TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

折々の写真&雑感 473

2024年03月03日 | エッセイ
 前回に書き足りなかった元特攻隊員の話を続けたい。「自分が元特攻隊員だったことはお前さんと社長しか知らない。あの戦争のことは誰にも話していないからだ」。と云って不思議な笑顔を向けてくれた。私を弟のように思ってくれているからか、まだ社長にも誰にも話したことはないと前置きをして以下のことを話してくれた。

 出撃の順番だが、俺の想像では、俺が真っ先に志願したので、怖くなって出撃から逃げることはないだろう。最後になってやっと手を挙げた奴から出撃させたのではないだろうか。これはあくまで俺の想像だ。事実ではないかもしれない。出撃基地にいた戦友がどんどん少なくなっていくと、あの夢のようだった銀シャリがのどを通らなくなったと俺にこっそり云った仲間がいた。本当のことを云うと俺もその一人だった。だが三度のメシの時は無理にでも銀シャリを旨そうに食った。
 俺たちの基地から出撃して、生きて帰った奴は一人もいなかった。他の基地でも同じようだと思う。だが、どうして映画やテレビドラマでは特攻隊員がどのようにして敵艦に突っ込み、或いはその前に撃ち落されてしまったのか詳細に描かれている。誰がどうして知ったのか未だにわからない。戦争が終ってずっと経ってから聞いた話だが、敵艦に突っ込まず、近くの島に着陸して命を永らえた隊員がいたと聞いた。特攻機には行きの燃料しか積んでいない。島に着陸した奴が敵艦を見えるところまで行ったのでは着陸出来る島を探すことは出来ない。奴は出撃と同時に島を捜したのだ。だから仲間が敵艦に突っ込んだ様子や撃ち落されたりしているところを見ているわけがない。俺が思うに、特攻機が敵艦に突っ込む瞬間を機関砲の届かない上空から見ていた上級将校がいたのではないか?

 彼の話はまだまだ続いたが、彼の悲痛な話は聞くに堪えなかった。復員してから十年以上も経っているのに、それを未だに引きずっている。特攻の出撃基地は内地に近い場所にあったためか、終戦後まもなく復員したが、東京の惨状を見てまともに生きる希望を失った。そしてヤクザな生活を送っていた。その時、特攻隊員になる前の部隊の上官だった今の社長に拾われ、運転手兼用心棒になった。

 三條美紀さんと将来の夫になる建設会社社長がマージャンをしに来なくなると、彼とのつながりも自然に終った。而し、特攻の生き残りの「苦悶」を抱えたままになっている彼を今でも覚えている。戦争映画でしか知ることの出来ない当時の軍隊の中で、「兵士一」とか「兵士二」としか字幕に出てこない人々の戦後の生活を誰も気にかけていない。これでいいのか?

 先週に続いて100回目の上野動物園である。上野動物園にはかなり多くのの種類の動物が飼育されているが、写真になりやすいもの、そうではないもの。夜行性の小動物は暗い檻に入れられているので非常に撮りにくい。ISO感度を上げればいいが、色彩にかなりの影響がある。従って、私はISO感度を3,200か、せいぜい6,400までと決めている。ISO感度を12,800にして撮ってみたことはあったが、どうも色が気に入らなかった。従って、上野動物園で撮る動物はISO感度の加減と私の好みで被写体となる動物が決まってしまう。次回には歩く範囲を広げて新しい動物に挑戦してみようと考えている。












 「あぁ、うめえな!」




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