マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

神は待っておられる

2024年04月26日 | キリスト教

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

                                      Ⅱ コリント 12章 9節
 全文
「 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

                                だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 」

 

人間の持つ高慢さぐらい始末におえないものはありません。あなたは高慢ですねと言われるよりも遜った人ですねと言われる方が心地よいものです、

そして、そう私はそうなんですと言ってのけるのが高慢さなのでしょうか。

心が高慢である限り、キリストの救いを受けることはありません。( 絶対にです。) 

しかし、この高慢と言うものは自分ではなかなか判らないもので、神から示されれば聞く耳はあるが、

あなたにだけは言われたくないと言うのもこの高慢です。( 人に言われれば腹の一つも立ちます。) 

 

使徒パウロは 「 高慢にならないように、私の肉体に一つの棘が与えられた 」と言っています。パウロの場合その棘がなんであったかよく分かりませんが、

これさえ良くなれば、もっと活躍できるのにとパウロは思っていたようです。

 

私たちも神の下さる一つの棘が自分には判らず、自分の働きを押しとどめるものにしか見えないときがあります。

それ故に神の導きを否み、自我に没入してしまう、

 

この棘が私にとって恵みの導きであり、最高のチャンスだとどうして思えましょう。真実は神に出会い、神の働きを見るチャンスなのですが。

神の答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である 」でした。

 

人それぞれ、生まれ育ち、環境の中でこの問題さえなければどんなに良いものかと言ったこと、一つや二つは持っているものです。

実は神はその棘を与えられ、その弱さを通して働きをされるとパウロは教えています。

 

パウロは 「 私が弱いときこそ、私は強い 」 と言う経験をしています。弱さがキリストにあって働きになり、恵みになると言っているのです。

( そう確信できれば嬉しいのですが、この未熟な信仰ではそうもいかないのが現実の私であります、そして、ぐちぐち言っております。

それでも神は私を愛されていることには変わりはないのです。感謝。 )

              今日もぐちぐち言いながら神のもとへ行きましょう。そんなあなたを神は待っているのです。

 

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慕い求めます。

2024年04月19日 | キリスト教

私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。・・・ 。    

                イザヤ 26章 9節

 


 うれいも おそれも きえさるなり いのちを あとう きよきみ名に

 いかなる けがれも きよめつくさん ちしおの ちからの あるかぎりは

                              聖歌 90 ああ言葉の限り  より

 

あなたは誰をまた何を待ち望むのでしょう。

この世の当てにならない、またはかなく消えゆくものに人生の全てを費やしてはなりません。

真実にあなたを愛するお方がおられます。

このかた即ちキリスト・イエスを知っていただきたいのです。

     
私たちは自分の罪を御霊に示されることを、始めは嫌がります。けれども成長するにしたがって、

神様をもっと知りたいと願うにつれて、自ら自分の内に罪がないかを調べて、告白したいと願います。

これが義に飢え渇くことであり、自ら自分を裁くことです。


1 コリント11:31
「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。」


1 テサロニケ  5:23
 ・・・ 主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。     

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待っておられる

2024年04月12日 | キリスト教

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

                               詩編 130 篇 1 節


ほとんどの人は自分の力ではどうにも出来ない罪と死の深い淵に落ち込みながら、

まず第一段階に、その事実を否定するそうです。「 やめる気になればいつでもやめられる 」 

     と深い淵にはまり込んでいることを認めないそうです。

 

第二の段階は、そこからの脱出の方法を探究するそうです。

始めは理性的に、自分の知恵と力によって脱出の道を捜しますが、次第に焦り、もがく様になるそうです。

 

そして第三の段階は、もう駄目だと絶望して立ち上がろうとしないのだそうです。

 

人が真実、神を呼び求める時、人はその淵から立ち上がり、抜け出る。

人は神から離れ神をないがしろにした時から、底なしの深い淵に捕らえられていくのです。

しかし、自分の力ではどうにもならないと、知らされて、その深みから、神を呼ぶとき、救い出されるのです。

あなたは今、何段階の状態でしょうか。

主はあなたに速く気付いて欲しいと思っておられます。

この第三段階は、つらくて、苦しんですが、でも、ここが主に出会う所となります。

主はあなたより先回りして、その最悪の底で傷ついた諸手を広げておられます。

私たちにとって、最悪の事態が、最良の時となりうるのです。それは、主イエスを信頼するときにです。  
   
ローマ 2:4 
「それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」

 

主が罪を赦し、その心を新しくしてくださるからこそ、主を恐れ、愛することができます。

それはイエスの足を涙で濡らし、油で塗ったあの不道徳の女のしたことであります。

多く愛したのは、多く愛されたから、罪赦されたからです。

いまも主なる神はあなたを赦し招き入れようとしてあなたを待っておられます。

 

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一つに

2024年04月05日 | キリスト教

 

ひとつのみ歌に声合わせなば  ひとつの敵にもついに勝をえん  

             御国にのぼりて御神に会おう日  一つの喜び我ら受くべし

                                  聖歌 297より 


一致を保つことができるようになるのは、一重に「「自己中心」とは反対の「へりくだり」です。

自分のことではなく、キリストのことを思うことです。

私たちが、イエス・キリストのご性質やみわざを中心にして集まっているなら、

キリストはおひとりなのですから、私たちも一つとされます。

 

みんなと同じ思いになるなんて私には無理、それは大切なこととははわかっているのだけれども。 

だけどもそんなに大きな違いはないと思う、チョットした違いが私とあなたとを分けてしまう、

だから私が折れれば済むこととはわかってはいるが、それが出来ない、なぜキットすべてのことに自信が無いからなのかな。 


1ヨハネ1:3
「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、

あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。

わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」

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どちらも幸いです

2024年03月29日 | キリスト教

 

ややにちかし あまつわがや こころにえがきて われはまてり  

       そなえられし わがすまいは かがやける まちのなかにぞある 

                                                                        
                                                                           聖歌 364 より
                                                                                                                
ピリピ  1:23
「この二つのことの間で、板挟みの状態です。

  一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」


( 同 )
私は、その二つのもの (死と生) の間に板ばさみとなっています。

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。   
 

へブル 11:16
「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。

ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」  

 


 もしよろしければ、聖書をお開きになって、この聖句の文脈をお確かめ下さい。

        聖書には死後のことも、今の命をどのように生きるかも書かれています。

 

     「 聖書は、決して死を待ち望むようには命じてはいません。天国を待ち望むべきであるとごく頻繁に命じています。」  
 
                                           マシュー・ヘンリー                                                                      
                                                                                          
最後に

これがクリスチャンとしての生きざまです。

クリスチャンは、単に後の世のことを思って、この世で苦しみ悩んでいる存在ではありません。 

なぜなら、主にあって豊かな実が結ばれていくからです。

けれども、同時に、この世には何の未練もありません。

なぜなら、天に用意されているものが、どれだけすぐれているかを知っているからです。

ここは苦しいから、はやく天国に行きたいでもないし、ここは楽しいから死にたくない、

でもないのです。どちらも自分にとっては益なのです。 

 

 

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