情は、こころである。
そう考えれば、愛情は愛するこころのことだと納得がいく。
そして、さらに、情報という文字にまでこころがかかわりあっていることに気づくだろう。

情報とは、数字やグラフや統計や知識の断片ではない。
それは、こころを伝えることなのだ。

情報化社会とは、こころをコミュニケートする社会のことである

 

「仏教の心」(五木寛之 著)より

 

情報とは、こころを伝えることだ。

情報化社会とは、こころをコミュニケートする社会のことだ。

 

血の通わない、こころを伝えない情報はいらない。

だから、情報化社会の意味を改めて考えたい。

 

モノが欲しくて頑張ってきた時代があった。
そして、モノが充足された今、誰もが情報を欲しがっている。

 

モノ社会の中に情報が溢れたように見えるが、実は、私たちはモノ社会を離れ情報化社会の中で生きている。

モノは限られた空間と時間の中で、それ以上詰め込むことは出来ない。
しかし、情報は枠を持たない。膨張するばかりだ。

 

これが厄介だ。

そして、これは、こころに似ている。

 

だからこそ、情報化社会の中では、こころをコミュニケートしなければならない。

 

 

どうするか? 

まだわからない。

 

でも、情報という言葉を使ったら、同時に、こころという言葉を思い出さなければいけない。

今それだけはわかる。

 

 

なんともいえない世の中である。

さて、みなさんがたよ、私たちはどうすればよいのか。

そこで親鸞はいう。ともがらよ、「悲泣せよ」と。

悲惨な世間を見て、悲しんで大声で泣く、そのような柔らかく人間的なこころをとりもどすことが先決なんだよ、と。

対策を論じたり、原因を分析したりする先に、悲しんで涙を流すような柔らかなこころを回復しようではないか、と親鸞は語るのだ。

仏教も、まずそのところから再出発することが必要なような気がしてならない。

 

「仏教の心」(五木寛之 著)より