辰口信夫 | |
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1911年8月31日 – 1943年5月31日 | |
30歳頃。近衛第一連隊への配属直後の辰口。
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生誕 | 大日本帝国・広島県 |
死没 | アメリカ合衆国・アッツ島 (アリューシャン列島) |
最終階級 | 曹長 |
辰口 信夫は、1911年生、父親もアメリカに留学し、敬虔なキリスト教徒であったため、彼もアメリカに留学、医師免許を取得、医術をもってキリスト教の伝道師として帰国。
昭和16年 軍医として招集されたが、敵国アメリカの大学を出ているという経歴か将校にはなれなかった。
昭和18年(1943)5月12日、アメリカ軍がアッツ島に上陸。
日本軍の守備隊は約2700名。圧倒的な艦砲射撃と空爆で死傷者続出。
1000人余が野戦病院にいたという。
守備隊は、物資や援護の補給もないと判断し、傷病兵を自決させ、自力で死ねない者を殺し、最期全員バンザイ突撃をして玉砕した。
戦死者の一人、堀口信夫の胸のポケットから日記が発見された。
その中にアメリカ人の名前と住所が書かれていたことから、注目を集め、その日記がアメリカに渡り、翻訳されて広まった。
5月12日の日記では、「母艦機飛翔、我軍応射、霧低きも山頂は明瞭、山頂に退避す。空襲は十時ごろ頻繁。地上炸裂音を聴く、それは艦砲射撃なり。
(中略) 一日中多忙。空襲、艦砲射撃、米軍の上陸」。
夜20時 本部前に集合あり。野戦病院隊も参加す。最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。僅かに33年の命にして、私は将に死せんとす。但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。
聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとすることなり。
18時 総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。
私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻 耐子よ、さようなら。どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。
ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、すくすくと育って呉れ。
ムツコ様、貴女は今年2月生れたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。
○○様、お大事に。○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、さようなら。
敵砲台占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。
敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し」。
アメリカでは、「軍医であり、クリスチャンだった堀口が傷病兵を殺した」とショッキングに伝えられたが、やがて「それが日本人の社会、精神文化」と、擁護する者も現れ、日本人を理解する貴重な資料として、アメリカでは広く読まれたという。