間際に颯爽と現れたのは、千曲自動車の上田行き高速バスだった。

信州の東信地方には、既に池袋からの高速バスが運行されているが、平成20年4月に、立川と佐久、小諸、上田を各1往復ずつ運行する路線が開業した。


人口が多い東京都の多摩地区からは、平成の初頭に、八王子を起終点にして仙台や金沢、京都、大阪への夜行高速バスが登場している。

その後、都心を発着する路線と統合され、独立して残っている路線はなくなったが、多摩の中心都市は八王子なのだな、と頷いたものだった。



立川と言えば、平成3年に夜行高速バス立川-神戸線「シャルム」号・「レッツ」号が開業し、京都と大阪は八王子発着、神戸は立川と、妙な役割分担をしたものだな、と首を捻った。


ところが、平成10年に多摩都市モノレールが立川北駅に乗り入れた頃から、人の流れが大きく変わり、元々、鉄道でも中央線と青梅線、南武線が乗り入れる交通の要所であったことから、八王子を凌ぐ商業都市に変貌したのである。

夜行高速バス立川-神戸線も、平成21年に立川-京都・大阪・神戸線に生まれ変わり、目出度く関西の三都と結ばれた。

信州方面にも、多摩地区発着で初となる立川-佐久・小諸・上田線と、平成25年に「中央高速バス」立川-飯田線が開業している。



僕が立川で研修していた期間は、品川区大井町のマンションの賃貸契約を残したまま、病院が用意した立川市内のマンションで寝泊まりしていたので、休みが貰えると、バイクで立川と大井町を往復したものだった。

立川市街から西国立駅の南を通って国立市に入り、矢川駅や谷保駅周辺の入り組んだ路地をすり抜けながら甲州街道に出て、国立府中ICから中央自動車道に入るのが、定番の道筋だった。

交通量が多い割に狭隘で渋滞する甲州街道を嫌ったことも一因だが、通り道である西国立駅近くの羽衣町に、在庫の豊富な古書店を見つけたことが、この経路を使う最大の理由だった。 


「雁の寺」「はなれ瞽女おりん」「うつぼの筐舟」「越後つついし親不知」「越前竹人形」「五番町夕霧楼」「櫻守」などの著作により、叙情作家として知られた水上勉が、松本清張の「点と線」に刺激されて昭和34年に発表した推理小説「霧と影」で、一躍流行作家に名を連ねたことを知る人は、あまり多くないのかも知れない。

水上勉の初期の社会派推理小説を手に入れるのは、至難の業であった。

洞爺丸事故を題材にした昭和38年の大作「飢餓海峡」が、映画化もされて大きな話題を呼び、松本清張、笹沢左保、梶山季之と並ぶ推理界の量産作家四天王とも呼ばれながらも、水上氏自身は推理小説に空虚感を感じ、人間を描きたい、という一心から「雁の寺」を執筆して、直木賞を受賞する。

僕がファンになった昭和60年代になると、書店に並ぶ水上勉の推理小説は「飢餓海峡」くらいになっていた。


ところが、羽衣の古書店は、他の店と同じく漫画やCD、DVDなどのコーナーが主体であったものの、絶版になって久しい水上勉の推理小説を、出版当時の文庫本として廉価で手に入れることが出来るような、文芸書の品揃えが豊富な店だったのである。

この店に陳列されていた水上勉の文庫本を買い占めたのは、僕だったような気がしてならない。



僕の母校である長野高校の学園祭に、水上勉が講演に来たことがある。

物静かな口調でありながら、ぐいぐいと惹き込まれる氏の話しぶりにすっかり魅入られた僕は、次の日に出場することになっていた言論大会の原稿を、氏の話しぶりを思い浮かべながら、徹夜で構成や言葉遣いを改め、最優秀賞をせしめた。

内容は全く異なっているけれども、どちらも聴いていた母には、


「昨日の水上さんを真似たね」 


とお見通しであったことも、今となっては懐かしい。


水上勉の小説ばかりでなく、週末に必ず立ち寄って贔屓にしていた古書店であったけれど、昨今の本離れの風潮には抗えず、平成30年に閉店したと聞く。



定刻16時20分に上田行きの高速バスが発車し、窓外を流れ行く街並みに目を向けると、僅か3ヶ月でありながら、この街で過ごした日々が濃密に思い出される。


バスは都道43号線で郊外の住宅地を坦々と進み、上立野東交差点で新青梅街道に左折すると、青梅ICから首都圏中央連絡自動車道に入った。

立川駅から青梅ICまで約18km、50分程度を費やし、案外に間怠っこしい。


首都圏の外周を1周する道路としては国道16号線が知られているが、混雑が激しく、その解消を図るために圏央道の構想が持ち上がったのが昭和62年である。

昭和63年に、その先駆けとして神奈川県内に新湘南バイパス藤沢IC - 茅ヶ崎西IC間が開通し、僕も何度か利用したのだが、この道路が後に圏央道になるとは思いも寄らず、どうしてこのような場所に、どの高速道路とも孤立した高規格道路が出現したのか、不思議でならなかった。



平成8年青梅IC-鶴ヶ島JCTが開通して関越自動車道に接続し、平成10年に千葉東金道路の東金IC-松尾横芝IC、平成14年に日の出IC-青梅IC、平成15年につくばJCT-つくば牛久ICが開通して常磐自動車道と接続、平成17年にあきる野IC-日の出IC、平成19年につくば牛久IC-阿見東IC、木更津東IC-木更津JCTが開通して東京湾アクアラインと館山自動車道に接続、そして八王子JCT-あきる野ICの開通で中央自動車道と関越道が結ばれた。


この時点で、多摩地域から関越道に乗るのが容易になり、高速バス立川-佐久・小諸・上田線が開業したのである。



平成5年に、横浜と新潟を結ぶ高速バス「サンセット」号が開業したことを思い出す。
関越道から横浜までどのような経路を使うのか、興味津々だったが、関越道練馬ICを降りると環状8号線を延々と南下し、上野毛の玉川ICから第三京浜国道に乗るという冗長な道筋だったので、関越道沿線から横浜は遠いのだな、と欠伸を噛み殺した記憶がある。

圏央道が通じた時に、「サンセット」号も走らせてあげたかったな、と思った。


今回の旅より後の話になるが、圏央道はその後も粛々と工事が進み、平成20年に鶴ヶ島JCT-川島IC、平成21年に阿見東IC-稲敷IC、平成22年に海老名JCT- 海老名ICが開通して東名高速道路と接続、川島IC-桶川北本IC、更につくば中央IC-つくばJCTが開通、平成23年に白岡菖蒲IC-久喜白岡JCTが開通して東北自動車道と接続、平成24年に高尾山IC-八王子JCT、平成25年に海老名IC-相模原愛川IC、茅ヶ崎JCT-寒川北IC、東金JCT-木更津東IC、平成26年に稲敷IC-神崎IC、そして相模原愛川IC-高尾山IC間の開通により、東名高速と中央道、関越道が結ばれた。


平成27年に寒川北IC- 海老名JCTが開通して、新湘南バイパスと東名高速が繋がり、僕は、そう言う計画だったのか、と初めて納得したのである。



同年には久喜白岡JCT-境古河IC、神崎IC-大栄JCTが開通して、常磐自動車道と東関東自動車道が直結し、更に桶川北本IC-白岡菖蒲ICの開通で関越道と東北自動車道が紡がれた。

平成29年の境古河IC-つくば中央ICの開通により東北道と常磐自動車道が繋がり、新湘南バイパスから東名高速、中央道、関越道、東北道、常磐道、東関東道までが圏央道で相互に連絡されたのである。


平成29年に開業した、羽田空港と横浜駅から軽井沢に向かう高速バスは、圏央道を経由したので、「サンセット」号のような真怠っこい車中ではなかったはずである。

圏央道は、未開通の区間が千葉県内に残っており、新湘南バイパスの開通から30年、高速道路を造るのは大ごとなのだな、と改めて思い知らされる。



何度か自分の運転で走った経験があるので、関東平野の西の縁に広がる街並みを右手に見下ろしながら走る圏央道の景観は、それほど真新しいものでははない。

青梅ICより南側では高尾山系を貫いているので、トンネルと勾配が断続しているけれども、北側は、殆んどの区間がなだらかな丘陵をくり抜いた切り通しで、時々現れる平地は住宅地なのであろう、背の高い防音壁が視界を塞いでしまう。

トンネルがあっても、市街地を潜るためである。

バスと同じ背丈で景観を遮るトラックも多い。

圏央道の開通で物流が円滑になり、例えば埼玉県の企業誘致が進んだと発表されているので、使い勝手が良い道路なのであろう。


この道路を使って、立川や八王子から、僕の故郷である長野にも高速バスが来ればいいな、と夢想する。

長野ならば中央道と長野自動車道を使った方が速いのかもしれない、と思い直したり、のんびりと過ごしているようでも、初めての区間を走る高速道路ともなれば、考えることがなかなか多くて忙しい。


鶴ケ島JCTで関越道に入れば、旅の序章は終わり、バスは上信越自動車道を分岐する藤岡JCTの手前の上里SAで一憩するだけで、19時01分に着く佐久ICまで、黄昏の上信国境をひたすら走り込んだ。



立川駅から佐久ICまで2時間40分、池袋駅からの「関越高速バス」ならば、途中で富岡、下仁田、松井田バスストップに停車するにも関わらず1時間50分なので、多摩地区から関越・上信越道の沿線に向かうのは、やっぱり大変である。


人の主たる流れからも外れているのか、乗っている客は十数人程度だった。

立川や八王子近辺の人々が、例えば軽井沢あたりに出掛けるには便利な高速バスで、東京駅や大宮駅で新幹線に乗るよりも手軽だと思うのだが、開業の翌年には小諸、上田系統の2往復だけとなり、平成25年から玉川上水駅に停車するなどの梃入れ策も講じられたのだが、平成26年に1往復となって、令和2年に廃止された。


ちなみに、1日3往復のうち、軽井沢を経由して小諸に向かう1往復は、立川駅を9時20分発、小諸駅を17時00分発と、三多摩の人々が信州に向かうのに適した運行になっている。

臼田町の佐久総合病院を発着する系統は、佐久7時30分発と立川17時10分発、上田系統は上田6時10分発と立川16時20分発となっていて、信州から往復しやすいダイヤだった。


佐久ICから上信越道を更に西へ進み、小諸高原と東部湯の丸のバスストップに停車しただけで、バスは上田菅平ICを降り、すっかり暗くなった上田市街へ入った。

ビルや看板の照明が眩い上田駅前に着いたのは、時刻表通りの19時33分だった。



夜の上田の街は、高校2年の3月に、上田市内でしか上映されていなかった映画を観に来て以来のような気がする。

長いことファンだったアニメ映画の最終作であったので、たとえ親が許してくれなくても観なければならない、と思い詰めていたものの、長野市での上映期間が終了していたので、僕は上田まで出掛けたのである。


映画館を出ると、とっぷりと日が暮れていて、このような遅い時間に家に帰って親に何と言い訳をしようかと気が重くなったものだったが、社会人になった今では、そのような心配は不要である。



もちろん、今の僕に帰るべき家庭がない訳ではない。

僕は、この旅の前年に結婚していた。


妻となった女性との馴れ初めは、仕事絡みだった。

平成18年の師走に、職場に出入りする製薬会社のプロパーの一員として知り合い、僕は、生まれて初めての一目惚れを経験したのである。

製品説明をする上司を補助して、甲斐甲斐しく働く彼女に眼が釘づけになり、他の人の眼を盗んで、メールアドレスの交換を申し出た。

自分から見知らぬ女性に声を掛けて、厚かましくメルアドの交換まで持ち出すのも初めての経験だったが、彼女は、大きな眼をいっぱいに見開いて僕を見つめながらも、気持ちよくアドレスを教えてくれた。



その1週間後に、僕は、西四国をバスで回る1人旅に出た。


大阪から宿毛に向かう夜行高速バス「しまんとブルーライナー」号を降りる寸前に、携帯電話に彼女からメールが届いていることに気づいた。


『Merry Christmas!いつもお仕事お疲れ様です。今日はイブですね。一緒に過ごしませんか』 


しまった、と臍を噛んだ。

会おうにも、僕は、九州へ渡るフェリーが出るような、四国の西の果ての町にいる。

しかも、乗り継ぐつもりだった宇和島行きの路線バスが、広い駅前ロータリーの入口に姿を現した。


早く返信しなければ、と焦りながら、 


『メールありがとう。お誘い、とっても嬉しいです。ただ、今、僕は出先にいて、帰るのが夜遅くになってしまう予定です』


明日のクリスマスにお会いしましょう、と書こうとして、当直が入っていることを思い出した。

とことん、ツイていなかった。


『明日も当直なのでお会いできないのですが、近々必ずお会いしたいです。きっと連絡します』


と書き加えるのが精一杯だった。

僕の乗り物趣味については、彼女に話していなかった。


隠すつもりはなかったのだが、それまで当たり障りのないメールをやりとりしただけだったので、打ち明け話をするような機会さえ持てていなかったのである。

このメールが、遠く宿毛から届いたとは夢にも思っていないのだろうな、と思いながら、彼女の返事を待ったのだが、宿毛を出たバスが城辺を過ぎたあたりで着信の知らせがあった。


『残念、ふられちゃいました』


目の前が真っ暗になった。



結局、初めてのデートは1週間後になったのだが、僕の一目惚れは揺るぎもせず、4ヶ月後の平成19年4月に結婚まで漕ぎ着けたのである。

僕は、仕事が終わると、車で新横浜駅に近い彼女のマンションを毎日のように訪ねるのが日課になったが、彼女の態度は、何処か煮え切らなかった。

後で聞いたところでは、ある大学病院に出入りしていた時に、そこの医師に心ない態度を示されたことで、医師と言う人種を信じ切れなかったようである。


平成19年の3月下旬のある日、遠隔地への異動を命ぜられた彼女は、体調を崩しがちであったことも加わり、仕事を辞めたい、と電話で僕に打ち明けた。

彼女は九州福岡の出身で、10歳で母親を亡くしていたが、実家に父親と妹が住んでいる。


父親から、福岡に帰って来い、と言われたと聞き、僕は思わず、


「だったら、僕と一緒になろう」


と口走っていた。


「それならば、寿退社ということにしていいですか?」


と、彼女の声がぱっと華やいだ瞬間を、僕は忘れられない。

仕事帰りの途中に、道端に停めた自転車に跨りながら電話をしていたのだが、あまりに長話だったので、サドルが食い込んで尻が痛かったことや、暮れ行く街の夕景までが、今でもありありと脳裏に浮かぶ。



それからが大忙しだった。

彼女は、結婚式を両親の結婚記念日に行いたい、と希望し、残り1ヶ月も残されていなかったので、慌てて福岡の父親の元へ挨拶に出掛けた。


2人で初めての旅の往路は、忘れ難い印象を心に刻んだ。

利用したのは、羽田空港を早暁に離陸する福岡行きスカイマークエアラインズ001便ボーイング767型ジェット旅客機である。


天候は快晴で、離陸後間もなく、到着は予定通りで、気流も安定していると機長からアナウンスがあった。

快適な空の旅で、左側の遥か下方には雪を抱いた富士山が流麗な全貌を見せ、2人で歓声を上げながら見入った。



不意に、切迫した声のアナウンスが機内に流れた。


『お客様の中に、お医者様がおられましたら、近くのキャビン・アテンダントにお声をおかけ下さいますよう、お願い申し上げます』


僕は、彼女と思わず顔を見合わせた。

この職業に就いた以上、いつかは出くわすかも、と考えたことはあったが、まさか、本当に遭遇するとは想定外だった。

知らんぷりは出来ないので、覚悟を決めて、席を立った。

彼女が、頑張ってね、と頷く。



近くにいたキャビン・アテンダントに、機内の中ほどへ案内された。

看護師を名乗る女性が屈んで、トイレの扉の前の通路の床にぐったりと横たわっている男性の顔を、タオルで拭いている。

ネクタイを締め、会社員風の身なりをした男性は、若く見えた。

30歳前後であろうか。

座席からふらふらと立ち上がったまま、倒れたのだと言う。

顔色は蒼白で、びっしょり冷や汗をかいている。

連れはいないので、本人以外に、病歴を説明できる人はいない。


「どうしました?」


と聞くと、キャビン・アテンダントの1人が、固い表情を崩さず落ち着いた口調で答えた。


「あの、何か、お医者様と証明できるものはお持ちでしょうか?」


なるほど。

確かに、どこの馬の骨ともわからない人間に頼めないであろう。

しかし、呼び出しておいてその質問?──と、一瞬むっとした。


医師免状など持ち歩く習慣はないので、途方にも暮れた。

それにしても、こんな時に、医師でもない人間が名乗り出る可能性があるのだろうか。


「東京の◯◯病院診療部長の××です。内科医です」


と、名刺を見せた。


「なんなら、◯◯病院に連絡して、確認を取って下さっても構いませんよ」


本当に連絡をとったとしても、誰か、僕を知っている職員が対応してくれるだろう。

病院の人たちは、飛んでいる飛行機から連絡があったら、さぞかしびっくりするだろうな、と苦笑した。


そこまでせずとも、どうやら信用して貰えたらしく、やっと診察させてくれた。

男性の意識は朦朧として、呼びかけに反応が鈍く、JCSⅡ-10か20といったところか。

何とか自覚症状を聞き出すと、とにかく、胸が苦しくて吐きそうだという。

胸部症状だと?──と、いっぺんに緊張が高まった。


既往歴や服薬歴は、苦しいのと、意識レベルが低いのとで、長い文を理解したり、話したりできない様子に見受けられ、聞き取れなかった。

体格は、やせ型で、か細い印象だが、精神的な症状には見えない。


キャビン・アテンダントが用意してくれたのは、聴診器と血圧計と体温計だけであった。

何の機械の力も借りずに診察するとは、医療現場ではあり得ないことだから、困惑する。

心臓の雑音や肺雑音は聴取されない。

頸静脈の怒張はなく、浮腫もなく、いわゆる心不全所見は認めない。

腹部は軟らかく、圧痛もなさそうだが、腸の動きは弱いものの腸閉塞の所見はない。

結膜の貧血や黄疸を認めず、瞳孔も異常なく、唇や爪のチアノーゼや、バチ指もない。

熱もないが、体温が低めだったのは、脇の下が汗で濡れているためか。

腕に注射の跡がなく、薬物中毒や、慢性疾患で定期的に注射や採血をしている訳でもなさそうだ。

ただし、血圧が66/50mmHgと低く、脈拍も140bpmと速くて脈圧も弱く、呼吸は28bpmと速く浅い。

いわゆる、ショック状態である。


血圧低下と頻脈、頻呼吸。

低酸素血症があるのだろうか、と思ったが、酸素飽和度を測定するパルス・オキシメーターは積んでいなかった。

加えて、胸部症状の訴えである。


「心電図計はありませんか?心筋梗塞を含めた、心臓の病気を否定しておきたいんです。若いから、滅多にないことだけど……」


キャビン・アテンダントが困惑顔で首を振る。

患者から病歴も満足に聞けない状態で、検査機器もない、高度1万メートルの密室である。

病院ならば心電図や血液検査、レントゲンなどで、すぐさま診断の目処が立つところだが、血圧計と聴診器だけで、意識レベル低下と、ショック状態の診断をしろと言うのか。



途方に暮れていると、キャビン・アテンダントがインターフォンの受話器を差し出した。


「機長がお話ししたいそうです。お願いできますか?」


コードレスの受話器を受け取って、耳にあてた。


『機長の〇〇です。先生、どんな状態でしょうか?』


受話器の奥で、落ち着き払った声がした。

数百人の生命を預かる、プロの声だ。

現時点では、心臓疾患を否定できない旨を伝えた。


『緊急着陸が必要でしょうか?』


え?──


『今、緊急着陸するなら関西空港です。しかし、現在の高度が9000mを越えてますので、関空に降りるためには高度を下げなくてはなりませんから、40分近くかかります。福岡なら、あと60分くらいで着陸します』


僕は絶句して、思わず周囲を見回した。

ほぼ満席だった。

福岡へ向かう数百人の旅を中断して、関西空港に緊急着陸するかどうか、僕に決めて欲しい、と機長が言っているのだ。

その差は20分。

だが、心臓疾患ならば、明暗を分けることもあり得る時間差である。


「機長、少し待ってほしいです。もうちょっと経過を見たい。このまま飛ばして下さい」


思わずそう答えていた。

多くの人々に影響を及ぼしかねない、人生最大の決断だった、と思う。



経験に基づく第六感に過ぎなかったけれども、心のどこかで、心臓じゃない、という声がしていた。

心臓疾患の患者は何人も診た経験があるが、目の前の男性の様子は、何かが違った。

30歳の心筋梗塞など、本当に稀のはずである。

もちろん、先天性の心臓疾患や、凝固が亢進するような血液疾患をもっていれば別である。

だが、心臓疾患にしては若すぎるし、他の難病を長く患った徴候もない。

もし、そうならば、きっと真っ先に言うはずではないか?

言えなくても、薬手帳や、難病の書類を出そうとするのではないか。


一般の健常者にも起こり得ることで、もっと、他に考えられることはないか?


そうだ!──と1つの可能性が脳裏をかすめたが、幾ら何でも、と一度は打ち消した。


でも、確かめる必要があるだろうと思い直し、


「あなた、お酒、飲んでない?」


と、耳元で大声で聞いてみた。

もう、言葉遣いに構っていられなかった。


早朝便の搭乗客にあり得ないだろう、と半信半疑だったのだが、あろうことか、男性が頷いたのである。

僕の背後で、キャビン・アテンダントが、えっ?──と仰け反る気配がした。

看護師が、あ、そうか、と小さく叫んだ。


「これ、お酒の匂いだ……」

「飲んでるんですね?──たくさん?」


畳み掛けると、男性は目を瞑ったまま、何度も首を上下させた。


後で聞いた話だが、男性は、飛行機恐怖症であった。

出張で、どうしても飛行機に乗る羽目になってしまい、怖さを紛らわそうと、搭乗前にしこたま飲酒したという。

しかも、酒にも弱いらしいので、何をかいわんや、である。

気密構造になっていても、高度が上がれば、機内の気圧は地表の8割程度に下がる。

普通ならば、人体に影響はない気圧であるが、酸素も薄くなるから、一気にアルコールが全身に回り、血管が拡張して血圧が低下したのだろう。

いわゆる急性アルコール中毒である。

山で飲む酒が回りやすいのと同じ原理で、高度1万メートルでは、症状が強く出る。


ならば、自覚症状はつらいだろうが、これ以上悪くなるとは考えにくい。

腹痛は来していないので、急性膵炎でもない。

20分くらい治療開始が遅くなっても生命に影響はなく、福岡の病院で点滴すれば充分だろう。


僕は、いつの間にか額に滲んでいた汗を拭って、胸をなでおろした。

男性が重篤な病気ではなかったことと、何よりも、アルコール中毒を心臓疾患と誤診して、数百人の旅を中断しなくて済んだのである。


そんな責任、負わせないでよ、機長さん──と苦笑いをする余裕も出た。


1時間後、001便は予定通り福岡空港に着陸した。



福岡市郊外にある彼女の実家では、父親が大いに歓待してくれ、機内の出来事も含めて話が弾んだ。

彼女の父親が、同業の大先輩であることを知って驚いたが、非常に気さくな人柄で、花見に連れて行ってくれた。


翌週の週末には、長野の母に報告に行った。

よくもまあ、こんな息子に連れ添って下さるなんて、と喜ぶ母を見て、安堵した。


新横浜のホテルで、彼女の希望通りの日に式を挙げ、僕は、それまでと打って代わって1人旅に出なくなったが、微塵も後悔しなかった。

それだけ、彼女と過ごす時間は満ち足りていた。


平成20年の初夏に、義父が健康診断で異常を指摘され、入院して治療を受けることになったので、あれこれ手伝うために、妻が帰省することになった。


「僕も一緒に行ってお見舞いするよ」

「ありがとう。でも、お父さんは貴方のこと大好きだから、貴方が行くと、逆に気を遣うと思うの。大した病気じゃないって聞いてるから、今回は私だけでいいよ」


というやり取りがあって、独り東京に残された僕は、久しぶりとなるバス旅に出掛けて来たのである。



僕が妻と出逢って結婚した平成18年から同19年にかけて、我が国は大きく揺れていた。


平成18年9月に小泉純一郎首相が辞意を表明し、安倍晋三首相が後を継いだ。

しかし、平成19年2月の国会で、社会保険庁の年金記録や自治体の台帳に、国民年金保険料の記録がなく、客観的な納付証明ができなかったり、給料から天引きされる厚生年金保険料の納付記録もないことが判明した「消えた年金記録」問題が発生する。

統一地方選挙や、同年7月の参議院選挙で民主党が躍進したこともあって、9月12日に安倍首相は突然政権を投げ出し、福田康夫首相が就任した。


福田首相は淡々と政治課題をこなしているように見えたが、記者会見で突然の辞意を表明し、記者から、


「総理の会見が国民には他人事のように聞こえるというふうな話がよく聞かれておりました。今日の退陣会見を聞いても、やはり率直にそのように印象を持つのです」


と聞かれ、


「他人事のようにというふうにあなたはおっしゃったけれども、私は自分自身を客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」


と感情を露わにしたのは、僅か1年後の平成20年9月1日であった。


小泉首相は「自民党をぶっ壊す」と大見得を切ったが、半世紀に渡って我が国を牽引して来た自民党は、旧態依然のまま、明らかに劣化が目立つように見受けられた。

頻回に交代する総理大臣が、そのような世評に拍車をかけたように思う。


平成19年3月25日午前9時42分に、能登半島の北西沖を震源とするM6.9の能登半島地震が発生し、輪島、七尾、穴水で震度6強を観測した。

弟が大学の卒業後も金沢に留まり続けており、僕は地震の直後に心配になって電話を掛けたが、


「大丈夫、こっちは何ともない」


という返事に、胸を撫で下ろした。


プロ野球では、パシフィック・リーグで平成16年から実施されていた上位3球団によるトーナメント方式のプレーオフ制度が、興行的に成功を収めたため、セントラル・リーグでも「クライマックスシリーズ」と名づけて導入されたのが、平成19年だった。

この年の優勝は巨人、2位中日、3位阪神であったが、「クライマックスシリーズ」を制して日本シリーズに進出したのは中日で、巨人ファンの僕は、シリーズの覇者が日本シリーズに出場できないとは何事か、と大いに憤慨したものだった。

例えば、この年の優勝が他のチームで、巨人が2位または3位となり、日本シリーズに出たのであれば、僕の感情も変わっていたのかもしれないが、この頃から、僕はプロ野球に興味を失い、その一因が最初の「クライマックスシリーズ」であったのは否めない。


平成19年の最大の出来事は、1月の米国アップル社のカンファレンスで、スティーブ・ジョブズが、iPodの機能と携帯電話が統合した端末としてiPhoneの初代モデルを発表したことであろう。

同年6月に米国で発売が開始され、世界の携帯電話をフィーチャー・フォンからスマートフォンへ変更させる契機になったのが、この時だった。



僕が東京から中央線快速で立川へ、更に高速バスで上田、しなの鉄道線に乗り継いで長野へ向かった頃は、携帯を手にしている人はごく少数で、たまに車内で傍若無人に通話を始める人に顔をしかめる程度だったと記憶している。


長野駅に着いたのは午後9時に近く、携帯で妻に電話して、義父が元気であることと、この日は、妹と北九州の親戚を訪ねがてら「スペースワールド」で遊んだと聞いた。

妻の浮き浮きした声を聞き、父親の入院にかこつけて妹と遊びたかったのだな、と頬が緩んだ。

ゆっくり羽を伸ばしておいで、と電話を切ったが、僕は、更に夜行高速バスで先に進む心づもりであるので、実家には帰らず、駅前のドーナッツ屋で時間を潰した。



22時30分発の大阪行き夜行高速バス「アルペン長野」号が2台編成で長野駅前を出て行き、しばらくひっそりとした後に、駅前乗り場に横づけされたのは、23時00分に発車する仙台行き「信州ライナー」号である。


仙台に本社を置く宮城交通と、川中島自動車、松本電鉄バスが平成19年7月に開業したが、実際にバスを出したのは宮城交通単独で、長野側の2つの事業者は発券や運行を支援しただけのようである。

起終点は松本駅で、松本と長野の2都市を網羅する路線は初めてだった。


長野駅前に宮城交通のバスが姿を現した時には、何となく夢のような心地だった。


信州と杜の都を行き来する高速バスが登場するとは──



乗車が最後だったので、松本からの先客と、長野からの利用者の比率は分からないが、満席に近い盛況ぶりだった。

バスだけが実現できた新しい道であったが、長続きせず、3年後の平成22年1月に廃止されたのは残念だった。


僕は横3列独立シートに潜り込むと、あっという間に寝入ってしまった。

そのため、「信州ライナー」号がどのような経路を走って長野から仙台に向かったのか、さっぱり分からない。



現在ならば上信越道、北関東自動車道、東北道であろうが、北関東道が群馬と栃木の間で全通したのは平成23年3月であるから、僕が乗車した時代は使えなかった。

上信越道から関越道、東京外環自動車道、東北道という経路ならば、高速道路だけで仙台にたどり着ける。


埼玉県内に住んだことのある人の話では、関越道を花園ICで降り、国道140号線と125号線を使って東北道の羽生ICへ向かうのが距離として短いのではないか、との見解であり、なるほど、高速道路に拘る必要性はないのか、と頷かされた。



別の人は、長野から上信越道と北陸自動車道で新潟に向かい、国道7号線で坂町、国道113号線で上山、国道13号線で山形、そして山形道と東北道を経由した記憶がある、と教えてくれた。

僕が以前に乗車した夜行高速バス金沢-仙台線「エトアール」号や、高速バス長野-新潟線と特急バス新潟-山形線で走った経路である。


随分と遠回りをしているように思えるが、地図で調べてみると、長野-仙台間は北関東道経由で471km、新潟・山形経由で446kmと算出されるので、そちらの方が短いのか、と驚嘆した。


明らかなのは、長野駅を後にした「信州ライナー」号が、群馬方面に向かう長野IC方面に向かったのか、それとも新潟方面への須坂長野東ICだったのかすら分からないほど、僕が眠りを貪っていたということである。



目を覚ましたのは、東北道の菅生PAであった。


10年ほど前に、特急「白山」を上野から金沢まで乗り通してから「エトアール」号に乗車した際に、東北道菅生PAで朝の休憩をとったことを、少しばかり奇異に感じたものだった。

仙台宮城ICまで10km程度であるから、そのまま走り続ければ、休憩している間に仙台に着くではないか、と首を捻った。



それでも、朝の休憩に配慮してくれる夜行路線はありがたい。

一夜を車中で過ごした乗客が、一斉に手洗いに向かい、用足しを済ませて顔を洗い、化粧を直す女性も見受けられる。

かつて夜行列車が全盛だった時代に、明け方に到着する途中駅で長めに停車して、ホームの大きな洗面台に乗客が群がったと聞く。


夜が明けたばかりの菅生PAで休憩すれば、「エトアール」号の時と同じく、遠くまで来たのだな、という旅の実感が湧いてきた。



仙台駅前には、定刻6時38分より多少早い到着となった。


この日の夕方には、妻が羽田空港に戻って来るので、このまま東北新幹線で帰京しても良いのだが、せっかく仙台まで来たのだから、気になる高速バスがあった。

平成11年に、宮城交通と福島交通が開業させた高速バス仙台-福島線である。

僅か30分で両都市を結んでしまう新幹線と競合するからであろうか、高速道路が早くから整備されていた区間でありながら、仙台発着の東北諸都市への路線としては遅い登場であった。


当初は1日6往復だったが、運賃が1000円と安く、瞬く間に人気路線に育って、4ヶ月後に12往復に増便され、平成13年に1日18往復へ、同15年に28往復、同17年には48往復まで増便されたのである。



この驚くべき運行本数の増加には、理由がある。


仙台市に本社を持つ観光バス事業者の富士交通が、平成14年に、仙台-福島間の高速バス路線の運行を1日9往復、運賃900円で開始したのである。

富士交通が仙台-福島線を開設したのは、平成13年に改正道路運送法が施行され、いわゆる「4条乗合」と呼ばれる路線バスの規制が緩和されたことが背景にあり、監督官庁による需給調整の廃止や、路線開設が免許制から認可制になるなど、まさに新自由主義の時代の産物であった。


平成15年に1日21往復まで増便された富士交通の仙台-福島線であったが、以後は減便に転じ、平成17年に運行を休止、平成20年に事業を停止する。

同社は、他に仙台-郡山線、仙台-山形線を続け様に開業したが、何れも廃止となり、従業員は全て解雇となったと聞く。


既存の乗合事業者の高速バスと、規制緩和により新規参入した貸切事業者が値下げ競争を繰り返し、後者の体力が持たずに経営破綻に至るという、結果も時代を反映したものと言えるだろう。



僕は、平成16年に仕事仲間と東北へツーリングに出掛けた際に、途中で休憩したサービスエリアで、富士交通の高速バスを見掛けたことがある。

考えてみれば、富士交通が展開したのは短距離路線ばかりで、途中休憩が設けられているとは考えにくく、回送だったのかもしれないが、当時はそこまで気が回らなかった。


運休する前年であったが、そのような状況とは露知らず、これが既存の路線バス会社に真っ向から勝負を挑んだ高速バスか、と興味をそそられた。

白地に濃淡の緑色のラインが入った塗装には、乗ってみたい、と旅心を誘われたものだった。


携帯電話で写真を撮ったのだが、当時僕が使っていたのは旧式の携帯電話で、画素数が極めて少なく、車体の文字すら判読できない。

おそらく「仙台⇔山形」「FUJI KOTSU」と書かれているのだろう。

僕と富士交通の高速バスとの関わりは、この残念な写真1枚だけである。



高速バス仙台-福島線は、朝の6時45分発の始発便を皮切りとして20~30分おきに発車しているので、どの便に乗ったのか、はっきり覚えていない。

青葉山を潜り抜ける仙台西道路から東北道に入れば、バス事業の世知辛い裏事情など心から一掃されてしまうような、爽やかな道行きだった。


僕は、仙台宮城ICと福島ICの間を、東北道でも有数の山岳区間と認識している。

意外なことに、川口JCTから仙台宮城ICまで、東北道のトンネルは福島西ICの南に1本しかない。

前後の区間が平坦に過ぎるのと、トンネルを避けた線形であるため殊更に際立つのだろうが、西に奥羽山脈、東に阿武隈山地が迫る国見峠を中心に、かなりの曲線と勾配が続く。

運転手の巧みなハンドル捌きに導かれたバスの走りに揺らぎはなく、福島駅まで1時間10分、手頃な朝のドライブだった。


もう切り上げようと思う。

新幹線で東京に戻り、自宅で一休みして妻を羽田空港に迎えに行くには、適度な頃合いであった。


 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

にほんブログ村

人気ブログランキングへ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>