某テレビ番組。

若い選手の躍進に引っ掛けてニースロミオを持ち出したことで羽生くんのファンが騒いでいるようである。


で、「ファンの聖域」という言葉を見かけて、ちょっとびっくりする。

そういう風にファン同士の間でのみ大事にするやり方って、いいことなのかなあと。




ニースの「ロミオとジュリエット」は、私自身もちょっと思い入れがある。あの頃の私自身の個人的な状況と結びついて印象に残った演技だからだ。

当時私は乳がんの化学療法をやっていて、副作用に苦闘していた。しかも六歳違いの子どもは双方卒業(卒園)、入学、おまけに上の子の学校のPTAの委員もやってたわ、下の子は二回もインフルエンザをやるわ。

ふらふらの日々だった。人生に何度かやってくる、冬のように心も体も凍える季節、そんな感じだった。

乳がんの手術のときは、前日は入院で一人でテレビ独占できるもんで、たまたまやってたフィギュアを思い切り見た。レイチェル・フラット選手とかレオノワ選手とか出ていたような。しかし手術後にその余裕はなく…結局その後はまともにフィギュアを見てないのである。下の子のお弁当作りのため朝は早いし、体はだるい。早く寝るようになりテレビもあまり見なくなっていた。


なのになぜ世界選手権を見たか。確かあのときは眠れなかったのだ。抗がん剤で体のリズムが崩れることもあって、たまにそういうことが起きる。

だるいなあと思いつつ付けたテレビで、羽生くんが滑っていた。

運命の嵐の中で苦闘し、転び、叫ぶロミオ。

体の中の戦いに翻弄されている自分と、どこか通じるものがあるような気がした。そしてそこで戦いぬく羽生くんは、希望に見えた。

暗い冬のような季節に輝く光。


なぜか落ち着いて、その後一人か二人くらい演技観たのかな?そのうち眠気を感じて、布団の中に戻った。

だから私はその後を知らない。髙橋大輔選手のブルースも。というか当時は大輔さんのファンじゃなかったし。




そんな風に、辛いけれどくぐり抜けることができた、そんな時期の一つの印象的なエピソードとして、羽生くんのニースロミオは私の心の中にある。




フィギュアに強い思い入れがなくても、そんな感じでテレビでやってれば観て、演技を楽しむ。

印象に残った演技は自分の当時の状況と結びついて一つの記憶になる。人生の1ページとなる。

競技の価値の一つは、そんな風に人の記憶を彩ることにあるんじゃないかと思うんだよね。




広島球団の津田恒美投手。

彼が高校生の頃、私の近隣の市に住んでいたせいもあり、私にとっては少し特別な存在だった。

田舎の素朴なおにーちゃんという容貌には惹かれなかったもんでファンではなかったが、ずっと気になる存在だった。

炎の守護神と呼ばれていた頃にテレビで見かけたらつい応援する気になった。その後病気で退団し、そして若くして彼が亡くなられたときにはショックを受けた。

そんな風にファン対象ではないけれど、どこか心にかけている、そんな存在はある。

というか、金メダルパレードで集まった人たちというのは、熱狂的なファンだけでなく、それなりの好意の持ち主くらいの人たちもいたよね?

そういう人たちの中にも心に残る演技のひとつやふたつあると思うし。



良い選手の良いパフォーマンスは、ファンだけのものではない。もう少し広い人々と繋がってる、社会の共有財産だと思うのである。