病院の待合室に続く通路で、大柄で屈強な男が老婆の手を引いて導いていた。老女は腰も深く曲がり歩くのも覚束ないが、黙々と男に従っていた。髪に白髪が混じり始めたこの大男と親子であろうか。
男は老女の歩幅に合わせ、目的地への道のりに少し苛立ちを抱えているようだった。ときおり老女に厳しく注意している。それは注意というより怒りに近いものだった。

その姿を傍で見ている身には、もう少し優しく言えないものかと嫌な光景を見た気分だ。しかし、その時の男の母親を見る目はどこか悲しげだった。ままならぬ老女への怒りではなく、年老いてしまった母への不合理な苛立ちと寂しさがあったかもしれない。

手を引かれる老女には、もう自分がこの子の手を引いた記憶はないだろう。今手を引いている息子にも、この母親に手を引かれ駄々をこねていた自分の姿も、記憶の隅にもないかもしれない。

恥かしいけれど、たまにはそんな自分と母親を思い出してみよう。
小さい頃、母親とつないだ手には、あたたかさがあった。何があろうと自分はここにいていいんだという安心感が得られた。子供にとって親は唯一のものだった。逃げ場と言えるかもしれない。
母親が老いた今、はたして自分は母親が安心感を得られる逃げ場となっているのだろうか。
親であること、子であることをたまには思い出したい。