年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

水上勉著 沢庵

2022年01月21日 | タクワン
色々な沢庵和尚の本を読んだが、なかなか沢庵漬の命名と関係ありそうな本は見つからなかった。ただ水上勉著『沢庵』は時代背景を小説のように書かれていて一番理解しやすかった。その冒頭で『沢庵の生涯をたどることは、禅と権力の関係を学ぶことだ。』という書き出しから始まる。沢庵の出身の兵庫県出石は小さな町だった。6年間僧籍にあった水上勉氏の禅の理解は他の沢庵本を超える。さらに沢庵の出身の地域と近かった。
 沢庵が生まれた天正元年は足利の最後の将軍が京都を追放され、織田信長が京都に入った時期だった。天正5年には羽柴秀吉が信長の命を受けて中国攻めに入り、秀吉配下の武将によって一夜で播磨の但馬出石城を攻め落とした。沢庵の父は敗者の武士だったためみじめな生活となり、僧侶となった。いや僧侶となるしかなかった。京に近かったため、寺院の情報が多く、沢庵の賢さが大徳寺への道を開いた。しかし沢庵は政治に関与していた禅から離れていたため、寺院での大寺院でも生活は苦しく、筆耕で糊口を満たしていた。衣服も少なく、夏は裸で過ごし、客が来た時に羽織っていたという逸話もあった。
 そのような沢庵が漬物の沢庵漬の名称となったか仕事をしていて気になっていた。多くの逸話もどきは詳しく調べると根拠なき風説、作り話であった。

 冷静に調べると沢庵和尚は沢庵漬を創ったと思えない。彼は廃棄する野菜等を利用して保存食を創っていた。塩は貴重品で、大根を採れ過ぎた時、干して保存性を高めていた。また酒作りで精米の余りの米ぬかで、空気を遮断することで発酵を制御し、酒樽の空いたのに漬けた。そして重石をかけた。茶会記を読むと、茶会で酒を飲む。禅宗なのに茶席では酒は許されていると感じる。沢庵がいた泉州堺の町は大坂の戦争で火災になった。彼が禅宗から権力に近づいた理由かもしれない。奈良平安の時代と違って権力に近づかないと復興は難しいと見ていたのだろうか。
 品川東海寺の沢庵の墓は細長い大きな石があるだけで、名前も彫られていない。山手線で大崎の手前で、電車内から眼下に沢庵の墓石を見ることが出来る。
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