宗教の話をすると周囲を敵に回しそうな勢いで、
宗教ダメっていう傾向が強い。
「あ~だめだめ宗教が出てくるようじゃ人間おしまいよ」って、
14年前までの自分は言ってたから、わからないもんだな。
神さまなしで済ませられない事情ができて拝むことにしたけれど、
自分の負けを認めるようで抵抗ある。
体は拝んでも心が拝んでるとは限らない。
外見上、「あのひとずいぶん熱心に拝んでいるな」と思われると思う。
それでひとをだましてるような罪悪感もある。
誰に強制されてるわけでもないのに、
拝むという一つのことがハードルになることはある。
ただし拝むということに健康上のメリットがある。
ほんとに健康によいのです。
正しい作法は筋肉バランスをととのえます。
健康法と思えば抵抗なくやれる。
背中と腰がのびて、ほんと気持ちいい。
そんな私は不真面目だろうか。
神さまに対してプライバシーがない。
神さまといえども見られたくないときがある。
神さまだからこそ知られたくないこともある。
でも神さまにはぜんぶ見えている。
少なくともそういう設定だから。
それにイザ助けてもらうとき事情がわかってないと、
ってこともあるよね。
それでもやはり、これもあれも見られてるって思うと。
ああイヤだな。
信仰を持つひとに、このことを話してみる。
ああわかるっていうひともいる。
そんなこと気にしてたらやってられないというひともいる。
神さまはなんでも許してくれるんだから、
なんだって見せときゃいいってひともある。
「そうかな」ってわたしは思う。
仏の顔も三度までというし、七の70倍ゆるせといっても、
神のゆるしは人間が「許すよ」っていうのと、なんかちがうんじゃないか。
宗教には「教え」があり「戒」がある。
「こうしなさい」と、「こうするな」っていうのと、ちゃんと示されてる。
なんでも都合よくゆるしてもらえるとはさすがに思えない。
自然法則を学べという操体法の教えですが、
自然法則を違反すると自然はゆるしてくれるでしょうか。
報いや天罰も含めて「ゆるしだ」と言ってられるでしょうか。
自分は神さまを必ずしも人格化しなくていいと考えている。
神さまの絶対性と自然法則の絶対性は似てると思う。
宗教を持つ利点の一つは、自分の中に神の視点を持つことにある。
もちろんただの人間に神の視点など持てるはずない。
持てるはずない視点、というものがもやもやしながら初めて意識される。
人間ごときがなぜ神の存在を思うか不思議でならないこともある。
宗教もまたイメージトレーニングになり得ると思う私は不真面目だろうか。