「戦時中、食べ物に困ったことなどなかった」と、
話してくれたばあちゃんのこと思い出す。
川っぷちでのんびり散歩してたので声をかけやすかったんでしょう、
すぐ近くだからと家まで連れてってくださいました。
人気のない静かな部屋で小半時ほど話をうかがいました。
「こんな話、外でひとにようできんから」と前置きされて、
むかしの話をどんどん話されました。
自分は長崎の漁港付近に住んでいて、食べ物ならなんぼでも海にあったという。
海から毎朝のように大量の生き物が押し寄せて、
戦争で市が開かれないときには、
味噌汁の具に伊勢海老などが放り込んであった。
売り物にならない海産物はただの食べ物なんですね。
しかし戦争が終わってみると、
戦時中はひもじくて苦労したって話ばっかりで、
「自分たちは食べていた」なんて言えたもんじゃない。
平時よりむしろ贅沢なもの食べてたっていうんじゃ、確かに誰にも話せないよね。
海のひと、山のひと、農家のひと、とくに高齢の方の、
「じつはむかしね・・」っていう打ち明け話が自分は大好物。
向こうから見ても、そうとわかるのでしょうか、
歩いてるとお声がかかって、それがなかなかに面白い。
「食べ物は苦労してつくる・苦労してつくらないといけない」っていうのは、
農業のひとの感覚ね。
土地を開墾した苦労、干拓や開拓の苦労、種を植え、苗を守り育て、
収穫にまで導く体験から出てきた感覚です。
しかし海の基本的な生活感は、「食べ物なんか、そこらじゅうに落ちてるよ」。
遠くまで危険をおかなさくても、ほんとはやっていけるんです。
海はほんとに豊かなのに人間は汚すことばっかする。
核実験も海だし、有効期限切れの兵器なんかも海で爆破処理してる。
知れば知るほど、もう腹も立たなくなったよ。
だって人間の世界では人間のつくったルールが最高の価値でしょう。
法に基づいた行動なら何をやっても犯罪でもなんでもないんだよね。
ルールに基づけば人間は何だってやる。やれるんだ。
帰りに手土産まで持たせてもらって、
あのばあちゃんにお返しでもしたいとずっと思ってるんだけど、
あれきりで、もう家の場所もわからなくなっちゃったな。