石原慎太郎先生ご逝去と若者文化など | 国際連合(UN) 特殊諮問機関:世界連邦(WFM)本部執行理事/国際委員長, 国会委員会事務局次長, 青年会議(Youth-Forum)議長:谷本真邦

海部総理の訃報に続いて、石原慎太郎先生もご逝去されました。

 

石原慎太郎先生は、海部総理とは違って、個人的に仕事でご一緒させていただいたわけではありませんが、もちろんお会いしたことはありますし、実は親族が、ご子息も含めて、選挙スタッフをしていて、お世話になったので、残念です。

 

また私自身が影響を受けさせていただいた笹川良一先生とも、良いご関係があり、話題には良く出てきた方でした。

作家で、映画界・芸能界などにも関与し、政治家としては運輸大臣や東京都知事なども歴任された大物でした。

新党結成や総理就任などは叶わず、それに維新と合流されたりした後に、晩年「もうひと花咲かせていただきたかった」ので残念でした。

 

もし石原新党が出来たら、入れてもらいたかったです。もしかしたら違う人生になっていたかも知れません。

ただ基本的に私は、当初考えた国連入職にも少々失望し、世界政治(NWO構築、今の世界連邦運動)に関心を持ち、日本の政治家になるつもりはありませんでした。もちろん国家主権が社会の最高である現代では、国の政治には、何等かの形で関与しないといけないとは思っていましたが、親戚も、司直の偉いさんも、各宗教界のリーダーの先生方も、もっと言えば海外の大物政治家や学者にも、「日本では」政治家(つまり国会議員や大臣)にはならない方が良いとアドバイスも受けてきました。裏に回ってこそ本当の政治とかを読んだこともありました。

その前から、学生/教師~実業家として、世界政治運動に関与をしたかったのですが、小沢先生らが党をいくつか作ったり改変されたりして、政治改革がごちゃごちゃになっていた時代で、色んな方に政界に誘っていただけることがありました。そのころは、20代後半から30歳前後と若かったということもあり、ちょっと国会議員になることも考えた唯一の時期でした。当時の政党(今もそうかもしれませんが)は、当選回数が序列だったので、出世するなら早くから出た方が良いというのもありました。それに、当時はお金に余裕があり、お金さえあれば当選できる最後の時代でもありました。アメリカのように、何かの専門家が、いきなり一発屋として政治で活躍することが可能なら、それもありかと思います。また世界政治ではなく、日本のため、あるいは地域のため、当選回数を重ねていって、人生を捧げようという人は、政治家も良いと思います。

でも私はちょっと違うタイプですね。「職業のフルコース」を目指し、イロイロやりながら成長したいタイプです。

あらゆる業種を、少しはかじったので、後はどこまで伸びれるかの勝負です。だから(家族が許せば)いつ死んでも良いんです。死ぬとき「ここまでだったな」と思うだけです。ただ、もちろん、出来るだけ長く生きて、出来るだけ成長したい、という欲求は、もの凄いものがあると自負しております。だから年齢という数字は既に捨てて忘れています。またどんなに体調が悪くても怪我をしていても生涯現役で仕事をしていたいんです。他がダメでも何かの仕事はできますが、脳がダメになるとやはり仕事ができないので、認知症にならないように医療技術革新を待ちたいところです。

 

こんなフラフラした人生を送っていますが、実は前科も、破産歴も、現在は反社の付き合いも、何もないので、クリアランスには通ります。

だから、その後も政界に誘われたことも、なくはないですが、公認を出す前に、まずは会社をやめて府連や支援者相手の政治活動に専念してからとか、条件が全然悪いし、本気に出来ないようなお話もあり、やはり、ないな、という感じなので、黒幕として生きたいですね。

(実際尊敬する人も、天皇陛下と、今の身近な方を別にすれば、政治家では伊藤博文・高橋是清のような波乱万丈の革命的官僚政治家か、ジムクラークのような連続企業家、坂本龍馬や笹川良一先生のような黒幕です。国連でも、みんなが尊敬する、連盟を創設したウィルソン大統領や、現代のアナン総長よりも、経歴から尊敬されなくなったワルトハイム氏とかに関心を持ちます。天邪鬼なところもあるのかな。世界連邦の全く正反対で、最も嫌悪するヒトラーとナチについては、かなり詳しいんです。あまりに詳しいのである学者さんから潜在意識では好きなのでは?とか言われたことはありますが、そんなことは絶対なく、ライフワークの世界連邦主義と、国家民族主義ドイツ労働者党の思想とは、正反対なので、やはり嫌悪はしています。以前リッベントロップのことを書いたこともありますが、ゲッペルスの日記やヒムラーの業務日誌なども読み込みました。)

 

慎太郎先生の側近の浜渦さんは(関係ないですが、息子が、東大時代に、私たちが主催した国連欧州本部でのジュネーブダイアログに、参加してくれたこともあります)、先生は結構繊細な方だと仰っておられましたが、私もそう思います。

 

基本的に、慎太郎先生は、私のような若輩の外部の人間には、ガラっぱちながら、優しい方でした。

「先生の生き方に憧れてます、それで一級船舶もとったんです」というと、冗談ですが「俺のクルーをやれ!」と言われたこともあります。ですが、これは麻布自動車の渡辺会長や、色んな人にも、同じことを言われたことがありましたが、一応ガキながら私も船を持っていたので、そんな怖い人の部下になると大変だと思いました。むしろガキながらクルーが欲しかったくらいでした。

 

余談ですが、クルーも大事で、当時の自分の会社の秘書(男性)をクルーにしたんですが、なにせ彼は海に素人なので、あまり頼りになりませんでした。当時は50ft.以下の船ならば、海事免状を持っている船長がいれば、船の操舵を人に任せても良かったのですが、任せていると、一回沿岸部で、海図上の浅瀬に入りこんでしまっていたこともあり、気づいた私は慌てて船をエンジンを止めました。セーリングボート(日本で言うヨット)ではなくエンジンボート(日本でいうクルーザー)だったので、無理に深い外海にでようとすると、もっと浅いところがあれば、砂を噛んで、ペラが傷んだり、エンジンに吸い込んでしまってはいけないので、念のため、潮が満ちるまで、外海に出るのをやめて、ちゃんと浮いていることだけを確認して(浮いていなければ座礁なので本当に事故です。転倒する可能性さえあるので恐ろしいんです)、しばらくアンカーをかけて、乗っている十名ほどの友達には、BBQをして時間をつぶしてもらうことにして、念のため118(船版の119です)に連絡しておきました。浮いていて、これから潮が満ちる時間なので、問題はないのですが、下手をすれば「事故」扱いにされるところでした。

 

慎太郎先生は、若いころには病んで高校を休学されていたこともありましたし(今のニートですね)、ご本人は(元々、石原プロの役員として映画の五社協定を打ち破る奔走をするなど政治家に向いているといわれていたそうですが)海外の窮状などの現実を見て政治家を志したり、お好みの同じお寿司屋さんのものでも少しの味に変化があれば食べないとこだわられるようなところがあったり、裕次郎さんのことを褒める人がいると「俺の方が上だ」とムッとされたりするような、人間的なところも、おありでした。

もちろん裕次郎さんが世に出るきっかけは慎太郎先生ですから。しかも子供の頃までは、お兄さんの方が、ずっとカッコ良かったそうですから、後年日本一カッコイイ男になった弟を持ってしまったお兄さんとしては、嬉しい反面、複雑だったんですかね。

しかも先生の女性の問題(今なら辞任もんですが)のことを聞いた記者に「そんな話はしない!」と堂々というなど、私のような者にはカッコよかったですね。

でも、それだけ迫力もあり、かつ繊細な方なら、身内の人はさぞ怖かったでしょう。

 

ただ、個人的には、政治だけでなく、「若者文化」にも関心を持っている私にとっては、日本の一時代を築いた方なので、本もよく読みました。

先生といえば、いわゆる「太陽族」ですが、これにも、あこがれたものです。

私は、若者文化でもサブカルというより、「メジャー」な文化に関心を持っています。維新の志士の頃から、しばらく若者文化というのは一時期停滞していました。江戸時代からかわらず新橋・柳橋・向島・浅草などや、京の祇園などの花街での遊びがまだ残っていました。しかし大正デモクラシーが開花したころから、モボ・モガの登場、エログロナンセンス、あるいは昔ながらの歌舞伎・浪曲などの伝統芸能とはちがった、欧米流の新興の興行が起こりました。

戦前、立教の学生などを中心に、ハワイアンやジャズバンドの流行です。今で言う帰国子女もいて、こういう音楽を海外から持ち帰りました。新橋フロリダなど有名ダンスホール(今ならクラブですね)も流行ったそうです。ハワイアンやジャズも、今やクラッシックと同類ですが、今のヒップホップよりも斬新な音楽の流入でした。

しかもさすが日本人、古関裕而先生などが、洋楽を日本流にアレンジするという技は、当時からあり「戦前版J-POP」があったわけです。

 

このシンボルが、後の歌手協会会長のディック・ミネ御大です。昔、私が歌手協会さんとお付き合いさせていただくようになったとき、亡くなられた元大御所歌手の方に、ディックミネ先生のお話はよく聞きました。美空ひばりさんなども一緒にスキーに行ったり可愛がっておられたそうです。ディックミネ先生が発声練習をしていたという湘南逗子のトンネルで私も大きい声を出してみたこともあります。ディックミネ先生は「千人斬り」や「モノが大きい」「四度結婚したけど二度目と三度目は姉妹」など、女性や下ネタの伝説ばかり知られてますが、平和主義者で、明るい太陽のような方だったそうです。私が少年時代に亡くなられたので、結局遠目でお顔を見たことしかなく、お付き合いをしたことがないので残念です。

(日本歌手協会さんのステージでスピーチする谷本 本当は大御所歌手のみなさんがいらっしゃるのも気にせず歌ってみたかったなぁ、、)

ディックミネ先生は、学生時代は相撲部だったそうですが実際は喧嘩三昧だったそうです。それでも立教大学を卒業して、逓信省の官僚になって昼は役人生活のかたわら、夜はナイトクラブでジャズバンドのドラムをされていたのですが、ルックスの良さと歌えることを、淡谷のり子先生や古賀政男先生に見いだされて、当時としては遅咲きの二十代後半で、テイチクからデビューし、テイチクが増資して会社を拡大しないといけないほどの大ヒットを飛ばして、戦前最大の流行歌手の一人になられます。

その後はジャズだけではなく、古賀先生の影響もあり演歌などにも挑戦して、活躍の幅を広めます。そして若者文化に影響を与え、「ジャズやハワイアンに詳しいと銀座の女性にモテる」と、学生などに流行したそうです。当時は慶應や立教のハイカラ学生が、銀座のクラブで幅を効かせていました。戦前の学生は、お金持ちですからね。

 

しかし戦時体制になり、外来語風の名前だったので当局から三根耕一と改名させられるなどの事件があり、こういうことに嫌気がさし、当時東洋のパリとか魔都と呼ばれた上海に拠点を移します。

 

上海というのは、もちろん植民地という影の歴史もありますが、高杉晋作・伊藤博文などの維新の志士が影響を受けた近代日本に最も近い西洋であり、戦前ディックミネ先生が移られた頃には、羅教(新興宗教団体)から派生した大ギャング団の「青幇」や、その若きゴッドファーザーの杜月笙が街を牛耳り、戦時体制とは思えない、華やかさを呈していたそうです。シカゴでも20代の若きゴッドファーザー、アルカポネが活躍していたころです。青幇は上海大世界というレジャービルを拠点にしていました。これは横浜中華街の横浜大世界のモデルです。

 

上海では、この頃、児玉誉士夫先生も上海に拠点を作ります。児玉先生は、労働者から日大専門部で学びつつ、赤尾敏先生の建国会や、右翼の祖である頭山満先生のもとなどで、複数の右翼団体で活動をされ、刑務所に入ったり自決未遂をしたり、若くして既に波乱の人生を送られているのですが、笹川良一先生が設立した国粋大衆党(日本版ファシスト党)の東亜部長や陸軍嘱託特務機関もされるようになり、笹川良一先生の斡旋で、海軍の特務機関/物資調達機関である「児玉機関」を作っておられました。

 

児玉機関は、児玉先生が海軍の特攻の父と呼ばれる大西中将などから、直接目をかけてもらっていたこともありますが、児玉先生の弟分や子分だけでなく、児玉先生から見れば先輩格の大物も所属されており、実質上は笹川機関といわれています。

そしてこの児玉機関は歴史に何度も出て来る「ブロードウェイマンション」という高級アパート兼ホテルの一角に事務所を置きました。

私も上海に行くときはこのブロードウェイマンションを定宿にしていました。起業家仲間からは、なんでそんな古いホテルに泊まるの?と言われましたが、私は最新のフランチャイズ系の高級ホテルよりも、こういう歴史的な建物に泊まるのがすきなんです。

そして児玉機関には、野口進(ライオン野口)一家が仕切っていた興行部もありました。野口進さんは、嘉納健治さん(ピス健)という菊正宗で有名な神戸の地方財閥の嘉納家出身(柔道を確立させて、オリンピックでも有名な、嘉納治五郎なども、この家の出身です)の「旦那ヤクザ」とよばれる名家出身のヤクザに任されて、興行も行った超有名な興行師です。上海では、この野口親分の奥さんの里野さんが活躍しました。ディックミネ御大だけでなく、淡谷のり子さんやベティ稲田さんをはじめ、当時の名だたるスターを上海に集められました。

笹川良一先生が社長をされた市川右太衛門プロとともに、この児玉機関系の野口興行部が、日本の芸能プロの元祖といわれています。野口進一家では、のちには息子さんの修さんという超有名格闘技プロモーターも輩出しています。

笹川先生や、赤尾先生も、(あまり知られてないのですが)昭和17年の翼賛選挙で、非翼賛議員として、一度だけ衆議院議員になられております(この選挙では、児玉先生は落選され、内務省嘱託、将軍と同じ格の勅任官待遇、戦後は内閣参与などになられて、自民党の前身の自由党結党に際しては、辻嘉六氏を通じて、児玉機関が集めた資金が提供されております)。これらの肩書きは、ハッタリだと疑う人もいますが、首脳級がなるA級戦犯の容疑をかけられたくらいでしたので、戦時のわずか数年で、相当出世されたことは事実です。

笹川先生はすでにこのころ、議員であるとか関係なく(戦時中の国会議員は全く力がありませんでした)、政財界や軍に影響力がありました。また同時に日本の芸能界のドンにもなり、「作曲家の山田耕作(先生)は虚栄心があるので、長靴を履ける軍嘱託の高官にしてやった」というお話を本人から聞いたことがあります。

 

しかし、その後は、戦争でしばらく若者文化は、戦争一色で、せいぜい慰問文化くらいになります

 

ただ、終戦後には、いきなり若者文化が再隆盛します。元は破たん経済の中で、的屋の親分が頑張って闇市の隆盛、GHQのPXの横流しなど非合法経済の中で起こった、愚連隊の勃興を中心とした、若者文化の隆盛です。

 

神戸では、元々戦前から沖仲士や興行を仕切っていた山口組(初代山口春吉親分が50人の人夫を束ねて大島組傘下で結成、40代で実子の登親分に跡目を譲り二代目は公共事業の市場の利権で大島組から独立しました。二代目親分の弟と同級生という関係で田岡三代目が人夫から盃を貰い組員になりました)は、有名な田岡一雄親分(あまり知られてませんが、二代目親分が吉本興業の用心棒として籠虎組ともめて亡くなり、その後は山口兄弟会として組織は存続したものの、田岡親分は一時期は便宜上婿養子縁組をされていたのかもしれませんが文子姐さんの苗字を名乗って独自の組活動をされていました。ですが結局は兄弟会から押されて)三代目を襲名、国際ギャング団(のちに山口組若頭補佐となる菅谷親分が中心でした)らとも連携して街の治安を守りました。

その後、経済復興とともに、横浜の藤木幸太郎親分らと港湾荷役振興協議会を作ったり、我が家があった鎌倉山を開発された菅原通済先生・緒方貞子さんを国連に引っ張り出したり様々な女性の地位向上に努められた政治運動家で国会議員でもあった市川房枝先生・右翼の大物で建設会社社長の田中清玄先生らと、麻薬追放国土浄化同盟を結成し、麻薬撲滅運動を展開されて、全国的な大物になられました。組を継いだ時は大正時代からある組で、三代目とはいえ、日本全国では江戸時代から続く博徒・的屋組織が多いことを考えると新興勢力でした。しかし数年で全国に名を轟かす大組織に育て上げられました。

もちろん、たまたまヤクザという特殊なカテゴリーに見えますが、元々山口組は港湾荷役=人材派遣・業務請負業・土建業、さらに芸能興行社という、正業の実業家でもあるし、当時は群雄割拠で、こういう組織から政財界の中で堅気として活躍する一般企業に転換していったところも多く、今の暴力団という感覚とは違うでしょう。

 

新興宗教も若者に大流行りでしたが、特に初代・二代目が下獄されていた創価(教育)学会なども、出版業界などで苦心しつつも、愚連隊などとも平気でやりとりをされて(これは池田先生の著書、人間革命に詳しいです)、若者を中心として息を吹き返し、三代目に青年部長だった池田大作先生が就任されてから、一気に巨大化しました。平成期には与党のキャスティングボートを持つドンになられました。

 

戦後の東京では、銀座警察と呼ばれた(ご本人らが言ってたわけではないそうですが)グループや、新宿の愚連隊、そしてなんといってもその中から、元下北沢グループで、新宿へ移り、そこから渋谷に拠点を構え、のちに映画でも活躍される安藤昇先生の東京宣伝社、東興業です。この人たちは高校生や大学生で、本職になるという凄い人たちです。しかもダンスパーティーを開催したり、洋品店やバーを出したりと商売にも熱心でした。私もパーティー屋(イベサー)だったので、憧れました。

 

その後に出てきたのが、太陽族です。

 

慶應などのブルジョワ学生らが(これはディックミネさんも安藤昇さんもやっていた戦前からあった文化なのですが)、「(慎太郎刈りという)ヘアースタイルを決めて、アロハシャツとタボダボのパンツをはいて、外車に乗って、普段は銀座などの繁華街でパーティーなんかをして、夏休みには湘南のおぼっちゃまの親の別荘をたまり場にしてヨットや水上スキーなどのマリンスポーツをしつつ、ナンパをする」という文化を、日本中に「太陽の季節」という小説で表現したのが石原慎太郎先生でした。

しかも当時の石原先生は、まだ一橋大学の学生で、慶應大学にいた弟の裕次郎さんらのライフスタイルをモデルにして書いた小説だったのですが、芥川賞を受賞され、日活で映画化され、これらは大ヒットして、戦後史に残る社会現象になりました。

しかも当時、天下の日活に映画化の交渉をしたのは学生の石原兄弟だったというのが驚きです。お金やキャスティングの話も含めてです。今の学生にそこまで出来ないでしょう。そしてすぐに、この映画のヨットのスタントや学生用語の指導などで引っ張りだされた、弟の裕次郎さんを主演にした「狂った果実」を書きおろして映画にして、これまた大ブームになりました。ちなみに太陽の季節では、長門浩之さんが主演ですが、狂った果実では長門さんの実弟の津川雅彦さんをデビューさせています。両方湘南を舞台に兄弟と女性問題が関わる話で、実際自分と弟裕次郎さんとの兄弟、それに太陽族と呼ばれるようになった慶應の学生たちの湘南の夏休みの生活にヒントを得た話です。

なお狂った果実では、裕次郎さんは元は弟役だったのを(兄は佐藤浩市さんの御父上の三国連太郎さんの予定でした。実際、裕次郎さんは慎太郎先生の弟ですしね)、兄役にしたのがあたりでした。たしかに三国さん男前ですが、この物語の中の兄というのはは豪快な遊び人の役なので、ちょっと生々しくなったと思います。やはり、本物の太陽族だった裕次郎さんがそのままでもカッコいいので、遊び人でも、若々しく輝いていましたね。弟は美少年ながらまだ初心、という設定です。長門さん津川さんは映画界の名門マキノ一族のご出身だけあって津川さんは本当にハマり役でした。

そういう意味でも私は映画では「太陽の季節」より、裕次郎さん主演の「狂った果実」が好きです。

あと、この映画での脇を固められた岡田真澄さんがまたクールなんです。後年映画賞のスポンサーをやった時にお会いしたんですが、パーティーでは新人賞の若い有名女優さんなどより、岡田さんと話したくて、ずっとご一緒させていただきました。

そして狂った果実は、中平康監督も、武満徹先生の音楽も最高で、フランスのヌーベルバーグに影響を与えるなど社会現象から文化史にも影響を与えるようになるのです。

 

こういう経緯で、石原兄弟は「運命の年、昭和31年に、わずか一年で、一般学生から、日本一のスター作家&俳優」に化けるのです。

そのあとの、ご兄弟の政財界や芸能界でのご活躍、怪我病気や金銭問題でのご苦労は、誰もが知るところです。

 

この流れの湘南の学生ライフは、エンタメの世界では、東宝の若大将シリーズに受け継がれます。これは本来、戦前の「大学の若旦那」という映画のオマージュなのですが、実際は太陽族の近代版と言ってもいいでしょう。

ルーカスの出世作アメリカングラフィティーの世代、シナトラやプレスリー映画などの雰囲気も入ってきます。

主演はご存じ加山雄三さんです、加山さんも、裕次郎さんと、同じく湘南で青春を過ごし、慶應の法学部の3年下の後輩です。しかし太陽の季節から数年たってからはじまった若大将シリーズでは、同じような若者文化がテーマですが、明るい。CAなどをしているマドンナ役だけでなく、令嬢やファッションモデルや歌手など、あらゆる女性にモテモテなのは、若大将も太陽族同様なのですが、若大将の方は淫靡というか陰湿ではないんです。

しかも「ボンボン不良のボス」の赤マムシ、準主役の「ブルジョワ学生」の青大将と、役割をわけています。だからパーティーを企画するのも、だいたい赤マムシか青大将です。若大将は勉強もまぁできるし老舗のすき焼き屋の息子というある程度おぼっちゃまだけど、そこにスポットは当てず、スポーツ万能、バンドを組んで歌も歌える、「さわやかな好青年」というのに特化しています。むしろブルジョワ学生などは、バブル期で言う「アッシー君やメッシー君」として使い、結局モテない、という感じで茶化します。

少し時代が豊かになった感じがします。この間、現実社会でも東京オリンピックなども開かれるのですが、街も綺麗になってきたりして、高度経済成長で団塊の世代が高学歴を目指しだしたころです。

映画自体も、ヨットやサーフィンなどをグアムやハワイでしたり、スキーをヨーロッパでしたりと、各国での海外ロケなどを慣行して、国際的な感じで、豪華になってきています。

戦後すぐの、イデオロギーの変化による虚無感などもなく、経済成長の恩恵を受けた華やかさがあります。

 

このころから、ブルジョワではない不良が、カミナリ族と呼ばれる暴走族の元祖も生まれます。

 

また学生(政治)運動が盛んになります。戦前の学生の政治運動は、ほぼ皇道運動で、そこから大陸浪人や国内の右翼・壮士らと結びつきました。これは民族自決・ファシズムなど世界的潮流でした。

 

ところが戦後昭和30年~40年代は大正教養主義の復活とともに左翼運動が盛り上がります。これもやはり世界的潮流でした。アメリカのシカゴセブン、ブラックパンサー党、フランスのカルチェラタン闘争、サルトル主義、中国の毛沢東の文化大革命など、世界的潮流です。

ここにビートルズを筆頭とするポップカルチャーや、ウッドストックなどのフェス文化、ヒッピー文化や東洋哲学まで融合して、若者文化が多いに盛り上がりました。

 

これもあまり知られていませんが、赤坂の有名クラブで、児玉先生とビートルズが飲むと言う計画もありました。実現はしませんでしたが。

 

日本でも同じ動きでした。エンタメでは、昔からの興行師のほか、NHK、大資本系メディア(正力氏の読売日本テレビグループ、前田氏から財界四天王水野氏さらには鹿内氏らが買収したフジ産経グループなど新聞系、東宝は東京宝塚=つまり阪急グループや東映は東横映画=つまり東横急行/今の東急系など電鉄系)のほか、ジャズミュージシャン出身の社長が設立されたナベプロ・ホリプロなど独立系も児玉先生や中曽根先生らの政財界の応援もあり勃興しました。

そしてやはり海外の影響は大きく、若者の間では海外のポップスの日本版が流行ったり、「エレキ」や「GS」がはやりました。

 

政治運動でも、左翼も共産主義の分派をはじめ、ノンセクトラジカル、さらにはそれに対抗するための日本学生同盟や盾の会(三島由紀夫先生の民兵組織)などの右翼運動、

そして広域化していくヤクザと、それをとりこんでまとめようとする運動(児玉誉士夫先生の仲介による東亜同友会構想などです。戦前ヒトラーやレームのナチス突撃隊も、退役軍人と反共ゴロや労働者、それに日本で言う愚連隊ヤクザが、一つになり合同してできたものですが、これを作ろうとしても、日本では地元密着型のため、地域間同士がどうしても結びつかず挫折しました)など、あらゆる動きがありました。

 

しかし、学生運動は、「おとな」である共産同のさらぎ徳二議長を暴行したあげく、関西系学生が独立して赤軍派が誕生しましたが、大菩薩峠で軍事訓練中に大量に逮捕されました。また国際根拠地論から、日本初のハイジャック(よど号事件)を起こしたり、パレスチナにいってPFLPと連携し日本赤軍の最高指導者となった重信房子受刑者の便宜上の夫である奥平剛士らのパレスチナ解放運動で、テルアビブ空港で乱射事件をしてそのまま自決するなどの「中東の自爆テロリズム」の源泉をつくった日本赤軍へと発展したり、

交番や銃砲店を襲って武器を持っていた労働者系の革命左派(京浜安保共闘)と合同して「連合赤軍」を結成し、山岳ベースでの連続リンチ殺人事件を起こし、最後はあさま山荘事件も起こしました。別組織ですが、連続企業爆破事件などもありました。

 

この無意味な暴力に、一般学生は急速に冷めました。

 

ちなみに私は共通の弁護士がいて知り合った、連合赤軍で、あさま山荘直前までいて軽井沢駅で逮捕され、20年以上獄中にいた、いわゆる赤軍兵士のバロンさん(ニックネーム)という人がやっている静岡駅前のスナックに良く行きました。新幹線ですぐですから。政府高官の人を連れて行ったこともあります。話はいかついですが歴史の証人ですからね。笑ってはいけないですが、出所後はじめて(口座を作りに)普通に銀行に入った(それまでは強盗でしか入ったことがなかったという意味・・・)とかおっしゃってました(赤軍というのは資金調達には銀行を襲うそうです。銀行は資本主義の象徴だから襲っても良いというのがスターリンの考えだそうです、ひぇー!!)。

 

また、さらぎ議長を、内ゲバで半殺しにして、独立して赤軍派を作った中心人物の元京大の塩見議長(学生の間では日本のレーニンと言われました)が経産省の前で反原発運動をしておられたので、声をかけたことがあります。「塩見議長ですか?」と聞くと、「なんだお前、俺のことを知ってるのか?」というので「存じ上げませんが、塩見議長は有名じゃないですかぁ、まだ運動をしているんですか?まだ世界革命を目指しているんですかぁ?」というと、「世界革命はないけどなぁ」と言いながら、うれしそうに、そこから一時間も政治演説を始められました。結構楽しかったです。次の予定を飛ばしたくらいですから。でも、その時仰ってて印象的だったのは「もともと毛沢東なんていうのは俺らからしたらオッサンで興味がなかったんだ。本当は(実際に少数ではじめて革命に成功したばかりの)カストロやゲバラにあこがれたんだな。だから(田宮とか)北朝鮮にハイジャックして行った連中も、そこに、とどまろうと思ってなかったんじゃあないかな。俺らは、そこで協力を得て、キューバへ行きたかったんだよ」と言われていたのは、印象的でした。また重信房子受刑者の話題も出して「フー(重信受刑者のこと)は俺に惚れてたんだ」とも言っていらして、重信受刑者は美人闘士でも有名だったので、「本当ですかぁ?」と笑ったこともあります。

 

なお重信房子受刑者のお嬢様で、ジャーナリストの重信メイさん(この人はテロリストではないですよ)が、世界連邦の中東和平プロジェクト(イスラエルとパレスチナの戦争遺児を日本で交流してもらい次の世代には戦争をなくそうという恒例の事業)を、最初にやったときに、奔走していただいたというご縁もあります。塩見議長って、今でも元気なのかなぁ。

 

鳩山由紀夫総理(実は、民主党政権時、総理退任後の一時期、世界連邦日本国会委員会の会長をされたことがありましたが、すぐ政界を引退されたので、今ではほぼなかったことになってますが、、、)のご自宅で、一水会という右翼の木村代表という方とお会いしたのですが、なんと一水会と塩見議長とは交流あるそうです。右翼と左翼ってやはり根は同じなんだなぁと思いました。私は「通州事件(中国の暴徒に日本の民間人が大量殺害された事件)に関するフォーラム」に参加したことがあって、そこには、日学同や盾の会の出身者、さらにはサンケイ新聞や、警察、神道界の方までいらして、バリバリ保守(ぶっちゃけ右翼)の会でしたが、いろいろお話したことがあります。そこの会の方たちによれば、右翼も左翼も、民衆のためのものであって、三島由紀夫先生も「天皇陛下のご存在があるかないかだけの差だけだ」と仰ってたようです。

もちろん三島先生なので、「時間で捉えるのが保守で、空間を大切にするのが左翼」などと哲学的なことを書かれた記事を読んだことがありましたが、原理は同じなんですね。私の解釈では、一君万民か、ただの万民か、だけなんですね。

重信受刑者のお父様も左翼どころか、東大時代に血盟団にいた右翼の大物四元義隆と盟友で、(血盟団事件に関与し、首相の相談役や宮中にも関わった陽明学者の)安岡正篤先生の金鶏学院の門下生であったそうですしね。

 

ただこういう熱い季節はすぎて、70年代、80年代は、完全にノンポリの、硬派か、ナンパ学生、言い換えれば喧嘩上等のバンカラ学生か、ハイカラ学生が主流になりました。少年は暴走族、おぼっちゃまはディスコでパーティーといった感じですね。このまま、タケノコ族や一世風靡などの路上文化も盛んになったりもしました。アイドル歌手も出てきて芸能界と関わりのあるヤクザが暴走族を使って「親衛隊」などを組織します。70年代から80年代半ばまでのアイドル歌手のターゲットは、今の様にヲタ文化ではなく不良少年少女のための文化だったんですよね。

 

このころは私も小学生、中学生となってきており、本当に今では考えられないほど「おませ」だったので、こういうのに参加しはじめます。小学一年でビートルズを知り、金主のおじいいちゃんのお陰で、洋楽のレコード、CD、LDなんかを買いまくり聞きまくりました。今はすっかり忘れましたがあの頃はちょっとしたDJくらいの知識は持ってました。本も読みまくりました。それで若者文化に関心を持ちました。

ただこのころは今より全体的におませで「22歳(になれば少しづつ臆病者になっていくわ♪)」という谷村新司さんの歌がヒットしたり、「20歳をすぎたら、もうおバン(おばさん)」という言葉もあったほどです。今の20歳や22歳なんて、全然若者じゃないですかね?。

しかも私が中学生の頃は、「売春」をするのは中学生であり、90年代ごろからは女子高生が「ウリ」とか言い出し、さらに21世紀になれば援助交際なんて言葉が出てきたり、「枕営業」なんていう業界用語が一般化したり、今では「パパ活」とか「ギャラ飲み」とかいうようになってきましたが、言葉は変われど、要するに売春するかお妾さんになるかだけの違いなので、いつの時代も同じですが。

ただ私の感覚では大きな違いは年齢です。高齢化しているのです。

少年も、暴走族をするのはメインは中学生で、せいぜい高校まで。高校で不良になれば「高校デビュー」と蔑視の対象でした。17、18歳にもなれば不良は引退するか本職になるもんです。

私が高校へ入学したばかりの頃、中卒でヤクザで修業の身に入った近所の奴が、髪を短く刈って、ヒゲはやして、サングラスをかけて、くわえタバコで、声をかけてきました。「谷本っちゃん、ええのう学生は!社会人は辛いで!」と言いだしたので、私は「あほか!俺は学生ちゃうわ、まだ生徒や!しかも、お前、社会人って・・・社会からはみ出しとるやんけ!」と笑った覚えがあります。まだ十五歳の頃です。今の十五歳なんてほんの子供ですからね。

成人式で暴れている不良を見ると「若いなぁ」と思ってしまいます。尾崎豊の歌で「盗んだバイクで走り出す、、、15の夜♪」という歌もありましたが、そんな暴ヤンをするのは中学生のやることでした。

一概には言えないですが、高学歴・晩婚化しているせいか、今の中学生・高校生なんていうのは、ホンの子供で、パパ活とかいうのも、早くて大学生、普通は社会人がやっていることだそうです。

なんか成人年齢が20歳から18歳にさげられてますが、上げた方がいいんじゃないかというくらいです。なんか若者が幼いです。ただ、これも以前にも言ったように、今も、昔も、「おくて」もいれば、「おませ」もいる、だから一概に年齢で法規制するのはどうかとは思っていますが。

かくいう私は、12歳で音楽をはじめて、すぐ上達したので、音楽関係のアルバイトもしだしましたし、高校になったらライブイベントやディスコでパーティーのオーガナイズをしました。

私の頃は、ノバ21グループというのが全盛でした(マハラジャやキングアンドクィーンなどが有名です。立教OBだったグループ代表にも可愛がってもらいロールスロイスに乗せてもらいました。グループは直営ではなく、各地に「〇〇レジャー開発」などという個別の会社を若手社長に作らせて、フランチャイズ料や家賃を取るという商法で広げられました)。

このディスコではもともと銀座のクラブのウェイターのことだった「黒服」というものを流行らせました。入店まもないウェイターはミリタリールックの様な服装をさせられるのですが、少し出世すると黒いタキシードを着れて黒服と呼ばれます。当時、ホストクラブは、今みたいに若者のものではなく、水商売の中高年女性向けでしたから、この黒服がホストみたいな役割でした。昔のホストはダブルのスーツを着ておでこを出さねばなりませんでした。私は酒は飲まなかったのですが(未成年でしたしね)、お水の女性の知り合いが沢山いたので、指名が取れたので頼まれて体験したことはあります。昔はラストソングと言って売上が一番高い人が最後バラードを歌うなどという昭和の香りただようホストクラブがありました。一気飲みコールは大学生のサークルのコンパ(そもそもコンパ、合コンなどと言うにも学生のものでした)ではやってましたがホストクラブでは静かに飲むところでした。今や、全く変わって、キャバクラや、アダルトのV製作、風俗店などを手広く経営している後輩は、ホストクラブも作って、バンバン盛り上げて、給料を再回収したうえに、こういうところにくる子の中には、育ちの中で辛い思いをして、精神を病んでる子も多いらしく、経営者に変わってホストが悩みを聞くので、一石二鳥とか言ってました。

もちろん私は、夜の世界とは違う世界で生きてきましたが、パーティー屋なんかを経験していると、後輩などはそっち(夜の世界)へ行った奴もいます。

基本的には私は後輩たちには、サラリーマンになるのを勧めています。今の日本ではそれが有利だからです。でも、たまに起業家になって、今暗号資産で稼いでいる者もいますし、政治家になった者もいます。でもこうして夜に行くやつもいるのです。私は誰が何が向いているというのを見分けるのは得意なので、スタッフたちの人生は結構私の言った通りになっています。

当然みんなの自由ですが、ヤクザだけは反対しました。

同級生がヤクザになったときは、全力で止めました。

ヤクザは戦後まもない頃は別として、平成以降にもなれば、どうにしてもその道しか生きれない者がやるもので、他でも生きれるならば、絶対なるなと言ってます。おいしい思いが出来るからなる、という者には絶対に反対してます。まぁ同級生も、親分の言っていることは、私の言っているとおりの「ハッタリ」だったと、すぐ気づいて、足をあらい、大学、大学院に進んで、立派な社会人をやっています。

 

当時のワンレンボディコンや当時は流行りの仕事だったレースクィーンのような美人女性は店の入り口に座らせ目立たせ、そうでない女性は奥でボトルを入れさせたりされてました。さらに当時のディスコは食事もできました。ちなみにノバさんは、大衆向けのディスコがオオバコ化するか、小屋はクラブとなを変えて、それも日本では下火になったので、しゃぶしゃぶ屋さんになります。

 

今だからいえますが、イベントでも店側には私の年齢を隠すように言われていましたし、警察も、酒場なんだからガキがあんまり派手にやるなよと言われていました。

すぐに自分でパーティー券(パー券)をさばくより、当時のボンの不良グループに頼むか(関西ではMさんやKさんFさんなど有名なボンもいましたし、Gというベンツとかで走るボンボン暴走族も有名でした)、有名私立や医学部系の学生サークルにさばかせた方が良いとなり、さらには先輩学生を使って企業協賛をつけるほうが良いという風になって、ここからは学生起業家への道をたどります。
 

ただ結局は時代は変われど、音楽、リゾート、スポーツ、パーティー、金もうけ、喧嘩、車、ファッション、学生政治運動など、ベースは戦前から戦後、今も同じです。

 

今は、音楽もニューミュージック的なものが令和の音楽として時代が回転するかボカロを使ったりするかの違いで、単にスマホやSNSが発展してツールが変わっただけでおんなじことです。

政治運動も、グレタさんらのZ世代やα世代の環境運動に変わっただけでおんなじことです。香港とかミャンマーでは、いまだに民主化運動で血は流れていますしね。

 

だから私も、あえて同じ道を進み、学生時代から、音楽、リゾート、スポーツ、パーティー屋からイノベーションの起業家になり、世界連邦運動に身を投じました。車やファッションも大好きです。

まぁ喧嘩だけは、実際は好きでしたが、前に書いたように子供の間は良いのですが、大人になってからは道具を使って命のやり取りになったりお金がからんだりするので非暴力主義者になりました。

 

石原慎太郎先生に話を戻しますが、これらの時代を作家から政治家として長く活躍されました。

裕次郎さんは太く短い人生でしたが、慎太郎先生は太く長く生きられました。

慎太郎先生は運輸大臣の時、暴走族にさえ肯定的でした。若いエネルギーが戦争や闘争に向かないから、危険行為にはしるのは当たり前だといわれてました。

 

ただ東京都知事になって、歌舞伎町浄化などを行った時は、後輩のスカウト軍団(今は迷惑防止条例で出来ませんが昔は合法でした)・ホスト・嬢らは、「都知事は自分は若い頃さんざん遊んで、偉く成ったら、しめつけかぁ、、、」と言っていたのが、おもしろかったです(実際はさんざん遊び回ったのは弟の裕次郎さんであって慎太郎さんは真面目だったそうですが、、、)。

 

都知事としては、ディーゼル排ガス規制、通称石原銀行(これはベンチャー育成という意味では国家的な意義があったのですが、実際には銀行員がベンチャーの見極め能力がなくダメになっちゃいましたが、、、日本の終身雇用制度のもとでは、銀行員は銀行員なので、これは仕方ないです)、そして東京マラソンなども国民の健康とともに防災対策などに使えると、政策はとても面白かったです(私は走りませんでしたが、三枝成彰団長の六本木男性合唱団のファーストテノールをしておりましたので、君が代の斉唱、応援歌の合唱をしています)。

 

石原プロの解散、伸晃さんの落選など、石原軍団時代は終わったのかもしれませんが、私は彼らのような若者文化を研究し、生き方を参考にして、今に至っています。

 

最期に石原先生は尖閣の領有権に大変強い思いがありました。

 

世界連邦としては世界法での世界統治を目指していますが、それが無理な今は、まず領有権があきらかなのであれば、沖縄県石垣市の字登野城尖閣とするならば北京五輪前に「公然と国標を建てる等」の70年代から言われていることをやらないといけないです。さすがに五輪のときは攻撃してこないでしょう。戦争は絶対いけない。尖閣を完全に日本の主権を形として主張するなら、五輪がある今しかないです。

石原先生も、あの世への旅立ちに、安心されるでしょう。

 

石原先生のご冥福をお祈りします。

 

 

バブルの香りがまだ漂っていた「時代を感じる古い写真」を、、、

 

集合写真なのに、やたら斜に構える谷本少年15歳

 

パーティー屋時代(まだ学生時代、横にいるのは今や地方議会で議長にまで出世した仲間です)

 

太陽族?10代の頃谷本

 

やはりパーティー屋時代(まだ学生時代、となりにいる彼も今や大手広告会社幹部兼大プロデューサー。みんな偉くなるなぁ)

 

世界連邦

谷本真邦