ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

早春の薬師寺へ (その1)

2024年04月17日 | 国内旅行…心に残る杜と社

 (薬師寺の金堂と二つの塔)

<早春の西の京へ>

 東大寺二月堂のお水取り(3月1日~14日)の頃、薬師寺では平山郁夫画伯が描いた「大唐西域壁画」の特別公開がある。今年こそはと思って出かけた。

 ウィークデイの良いお天気で、大和路の春も間近と感じさせる日和だった。 

 近鉄の大和西大寺駅で乗り換える。近くに、南都七大寺の一つ、律宗の西大寺がある。少し歩けば、復元された平城宮の大極殿もある。

 乗り換えて近鉄橿原線で南下し、西ノ京駅で降りると、薬師寺は駅のすぐ前の広い一画だ。

 駅名のように、このあたりは「西の京」だった。

 「天子は南面する」という。昔、中国において、天子は北極星に喩えられ、南面して座した。臣下は北面して拝礼する。

 今から1300年の前、唐の長安をモデルとして造られた平城京も、帝が居て政(マツリゴト)を行う平城宮は都の北端の中央にあり、宮殿の南門である朱雀門から、朱雀大路が南へ一直線に通って、平城京の正門である羅城門に到った。

       (高御座 タカミクラ)

  (復元された朱雀門)

 帝が高御座に座して南面すると、朱雀大路の左側が東(若草山の方)、右側が西(生駒山の方)になる。「西の京」である。

 法相宗薬師寺は、西の京の、一条、二条と南へ進んだ六条に建造された(藤原京から移された)。やがて、すぐ北隣に、律宗を伝えた鑑真和上の唐招提寺も造られる。

 今、薬師寺は、回廊に囲まれた二つの区画があり、北の区画は玄奘三蔵院伽藍、南の区画は白鳳伽藍。

 金堂や大講堂、国宝の東塔や西塔などが建つのは白鳳伽藍。

 白鳳 (白鳳時代或いは白鳳文化) は、乙巳(イッシ)の変(645)のあと、天智天皇から、天武天皇、持統女帝を経て、元明女帝の平城遷都(710)までの時代と文化を言う。都は飛鳥京や藤原京に置かれた。

    平城京遷都のあとは、天平時代或いは天平文化と呼ばれる。

 薬師寺は、藤原京の時代に建立され、平城遷都とともに平城京に移ってきた。基礎は白鳳の時代につくられたので、お寺の側も白鳳文化としている。

 今日の目当ては「大唐西域壁画」だから、先に玄奘三蔵院伽藍へ向かった。

      ★

<遥かなる西域への旅路>

 ウィークデイの午前のこと、観光客の少ない清浄な雰囲気の境内を行くと、やがて回廊を巡らせた玄奘三蔵伽藍が見えてくる。

   (玄奘三蔵院伽藍)

 回廊の門の正面から回廊の中をのぞくと、小ぶりだが品のある玄奘塔が見えた。

  (玄奘塔)

 回廊の門の脇にある受付から中へ入った。

 玄奘塔の後ろに、大唐西域壁画殿がある。

 (玄奘塔と大唐西域壁画殿) 

 この一画は、平成3(1991)年に整備・建立された新しい建物群だ。

 玄奘塔は、唐僧の玄奘三蔵を祀る。

 大唐西域壁画殿は、玄奘三蔵の遥かな旅路を描いた壁画を納める建物。壁画を描いたのは、現代日本画の大家である平山郁夫さんである。

 ここは、玄奘三蔵を記念して造られた一画なのだ。

 『西遊記』の話はよく知られている。孫悟空、猪八戒、沙悟浄が、三蔵法師を守って、魑魅魍魎や妖怪と戦いながら、インドへと旅する冒険譚だ。

 その玄奘三蔵は実在した唐代初めの僧侶(602~664)である。27歳のとき、隋が滅び新王朝が興ったばかりの混乱の中で鎖国状態だった唐を密出国した。そして、灼熱のタクラマカン砂漠や極寒の天山山脈を越え、ついにインドのナーランダ寺院に到って、修学した。その後、再び長い旅路を経て、多くの経典や仏像などを唐へ持ち帰った。唐を出てから17年の歳月が流れていた。

 帰国後は唐の皇帝の全面的な支援の下、全国から集められた優秀な若い弟子たちと共に、持ち帰った1335巻の経典の翻訳作業に生涯を捧げ、また、地理的な記録である「大唐西域記」を著した。今、私たちが耳にするお寺のお坊さんのお経にも、玄奘三蔵の訳があるそうだ。

 玄奘三蔵の教えは弟子の慈恩大師によって「法相宗」として大成する。

 さて、当時の日本、…… 乙巳の変のあとの653年、遣唐僧として入唐した道昭(629~700)は、まだ健在であった玄奘三蔵に師事し、帰国に当たって玄奘三蔵の翻訳した経典とともに「法相宗」の教えを持ち帰った。

 南都七大寺のうち、この法相宗の教えを伝える寺が薬師寺と興福寺である。薬師寺にとって、玄奘三蔵は開祖と言っても良い存在なのだ。

 平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」は、玄奘三蔵がインドへの旅の途中で見たであろう景色を、7場面、13枚に描いた、全長49mの大壁画である。画伯自身が玄奘三蔵が旅した地に取材し、17年の取材の旅を経て描いた大作である。

 写真撮影はできないから、絵は紹介できない。

 私は、花鳥風月を描いた日本画や美人画などはともかくとして、東山魁夷と平山郁夫の絵は、セザンヌやマチスやシャガールなどの西洋絵画以上に好きである。(好みの話で、優劣の話ではない)。東山魁夷はヨーロッパを、平山郁夫はシルクロードを日本画の中に内包して、瞑想と、静謐さ、そして、ロマンを感じさせる。

  (画集)

   ★   ★   ★

<食堂(ジキドウ)のもう一つの旅路>

 玄奘三蔵院伽藍を出て、本来の順路とは逆になったが、後ろ側の受付から白鳳伽藍に入った。

 薬師寺の見学の本来の順路は、南から南門を入り、さらに回廊の中門をくぐる。

 回廊の中へ入ると、一瞬に視界が広々と開ける。正面には金堂。右に東塔、左に西塔が建つ。金堂の後ろに大講堂 (さらに後ろには食堂) が配置されている。一寺に2塔は薬師寺が初めてとか。「薬師寺式伽藍配置」 ─ 遠い昔、日本史で習ったような気もする。

 今回は後ろから入ったから、最初に出会った白鳳の建造物は食堂(ジキドウ)だった。

  (食堂)

 約300人の僧侶が一堂に会する規模だという。

 それにしても、東大寺や法隆寺など、奈良の古くて落ち着いた、枯淡の趣のある寺々を見慣れた目には、いきなりの華やかな色彩。だが、派手過ぎるということではなく、落ち着いた色調が印象的だった。このような色彩が、1300年前の平城京の中にあった。

 堂の中には、田渕俊夫画伯が描いた14面、50mに渡る壁画「仏教伝来の道と薬師寺」が公開されていた。

 平山郁夫の大唐西域壁画は、玄奘三蔵のインドへの遥かな旅路を描いたもの。

 それ対して、こちらは、中国に伝えられた教えが、遣唐使船による命がけの旅の結果、入唐僧によって日本に伝えられ、飛鳥京から藤原京、平城京へとうつりつつ、仏教文化の花を咲かせた旅路が描かれている。

 もし当時も食堂にこのような壁画があったならば、食堂で食事をとる学僧たちも遥かなロマンの思いを抱いたことであろう。

      ★

<大講堂 … 官寺は今の国立大学>

 奈良の古い寺には講堂がある。

   薬師寺で最も大きい建造物は大講堂。数多くの学僧が法相教学を学び、また、議論した。その伽藍の姿は雄大で美しく、眺めていて心が落ち着く。

   (大講堂)

上野誠『万葉びとの奈良』(新潮選書)から

 万葉学者の上野誠さんは、「官寺は、寺院といっても、学問所であり、今日でいえば国立大学に当たる」と書いておられる。

 明治政府が西洋文明を取り入れるために、次々に帝国大学を設立していったのに似ている。

 中世ヨーロッパにおいても、ゲルマンの王権が確立していく過程で、滅亡したローマ帝国時代のラテン語を受け継いでいるカソリック教会や修道院が学問の府となった。

 「各寺院には、それぞれに得意な研究分野があり、寺院ごとに学派を形成した。東大寺は華厳経の経典研究を中心とした学派を形成したし、薬師寺や興福寺は法相教学の学派を形成したのである。これは、今日の『宗派』とはまったく異なるものであり、僧侶はそれぞれの寺院に赴いて、それぞれの学派の師から自由に学ぶことができた。この気風というものは、今日にも受け継がれていて、南都の僧侶は、宗派に関係なく互いに学び合う気風がある」。

 大講堂には、国宝の仏足石と仏足跡歌がある。

      ★

<壮麗な姿で建つ金堂>

 大講堂を表側に出ると、視界が広々として、後ろ姿であるが金堂と二つの塔がカメラの広角の範囲に収まった。(冒頭の写真)。

 金堂は、言うまでもなく薬師寺の中で最も大切な伽藍で、昭和51(1976)年、最初に再建された建造物である。裳階(モコシ)が付けられ、早春の空へのびやかに建ち、気品があって美しい。

 再建に当たっては、宮大工の西岡常一さんを棟梁とし、伝統的な工法を使って創建当時の姿を再現した。

  (前から見た金堂)

 上層部分には納経蔵があり、薬師寺の伽藍再建のために浄財を寄付して写経・納経した百万巻のお経が納められている。

 堂に入ると、正面に薬師寺の本尊が祀られていた。白鳳時代の作とされ、国宝。中央に薬師如来、両脇に日光菩薩と月光菩薩が立つ。

 上野誠さんは、「私は薬師像を見るたびに …… ほんとうに人を救うことができるのは、こういう自らに対する自信と安らぎが満ちあふれた顔をもった人物であるだろうと(思う)」と述べておられる (『万葉びとの奈良』)。

    薬師寺の歴史を紐解けば、680年、天武天皇が皇后の鵜野讃良(ウノノササラノ)皇女(ヒメミコ)、(後の持統女帝)の病い平癒を祈って発願された。后(キサキ)の病いはまもなく平癒するが、天武天皇は薬師寺の完成を待たずに崩御。天武のあとを継いだ持統天皇の697年に本尊の薬師如来の開眼が行われ、さらに次の文武天皇のときに堂宇が完成した。実に3代に渡った大事業だった。

 710年、元明女帝のときに平城遷都が行われ、薬師寺も平城京の右京に移された。このとき、薬師寺が解体され、仏像とともに平城京に運ばれたのか、平城京に新しく造られたのか、意見が分かれるようだ。

 本尊が置かれた台座の模様も興味深かった。写真撮影は許されないが、食堂のそばの建物にレプリカがあった。

 大陸の遥か彼方から流れ流れて、さらに海を渡り、このユーラシア大陸の果ての島国に伝えられてきた文明の「実」を感じることができる。「実」は椰子の実の「実」である。

 

 台座の框(カマチ)には、ギリシャ由来の葡萄唐草模様やペルシャ由来の蓮華模様が描かれ、四面の北に玄武、東に青龍、西に白虎、南に朱雀。その四神の上には、窓の枠の中に裸形の異人。白虎も龍のようにデフォルメされて表現されている。(その2へ続く)

 

 

 

 


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