夕暮れのフクロウ

夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

【令和日本国憲法草案2】

2025年03月26日 | 国家論

 

先に提起した【令和日本国憲法草案】の第六章末尾に、第14条(執行法の制定)を付け加えました。

 

【令和日本国憲法草案2】


【前文】

日本国民は、悠久の歴史と文化に根ざす共同体の一員として、天皇を国家統合の実体的存在と仰ぎつつ、国民一人一人の自由と尊厳、伝統と創造の調和を重んじ、自由で責任ある民主国家として、内に道義と秩序を保ち、外に独立と平和を全うする国家を建設することを宣言する。


【第1章 天皇】

第1条(国体の継承)
日本国は、万世一系の天皇を戴く国家である。天皇は日本国の元首であり、国家統合の中核的権威として尊崇される。
第2条(統治機能と象徴機能の調和)
天皇は、国の儀礼と象徴的行為を司るとともに、国家的危機においては議会と内閣の要請により特別に国家再統合の宣言を行うことができる。

【第2章 国民と共同体】

第3条(国民の義務と権利)
国民は、自由と権利を有するとともに、国家と共同体への奉仕、教育、納税、防衛の義務を負う。
第4条(家族・地域共同体の尊重)
国と地方自治体は、家族、地域社会、伝統文化を保護・支援する責務を負う。

【第3章 安全保障】

第5条(自衛の権利)
日本国は、国際平和を希求するが、独立国家として、侵略を防ぎ、国民を保護するための自衛権を保持する。
第6条(防衛軍の設置)
国会の承認により、日本国防軍を設置する。国防軍は専守防衛を基本としつつ、有事には国際法に基づき行動する。
第7条(非常事態条項)
国家の存亡に関わる緊急事態に際し、内閣は国会の承認のもとで一時的に法令を制定・停止する権限を持つ。

【第4章 統治機構】

第8条(三権の調和)
立法、行政、司法は分立しつつ、天皇の権威の下、国家目標の実現のために協働する。
第9条(憲法裁判所)
憲法秩序を守るため、憲法裁判所を設置し、違憲立法・行政措置を審査する。

【第5章 教育・文化】

第10条(国民精神の涵養)
国家は、公共の精神、道徳、歴史、文化への敬意を育成する教育を推進する。
第11条(大学・学術の独立)
学問の自由は保障されるが、国家・民族への責任を伴うものとする。

【第6章 憲法の護持と改正】

第12条(護憲義務)
すべての公務員は、本憲法の精神を尊重し、これを擁護する義務を負う。
第13条(改正の手続)
本憲法の改正は、国会の三分の二以上の賛成および国民投票の過半数によってなされる。
第14条(執行法の制定)本憲法に規定された国家機構、国民の権利義務、司法制度その他の統治機能の実施に関して必要な事項は、憲法執行法として別に法律で定める。これらの執行法は、本憲法の精神と条文に適合するものでなければならない。

 

 

 

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【令和日本国憲法草案】

2025年03月22日 | 国家論

 

これまでヘーゲル哲学の研究者としての立場から、とくにその「法の哲学」の立場から、戦後GHQによって制定された現行日本国憲法や、護憲論者である樋口陽一氏らの憲法観、国家観に疑義を呈し、また批判してきました。

ここにあらためて、「法の哲学」の立場を踏まえた「令和改正憲法草案」の骨格を提示して、そして、それを踏み台にして、さらにより良き憲法改正ができるように、微力ながらもこれからも提案していきたいと思います。

日本国民が総力をあげて、こうした憲法草案に対する批判や提言など議論をつみかさね、さらにより多くの人が議論に参加することで、より良き憲法改正につなげていければと思います。そうして現在、中南米のバナナ国家並みに劣化した日本国の政治や経済、文化状況の行き詰まりを打開していかなければなりません。

 

【令和日本国憲法草案】

【前文】

日本国民は、悠久の歴史と文化に根ざす共同体の一員として、天皇を国家統合の実体的存在と仰ぎつつ、国民一人一人の自由と尊厳、伝統と創造の調和を重んじ、自由で責任ある民主国家として、内に道義と秩序を保ち、外に独立と平和を全うする国家を建設することを宣言する。

【第1章 天皇】

第1条(国体の継承)
日本国は、万世一系の天皇を戴く国家である。天皇は日本国の元首であり、国家統合の中核的権威として尊崇される。

第2条(統治機能と象徴機能の調和)
天皇は、国の儀礼と象徴的行為を司るとともに、国家的危機においては議会と内閣の要請により特別に国家再統合の宣言を行うことができる。

【第2章 国民と共同体】

第3条(国民の義務と権利)
国民は、自由と権利を有するとともに、国家と共同体への奉仕、教育、納税、防衛の義務を負う。

第4条(家族・地域共同体の尊重)
国と地方自治体は、家族、地域社会、伝統文化を保護・支援する責務を負う。

【第3章 安全保障】

第5条(自衛の権利)
日本国は、国際平和を希求するが、独立国家として、侵略を防ぎ、国民を保護するための自衛権を保持する。

第6条(防衛軍の設置)
国会の承認により、日本国防軍を設置する。国防軍は専守防衛を基本としつつ、有事には国際法に基づき行動する。

第7条(非常事態条項)
国家の存亡に関わる緊急事態に際し、内閣は国会の承認のもとで一時的に法令を制定・停止する権限を持つ。

【第4章 統治機構】

第8条(三権の調和)
立法、行政、司法は分立しつつ、天皇の権威の下、国家目標の実現のために協働する。

第9条(憲法裁判所)
憲法秩序を守るため、憲法裁判所を設置し、違憲立法・行政措置を審査する。

【第5章 教育・文化】

第10条(国民精神の涵養)
国家は、公共の精神、道徳、歴史、文化への敬意を育成する教育を推進する。

第11条(大学・学術の独立)
学問の自由は保障されるが、国家・民族への責任を伴うものとする。

【第6章 憲法の護持と改正】

第12条(護憲義務)
すべての公務員は、本憲法の精神を尊重し、これを擁護する義務を負う。

第13条(改正の手続)
本憲法の改正は、国会の三分の二以上の賛成および国民投票の過半数によってなされる。

 

※追記

憲法や国家のありかたなどについて興味や関心、問題意識をおもちの方があれば(皇室の存在に否定的な考えをおもちの方も含めて)、上記の【令和日本国憲法草案】に対する批判、批評などがあればをコメント欄でもお知らせください。よりよき憲法改正をめざして、日本の憲法問題についても考察を深めていきましょう。

 

 

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2025(令和7)年03月14日(金)晴れ。 #歴彩館

2025年03月14日 | 日記・紀行

2025(令和7)年03月14日(金)晴れ。 #歴彩館

 

歴彩館を久しぶりに訪れました。正式には、京都府立京都学・歴彩館と呼ぶそうですが、ここでは単に歴彩館といいます。本当に久しぶりで、コロナ武漢ウィルス騒動がおきてからは、府立図書館やこの歴彩館などの公共施設に足を運ばなくなっていました。それが今すっかり習慣化していることにも気づきました。

以前に歴彩館をおとづれた時の記録を残しています。ブログ日記のそれを検索してみると、2017年の秋のことでした。

府立総合資料館の閉館と新しい京都学・歴彩館 - 作雨作晴 https://is.gd/WDgjrm

そのときから、すでに五年も経過してます。時間の早さにあらためて驚くばかりです。歴彩館がオープンしたのは、平成29年4月28日だそうですから、以前に私がおとづれた時は、まだ歴彩館もオープンして半年も経ってはいませんでした。そのとき私が館内で読書をしているときにも、施設の関係者が空調の設備を見回っているようでした。その前年に閉館した京都府立総合資料館の古い建物もそのまま残っていました。ところが今日おとづれたときには、その面影はまったく消え去って、その跡地には新しい建物が立っていました。

まだ若かった三十を超えてまだまもないころに、妻に弁当を作ってもらって、資料館に通った頃に見つめた、あたり一帶の面影がすっかり消えているのに驚きました。

また、歴彩館のなかも、私が前におとづれたときとは大きく様変わりしていました。一つは府立大学の図書館と連携されていて、図書も著しく増加して蔵書の規模も内容も各段によくなっていたことです。

開架書庫に並べられた膨大な数と量の本の背表紙をゆっくりと読み取りながら歩いていると、まず、桝田啓三郎文庫目録 という私には懐かしい名前の分厚く大きな目録本が目につきました。

というのは、私が高校生の頃に読み始めたキルケゴールの本は、ほとんどすべてこの桝田啓三郎の翻訳だったからです。「反復」も「不安の概念」も「死に至る病」も「誘惑者の日記」もすべて桝田啓三郎の翻訳で読みました。桝田啓三郎はキルケゴールの全集本の完成を目指していたはずですが、それは確か未完に終わったようです。それとは別に多くの翻訳者の手になる、白水社から出版されていたキルケゴールの著作集も買い揃えました。

キルケゴールは激烈なヘーゲル批判者として哲学史に登場しています。しかし、その後の私の思想的な遍歴の中で、私の興味と関心は、聖書のキリスト教と彼が批判の対象としたヘーゲル哲学そのものの方へと移行してしまい、いくどかの転居のあいだに、今は私の手元にはキルケゴールの著作は、売り払ったのか処分したのか、一部の文庫本を除いて、ほとんど残っていません。

それはとにかく、まだできてまもないこの歴彩館に以前におとづれたときとくらべて、図書の量と質が比較にならないくらいによくなっていました。マルクス・ヘーゲル系の哲学者である牧野紀之氏の本「辞書で読むドイツ語」もありました。牧野氏には、青年時代に短い間でしたが、直接習ったことがあります。牧野紀之氏についてはいずれ何らかの形で論評したいと考えています。

また、京都大学の前身である尊攘堂の創設に関わった品川弥二郎の著作全集もありました。和歌や日本古典の蔵書も充実していました。しかし、このときに開架の棚を見た限りでは、牧野紀之さんが未知谷という出版社から出しているヘーゲル『小論理学』や『精神現象学』の翻訳と註解の大著も『関口ドイツ文法』もありませんでした。また、「冠詞論」などで知られているドイツ語学者の関口存男の著作集も見当たらないようでした。哲学関係の文献については大したものはなさそうでした。

とはいえ、これほどの質と量の内容のある図書を蔵した歴彩館を京都府市民に開放してくださっている関係者の方々には本当に頭が下がります。府立大学の蔵書も連携して閲覧できるようになったせいもあると思います。大学関係者の方々にも感謝の念しかうかびません。このすばらしい歴彩館を京都府市民は、それに相応しく利用活用して、その恩恵に応えていくことができればいいのにと思いました。

 

ちなみに、キルケゴールに触れた私の過去の論考。

ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第三十五節 [道徳と個人] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/WYvgPl
ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十三〔決断について〕 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/Ri5u3Z
業平卿紀行録8 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/91AEkl
ルイス・フロイス - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/6xoDnU
私の哲学史(3)──キルケゴール(主体性について) : 夕暮れのフクロウ https://is.gd/NXb1Wh

 

 

 

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拉致被害者の救済と日本の主権国家としての確立

2025年02月25日 | 国家論


拉致被害者の救済と日本の主権国家としての確立

去る2月15日に、北朝鮮によって拉致された有本恵子さんのお父さん、有本明弘さんが87歳でお亡くなりになったそうです。有本恵子さんの拉致が確認されてから、すでに20数年になります。

たしかに日本政府は長年にわたり、北朝鮮による拉致問題の解決に取り組んできた、と一応は言えるかもしれません。しかしながら、いまだに多くの拉致被害者が帰国できていない現状は、現在の日本国が真に主権国家として機能しているのかという根本的な疑問を投げかけています。

国家の第一義的な責務は国民の生命と安全を守ることであるにもかかわらず、この課題において日本国はいまだ決定的な成果を上げられず、責任を果たせないままです。日本はなぜ拉致被害者たちを救済できないでいるのか、その原因は何か、主権国家としての欠陥はどこにあるのか。横田めぐみさんのお母さん、横田早紀江さんの当然の願いをなぜ叶えてあげられないのか。

1. 拉致問題の本質と国家の責務

拉致問題は単なる外交問題ではなく、日本国民の基本的人権と国家主権に関わる重大な問題です。国際法上も、自国民が他国により不当に連れ去られた場合には、国家はその救出と保護のために全力を尽くす義務を負います。しかし、日本政府の対応は一貫して慎重かつ受動的なものであり、国際社会への働きかけや交渉が主軸になっています。

イスラエルの例を挙げて比較してみるとよくわかります。イスラエルは自国民が敵勢力に拉致された場合には、軍事作戦を含むあらゆる手段を駆使して救出を試みます。これに対し、日本は外交努力に頼りすぎて、長期に実効的な救出策を講じてきませんでした。イスラエルと日本のこの違いは、国家としての主権意識と対する国民保護の責任感の違いにあります。

2. 日本国の主権国家としての欠陥

日本が拉致被害者救済において効果的な行動を取れない背景には、いくつかの構造的な要因があります。
一つは憲法上の制約です。日本国憲法第9条において、戦力の保持と交戦権を否定しており、これが自国民救出のために必要な積極的な行動を阻害しています。特殊部隊による救出作戦の選択肢など、事実上まったく排除されています。だから政府は交渉と外交圧力に依存するしかありません。これでは、拉致問題の解決は百年河清を俟つようなものです。

さらに国民意識の問題があります。日本は日本国憲法第9条のために、自国の安全を日米安全保障条約に頼らざるを得ず、その結果として、日本では、安全保障に対する国民の関心も低く、拉致問題も「外交問題」としてのみ認識されがちです。国民の間に「国家が主権を行使し、国民を守る」という意識も十分に確立されていません。そのことが政府の消極的な対応を助長することになっています。

また、その結果として、拉致問題の解決を、米国を中心とする国際社会への働きかけを重視して取り組んでいます。しかし、現在のトランプ大統領のアメリカ・ファースト政策に見られるように、国際社会は必ずしも日本の利益を最優先にすることはありません。とくに米中朝露の国際関係の成り行き次第で、蚊帳の外に置かれることになります。

3. 主権国家としての改革の必要性

日本が真に主権国家として機能し、拉致被害者を救出するためには、以下のような改革が求められると思います。
まず第一に憲法改正と法の整備です。憲法9条の改正を含め、国民保護のための法的枠組みを整える必要があります。特に、自衛隊が国外での救出作戦を実施できるような制度の確立が不可欠です。

それにちなんで国家安全保障体制の強化も必要です。防衛力の強化とともに、情報機関の充実が求められます。イスラエルのモサドのような組織を設立し、拉致被害者の所在情報を正確に把握する体制も構築しなければなりません。

そうした政策を講じながら、国民意識を改革していくことが必要です。拉致問題は単なる外交問題ではなく、「国家と国民の主権に関わる問題」ですから、日本国民の国家意識の深化をはかるための啓発活動や教育が必要です。そうして、「国家が国民を守るという共通意識」を社会全体で徹底して共有することが、政府の積極的な行動を後押しすることになります。

4. 拉致問題解決への具体的戦略

1. 経済制裁の強化: 北朝鮮に対する独自の制裁を強化し、交渉の圧力を増大させていくことです。最近は経済制裁の強化という問題意識もすっかり失われています。

2. 国際連携の深化: 米国、韓国、欧州諸国と連携し、拉致問題を国際社会の主要議題としてあらゆる機会に提起し続けることです。

3. 軍事的抑止力の向上: 救出作戦の可能性を追求し、その態勢を整え、拉致被害者を救済することのできるだけの実行力を確保していくことです。その実力的な背景があってこそ、外交的な成果もあげることができます。

結論

要するに、日本が主権国家として、拉致問題の解決に向けた責務を果たすためには、上記のような抜本的な改革が不可欠です。憲法上の制約、国民意識の低さ、国際社会への過度な依存といった問題を克服して、自国民の安全と尊厳を守ることのできる国家へと変革していく必要があります。

拉致問題の解決は決して単なる外交的課題ではなくて、むしろ、日本が真に独立した国家として機能するかどうかを問う試金石です。日本国民は主権回復を目指し、拉致問題の根本的解決に向けて、政治的・法的手段の強化をあらゆる方面から検討し、改革してゆかなければなりません。
 
日本がそうして真の主権国家としてこの問題に正面から向き合い行動を起こすことによって、日本国がかっての明治国家のように、主権国家としての矜持を取り戻していくことが、拉致被害者救済の鍵となります。


 
 
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赤尾秀一の思想研究

2025年02月15日 | 哲学一般
 
赤尾秀一の思想研究

これまで哲学研究者、赤尾秀一はブログ日記「作雨作晴」や哲学研究ブログ「夕暮れのフクロウ」上などで、さまざまに論考を公開してきました。しかし、いまだ目次や索引などを整備しきれておらず、赤尾秀一の思想傾向の概略でさえ把握しにくいと思います。
それで、さしあたって、中間的なまとめとして、赤尾秀一の思想的な概略とでもいうべきものを、まとめておきたいと思いました。おおよそ次のようなものとなると思います。

1、 ヘーゲル哲学の研究者としての立場
 
◦ 哲学的思考の根底にヘーゲルの哲学を据えようとしています。

◦ とくに「自由」「国家」「立憲君主制」「民主主義」「神の国」といった概念に関心があり、研究を深めようとしています。

2、日本の国家理念としての「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」

◦ 日本の国家理念として「自由にして民主的な独立した立憲君主国家」を追求しています。(ヘーゲルの国家哲学に基づく国家観と、キリスト教的な価値観を融合させようとしているといえます。)

◦ 日本の歴史的な文脈の中で、「立憲君主制」と「自由民主主義」をどう両立させるかというテーマを追求しています。 

3、二大政党制の構想(「保守自由党」と「民主国民党」)

 ◦ ヘーゲル的な歴史発展の観点から、対立する二つの理念(保守と自由、民主と国民)を調停し、より高次の統一へと発展させようとしています。
 
 
さしあたっては、赤尾秀一の思想傾向としては、おおよそのところ以上のようにまとめることができると思います。今後さらにその研究を深め、思想や哲学を深化発展させることができればいいのですが。皆様のご理解とご協力もお願いできればと思います。
 
 
 
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6月5日(日)のTW:常識と哲学

2025年02月14日 | ヘーゲル『哲学入門』

§1
常識というものは、ただそれが知ろうとする対象についてだけを考えるが、しかしその時、知識そのものについては考えようとはしない。つまり、知識そのものついては思い浮かべないのである。知識そのものの中にある全体の姿は、単に対象のみではなく、自我の知るという作用でもあり、a


自我と対象との相互の関係でもある。つまり意識である。

§2

哲学においては、知識を規定するものは、ただ単に一方的な事物の規定だけとは見られない。むしろ事物の規定と事物そのものを共に含むところの知識が問題となる。言い換えると、知識の規定は客観的な規定としてのみではなく、


主観的な規定とも見られるのである。むしろ、知識の規定とは、客観と主観との相互の関係の特定の形態だと言える。

§3

そこで知識の中には、事物とそれに対する規定の両方があるから、一面から言えば、それらは全く意識の外にあって、意識にとっては全くの外来品として、出来合いのものとしてc


外から与えられたものであると考えることもできる。しかし他面では、意識は知識にとって、事物そのものと同じく、本質的なものであるから、意識はこの自分の世界を自分自身で規定し、その世界のさまざまな規定を自分の態度と活動によってその全部を、あるいは一部を自分で作り出し、または d


変形するものと考えることもできる。第一の見方は実在論(Realismus)、他方の見方は観念論(Idealismus)と名付けられる。しかし、ここ哲学では、事物の一般的な諸規定は、ただ、客観の主観に対する特定の関係と見なければならない。d


※いわゆる常識の、日常の知識というものが、つまり人間の知識が、単なる実在論でもなければ、また観念論でもなく、それは客観と主観との関係の特定のあり方であること、つまり、人間の知識が本質的に弁証法的なものであることが示されている。


§4

さらにはっきり言えば、主観とは精神である。ところで、精神は存在する対象に本質的に関係するものであるから、現象するもの(erscheinede)である。その限り精神は意識である。だから、意識についての論考は、


精神の現象論(Phänomenologie des Geistes)でもある。

§5

しかし精神が他のものとの関係を離れて、自分自身の内部で、したがって自分自身との関係において、自己の活動性の面から見られると、それは本来の精神論、つまり心理学である。 b


§ 6

意識とはふつう、その外部にあるか、または内部にある対象についての知識であって、その対象が精神の働きが加わることなくして意識に現れたものであるか、それとも精神によって作り出されたものであるかは問題ではない。意識のさまざまな規定が、精神そのものの働きに基づくものである限り、


精神は精神の活動の面から考察される。

§7

意識とは自我の対象に対する特定の関係である。我々が対象から出発する限り、意識の持つ対象の区別に応じて、意識にも区別があるということができる。

§8

しかしまた同時に、対象は本質的に意識に対する関係から規定される。


したがって、逆に対象の区別は意識の発展に依存すると考えらる。この相互性は意識そのものの現象する領域の中に生じてくる。したがってこの相互性から見れば、これら意識の面と事物の面の二つの規定の、いずれが絶対的に主導性を持つかという先に§ 3で述べた問題は未決定のままに残される。




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ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判)

2025年02月04日 | 哲学一般

 

ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判)

      2025(令和7)年02月03日(月)曇り。#寺沢学派、#寺沢恒信、#許萬元、#牧野紀之、#マルクス主義批判

 

ここしばらくヘーゲル『哲学入門』の翻訳と註解が中断したままになっています。そこでの私の翻訳と註解の水準はさておくとしても、我が国のヘーゲル研究は講壇、在野を問わず、非常に高いレベルにあるのではないか思います。世界的に見てもおそらく最高の水準に達しているのではないでしょうか。

その理由の一つとしては、わが国におけるかつてのマルクス主義の隆盛があると思います。しかし、20世紀末にソ連邦の崩壊を始めとする共産主義の失墜があって、共産主義そのものの信用は地に落ちたということはありますが、それでもわが国においては今なお日本共産党が日本の政界の一角を占めているように、この破綻したマルクス主義も今なお国民の間に一定の影響力はあるようです。

わが国のヘーゲル研究に大きく貢献したのは、マルクス主義哲学者であった元東京都立大学の哲学教授で共産主義者の寺沢恒信の存在が大きいと思います。この寺沢恒信のもとから許萬元と牧野紀之という二人の傑出したマルクス主義ヘーゲル学徒が生まれてきました。

マルクス主義の立場からするヘーゲル哲学研究については、「寺沢学派」とも称することできる、寺沢恒信、許萬元と牧野紀之たちの三人によって、マルクス主義の立場からのヘーゲル哲学研究は行き着くところまで行ったと思います。今後おそらく彼らを乗り越えるほどのヘーゲル哲学研究者は出てこないのではないでしょうか。それほど三人のヘーゲル哲学研究は徹底し傑出していたと思います。

ただ、彼らのヘーゲル研究に限界というものがあるとすれば、それは彼らが「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの誤った提唱を無自覚、無批判に引き継ぎ、それを彼らのヘーゲル哲学研究の出発点にしたことにあると思います。マルクスのヘーゲル哲学批判は、ヘーゲルの絶対的観念論に対する誤解の上に立つものであるし、レーニンはこのマルクスの誤解をそのまま無批判に引き継いでいるからです。

キリスト教にも「ブドウの樹の良し悪しはその実を味わえばわかる」とあるように、共産主義諸国の歴史的な政治的な崩壊という実際の現実が、マルクス主義の破綻を実証することになっていると思います。

ヘーゲルの絶対的観念論は「絶対的」なもので、それ自体としては完結したものです。だから、ヘーゲル哲学批判の上に立つマルクスやレーニンの共産主義は、ヘーゲル哲学の根本的に誤った継承にならざる得なかったと思います。マルクス主義が歴史的に破綻することになったのは理の当然であると思います。

マルクス主義の破綻の原因を理論的に指摘するのは、それなりに教養が必要で難しいことだとは思いますが、私のこれまでの論考の中でも、ヘーゲル哲学に対するマルクスの誤解、無理解については、いくつか指摘してあります。そのマルクスのヘーゲル哲学に対する主な誤解について指摘するとすれば、三つあると思います。

その第一は、ヘーゲルの「概念論」に対するマルクスの誤解です。
その第二は、ヘーゲルの「観念論」に対するマルクスの誤解です。
第三は、ヘーゲルの「国家観」に対するマルクスの改変です。

第一については、マルクスは、「概念」を、単なる「個別性から共通性を抽出」したもので、抽象化や捨象の積み重ねによって生じるものとして、「概念」を単純な観念的な「抽象の産物」として捉えました。しかし、ヘーゲルにとって「概念」は、単に人間が作った便宜的な言葉や観念ではなく、「内在的な必然性によって自己を展開する論理構造」そのものです。マルクスはヘーゲルの「概念」の本質を十分に理解していなかったと言わざるを得ません。

第二に、マルクスとエンゲルスは、ヘーゲルの「概念(der Begriff)」を誤解して単なる主観的な観念的な抽象物として、「観念論的な幻想」と見なしていました。ヘーゲル哲学の「概念」自体は自己運動する論理的実在であり、自己を展開する論理構造であることを見抜けませんでした。

ヘーゲルの「概念」は単なる頭の中の抽象ではなく、現実を貫く論理そのものなのに、マルクスは唯物論的な世界観から、この観念的な自己展開の論理を理解せず、それを「形而上学的な幻想」とか「神秘化された観念論」として物質主義に還元して批判することになった。

その第三は、ヘーゲルの「国家観」に対するマルクスの改変です。
ヘーゲルは『法の哲学』において、国家は「客観的精神の最高の実現形態」であり、国家を「自由の実現形態」として捉えたのに対し、マルクスは国家を「階級支配の道具」とみなし、「国家は支配階級の手段にすぎず、その役割は資本の利益を擁護することにある」といった一面的な国家観を主張しました。そのことによって、本来は家族愛と友愛に満ちた自由な国家であるはずなのに、そこに憎しみと妬みと闘争の不自由な種がまかれました。

許萬元と牧野紀之の二人は、寺沢の指導のもとで切磋琢磨した学友同士でもあります。確かに、寺沢恒信や許萬元、牧野紀之らマルクス主義を継承する立場からのヘーゲル研究は、その徹底性においてヘーゲル哲学研究における功績は大きなものです。しかし、そのいずれもが上記のようなヘーゲル哲学に対するマルクスの誤解を無自覚に無批判に引き継いでしまっているという点で、根本的で致命的な欠陥を抱えたままです。

これまでに赤尾 秀一がマルクスの「ヘーゲル哲学批判」に対して行ったいくつか反論。


§ 280b[概念から存在への移行] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/j9SLmx)
§278c[至高性(主権)をつくる観念論、Der Idealismus, die Souveränität ausmacht] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/ovLOgU
『薔薇の名前』と普遍論争 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/XXPXHK
「神の国」とヘーゲルの「概念」 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/eCm1Xv

事物の価値と欲求 ⎯⎯⎯ 価値の実体について - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/MPGE0B

価値は消費者のニーズで決まる⎯⎯マルクス「労働価値説」のまちがい - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/lIVw2T

 

 

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2025年01月08日(水)11 tweets(尾高朝雄と宮沢俊義との論争)

2025年01月09日 | ツイッター

 

使い勝手の悪くなった、X(ツイッター)


以前、現在の X が まだ Twitter と呼ばれていた時は、興味のある本を読んでいるときなど、読書ノートの代わりに Twitter でメモをとっていました。けれども、Twitter が X に変わってからは、このGooブログとも連携できなくなってしまい、せっかく X(ツイッター)で読書ノートとしてポストしても、このGooのブログに自動的に記事としてまとめて記録できなくなりました。しかし、何か方法もありそうなので、投稿した私のツイートを別にまとめて、このGooブログにも記録しておくことにしました。

ツイッターの投稿が自動的にGooブログにまとめて記録されていたことを考えると、手間もかかります。Twitter が X に変わってからは、確かにTwitter時代に比べて検閲などがなくなり、言論の自由度は増したかもしれませんが、API の自由な活用ができなくなるなど、ツイッター時代に比べて、X の使い勝手はとても悪くなったと思います。もっと簡単に、X(ツイッター)の投稿を自動的にまとめ記事として記録していく方法がないか調べていきます。

 

2025年01月08日(水)11 tweets

21時間前

赤尾 秀一@soratine

そうした宮沢の憲法学は、東大法学部中心として、奥平康弘氏や樋口陽一氏らに受け継がれて、現在に至るまでの戦後日本におけるリベラルな憲法学の源流となっている。

posted at 20:45:50

 

21時間前

赤尾 秀一@soratine

一方で、宮沢俊義の憲法観は、その本質において、日本の敗戦とその後のCHQの日本改造政策に便乗した保身的なものであったといえる。とくに彼の主張したいわゆる「八月革命説」などがそうである。

posted at 20:45:03

21時間前

赤尾 秀一@soratine

いずれにしても、この尾高朝雄と宮沢俊義との間に繰り広げられた論争についても、両者のいずれにも、その議論の前提にヘーゲルの「法の哲学」の素養を欠いていたという点において、きわめて不十分なものであったと言わざるを得ない。

posted at 20:44:24

 

21時間前

赤尾 秀一@soratine

ここで尾高朝雄が宮沢との論争を、「第六章と第七章として再録した」と書いているが、第六章の表題は「ノモスの主権について」であり、第七章の表題は「事実としての主権と当為としての主権」となっている。

posted at 20:43:42

 

21時間前

赤尾 秀一@soratine

私は、この機会に、宮沢教授の学恩に対して重ねて感謝すると同時に、議論の一方である私の主張だけをここに収録したことの非礼につき、教授の海容を乞いたい。」 >> << 引用終わり

posted at 20:41:30

 

21時間前

赤尾 秀一@soratine

この論争は、単なる議論のやり取りである以上に、主権の問題を探求する上で、若干の建設的な意味をもっていると思うので、旧著の改版を出すにあたり、私の二つの答えを、第六章及び第七章として再録することにした。

posted at 20:39:53

21時間前

赤尾 秀一@soratine

国民主権と天皇制についての私の主張に対して、その当時、宮沢俊義教授が二回にわたって懇切な批判を加えられた。これに対して、私も、私の立場を明らかにするために、その都度答えを書いた。

posted at 20:39:25

21時間前

赤尾 秀一@soratine

国民の厳粛な信託を受けて、実際の政治に携わる政党人にとって、その心構えがとくに必要であることは、いうまでもない。そういう角度から、国民主権ということの意味を考えなおすためにも、ここで私のかつての発言をもう一度くりかえして見たいと思う。

posted at 20:37:43

21時間前

赤尾 秀一@soratine

今日の日本の議会政治は、筋の通らぬことがあまりにも多すぎる。これを是正するためには、さまざまな現実的な配慮が加えられなければならないと同時に、国民の政治的行為に公共性もしくは道義性の筋金を入れることが、ぜひとも必要である。

posted at 20:36:54

21時間前

赤尾 秀一@soratine

尾高朝雄は自らの本『国民主権と天皇制』の序言の中で次のように書いている。 >> << 「終戦後の日本は国民主権の下に議会民主制を実行してきたのであるが、その実態は、今までのところ、はなはだ香しくない。民主政治も現実政治である以上、筋の通らぬ駆け引きがともなうのは、やむを得ないが、

posted at 20:36:22

1月8日

赤尾 秀一@soratine

日本の鉄鋼を潰して中国の世界トップを維持させるバイデン大統領のUSスチール買収禁止令(遠藤誉) - エキスパート - Yahoo!ニュース is.gd/uUkwNB

posted at 15:00:01

 

 

 

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明けましておめでとうございます

2025年01月05日 | 日記・紀行

「初夢図」

「初夢図」は、白隠禅師が「一富士、二鷹、三茄子」をモチーフにして描いた禅画です。今年の年賀状は、この絵を素材に使わせていただきました。

この「初夢図」には、次のような意味が含まれているそうです。「富士山」は禅の不動心や悟りの境地を、「鷹」は禅の精神的な高揚や集中力を、「茄子」にはその具体的な成果や実りが、それぞれ象徴されているそうです。三つ目の茄子がなぜ白いのか私にはわかりません。禅的には「無心の境地で得られる実り」と解釈されているそうです。

白隠 慧鶴(はくいん えかく)1686年1月19日(貞享2年12月25日) - 1769年1月18日(明和5年12月11日))は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。諡は神機独妙禅師、正宗国師。


※出典

白隠慧鶴(はくいん えかく) - 
Wikipedia https://is.gd/qv7VK3

 

 

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年の終わりに

2024年12月31日 | 日記・紀行

20240407

年の終わりに

 

時の過ぎるのは早いもので、今日で2024年令和6年も終わります。今年最後の私の日記ブログ「作雨作晴」を見てみると、「このブログの人気記事」のトップに、「戦争はなぜ起きるか」 - 作雨作晴 https://is.gd/vnqanA
が上がっていました。見ると投稿日が2008年07月25日となっていましたから、それからすでに16年以上も経過していることになります。

2008年頃といえば、当時は福田康夫内閣で、自民党内閣も麻生太郎内閣へとコロコロと入れ替わり、よく言われる「失われた20年」とかが始まって間もなくの頃でした。その間に日本国が「失った時間」は、G7といわれる欧米先進国と比べても、今となっては取り返しのつかないものです。日本の政治家たちや日本銀行など、政治と経済政策に的を得ていなかったからだと思います。

しかし、いずれにせよ、戦争についても、その頃アメリカとの長期化した戦争で泥沼化していたイラクでは、アメリカはこの年に就任したオバマ大統領によって撤退の姿勢を示し始めていました。

パレスチナでは、イスラエルとガザ地区を実効支配するハマスとの対立がすでに激化していました。すでにほぼ20年前の2006年にも、イスラエルはヒズボラーに反撃するために、レバノンのカナに攻撃を仕掛けていました。その時の感想も記事にして投稿してあります。「カナの婚礼(ヨハネ書第二章)」 - 作雨作晴 https://is.gd/l17Odi

戦争については、人類の歴史と切って切り離せるものではありません。年末の今この時もなお悲惨な戦争は止むことはありません。そして、戦争の当事者たちは、相手方、敵方の非道、悪行をいずれも声高に批判します。

しかし、戦争については、その論考の中でも論じたように、それぞれの敵、味方双方にいずれにも言い分があり、そのどちらの言い分にも、それなりの「根拠」はあるものです。それは、先の第二次世界大戦における日中戦争、日米戦争における日本や中国、アメリカの立場も同じことだと思います。

この年末にもシリアのアサド政権が崩壊するなど、争いの絶えない一年でしたが、その時間ももう残り少なくなりました。幸いにGOOブログには、記事一覧で索引できる機能があるので、一年の終わりに調べてみました。振り返ってみて、一年間の仕事量としては、あまりにも貧弱で涙が出そうなほどですが、これが今の私のできる能力ということかもしれません。

振り返ってみても、今年に入ってからとくに、日記と紀行の投稿があまりにも少ないですが、それは私の連れ合いが体調を悪くして、外出する機会が少なくなってしまったこともあります。そうでなければ、花の季節や紅葉の季節には、名所、観光地、寺社仏閣などももっとたくさん訪れて、そこで撮り溜めた写真などと共に、この日記ブログに記事としてあげることができただろうと思います。ふだんから出不精の私は、一人では自ら進んで外出することも少ないからです。連れ合いの体調が回復すれば、紀行文などももっと書けることになるかもしれません。

そのために「日記ブログ」を自称しているにもかかわらず、日記や紀行文は少なく、ヘーゲル『哲学入門』の翻訳と註解の記事ばかりが目立ちました。それにしても、あまりにも仕事量が少ないです。この調子だと、最後までたどり着くのにどれくらい時間がかかることやら。

ただ、「ヘーゲル『哲学入門』の翻訳と註解」の仕事の目的についてですが、これまでそれを明確には述べてこなかったと思います。もちろん、それはヘーゲル哲学を日本国民に紹介することを目的としていることは言うまでもありません。

それでは、なぜヘーゲル哲学なのか。それには、個人的な理由と社会的な、あるいは公的な理由と目的があります。後者の目的としては、より直接的には、ヘーゲル哲学の「絶対的国家観」を日本国民に明らかにすることです。ヘーゲルの「絶対的国家観」とは、要するに「立憲君主国家体制」のことですが、我が国の現行の日本国憲法は、かならずしも必要にして十分な国家哲学の上に構築されたものではないと思い、この哲学の紹介が、その改善に役立つと考えているからです。

また、現在の日本国民と日本国は、事実上マルクス主義の「階級国家観」に深く影響されていると思います。そのために、社会と人間にとって根本的に重要である「自由」が往々にして深刻に損なわれているという私なりの現実認識もあります。

このヘーゲルの「絶対的国家観」を、─── それは「自由にして民主的な独立した立憲君主国家、日本」として私なりに定式化していますが、⎯⎯ この国家理念(イデー)を一般日本国民はいうまでもなく、政治家たちも自覚することもなければ、まして、それを追求することもありません。このことが日本国の「国家概念」の歪みとして、政治や経済、文化、教育など多くの側面に現象することになっているのではないでしょうか。

今年一年ももうまもなく終わります。この一年の質量ともに貧弱に終わった仕事の内容を反省するとともに、私の立場からするヘーゲル哲学の紹介が、少しでも日本国民と国家に役立ち貢献することを願いつつ、来たる年も引き続き微力を尽くしていきたいと考えています。
今年の一年のご愛読ありがとうございました。
皆様の来たる年のより良き一年と平安とをお祈り申し上げます。

 

 年の終わりに - 作雨作晴 https://is.gd/7gFDee

 

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「夕暮れのフクロウ」記事一覧(20240517〜20241231)

2024年12月31日 | 日記・紀行
 
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「夕暮れのフクロウ」記事一覧(20240104〜20240517)

2024年12月31日 | 日記・紀行

 

 

 

 

 

 

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2024(令和6)年12月10日(火)晴れ、時々曇り。#「樋口陽一憲法学批判」

2024年12月10日 | 日記・紀行

 

2024(令和6)年12月10日(火)晴れ、時々曇り。#「樋口陽一憲法学批判」

 

久しぶりの日記。といっても先月の11月には、12日と18日とたった二日分だけれども、このブログ「作雨作晴」には投稿していました。けれども、プライベートなこともあって、日記・紀行Aのカテゴリーで上げていたから公開はしてはいませんでした。

だから、もともと更新も小まめに行うブログではなかったけれど、さらに歳が行くにつれて、確かに能力も──もともと能力といえるほどのものはないとしても──それもさらに低下してきているのかもしれません。

しかし、ともあれこんなブログ日記であっても、遠くに住む親族や親戚に対して、また、今は遠くに離ればなれに暮らすようになった知人、友人たちに対しても、この日記の投稿と更新は、その内容はとにかく、私の消息を知らせ、安否を確認してもらう伝手にもなりその役目も果たしていると思います。

ただ、たといこのブログに日記の記事としては投稿しないとしても、個人的にはパソコン上には日記アプリを通して、ほぼ毎日、日記を書いているのは書いてます。

それは中学生の頃からの習慣で、パソコンやインターネットが出てくるまでは、ほんとんど大学ノートに記録していました。ただ、プライベートな問題や公開する価値や必要のことを思うと、時折、日記・紀行Aのカテゴリーで非公開で投稿するだけでした。しかし、これまでも気が向けば後からでも日付を遡って投稿したりしています。

それはさておき、久しぶりに日記でも投稿しようという気になったのは、今日の「このブログの人気記事」(私の記事にそのようなものがあるとして)の2番目に

「7月3日(金)のTW:#樋口陽一「憲法論」批判」

 という、ほぼ10年ほど前に書いた記事が上がっていたことからでした。(gooブログにこの欄があるおかげで、折々に昔に書いた記事にさかのぼれます。)

昔に投稿したツイッターの記事の中で、

「憲法学者たちの「平和主義」には何か狂信的なカルト的性格すら感じるのは私だけでしょうか。「樋口陽一氏の憲法論ノート(1)」 - 作雨作晴 blog.goo.ne.jp/askys/e/48c5dd…しかし残念ながら、それ以後に樋口陽一憲法論の批判は全然進んでいません。」

と書いていました。

樋口陽一氏は東京大学の名誉教授ですが、樋口氏「率いる」憲法学界や、いわゆる左翼と呼ばれる人々たちや、さらに若者ら集団を挙げて、今は亡き安倍晋三元首相の改憲論や安保法制に対して、反対の論陣を張っていたことはよく知られています。また、東大法学部出身で、法政大学の政治学者である山口二郎氏は「安倍に言いたい。お前は人間じゃない! たたき斬ってやる!」と言ったとか。

いずれにせよ、私は「現行日本国憲法」は極めて欠陥の多い(もちろん「それなりの意義」は認めているつもりですが)憲法だと考えており、したがって、その改憲か無効化を主張しています。それゆえ護憲論の立場に立つ「樋口憲法学」については基本的に肯定できないのは言うまでもありません。

私などは自慢ではないけれども、憲法学には全く素人で、能力的に「樋口憲法学」の足許にも遠く及ばないことはわかっています。私の「樋口憲法学批判」が一向に進まないのも私の無能力のせいでもあります。

とはいえ、「樋口憲法学批判」を進める意欲をなくしたもう一つの理由としては、憲法学者の樋口陽一氏が、故宮沢俊義氏の憲法論を引き継ぐ形で、「天皇ロボット論」を唱えていることを知ったこともあります。

これまでヘーゲル哲学を多少なりとも読みかじり、また、「立憲君主制」の必然性とその意義を主張するヘーゲルの「法の哲学」を支持する立場に立とうとする私にとっては、故宮沢俊義氏や樋口陽一氏の「天皇ロボット論」は「話」にもなりません。だから、

『天皇機関説』と『象徴天皇ロボット論』 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/54Lvs0
を書いたり、
牧野英一 著『最後の一人の生存権』 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/SUvfxf)
の中で、

「今は亡き東大名誉教授の奥平康弘氏は「「天皇制」は民主主義と両立しない」と主張されていましたし、今なお憲法学の権威とされる樋口陽一氏は「天皇ロボット論」を唱えておられます。私などの立場からすれば、自著の憲法学術書をたとい背丈ほどに積み重ねられようと、こうした言説を主張される限り「樋口陽一憲法学」はそれ一発でアウト、と断ぜざるを得ません。ただ誤解のないよう言っておきますが、どのような言説、理論を主張されようが、それは彼らの「学問の自由」ではあります。」

などと書いたりしました。

いずれにせよ、少なくともこの問題については、私なりに決着がついており、「樋口陽一憲法学批判」に時間を浪費するぐらいなら、ヘーゲルの『法の哲学』の研究の方にこそ時間を振り向けたいと考えているからです。

 

2024(令和6)年12月10日(火)晴れ、時々曇り。#「樋口陽一憲法学批判」 - 作雨作晴 https://is.gd/xodOjv

 

 

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2024(令和6)年11月12日(火)翳。#自然、#カテゴリー、#反省規定、#概念

2024年11月12日 | 日記・紀行

 

2024(令和6)年11月12日(火)翳。#自然、#カテゴリー、#反省規定、#概念

久しぶりに公園にくる。紅葉もようやく色濃くなり始めた。

ヘーゲル『哲学入門』の第二篇  論理学  第六節 の「思考の種類とその意義」の翻訳と註解を書き始めているが足踏みしている。

そこで挙げられている「思考の種類」とは、1)カテゴリー、2)反省規定、3)概念 の三種類である。これら三種類の概念とそれらの関係が今ひとつ明確にならない。そのために時間がかかっている。

哲学のもっとも基本的な対象は物であり世界である。

私の前には、秋の兆しを宿した公園が存在している。そして、また私は、季節が秋であるという、時間の意識をもって公園を眺めている。

この第六節の中でもヘーゲルが述べているように、私たちの眼前に存在する物の世界、すなわち「存在」とは、もっとも根本的で直接的なカテゴリーである。

それを、2)の「反省規定」によって、つまり、同一性や差異性、原因、結果、根拠など調べることによって、たとえば「植物」を「動物」と比較したり、植物が細胞の葉緑素によって、二酸化炭素と水から有機物を合成する因果関係などを洞察することによって私たちの意識はその本質を認識し、さらに「存在」から「本質」へと統合(アウフヘーベン)することによって私たちは「植物」という「概念」を形成する。

つまり、1)カテゴリー、2)反省規定 のこの二者を媒介として、次の段階へ、3)概念 へと進む。これが、カテゴリーを静的にしか捉えることのできなかったカント哲学と、動的に捉え直したヘーゲル哲学との違いである。

だから、カテゴリーと反省規定は「客観的論理学」の対象であり、概念は「主観的論理学」の対象である。さらにそれらも統一されて「理念」の段階へと進む。

秋の風情を私たちの眼前に広げて見せる公園の色づいた木々、流れる川のせせらぎ、家々の背後に延びる山林など「自然」は、いまだ理念が実現されないままに取り残されて存在している。ヘーゲルの表現によれば、それは理念の外化された姿だという。

 

 

 

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「夕暮れのフクロウ」記事一覧(2024.04.11〜2024.10.28)

2024年10月31日 | Weblog

 

「夕暮れのフクロウ」記事一覧(2024.04.11〜2024.10.28)

 

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