昨季。

村元哉中・髙橋大輔組のフリープログラムが「ラ・バヤデール」、クラシックバレエを下敷きにしたものだと知ったとき、私は素直に「おお、王道じゃーん」と喜んだ。

シングルでは王道的なクラシックをあまり滑らなかった髙橋大輔が、アイスダンスでは王道の曲をやるのか、面白い、と。

ところがその後「アイスダンスではバレエ音楽のプログラムはそれほど多くない」という話を聞いた。


そして、吉田唄菜・西山真瑚組の「ドン・キホーテ」を思い出す。なんで、そう多くないバレエプログラムが、日本人カップル二組に対して作られたんだ?

ちょっと疑問に思った。


そして思い出す。この二組のカップルの共通点に。

どちらも男性ダンサーがシングルスケーターであることを諦めていないのである。

西山真瑚選手は、今季こそシングルの地方大会の出場を諦めたけれど、状況が許せばまだシングル選手として試合に出るつもりとのこと。

そして髙橋大輔選手は、競技選手としてはシングルからアイスダンスへ転向したけれど、アイスショーでは一人で滑っている。

自分が主演のショーのクライマックスは、彼が一人で滑るシーンである。シングルの選手はやめたが、シングルスケーターとして活動を続けているのだ。


そして気が付く。

「バレエの男性ダンサーも、一人で踊る人だよな。」

クラシックバレエの華、グラン・パ・ド・ドゥ。この中にはかならず「男性ヴァリエーション」、つまりソロがある。

男性は一人で踊り、男性的な魅力を観客に披露しなければいけないのだ。

アイスダンスでは「女性は花、男性は土台」、あるいは「女性は絵、男性は額縁」という基本思想がある(らしい)。しかしクラシックバレエでは男性は単独で絵になる必要があるのだ。

一方でむろん、女性と組んで踊るときは女性を引き立てる額縁、土台である必要もある。ただそれはダンサーに求められる一つの大きな要素ではあるが、それだけが基本というわけではないのだ。




逆に、アイスダンスほどの男女の間の同調性は、クラシックバレエの男女のダンサーには求められていないような気がする。

有名バレリーナの相手、パートナーは決まっている場合もあればそうじゃない場合もあるし。

そもそも、例えば「ラ・バヤデール」では戦士ソロルはニキヤだけと踊るわけじゃない。王女ガムザッティとも踊るのだ。

何年も同じ相手とのみ滑るアイスダンスの男女と、複数の不特定の相手と踊るバレエの男女の同調性が同レベルのはずはない。アイスダンスほどの同調性がなくても美しく見える、バレエの踊りはそういう作りで振り付けられているはずである。


つまりバレエプログラムは、個々の選手がバレエダンサーのように表現する技量が高ければ、幾分同調性が弱いジュニアの選手や駆け出しのアイスダンス選手でも見栄えのするプログラムを作ることができる?

なんてことを思ってしまったのである。




そして。

バレエの物語「白鳥の湖」の主役の男性は王子だし、「ジゼル」は貴族だ。

王子や貴族という存在感がある人間、本来は女性が仰ぎ見るような男性が女性への想いゆえに距離を縮めひざまずく。そこに観る側はロマンを感じるのである。

しかし男性アイスダンサーは最初から「額縁たらん」とする存在である。女性との間に距離も何もない(というか、同調するか組むかしか出来ないんだもんね、ダンスのルール上)。

バレエらしいプログラムということで男性が存在感や距離感を出すとなると、シングルスケーターとしての力量がある方が有利なのかもしれない?


と、アイスダンスもバレエもよく知らないトーシローが、勝手なことを考えていたのである。


実際はどーなんだろーね。