亡骸と書いてなきがらと読む。

なきがらのなきは、無き、泣きの両方を同時にイメージさせ、

がらは、がらんどうとか、お出汁のガラみたいなイメージで、

嘆きや悲しみの余地もないほどの無力さを自分に感じさせる。

魂の抜けたがらんどうになってしまった室内犬でしたが、

火葬にも埋葬にもなっとくいかない母がとうとう剥製にすると言い出し、

車で2時間ほどかかる職人の家まで連れて行ったことがある。

「ちょっと見せてもらっていいですか」と剥製職人の手が伸びたとき、

「あっ、モモちゃん!」ととっさにかばおうとした。

剥製職人の手につかまれて職人の目にさらされているという状況、

自分には耐えがたいものがあり、

これから剥製にされる過程で、いかなる姿態をさらすかと、

気が気ではなかった。

けれどもはや私どもでは世話の仕様のないむくろ。

事務的なことを手早く済ませ、モモちゃんを置いて帰るほかになかった。

 

自分の目は現実をとらえない。

そのことは常々感じてる。

ほかのひとには犬はぜんぶ犬に見え、

私の目にだけ、生活を共にしたモモちゃんだけが特別な犬に見える。

いや犬とは見えてないかもです。

飛行機事故で、損傷のひどい遺体もしくはその一部が体育館に安置され。

ご遺族が引き取りに来られる現場の記述を読んだことがある。

ほとんど遺体は残ってなくて体の一部、それも焼け焦げてたりする、

けれどご家族は、「あっ、おとうさんだ!」と言って駆け寄ったりしたという。

アゴの一部の、ほんの数センチのかけらに、

「おとうさんおとうさん」と声をかけられるのが、

はたで見てる他人には不憫にも不思議にも思われたという記述。

ほんとにそうか確かめるすべもなかった状況だそうで、

「じゃ連れて帰ります」とだいじに箱に収められ、持ち帰られていく。

 

ひとの目にはそれぞれにちがうものが映る。

目に映るのは、そのひとの心。

それぞれのとき、それぞれでちがうものに見えるのも当たり前。

新婚のひとが見せてくれる写真。

「このあたりがこうで、ホラかわいいでしょ」などと言われても困っちゃうな。

そのうち喧嘩して離婚寸前になったりすると、

「ホラこういうところ憎々しいよね」などと説明されるけど意味わからん。

自分には目も鼻も口もあるふつうの人間にしか見えん。

ひとの目でとらえたものはぜんぶバーチャル。

自分の目も他人の目もあまり信用しないことにしてる。

まぼろしを信用して本気出して怒ったり泣いたりしても疲れるし。

暴れて実害が出たりするのもよくないでしょう。

いろんな見方、いろんな見え方を認めるにはバーチャル説がいちばん。

バーチャルが気に入らなければパラレルワールドはいかが。

あらゆる選択肢が同時並行で存在するのが世界のあり方だという説。

一つだけ正しいとか一つだけの事実があるだとか、

そういうの最近の自分はまるでわからない感じする。