潰瘍性大腸炎 & クローン病&過敏性腸症候群の改善・完治・根治

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▼ 根源太郎と連鎖反応

難病の原因の根源太郎。ストレスがきっかけで体内でなにかを起こしてしまう。すると、それが炎症につながる。そう仮定します。

 

潰瘍性大腸炎/クローン病/重度のリウマチによる炎症は、根源太郎がストレスを受けた後、すぐに細胞に働きかけて、熱や出血、痛みを引き起こすのではないと考えられます。数えきれないほどの細かな、でも、順序だった連鎖反応の結果に違いない。

 

根源太郎 → ストレス → 細胞 → 化学物質を作る → 別の化学物質を作る → 細胞が変形する → 変形した細胞からさらに変形した細胞が作られる。 → 細胞を変化させる化学物質が作られる → 連鎖が続く → 炎症

 

数百、ひょっとすると数千の将棋倒しに似ています。

 

難病の原因である根源太郎。知りたいけどわからない。今は、心身に影響の大きい炎症をまず止めなけらばならない。薬です。

 

根源太郎と薬と炎症の位置関係を確かめないと。ということで、潰瘍性大腸炎に使われる薬について復習しながら、薬と根源太郎の関係を確かめてみます。

 

▼ ストレス
仮定: 根源太郎は、ストレスという刺激を受けて、炎症を起こす。

 

ストレス性の刺激を受けた根源太郎は、周りになんらかの影響を起こします。神経へなのか細胞なのかはわかりません。脳に送られれば、脳が炎症を起こすシステムを稼働します。細胞に影響すれば、細胞たちが炎症を起こすシステムを起動する。

 

▼ 初期症状

潰瘍性大腸炎/クローン病の最も初期の症状が何なのかはわかりません。

 

たとえば、根源太郎は、腸の粘膜層の特定の細胞を刺激することから始まるのかもしれません。そのあと、炎症したり消えたりすることを繰り返しているうちに、その人の遺伝子、腸内細菌、食べ物、喫煙などに微妙に関わり、違った症状で現れる。なので、共通の発症状況があるのに、患者は、初期症状には、個人差があると思ってしまう。

 

あるいは根源太郎の刺激は、最初からさまざまなパターンの炎症を起こすのかもしれません。

 

世界中に何百万人もの患者がいるのに、戦後の難病開始の時期から70年近くたつのに、なぜ根源太郎の正体がわからないのだろう・・・。

▼ 初期症状に気がつくまでの潜伏期間
難病の初期症状が出るまでの潜伏期間は、年齢に反映するような気がしないでもない。子どもだと短い、成長期の若者は数年か。積もり積もるストレスがある中高年は、5年から10年かけてじわじわと。高齢者は、免疫システムががくんと落ちたら発症する。(憶測)

 

ストレスは、重くなったり軽くなったりを繰り返します。根源太郎から刺激物が出たりでなくなったり繰り返しているうちに、炎症を起こすための連鎖反応がだんだん加速する。

●難病:根源太郎)Aさんの場合

Aさんは、契約社員でセールスの仕事をしています。ストレスある不規則な生活ですが、まだ若いのでたかをくくっていました。

大腸の細胞の中には、社会人になってから根源太郎が少しずつ増えていました。そのうち、密かに炎症の前触れが始まっていました。粘液が増えたり減ったりです。直腸の粘膜層の色が少し変わりかけていましたが、もちろんAさんは気がつかない。

 

ストレスが強い日々が何カ月も続くようになり、直腸の粘膜層に軽い炎症のようなものが現れ始めました。でも、好中球ちゃんやクロスケたちが、一生懸命に小さな炎症を起こしては治すという作業を地道に繰り返し、大事には至らずにすんていました。

ある日のランチタイム。
「久しぶりにラーメンでも食いに行こうかな」

 


ラーメンの中には、炭酸ジュースのようにアワを作り大腸の中を刺激する成分が入っています。
前線でがんばっていた好中球ちゃんたちの努力は、アワとともに掻き消え、小さかった炎症が一気に拡大。

トイレで赤いものを見て、痔だ!と思ったAさん。とりあえずということで病院へ。

ところが痔のはずだったのに、内視鏡検査となり、結果は、潰瘍性大腸炎という聞いたことのない病名を医師から告げられます。

▼ 薬の作用
幸い、炎症は軽く、医師は、アサコール®という錠剤の処方箋を書きながら、安部元総理も同じ病気だった。でも、この薬のおかげで良くなったと話してくれました。なのであまり心配しないように。

この病気は、一生続くので、薬も一生、飲むことになる。必ず毎日、3度、忘れないように飲んでくださいとも言われました。。

幸い、薬は良く効き、出血はなくなりました。でも、実際のところ、薬は、根源太郎に対しては、なんの作用も起こしていませんでした。

 

◎ 根源太郎 → 細胞 → 炎症 → アサコール® → 炎症部位の炎症を防ぐ = 根源太郎に対して薬は作用しない

 

続く

  

▼ アメリカの大学
1979年。アメリカに留学していて、「入門 文章の書き方」のクラスを受講していました。
わたしたち生徒は、先生に連れられて、大学内の図書館へ行きました。図書館の使い方を学ぶためです。

当時はまだインターネットが普及していない時代で、調べ物は、図書館でしかありませんでした。学生にとっては当たり前でしたが、各分野のトップレベルの研究者にとっても図書館は、重要な情報の源だったのです。

研究論文、特許は、世界レベルで発表や申請が行われています。もしも、一分一秒でも発表や申請が遅れれば、アメリカは、取り返しのつかない後れを取ってしまう。なので、大学の図書館は、24時間オープンしなければいけない。そう法律で定められていた。

小さな大学でも、図書館は充実していました。大きな大学だと、学部ごとに図書館がありました。物理学、生物学、社会科学、医学、もちろん文学というように。
歴史学の図書館でさえ7階建てで、文学ならば、日本の国立中央図書館なみでした。

 

◎ 図書館内の学習用机コーナー

 



▼ 日本では知られていなかった食品添加物のデータ
雑誌コーナーには、政治、心理学、生物、スポーツ、その他、数えきれないほどの雑誌が、初刊当時から保管されていました。

わたしたちのその日の宿題は、興味のある雑誌記事を探して、それについてレポートを書くことでした。
初めて見る英語の雑誌にわくわくし。たまたま手に取った雑誌に「日本の食品添加物」という記事があるのを目にし、それについて読むことにしました。

そこの書かれていたのは、日本は、世界で最も大量の食品添加物を消費している。日本人が一生の間に食べる食品添加物は、体重の60%に値する。

信じられませんでした。我が国 日本が、そんな不名誉なことになっているわけがない。誇大に書かれた記事だとも思いました。でも、その記事は世界的にも有名な研究雑誌の一部で、どのデータを使ったのかも、多数記されていました。日本人が知らない日本の現実が、アメリカで公開されていた。

 

◎ 科学系の雑誌の一部



▼ 昭和時代
そのとき、子ども時代のことが思い出されました。
わたしが小学生のころです。駄菓子屋というものがありました。畳6畳もない小さなお店には、10円玉ひとつで買えるような小さな駄菓子が、所狭しに売り物の台の上では並び、壁にも隙間がないぐらいにぶらさがっていました。

どのお菓子も、赤、黄色、だいだい、緑というように着色料がたっぷり入っていて、子どもたちには大人気でした。保存料や甘味料もごっそり入っていましたが、誰もそんなこと気にしていなかった。

もちろん、親は、それが健康にとって良くないということを全く知りませんでした。そもそも、そんなお菓子をそこで売っているということも知らなかったと思います。なにせ子どもたちは、買ったらすぐに食べてしまったから。

高校生の頃のお弁当には、冷凍食品が毎日、入っていました。母の子ども時代のお弁当と言えば、おにぎりに梅干し、たくわんぐらいしかなかった。でも、我が子の同級生のお弁当には、なにやら豪華なおかずがたくさん入っているらしい。お弁当箱に何を詰めて良いのか不安になった母は、冷凍食品に頼るようになっていました。
考えてみれば、なんで母は、わたしにお弁当を作らせなかったのでしょう。子供は勉強、母親は弁当作りという日本の伝統が、あったのか?

▼ 平成時代
1990年代、わたしは、ふたりの子どもを育てていました。
肉にも魚にも、野菜や豆にも、食品添加物がくまなく入っていました。イネや麦、野菜は、農薬で育てられていた。わたしは、なにを子どもたちに食べさせたら良いのかわからず、買い物をするたびに不安でした。

オータニックの店がありましたが、どれもこれも高価で、毎日、買うことは無理でした。実際、そこで買い物をしていたのは、生活が豊かだと思える高齢者ばかりでした。
子どもたちを連れてどれを買おうか迷っていたら、ひとりの高齢の女性がこう話しかけてくれました。
「本当は、こういうのは、若い人たちこそが食べるはずなのに」と、申し訳なさそうに。
そんな店も、価格を抑えることができなかったことから、いつのまにか消えてしまいました。

▼ 令和時代
今、バンクーバーの食品店で働いていますが、農薬、化学肥料、食品添加物の量は、日本もカナダもアメリカも、競争をしあっているようにすさまじい。
一方、安全を目指す人たちに支えられた食品も増えています。なかには、添加剤がない食品しか食べられなくなってしまったお客さんたちもいる。消化器官に炎症が出てしまったためです。

職場食品スーパーのレジで働いているとわかります。健康的な食品を買っているお客さんは、年配でも顔色が良く、生きているというエネルギーがある。添加物がたくさん入っている食品が多いお客さんは、顔色が悪く、体温が低そうで、低エネルギーです。

ジャックフードばかりの若者は、今は元気だけれど、いずれは、不健康なからだになっていくことが予告されていて、知らせてあげたくなるけれど、理解できないだろうな・・・。

みなさん、健康は食から。できる限り安全なものを食べる。難病から離れていくための第一歩です。

▼ 怖いストレス
わたしが仲良くしている50代の友達がいます。健康には日ごろから十分過ぎるほどに気を配っていたことから、特殊血液検査では、専門医から「こんなにきれいな血液は見たことがな」というお墨付きのコメントをもらうほどでした。いっしょに散歩をすると、追いつくのが大変なほどの速足健足。

 

一方、かなり以前に離婚したのですが、その前夫による嫌がらせがずっと続き、そのストレスは相当なものでした。そこへ、ハラスメントによる職場解雇が起きてしまいました。

そのことが原因で下半身に激痛が起き、睡眠が1日30分から1時間という日々が3か月も続きました。激痛は、ある日、突然に右足から左足に移動。神経的なことが原因のストレスに違いなし。

顔にはマヒが出てしまい、常連客だった彼女を見た漢方医は、お店に来た彼女を認識できないほどでした。
心筋梗塞の症状か。精神的も不安定。

1年前にこんなことが起きるとは、予想もしていませんでした。

▼ なぜヒトはストレスに弱い?
人間のからだは、生き残るために進化してきました。だったらストレス強くなるはずなのに。なんでそうではないのでしょう。

考えてみました。

進化の歴史の中で、生物にとってのストレスは、飢餓と感染症、そして、種の存続のための争いでした。

▼ 飢餓
飢餓は天候と関係する。生物は、温暖な環境、地球全体が厚く氷に閉ざされた超氷河期など、さまざまな天候に遭遇するたびに全絶滅しかけては、生き延びるということを繰り返してきました。

非情な自然の摂理でしたが、生物は、存続するために遺伝子を自ら変化させ、単細胞は多細胞に変化し、タコイカが誕生し、魚、ネズミを経てヒトが出現した。

1年中、快適な天候だったら、刺激がないので、生物は進化する必要がなく、46億年間ずっとウイルスと細菌のままだったと考えられます。

宇宙の中には、生物がいる星が数えきれないほどあると言いますが、一方、100億年たってもウイルスと細菌しかいない星があったとしても不思議ではない?

さて、飢餓ですが、日本やカナダのように食べ物が豊かにいると、飢餓の国と言われても、遠い存在に感じます。でも、現実的には、飢餓はアフリカ、アジア、中国で起き続けています。

 



▼ 感染症
感染症は、ウイルスと細菌が原因ですが、わたしたちの大祖先は細菌であり、好中球ちゃんたちはウイルスだったと言われていることから、種の存続争いが今でも続いているのか。
先進国なら、エイズ、インフルエンザ、コロナウイルス。発展途上国なら、デング熱、ポリオなど。

▼ 戦争
種の存続の戦いは、ロシアとウクライナ、イスラエルとその周りの国。アフリカの内戦。そこにヨーロッパとアメリカが加わる。人種、宗教、政治が、複雑に絡み合っています。
人間だけです、欲のために戦争をするのは。

▼ ストレスが原因で病気に
飢餓、感染症、戦争。いずれも、繰り返されてきました。そのことが引き起こすストレスで、免疫力が落ち、病気になり、命を落とすことも、精神的に病むことで、働けなくなる、食欲がない、眠れない、仲間といさかいが起きる、子どもができないなど、からだや人間関係に大きな影響が出る。

▼ ストレスは、世界中で起きている
上記のストレスは、特に発展途上国で顕著です。先進国はどうなのか。
人類が初めて経験をしたコロナウイルスのパンデミックは、大きなストレスを引き起こしました。
今ではもう過去になってしまったロックダウンの日々。あのときのパニックがきっかけで、うつ病になった人は多い。

 

続く

▼ 根源太郎
難病の源流にある原因。このブログでは、根源太郎と呼ぶことにします。潰瘍性大腸炎/クローン病、症状の重い関節リウマチ、膠原病の他、アトピーや喘息、花粉症とも関係しているとにらんでいます。

▼ 根源太郎の生まれ
根源太郎は、光学電子顕微鏡で見えるほどの大きさなのかどうかはわかりませんが、物質です。恐らく体内では分解されない、あるいは、分解されにくい物質。なので病気が慢性/長期化する。

疑いありは、まだ発見されていないウイルスや細菌。さらに、自然界にはない人間が作り出した化学物質。自然界にある物質の構造をまねて人間が作り出した物質です。

例:医薬品(予防接種を含む)、農薬、食品添加物、ホルモン剤など。

すべての医薬品には、有機分子(タンパク質など)が含まれています。たとえば、天然なら植物人工なら工場製造薬、あるいは両方の組み合わせです。

▼ 日本人なら誰もが根源太郎を持っているかも
人類の祖先が誕生したのは、380万年も前。サルみたいだった。

◎ アウストラロピテクス アナメンシス

  ハンサム・・・。

 



 

▼ 根源太郎は、体外から来た

わたしたちと変わらない祖先が現れたのは10万年以上も前です。10万年もなかった潰瘍性大腸炎の患者が、わずかこの50年間に飛躍的に工業化が進んでいたヨーロッパ、カナダ、アメリカの北部を発端に、日本、韓国、そして、中国、インド、南米で激増した。これは、工業化によって、異物がわたしたちの体内に入ったとしか考えられません。

異物は、もともとは、わたしたちの体内にはなかった。それが、難病を引き起こしている。根源太郎です。

▼ 日本人のほとんどが根源太郎の保持者か
もしも、潰瘍性大腸炎/クローン病/重度のリウマチだけでなく、アトピーや花粉症、喘息をも引き起こしているとしたら、ほとんどの日本人は、根源太郎を持っていることになる。

症状が出ない人は、その人の体質や生活環境が反応させない。あるいは、将来的に、病気になる可能性を秘めている。

例えば、クローン病なら女性の場合50歳代まで、潰瘍性大腸炎なら男女ともに60歳代まで初診患者になる可能性がある。

◎ クローン病の初発症年齢のピークは、15歳から24歳。

  潰瘍性大腸炎は、15歳から29歳



10歳から14歳。小中学生で発症している。なかには、幼稚園児も・・・。なぜ・・・。

 


英語 PDF

https://acikders.ankara.edu.tr/mod/resource/view.php?id=4530#:~:text=Drugs%20that%20we%20use%20for,based%20on%20organic%20structural%20features.

 

▼ 潰瘍性大腸炎/クローン病、過敏性腸症候群
潰瘍性大腸炎は、大腸に炎症が起きる。クローン病は、大腸、小腸、胃、そして、口からおしりまでの消化器官に症状が出る。
ときには、どちらの病気か判断が難しく、海外では、潰瘍性大腸炎/クローン病のどちらか診分けることが難しい症状という病名があります。

これらの病気に似た症状があるのが、過敏性症候群です。腹痛、下痢、便秘と下痢を繰り返し、炎症する時期とそれがなくなる寛解の時期を繰り返す。でも、内視鏡検査をしても異常なしで、出血もない。
海外では、過敏性腸症候群に加え、炎症性腸疾患があるという診断名が下ることがある。

▼ 誤診
初発症後、再燃しなかったケースは、誤診ではなかったかとの説があります。その割合は10%。ただし正確なデータはなし。

▼ 潜在的に潜む根本的な原因
初発症後、再燃し、その後、苦労して薬なし炎症なしでの状態へ持って行き、5年、10年たった人たちがいます。でも、油断すればいつか症状が戻って来るという微妙な症状がほんのわずかある。
病気はストレスが引き金になるということを体験的に叩き込まれているので、ストレスの波が来ないように、来たら、回避に努めようとする。

なかには、大きなストレスに直撃されるのを許し、10年以上、健康体だったのに再燃してしまった人もいます。病気の根本的原因を完全になくすことができていなかったからです

▼ 潰瘍性大腸炎/クローン病、関節リウマチ、膠原病
潰瘍性大腸炎/クローン病は、症状を見えなくするという治療方法があります。


ステロイド、レミケード®などの生物学的療法は、潰瘍性大腸炎/クローン病だけでなく、関節リウマチ、膠原病など、症状が全く違う病気に使われています。いずれも、症状が重いケースのための治療方法です。

治療は、痛みや腫れなどを起こすシステムの間に入り込み、痛みなどが起きるのを阻止するため。ですが直接に病気の根本的原因に働きかけるということはしません。

▼ 根源太郎
難病の根本的な原因はなになのか? 戦後の同じ時期に発病し始めたことから、病気ごとに原因があるのではなく、ひとつに絞り込めるはず。

名付けて根源太郎とします。

 

憶測としては、根源太郎が周りにある細胞や細胞が作り出す物質に働きかけ、腸や関節などに炎症を起こす。

 

そのシステムは、腸の炎症ならこんな感じです。

根源太郎 → 腸の細胞 → 物質 → 腸の粘膜細胞 → 炎症

 

実際は、もっと複雑。

 

根源太郎 → 腸の細胞 → 物質 → 物質 → 物質 → 物質 → 物質 → 物質 → 物質 → 物質 → 物質 → 物質 → 物質 → 数千種類の物質 →痛みA

まったく違うルートで 痛みB、痛みC、痛みD・・・。

 

下痢、便秘、渋り便、出血、熱なども、根源太郎から次々と異なる物質の連鎖から起きます。

 

 

◎ 点は化学反応を起こす物質。根源太郎に刺激を受けて連鎖反応が起き、最終的に症状が起きる。

 

 

 

アサコール®やステロイド、レミケード®は、この物質の連鎖のどこに作用するのでしょう?

 

厚労省から出されたパンプレットの記事から

 

● 服薬遵守を知っていますか 

潰瘍性大腸炎は、再燃を予防するために長期にわたって5-アミノサリチル酸 製剤(5-ASA製剤:ペンタサ®、アサコール®、リアルダ®、サラゾピリン®)の 服用が必要です。  

 

患者は、腹痛や下痢などの症状がある活動期には、きちんと医師の指示どおりに 薬を服用できますが、症状がない寛解期に長期間にわたり薬を服用し続けることは難しくなるようです。  

 

グラフを見てください。

 

 

● 薬の服用と緩解維持の関係

2年間の5-ASA製剤の服薬状況を調査した結果、 指示どおりにきちんと服薬を守っていた患者さん(服薬遵守群)の約90%が 寛解を維持できていました。

一方、服薬を守っていなかった患者さん(服薬 非遵守群)では約40%と低く、6割の患者さんが再燃したことが報告されて います。

 

服薬を守れない理由として、飲み忘れ(50%)、錠数が多いこと (30%)、薬の必要性を感じないこと(20%)が挙げられています。 

 

重要なことは、症状がない寛解期でも、服薬遵守することで再燃を予防し、 長期にわたって寛解を維持することができるということです。

さらに、 5-ASA製剤の服薬の継続は、潰瘍性大腸炎に合併する大腸癌発症のリスクを 低下させることも報告されています。

したがって服薬遵守は再燃予防だけで なく、大腸癌予防の観点からも重要です。

 

5-ASA製剤によっては、1日1回の服用で十分な効果が得られることが 確認されている薬もあります。確実に服用を継続するために、1日1回の服用 を試してみるのもひとつの方法です。

 

説明: 1日1回の服用とは、リアルダ®のこと。1錠に2400mgのメサラジンが含まれる。

 

【リアルダ錠の用法用量】

通常、成人にはメサラジンとして1日1回2400mgを食後経口投与する。
活動期は、通常、成人にはメサラジンとして1日1回4800mgを食後経口投与するが、患者の状態により適宜増減する。

 

【リアルダ錠の特徴】

①    有効成分であるメサラジンを最大4800mgまで投与可能
②    服用は1日1回
③    メサラジンは、炎症を起こしている大腸の粘膜に直接作用することで効果を発揮し炎症を抑えます。リアルダ錠は、他剤に比べて最も多くのメサラジンを投与することが可能です。
④    リアルダ錠は「MMXテクノロジー」という製剤技術によって、メサラジンを持続的に、直腸まで大腸全域に放出することが可能です

 

● 英語サイトでの評判

56%の患者は満足。でも、15%は嫌な思いをした。嫌な思いの仔細は不明。恐らく、副作用と大きすぎてのみづらいこと。

 

● 大きすぎる

錠剤のサイズが長さ2cm、横幅も厚みも1cm近いリアルダ。

 

英語サイトでは、リアルダを半分に割ってもいい? つぶしても良い? かみ砕いてもいい? という質問がたくさん寄せられています。

切ったり潰したり嚙み砕けば、錠剤の外側を覆っているコーディングが壊れて、大腸に届く前に溶けてしまいます。なので、丸呑みしないといけません。

 

からだの大きな白人でも嫌がるサイズ。日本人なら、なお辛い。

アメリカでは5歳から17歳を対象にした治験が行われています。どうやって飲ませたのでしょう・・・。

 

● コーティングが厚い? 中身の薬量が多い?

なんでそんなに大きいんだろう。

理由は明記してありませんでした。憶測としては、

ひとつ) 一気に溶け出してしまわないように腸内のpHの度合いによって少しずつ溶け出るようになっている。コーティングに工夫を凝らしているため厚みがある。

ふたつ) 1日3回分の薬が入っているので、大きくならざるを得ない。

 

● 患者の不満

1日1回なのはありがたい。でも大きすぎるのは、呑み込みづらく良くない。

 

 

 

http://www.ibdjapan.org/patient/pdf/01.pdf

 

 

 

 

調べ物をしていて偶然に見つけたサイトで紹介されていた子ども患者と、お母さんの手紙です。

全文抜粋させていただきました。

 

病気の子どもの学校生活を支える ―潰瘍性大腸炎・クローン病-

 

http://www.zentoku.jp/dantai/jyaku/h25kaiyou_kuroun.pdf

 

 

● 経験者からのメッセージ
僕は、4 年生のときに発症しました。
体はしんどくなかったですが、トイレに行くと下血があり、しだいにトイレに行く前に漏れてしまったり、貧血にもなりました。
(潰瘍性大腸炎という)病名がわかったときは、学校にいつもどおりいけるか、下血はとまるのかということが心配でした。
入院が決まったとき、どんな治療をするのだろうか、ちゃんと効くのかと心配でした。
入院生活ではどれくらいの入院になるのかと不安でいっぱいでしたが、友達と遊んだり、院内学級にいったりと楽しいこともいっぱいでした。
治療をいろいろしても効果がなく、どれをしたら効くのだろうかと思いました。
 (小学6年生児童)



●  経験者の保護者からのメッセージ
大きな病気に罹ることもなく元気に育ち、周りの子ども達にくらべ、身長、体重も平均よりいつも超えていました。

4 年生になった9月頃、風邪が長びき、1ヵ月ほど微熱がつづきました。その頃から、下痢や腹痛をうったえていましたが、「風邪」だと思っていたし、町医者も風邪の薬を出していたので、ずっと飲ませていました。


10月中旬、40度を超える熱が出て、鼻血を出す様になりました。その頃からトイレに行くと「血が出る」と言う様になり、トイレの回数もふえました。


学校の帰りに、下着をよごしてしまう位、がまんが出来なくなっても、なお、私は、「学校や家でちゃんとしないから、そうなるの」と怒った時もありました。今となっては、最悪の母親だと後悔してもしきれません。それからも、ずっと「トイレで血が出る」と子どもは言っていましたが、「子どもでも‘ぢ’になるの?」と軽く流していましたが、ある日、「一回見てみるから、トイレから呼んで」と言って見に行くとがく然としました。
小学4年生にもなると、1人でトイレをすませるので、いちいち見に行く事もなかったのですが、トイレの中は血だらけで言葉をなくしました。


次の日、すぐに近くの町医者につれて行きました。いつも行っていた病院ですし、肛門科もしていましたので、何のうたがいもなく行ったのです。子どもはいきなり指で診察され、痛みのあまり失神しました。私は肛門がどういう状態かわからなかったので、子どもがふざけて寝たふりをしていると思ったのですが、様子がおかしかったので、すぐに先生に「大丈夫ですか?」と聞くと、すぐに「紹介状を書きますので、すぐに行ってください」との事でした。


後日、市民病院の小児科でいくつもの検査をしましたが、「病名や原因がわからないので、後日もう一度、精密検査をします。」との事でした。ここまで来て、やっと事の重大さがわかったのです。「まさか、うちの子が」「今まで元気だったのに」とうらはらに、「もしかして、大変な事になっているのかも」と不安になりました。


何度検査をしても、「数値がありえませんので、今からすぐ母子センターに行くことが出来ますか?」と言われ、すぐ母子センターへ向かいました。2泊3日の検査入院の結果、「潰瘍性大腸炎」という、聞いた事もない名前を耳にしたのです。

 


病名がはっきりした以上、「くよくよしている暇などない」とすぐに頭は切り替わりました。自分を責めている暇などないと。しかし、説明を聞くと、治療法がなく、難病であり、原因が不明との事。その事を、小学4年生のまだ幼い子どもにどう説明するべきか・・・。

 

悩んでいてもしかたないし、治療法がなく、一生つきあっていかなければいけない病気をかくす事はできません。主人と私と子どもとで先生の説明を聞くことにしました。意外にも子どもは自分のおかされている病気を理解し、きちんと質問をしてどうすべきかを聞いていました。

 

それからと言うもの、ずっと子どもの気丈さに支えられ、今日まで来ました。ありとあらゆる薬や点滴をして、1回目の入院は寛解にもっていくことができましたが、成長期の子どもにはステロイドの副作用で1年間は身長が伸びず、とまってしまい、顔はムーンフェイス、すごい食欲と、いろいろなリスクもありました。ステロイドは、40ml から少しずつ減らした時、再燃したのです。

 


2度目の入院。1ヵ月の予定でしたが、どの薬もどの点滴も効果がなく、半年後、体重は10㎏減り、状態は最悪でした。腹痛・下血・吐き気・関節痛・頭痛が毎日毎日続きました。栄養をとるため、IVH を入れましたが、症状は良くならず、このままでは腹膜炎をおこして、体内で出血してしまうとの事。次の日、手術となりました。

手術までの約1ヵ月間は、24時間関係なく1時間おきのトイレでの下血、吐き気でぐっすりねむれない状態でしたので、手術がきまり、「これで少しでも楽になれるのなら・・・」とホッとした記憶があります。

 


手術のあらかじめの説明はしていただき、書類にサインをしましたが、やはり不安はありました。「今の状態で、手術にたえることが、できるのか・・・」


術後のことは考える余裕もなかったほどです。

 

手術が終わり ICU で、摘出した大腸を見せていただき、涙が出ました。「大人だったらやぶれていましたが、子どもだから、これだけ、もったのでしょう」と先生は言いました。パレットにのせられた大腸は、すでに、ボロボロで、痛々しかったです。子どもの体の中で、がんばって病気と闘っていたのが、すごくわかりました。「10年間ありがとう」そんな気持ちになりました

 

ICU に入り、子どもと会うと、とてつもなく、くるしんで、いたがっていました。お腹をみると、見たこともない、内臓らしきものが、とび出て、ビニールのようなものにおおわれていました。生まれて初めて見た、人工肛門(ストーマ)というものでした。術後、人工肛門になることを知らなかったため、驚きと、とまどいでいっぱいでした。

 

その後話を聞くと、いったんストーマにして、半年後、肛門とつなぐ手術をするとの事でした。術後の痛みはひどく、1か月ほど、痛み止めの点滴をしていたと思います。大腸がないので、小腸が動くと痛み、切った後の傷の痛みとの闘いでした。


子どもは、意外にもストーマに理解を示して、大腸のかわりをしてくれている、お腹から飛び出している小腸をいとおしく思っている様子で安心しました。


自分の姿に理解できず、ストーマをいやがる人も少なくないと聞いていたので、また子どもにはげまされ、助けられました。はじめは、うまくあつかうことができず、困った時もありましたが、ストーマ専門の方にずいぶん助けられ、感謝しています。

 

そして何より、約1年弱の入院生活を少しでも普段とかわらずできたのは、支援学校と先生方のおかげです。支援学校がなければ、「ただの入院患者」で終わっていました。しかし、支援学校のおかげで、「子どもが子どもらしく生活」できる時間をもてたのです。地元の学校にもどる時の勉強の不安もなく生活できたのは院内学級のおかげです。親子ともどもお世話になりました。

 

本当にありがとうございました。これからも病気の子どもたちが少しの時間でも「学校に通う普通の子ども」でいられるためにも、支援学校は必要です。辛い治療があっても学校に通っている時間だけは、病人であることを忘れ、生徒になれるのです。これからもたくさんの子どもたちに、勉強や遊び、笑いを与えてください。

 


病気になって子どもは言いました。「病気の子ども達の気持ちをわかってあげられるようになった。」と。私は、子どもに言いました「ママは病気の子どもをもつお父さんやお母さんの気持ちが分かる人になったよ。」と。病気になって失った物ばかりではなかったです。本当に人の痛みが分かる、人の優しさが分かるようになった気がします。同じ病気や、違う病気をもつご家族が、1日でも早く幸せになりますように。 

 

 

● 医療関係者側の説明:

炎症性腸疾患とは、消化管に炎症を引き起こす慢性の病気です。その原因について はいまだ充分には解明されていません。炎症性腸疾患に、,主に潰瘍性大腸炎とクロ ーン病の2つがあります。

日本の患者数は、潰瘍性大腸炎が10万人以上、クローン病 が3万人以上とされ、16歳以下で発症した患者さんの割合は潰瘍性大腸炎で 13%、クローン病で6%とされています。特に8歳以降に発症する小児患者が多い とされています。

潰瘍性大腸炎/クローン病で強い炎症があるとき、ステロイドが治療に使われます。アトピーやリウマチの患者にとってもステロイドは重要な薬です。

 

わたしたちのからだの中で作られるステロイドは、1930年代にアメリカの化学研究員パーシー・ジュリアン博士が発見しています。

 

 

ジュリアン博士は、1899年生まれで優秀な学生でした。ハーバード大学で教壇に立つチャンスがあったのですが、黒人が白人に講義をすることに反対意見があり、実現しませんでした。

その後も、仕事探しを続けましたが、当時、黒人は、日没後に家の外に出てはいけないという法律があり、かないませんでした。

 

大学での教授ではなく、化学的な研究をしよう。そう目標を切り替え、大豆の研究員を探していた会社に勤めることになりました。

それがきっかけで、人体の中で作られるステロイドを1930年代に発見します。

1950年代には、実験室でステロイドを製造することに成功。今、わたしたちが使っている薬ステロイドです。

 

▼ ジュリアン博士の名言集

 

教育は世界を変えるために使用できる最も強力な武器です。

 

生きることの最大の栄光は、決して転ばないことにあるのではなく、転ぶたびに立ち上がることにある。

 

成功は最終的なものではなく、失敗は致命的ではありません。重要なのは継続する勇気です。

 

素晴らしい仕事をする唯一の方法は、自分のやっていることを愛することです。

 

自分の未来を予測する最良の方法は、それを創造することです。

 

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アメリカの人種差別は、半端ではありませんでした。その中を志を高く掲げて生き抜いた。

名言にはそれが反映されている。

 

自分の未来を予測する最善の方法は、それを創造すること・・・

できるかな…自分に。どうやるんだろう・・・。

 

 

 

▼ 炎症が起きるプロセス

皮膚や大腸の中などでの炎症。熱や充血、痛みは、さまざまな理由で起きます。

今まで紹介したのは、攻撃を受けた細胞が、SOSの信号を出し、それに気がついた好中球ちゃんやクロスケ、将軍たちが駆け付け、敵をやっつけるため、そこが戦場になり炎上すること。

みんなは、もともとはウイルスが細菌だったらしく、全員、自由に動き回ることができます。

 

今回紹介するのは、自ら動く免疫細胞ではなく、窒素、酸素、水素からできた物質です。

油アラキドン酸。可愛いイメージ画像でなくてごめんなさい。

 

 

▼ 物質による炎症の発生

大腸などの炎症は、物質である油アラキドン酸が原因でも起きます。

 

◎ 図

1)上は、血管の中を流れるすい臓で作られたハサミたと

  下は、細胞と油性細胞膜の一部です。

 

2) 細胞がウイルス/細胞の侵入を受け、炎症が開始。

 

 

3)細胞の中から発信されたSOS信号が、血管内に入る

 

 

4) ハサミが細胞の中に入り、細胞膜の中のアラキドン酸を切り離す

 

5)アラキドン酸がプージンに変身。     U 型からV型へ     

  

 

6)プージンが炎症を起こし外敵と戦う

  

 

▼ プージンは味方だけど、潰瘍性大腸炎/クローン病のときは、迷惑千万

炎症を起こしてばい菌やウイルスと闘う物質プージン。血管に入れば、痛みも起こす。からだの持ち主に、非常事態が起きていることを知らせるために。

 

でも、潰瘍性大腸炎/クローン病のように不要の炎症が起きてしまったら、プージンの働きを止める必要があります。

プージンは、油アラキドン酸の変身姿。ならば、変身前の油アラキドン酸の動きを封じ込めたらよい。

 

▼ 油アラキドン酸を封じ込める作戦

油アラキドン酸をどうしたらプージンに変身するのを食い止められるのか。考えられるのは、次の二つの作戦です。

 

作戦A: 細胞膜の中にいるアラキドン酸が、細胞膜の外へ出ていかないように、切り取り係のはさみの仕事を邪魔する。

作戦B: 細胞膜の中から細胞の中に移動したアラキドン酸の身柄を取り押させる。

 

▼ 油アラキドン酸を取り押さえるステロイド

薬ステロイドの働きは、作戦Aです。

 

薬ステロイドは、錠剤をでも、点滴注でも、血管の中に入って全身を流れます。大腸や関節や、打撲、ケガした場所で炎症が起きると、細胞からSOSの信号が出ると、細胞膜の中に入ります。アラキドン酸がハサミで切り取られる前に、薬ステロイドは、ふたつの間に身を入れて、ハサミの仕事を阻止します。

こうすれば、アラキドン酸は、細胞膜の外に出ることはありません。

 

▼ ハサミは逮捕し過ぎてはいけない

薬ステロイドもハサミも、血管の中を移動している。だったら、ハサミをさっさと逮捕すればよいとも考えられます。でも、勝手にどんどん逮捕してしまうと、血管の中にハサミがなくなってしまいます。

そんなことが起きてしまうと、困ったことが起きます。たとえば、背中におできがたとします。おでき細胞たちは、からだの持ち主にそのことを知らせるため痛みを起こしたい。でも、薬ステロイドが、ハサミを血管の中で摂り押させてしまっていれば、細胞膜の中の油アラキドン酸を切り離すハサミがない。

 

油アラキドン酸が細胞の中に入らないと、プージンに変身できない。すると、炎症も痛みも起こせない。

そうなると、ばい菌やウイルスの天下となり、おできは悪化していく。

 

炎症も痛みも必要です。からだを病気から守るために。

 

 

モナコの王子様とグレース。

 

 

モナコの王子は、アメリカを訪れていた時、グレイス・ケリーが出演する映画の撮影に見学に行っています。

 

ストーリー: あつ小さな国の美しい姫は、彼女のフェンシングの先生で博士号の肩書を持つ青年が恋に落ちます。それを目の前で見ていた大国の王子。青年は、姫から御家復活のため、大国の王子と結婚しなければならないことを聞かされ、貴族出身ではなかったことから潔く身を引き、去っていきます。

姫は、母親がたくらんだ筋書き通り、王子の関心を引くことができ結婚することになります。

 

当時、モナコの王子は、電話と文通でのおつきあいで、まだ半年しかたっていなかったグレースとの関係をどう進めたらよいのか迷っていました。でも、この映画の撮影を見ているうちに、気持ちが固まっていった。

 

ある晩、王子は、レストランでの夕食後、グレースを散歩に誘い出しました。プロポーズするために。ですが、そこを出たとたん、グレースの知り合い夫婦に声をかけられ、グレースが一緒に散歩しましょうと呼びかけたことで4人で散歩することに。事情を知らない夫婦は、談話を楽しみながらなかなか去らない。

やっと夫婦が去ったときには、夜はかなり更けていました。

王子は、グレースを人目につかない木陰に誘い、やっと婚約指輪を渡しながら結婚を申し込むことができました。

 

グレースは、思いもしなかった突然のプロポーズに、もちろん感激し、イエスと答えます。

 

その後、王子はモナコに帰り、グレースも家に帰宅。

 

 

 

嬉しさいっぱいのグレース。ですが、親友たちが集まってくれたその日、彼女は、みんなにある心配事を打ち明けます。