どうも、どうも、ヤジマんです
みなさん、こんにちは
そういえば、
受験生のみなさん、こちらの本の学習はもう終わりましたか?
えっ??
よく見えないんですけど・・・
『古文解釈詳解』という本です。
文学的に古文を解釈する従来の方法ではなく、
語学的に論理的に古文を解釈する方法が
たっぷり書かれております。
ぜひぜひ、チャレンジしてみてくださいね。
そうそう、
「会話文中で主語・主体の記載がなかったらまずは『私は』としてみよう。そして、述語(述部)との関係がうまくいくか吟味しよう」
という方法論を教えた際、
生徒さんからその理由を尋ねられました。
「なんでですか?」
実は、
日本語にはいろいろと優先順位というのがあるのです。
たとえば、場所を表現する際は、
広い範囲からだんだん狭い範囲を述べます。
(例)東京都渋谷区松濤6丁目21番地
同じように、主語になりやすい順序というのもあるのです。
命のあるものと物や事がらを比較すると、
命があるものが大切ですよね?
ですから、命あるものが優先されます。
その中でも、動物や魚、貝、虫よりも人間どちらが大切ですか?
といわれたら、おそらくは人間となるでしょう。
そして、人間のなかでも
三人称よりも二人称、二人称よりも一人称が大切となりますので、
結果として、
「わたし」が主語になる文がとっても多くなるのです。
「私のパフェが友達に食べられた」
というよりも
「友達が私のパフェを食べた」
というよりも
「私は友達にパフェを食べられた」
という文のほうが優先されるのが日本語なのです。
そこで、「私は」となるのは当然のことなのだから
「私は」という一人称は無表記化されてしまいやすいのです。
よって、古文も同じ日本語ですから、
まずは「私は」として考えてみましょう!ということなのです。
今日から11月がスタートですね。
今日も頑張って1日乗り越えていきましょっ!!
それではまたね