三陸ワカメのブログ

東日本大震災から11年過ぎました。お世話になった大勢の皆様へ感謝いたします。

新しい祈念碑

2020年03月11日 | 積日
2020年2月に、我が家の目の前に祈念の碑が造られました。
流される前の村の写真もあります。

手彫りの仏様

2019年06月29日 | 積日
先週、手彫りの仏さまがいらっしゃいました。
NPO法人「仏像彫刻美術院」が各遺族に一体ずつ寄贈して頂いたものです。
吉里吉里の吉祥寺で開眼法要をしたそうです。
ちっちゃな仏様ですが有り難いです。

三陸の夜明けじゃ

2018年12月24日 | 日記
二階から望む三陸海岸の夜明けです。
(7月のだけどm(__)m)

実家再建!

2018年12月24日 | 日記
もう半年経ってしまいましたが、実家を再建しました!(^^)!
場所は緯度経度的には同じなんですが、標高は3m位から13.5mになりました。
住所も再割り振りされて2-10から2-24に替わりました。
隣はあの「鎮守の森プロジェクト」の写真で有名になった「天照大神御祖神社(あまてらすみおやじんじゃ)」です。

気仙沼から釜石へ輪行

2015年09月23日 | 積日
2015年9月20日から21日にかけ宮城県の気仙沼から岩手県の釜石、大槌町吉里吉里まで輪行してきました。

1日目
国分寺駅をAM5:05の中央線で出発。東京から6:04のやまびこ41号に乗り換え8:45ごろ一ノ関駅に到着。

一ノ関からは大船渡線で気仙沼へ。大船渡線ですが気仙沼から先は線路が復活しておらずBRT(バス高速システム)が代替しております。

大船渡線は途中で北上川を越えます。8月の北上川輪行の時は大船渡線の下をくぐったはずですが、気にしてませんでした。先週は岩手も雨が多かったからでしょうか、荒々しく流れておりました。

10時34分 気仙沼駅到着。早速、自転車を組立て陸前高田に向けて出発。

12時35分 陸前高田・奇跡の一本松に到着。大勢の観光客がつめかけておりました。

一本松を背にして西の方を向くと長大な橋が見えます。実はこれは「希望のかけ橋」という土砂を運ぶためのベルトコンベアーです。全長3Kmあるそうですが、まさに9月15日で役目を終え来年9月までには撤去されるそうです。125mあった山を45mまでけずりその土砂を運び続けました。

14時00分 さらに北上し大船渡に入りました。写真は碁石海岸と思います。さすがに国立公園です、目をみはる景色が続きます。

がしかし、大船渡市街を超えたところで心が折れました。まだ40Kmしか走っていないのに釜石まではさらに40Kmあります。しかも峠を3っつぐらい越える工程です。さらに昨日からセキがでて風邪薬を飲んでおりまして・・・。ハイハイ言い訳です。根性がないだけです。
無人の陸前赤崎駅から南三陸リアス線に乗って釜石までショートカットしました。


17時49分釜石駅到着、1日目終了。釜石での宿はJR東日本のフォルクローロ釜石です。連休中なので宿賃高い。

2日目

今日は大槌町吉里吉里まで往復です。吉里吉里トンネルを抜ければ吉里吉里村です。

盛土がだいぶ高くなってきました。写真中央で盛り上がったところが私の地面のようです。

海側から見上げるとこんな感じです。

吉里吉里海岸はとてもきれいです。

さて吉里吉里のおじさんの軽トラックに送られて鵜住居の釜石地方森林組合によってから、三陸道に上がってみました。ここには「恋の峠」があります。昨日乗ったリアス線には有名な「恋し浜」という駅があって列車が止まると車中のおばさん、お姉さんが一斉に写真を撮っておりましたが、あの駅はもとは「小石浜」なんです。

この後釜石に戻り用事を済ました後、14:18発のはまゆり6号で東京に帰りました。

北上川輪行

2015年08月18日 | 積日
2015年8月16日(日)

5月の連休に福島県のいわき市から仙台まで走ったので(途中の避難指示地域はバスでしたが)、今回は同じ宮城県の石巻から盛岡まで北上川を遡上する計画で走り始めました。
朝、4時半に国分寺駅発で6時30分の新幹線にのり石巻には9時30分着の予定です。

仙石線は仙台から石巻までの単線です。なんと最新鋭のハイブリッド車両です。つまり電化されていないってことですね。

石巻からすぐに北上川(旧)に出ることができました。北上川の本流は柳津というところで東進し、南進して石巻に注いでいるのは旧流のようです。本当は海まで行って震災の被害や復興の様子も見たかったのですが、川沿いは通行止めもあり行けなかったのであきらめました。

ひたすら北上すると国道45号線と出会います。国道45号線は仙台を始点とし青森市を終点とする一般国道ですが、沿線のほとんどが陸前、陸中、陸奥の海岸であり東日本大震災でいたるところが寸断されたことは周知のとおりです。大槌町吉里吉里の我が家の近くも通っており、このまま走ってゆけば実家に(跡地に)帰れますが、それはまたの機会にしましょう。

宮城県登米市に掛かる大橋からの北上川です。さすがに日本のBEST5の大河、東北の母なる川です。この川幅、流量、圧巻です。

一関で岩手に入りました。

午後17:00平泉に到着。途中道を間違えて川から離れてしまい一関市内まで峠越えの道に入ってしまった。90キロ近く走っての最後が山越えだったので死ぬかと思った。朝なら何ということもない坂道に足が動かない。何度も休んでやっと平泉に到着。

8月16日はお盆の終わりの日です。平泉で泊まった宿が毛越寺(世界遺産!!)の裏だったので、毛越寺の灯篭流しを拝観することができました。この時期日本中で行われる花火大会は大体が霊の「迎え火」であり、大文字焼きや灯篭流しは「送り火」ではないかと思います。毛越寺の灯篭流しはで読経に合わせて大変厳粛に行われましたが、光量が足らずうまく写真にとれなかったので、隣の広場でも並べられていた灯篭の写真をアップします。

8月17日(月)
本日は平泉から盛岡まで走って新幹線で帰京するつもりでしたが、雨雲が北上しておりそれに追いつかれず走り切れる自信がなかったので北上駅でショートカットして帰ることにしました。本当は、昨日の峠越えの疲労が抜けきれないことと、途中で歩いてしまった自信喪失で戦闘意欲がわかないことが大きいかもしれない。それに国道4号線を大型トラックと競争してストイックに走るのも楽しくないし。一つだけ楽しかったのは、大荷物を積んで自転車旅行しているお兄ちゃんがいて、妙にポイントポイントで一緒になるのでそのたびに手を振ったりして、頑張ってるなの挨拶をした。あのスピードでは早晩雨につかまっただろうに、ガンバレ!!!写真は北上駅のそばを流れる北上川です。

福島 輪行 (3日目)

2015年05月16日 | 旅行
5月5日 相馬駅→60km→仙台駅
     仙台駅→新幹線→東京

今日は相馬駅から仙台駅まで60kmを走って、新幹線で東京へ帰ります。

10時25分 「鳥の海」到着。
鳥の海は亘理町の太平洋岸に位置する汽水湖で、中央に島があり魚介類も豊富であることから、名前のとおり多くの渡り鳥が訪れるところであり、東北の景勝地として有名です。散歩していたおじさんの話では白砂青松のそれは美しい場所だったそうです。
今は、津波によって押し寄せられ積もった砂ばかりです。でも小さな子供を二人連れた家族が潮干狩りをしていました。
いつか蘇ります。

11時05分 阿武隈川河口に到着。地図でしか見たことがなかったのですが、さすが阿武隈山地を代表する一級河川、大河です。


12時25分 広瀬川到着。国道4号線にかかる愛宕大橋から。


13時00分 ついに仙台駅にトウチャコ。「たんや善治郎」で牛タン定食をいただきました。アングルが良くないのですが、お肉のボリュームはかなりあります。お肉もテールスープもそしてビールも、ううううう、うまい!!

福島 輪行 (2日目)

2015年05月09日 | 旅行
5月4日 いわき・平ビューホテル→32.5km→竜田駅 
     竜田駅→JR代行バス→原ノ町→21km→相馬駅
     「相馬ステーションホテル」泊

今日はまず、常磐線の「竜田駅」まで32kmほど走りました。「竜田駅」→「原ノ町」間はまだ常磐線は復旧しておらず、またいわゆる「帰還困難区域」でやっと国道6号線(常磐道)は開通しましたが、二輪車、自転車、徒歩は禁止なので代行バスで行きます。
竜田駅発の代行バスは9:35発なので、余裕をもって6:00出発にしました。途中のコンビニでオニギリを食べたりしながらも、8時30分に到着。

楢葉町の竜田駅は「避難指示解除準備区域」にあり、まだ居住はできない地域のようです。私のような旅人と客待ちのタクシー以外に人の気配がありません。
駅前にあった放射線量測定器は0.227μSv/hを示していました。
代行バスは、竜田→富岡→夜ノ森→大野→双葉→浪江→桃内→小高→磐城太田→原ノ町を1時間20分ほどで走ります。その間の被ばく線量は1.2μSvと説明されていました(内閣府)。代行バスの運行開始についての模様がYOUTubeにありましたので、ご興味ありましたら下記URLからご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=UjSy3R9Dbdo


9時35分代行バス竜田駅出発。
国道6号線は「帰還困難区域」を通るのでいたる所が進入禁止になっています。また多くのパトカーが警戒のため(?)走っていました。
ご苦労様です。

10時35分原ノ町駅到着。今日は休日のため道がすいているため早めに到着とのこと。

今日は「相馬駅」付近に宿泊予定で、原ノ町→相馬は20kmぐらいなので海沿いに竜田方面に戻ってみましたが向かい風が強いことと、火力発電所の復旧工事で通行止めの道に入ってしまったので、断念。海沿いなら浪江町まで戻って原発も見れそうでしたが・・・。

原ノ町の浜辺。かつては綺麗な海水浴場だっでしょう。堤防工事中です。

遠くに見えるのは火力発電所。いわきから原ノ町の間には原発が2か所、火力発電所が2か所あります。東京や仙台にに電力を供給するためでしょう。電機は大事に使いましょう。
木がたくさん倒れています。津波になぎ倒されたのでしょう。

沿岸の道は立派になりましたが、海水に洗われた広大な地面は荒れ野のままです。何キロ走ってもこの風景です。ヒバリだけがたくさん鳴いています。

矢沢地区という所で偶然見つけた慰霊碑です。震災で亡くなられた65人の名前が刻まれています。この近辺には民家が見当たらないので、全てが流されたのだと思います。

14時40分、相馬駅到着。

福島 輪行(1日目)

2015年05月09日 | 旅行
2015年5月3日から5日まで福島に輪行してきました。

5月3日 東京→特急ひたち9号→いわき駅13:15到着
     いわき←→ 塩屋埼灯台往復 30km
     いわき駅前「平ビューホテル」泊

5月4日 平ビューホテル→32.5km→竜田駅 
     竜田駅→JR代行バス→原ノ町→21km→相馬駅
     「相馬ステーションホテル」泊

5月5日 相馬駅→60km→仙台駅
     仙台駅→新幹線→東京 

5月3日 東京駅発いわき行の「ひたち9号」で、いわき駅13:15到着

本日はいわき駅前の「平ビューホテル」に泊まるだけなので、早速、愛車を組立て、塩屋埼灯台まで往復。快晴、いわきからだと塩屋埼灯台は若干南下するので向かい風。でも片道15kmぐらいなのでノンビリ行ってきました。

塩屋埼は美空ひばりの「みだれ髪」や映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台としても有名です。2011年3月11日の震災で消灯しましたが、9か月後に再点灯したそうです。また一般に開放されたのは2014年になってからとのことです。
途中の海沿いの道は工事中が多く(東北の海沿いはどこも工事中ですが)路面を砂が覆っていたりするので、転ばないように注意が必要です。

「平ビューホテル」は駅近です。フロントのお姉さんがとても感じよい方です。最初、駐輪場を聞いたところホテルの裏側を指定されましたので片付けていたら、お姉さんが走って追いかけてきて、部屋に持ってあがってよいと言ってくれた。実は輪行で泊まりの場合、一番心配なのは自転車の盗難です。鍵は気安めですから。

大漁旗 in America

2015年03月05日 | 日記


2015年2月25日~28日(現地時間)、アメリカのユタ州ソルトレイク・シティで全米指揮者協会全国大会が開催されました。この隔年の集会には、およそ2万人の合唱指揮者や合唱団員が集結し、3日間にわたって、合唱芸術を讃え、発展させるためのセッション、演奏会、スペシャル・イベントが行われるそうです。
オーディション申し込みが数百件あったなかから、40団体の合唱団が招待され、ケニア、韓国、スウェーデンなどの一流合唱団も載っています。イギリスからはなんと、キングス・シンガーズが出演したそうです。日本からは松下耕先生率いる「The Metropolitan Chorus of Tokyo」が招待されました。
 そしてなんと我が家の、震災での流出を免れた大漁旗を演出で掲げていただきました。
最初頼まれた時はこんなに素晴らしいカンファレンスだとは知らなかったので、気楽にどうぞとお渡ししましたが、改めて聞くと大変なことでした。ビックリするとともに、感謝感謝でいっぱいです。

もうすぐ4年目

2015年02月22日 | 日記
もうすぐ、あれから4年目になります。
2月1日に久しぶりに帰ってきました。
写真中央の緑色の箱のような物がある場所に自宅がありました。
現在は盛土が迫ってきています。
左の神社の石段のあたりまで嵩上げされそうです。

あのころのように雪が舞って、寒い一日でした。

深夜バス

2014年10月25日 | 捜索
 母を探して何度も帰郷した際、大勢の方に親切にしていただき、これまでもその話をブログで紹介させていただきましたが、もう一人大変お世話になった方を思い出しましたので書かせていただきます。私の恥さらしな話でもあるのですが・・・。

 震災後に走り始めた深夜バスは、大槌のマスト跡地近くにあるローソン(私の友人が経営している)前から、釜石経由池袋行きであった。今は「山田の道の駅」と池袋をつないでいる。

 ある日、遺体安置所を廻った後、バスの出発までかなり時間があったので一人で釜石駅近くの居酒屋で飲み、さらにその後駅の待合室でまた酒を買って飲んでいた。待合室には外人の新聞記者らしき人が居て、ちゃんと英語も話せないのに話かけたら、英語は解らないとフランス語らしき言葉で答えてくれた(酔っ払いに話しかけられて、ワカラン!と言っただけかもしれない)。その頃、某DTS合唱団で「アヴェヴェルム・コルプス」を練習していたので、フランス語の発音を教えてもらおうと、カバンの中に入っているはずの楽譜を探しているうちに、私の記憶がフェード・アウトしてしまった。

 ふと目が覚めたら、既に東京・池袋行きのバスは出発した後であった。長距離バスだし、釜石駅はこのあたりではメインターミナルなんだから、乗客に声ぐらいかけるだろうと勝手に思っていた。でもサラッと来てサラッと出発してしまったらしい。ジェジェジェと驚きつつ、自分勝手な酔っぱらいの我儘とダメ元でバス会社に電話してみたところ、なんと迎えに行くと言ってくれた。
 すぐに釜石駅に普通の乗用車が乗り付け「乗れ」と言う。運転手の方はいかにもプロという感じで、深夜とはいえ恐るべきスピードでバスを追いかけ始め、花巻の「道の駅」でバスに追いついた。釜石と花巻の間は50㎞ぐらいある。そしてサラッと私をバスに引き渡して帰って行った。別料金は無しである。
 こんな勝手な酔っぱらいをここまで面倒を見てくれていいのだろうか?大変大変、感謝はしているのですが。
 朝になって池袋駅に到着したときもまだ酔っぱらっていた。

仮換地(かりかんち)

2014年10月07日 | 積日
 2014年10月2日、「大槌町吉里吉里地区震災復興区画整理事業・仮換地(案)個別説明会」が東京地区では神田の旧今川中学校で開催されました。
長いタイトルですが、要は被災地を盛土などし再開発して、再度元の所有者に割り振る新しい区画を説明するものです。その新しく割り当てられる土地を「仮換地」と言うのだそうです。我が家があった場所は、盛土して再度住宅地になるのですが、居住禁止地区になった土地の所有者はどうするのでしょう?
おそらく町や県が買い上げて新しい住宅地を買う、または交換することになるのでしょうか。

 本日、私に提示された仮換地は元の場所でした。元々角地だったのでほとんど移動もありませんでした。以前はびっしり住宅が連なっていましたが、今度は1ブロック5~6軒単位ぐらいに区切られた感じになるようです。しかも私の土地の北西と北東は公園になります。さらに同ブロックの南東も緑地です。三方を公園に囲まれた感じになるのでしょうか。海は北東に見通すことができそうです。

しかし海までの間に高さ13.2mまでかさ上げした国道45号線と、同じぐらいの高さに再度築く堤防があります。つまり堤防と国道の2重の防壁で津波に備えようというものです。私の土地も13.6mまで嵩上げされるとのことです。私が仕事で通っている東京・新橋の標高は海抜2~3mなのでその高さはかなりの感じがするでしょう。海に行くにはトンネルと階段になるのでしょうか。お年寄りには厳しいかもしれません。

 仮換地の面積は元より狭くなると言われておりましたが、結果ほぼ同じ面積でした。ただし、元は長方形でしたが、今度は正方形に近い形になるようです。また、今後の造成工事後に若干は提示の面積が変わる可能性があり、その場合は金銭で調整だそうです。(広くなったら私がお金を払い、狭くなったらもらう)。場所は同じですが住所表示は変わるようです。今は大槌町吉里吉里2丁目6番10号ですが。
 
 さて、実際には下水道などのインフラ整備を行い、予定では家を建てることができるようになるには後1年後だそうです。ご存知のように東北の復興工事は資材と人手の不足で、遅れに遅れております。一年後はどうなっているでしょう。

 そして私はどうしているでしょう。もう大勢の家族と住むことはあり得ないし、小さな小屋でも建てましょうか。晴耕雨読、飼犬釣魚、朝歌夕飲、献郷守墓もいいかもしれない。時々は誰か訪ねてくれるでしょう。

再会

2014年08月10日 | 惜日
 2011年の暮れ近くになって岩手県警から連絡があった。「貴方との親子関係を否定できないDNAを持つ女性の情報がある。」とのことであった。但し、確認は年明けにしてもらいたいとの連絡であったので相談をして2012年の1月10日に釜石警察署を盛岡の叔母さんと訪ねた。釜石警察署も流されたので、仮設であった。
 母の登録番号は「東門46号」であった。最初に安置されたのが釜石製鐵所東門の遺体安置所であったからのようである。検案書によると、発見されたのは3月24日、場所は吉里吉里から船越湾を挟んだ対岸のあたりの海上で、家からは5~6Km離れているだろうか。
 母が身に着けていたのは紺地に白の水玉模様のスカーフ1枚であったそうである。遺体安置所の写真集にあったあのスカーフである。気になったはずだ。母の物だった。自宅で被災した場合、大抵の人は楽な格好をしており、それが洗濯機でかき回されるような津波に巻き込まれると、衣服を剥ぎ取られる。スカーフは結んであったので唯一体に残っていた。写真もあった。見せてもらい確認したが、ただしその写真は貰えないということであった。やむを得ない対応と思う。目に焼き付いてしまったが、また同じ写真は見たくない。
 母はすでに火葬されており、遺骨は釜石の日蓮宗千寿院に預かってもらっていた。役場の方に案内してもらい受け取った。この頃には身元が判る頻度がだいぶ落ちてきており、今年になって遺骨を受け取りに来たのは、あなた方が最初ですと言われた。「東門46号」という札が付いた骨壺があった。
 千寿院には母の遺骨以外にもまだ10個ぐらいの身元不明の遺骨が安置されていた。その後引き取ってもらえたであろうか。
 10ヶ月の間、お経をあげていただき守っていただいた和尚にお礼を言って、母の遺骨を頂き、妻やT叔父さん、盛岡の叔母さん、F・剛と自宅跡地に向かった。流されてから10ヶ月経っていたが、母はやっと家に帰ることができた。その後、吉祥寺(きっしょうじ)の和尚は不在だったので家族だけでお墓を開け、家族だけで納骨した。
 家を何十年も守り続け、家と一緒に流されながら、あの時母は誰の名前を呼んだろうかと思う。

入浴

2014年08月06日 | 惜日
 3月11日から何日か経ち、母はどこにいるにかと考えた時から、入浴時に湯船に浸かることができなくなった。吉里吉里村の地形から、ここまで見つからないのであれば海に流されたのだと思った。
 海の中にいるであろう母を想った時、湯船の中に浮かんでいる自分の体を観ることに耐えられなくなった。後に母が見つかるまでの10ヶ月ほど、湯船に入らず体を洗うだけにした。