小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

女生徒、カチカチ山と十六の短編 (小説)(3)

2020-07-08 03:36:46 | 小説
小児科医

 岡田さんは小児科医である。といってもまだ世間で言う医者の卵である。医学部の学生は卒業すると、すぐに全国共通の医師国家試験をうける。この試験は五者択一のマークシート形式で、大学入試のセンター試験と同じような感覚の試験である。この試験に通ると医師の資格が与えられる。こののち二年間、どこかの病院で指導医のもとで研修する。ほとんどは、母校の付属病院で研修する。岡田さんは小児科を選んだ。理由はきわめて明白で「子供はかわいい。子供が好き。」だからである。他に三人、同期の友人が小児科の医局に入局した。小児科の教授は母校出身の先生である。二年前に教授に就任した。この教授は、
「国家試験はおちる時はおちるんだから覚悟きめてけよ、それとインフルエンザには気ィつけろよ。」
と卒業試験の時、言ってくれた温かみのある先生である。岡田さんは5人の入院患者を担当することになった。指導医の指導のもとで毎日、採血、点滴、注射、カルテへの患者の病状記載、ナースへの指示の仕方、など実地の医療をおぼえるのである。彼女がうけもつことになったのは、若年性関節リウマチ、糖尿病、血友病、それと膠原病のSLEとなった。さっそく岡田さんは患者に自己紹介にいった。はじめは不安もあったが、
 「はじめまして。今度担当になりました岡田といいます。よろしくね。」というと、それまで退屈していた子供は、よろこんで反応してくれる。心が通じることは何より安心感を与えてくれる。自分が認められることにまさるよろこびはない。だが最後の一人は反応が違った。彼女の丁寧なあいさつにその子はプイと顔をそむけてパタンと横になってしまった。話しかけても答えてくれない。やむを得ずあいさつできないまま詰め所へもどった。
(かわいくないなあ。あの子。)
 その子(吉田さとる)はSLE(全身性エリテマトーデス)という膠原病だった。日光にあたると病気が悪化するためあまり外へでれない。入院してステロイド療法で症状をおさえているのである。ステロイドを使わないと腎臓の機能が低下してあぶない。そのためステロイド(プレドニソロン30mg)の投与をつづけなくてはならないのだが、薬の副作用も強くでる。多量に使うと腹痛がでたり、顔の形もかわってしまい、そのため子供はその薬をのみたがらない。
 こんな状態ではじまった研修第一日目だった。午前中は外来で、午後は病棟で入院患者をみる。外来での診察手順は、眼瞼で、貧血、黄疸があるかを調べ、扁桃腺、頚部リンパ節の腫張の有無、それからねかせて、髄膜炎があるかどうか調べるため、項部硬直を調べ、ついで肝臓、脾臓の腫大の有無を調べる。
 小児科では同期で他に三人入った。学生時代からの親友でもあった。大学の近くに安くてうまい店があって、仲間は学生の時からよく行っていた。
 研修がはじまって一週間くらいたった。勤務がおわって、仲間は、そこにひさしぶりに寄った。他の仲間は、小児科はきつい、といったが、みな、生きがい、にもえていた。岡田さんも自分もそうだ、と言った。だが彼女の頭には、あの子の顔が浮かんできた。それをふり払おうと彼女はむりに笑った。彼女は学校時代からリーダー的存在だった。そんなことではじまった研修医生活だった。
 だが岡田さんが何を言っても吉田は無視する。どんなにやさしく接しても無視する。ある日の勤務がおわった時、岡田さんは、やけっぱちな気分になって、一人で飲み屋へ行って、やけ酒をガブガブ飲みながら、おやじにあたった。彼女は自分がどんなに誠実に一生懸命接しようとしても自分を無視する子供のことをはなした。
 「私もうあの子いや。」というと
 「そりゃーそのガキの方がわるいわ。岡田先生みたいにきれいで、わけへだてなく患者に真摯になってる先生を理由もなく無視して、いうことをきかないなんて。今度一回、いうこときかなかったら、ぶってやったらどうです。わたしにはよくわかりませんが岡田先生が低姿勢にしてるもんだから、そのガキ、つけあがってるんじゃないですか。先生の心のこもったおしかりなら、そのガキも少しは、あまえから目がさめるんじゃないですか。」
 岡田さんは自分にいいきかせるように、
 「そうよね。あまえてるんだよね。あの子。ありがとう。よーし。こんどひとつ、びしっといってやるわ。ありがとう。」
 「カンパーイ。」
 といって岡田さん、おやじとビール、カチンとやりゴクゴクッとのんだ。数日後のことである。検査でBUN(尿素窒素)、Cr(クレアチニン)が上がっていた。腎機能が低下していることがわかった。病室のごみ箱からプレドニソロンがみつかった。どうもあの子が薬をちゃんとのんでいないようだ。拒薬の可能性のある患者の場合、ナースが患者が薬をのむのをみとどけるのだが、患者は、口の中に錠剤をのこしといて、コップの水をゴクッとのんで、薬をのんだふりをしてみせて、錠剤をあとで吐き出すのである。
 岡田さんは吉田の病室に行った。吉田はゴロンとねころんでいる。岡田さんは吉田によびかけた。だが起きない。むりにおこして自分の方にふりむかせた。
 「さとる君。この薬すてたのさとる君?」
 ときいたが、吉田はプイと顔をそむけた。
 「この薬ちゃんとのまなきゃ死んじゃうんだよ。だめじゃない。」
 といっても吉田はふくれっつらしている。岡田さんは「ばかー。」といって吉田をぶった。
 だが、吉田はおこって反発することもしない。岡田さんは予想に反してガックリしたが、
 「さとる君。この薬ちゃんとのまなきゃだめだよ。」
 と、しかたなく言って去った。
 それから数日がたった。今度の検査ではBUN、Crとも下がった。もう病室からはプレドニソロンが捨ててあるということはなくなった。岡田さんは吉田が自分が吉田に薬を飲むようお願いして、吉田がそれをきいてくれたのだと思って少しうれしく思い、吉田の病室へ行った。
「さとる君。」
と言って岡田さんはうしろからはなしかけた。が、ふりむいてくれないので、まわって、
「この前はいきなりぶってごめんなさい。私をぶって。それでおあいこにしよう。」
と言って岡田さんは目をつぶって顔をだした。岡田さんは内心これで心が通じると思いながらまっていた。だがいっこうに反応がない。岡田さんが目をあけると吉田はいなかった。徹底的な無視。帰り、いつもの焼き鳥屋。
 「私もうあの子いや。あの子私をきらってる。何で?」
 と、おやじにきく。おやじは
「ウーン。私にもわかりませんね。その子の心が。」
 数日後のことである。岡田さんがほとほと思案がつきはててしまっているところ、病棟で、ある信じがたい光景をみた。吉田が一年上のあるドクターNとまるで兄弟のように手をつないで笑いあっているのである。まさに心をひらいている。そのドクターは頭が半分ハゲて、近眼で、足がわるく、足をひきずって、白衣もヨレヨレで、医局でも無口でコドクな存在だった。これは岡田さんにとってショックだった。あの子はだれにも心をひらかないのではなく、自分には心をひらいてくれないのだ。
 数日後岡田さんは吉田の病室に行って吉田に話しかけた。もう自分のどこがわるいのか、わからなくて吉田にきいて自分のわるいところを知ろうと思った。吉田はいつものようにゴロンとねていた。岡田さんはしょんぼりして
「私のどこがわるいのですか。何で私を無視するんですか。私のわるいところは直すように努力します。おしえてください。」と言った。
 吉田はしばしだまっていたが、はじめて彼女をみて、
 「別にどこもわるくねーよ。」と言った。
 岡田さんははじめて吉田から返事をうけて、わからないままにも、うれしく思った。
 二人の会話はそんなふうで、進展しない。彼女はいったい自分のどこがわるいのか悩むようになった。自分に何かどうしようもない人間としての欠点があるように思えてしかたがなかった。そのことが頭から離れなくて、もう精神的にヘトヘトになってしまった。岡田さんが夕方、待合室で一人で座っていると同期で入局した仲間達がそこを通りかかった。彼女らは岡田をみて、その中の一人が言った。
 「どうしたの。岡田。このごろ元気ないじゃん。」
 岡田「ウン。ちょっとね。」
 「何かあったの。」
 「・・・・・。」
 「元気だしなよ。そんなことじゃつとまんないよ。」
 彼女らは「ははは。」と笑って行った。
 その時、岡田さんは気づいた。今の自分の状態があの子の状態なのでは・・・・。
 「あの子は私の明るさをきらっていたんだ。」
 その時、吉田がたまたま病室からでてきたらしく、一人でいる彼女に気づいて、あわてて体をひっこめた。自分はNドクターの気持ちなんかまったくわからなかったし、わかろうともしなかった。あの子は私の明るさ、を嫌っていたんだ。そう思うと岡田さんは今までの自分が恥ずかしくなり、うつむいてしまった。
 「オイ。」
 とつぜん声をかけられて岡田さんは顔を上げた。吉田がいる。
 「オイ。岡田。何で一人でいるんだよ。」
 岡田さんは心の中で思った。
 (もう私にコドクになれ、といっても無理だ。この子にはあのN先生がふさわしいんだ。担当をかわるよう、たのんでみよう。)
 岡田さんはもうつかれはてていたので、吉田に返事をすることもできなかった。自分が何をいってもこの子は気にくわないんだから・・・。そう思って岡田さんはだまってうつむいていた。その時である。吉田が岡田さんにはじめてはなしかけたのである。しかもその声には、たしかにうれしさがこもっていた。
 「オイ。岡田。元気だせよ。お前らしくないじゃんか。」
 岡田さんはうれしくなって吉田の手を握った。
「あっ。吉田君笑った。私を無視するんじゃないの?」
 吉田は自己矛盾を感じて困りだした。吉田は自分から声をかけてしまったことをくやんだように手をふりほどこうとしている。岡田さんは離さない。この期をのがしてなるものか。はじめは手をふりほどこうとしていた吉田だったが岡田さんが強く握りしめて離さないので、とうとうあきらめた。岡田さん笑ってオデコ、コッツンとあわせた。「ふふふ。」といって岡田さん、もう一度オデコ、コッツンとあわせた。吉田、ついに自分に負けて「クッ」といって笑って、自分から岡田にオデコをあわせた。心が通じる最高の一瞬。吉田、小康状態で数日後、退院した。あとにはあいたベットに新患が入ってくる。岡田さんのいそがしい日々がはじまる。






夏の思い出

 高一の夏休みのこと。午前中に一学期の成績発表と終業式があって、それがおわり、寮で帰省のためオレは荷物をまとめていた。「夏休みは自由の天地」とはよく言ったものだ。別にオレはどこか旅行へ行くとか、の具体的な目的などなかった。ただ集団の拘束から解放されることが、集団嫌いのオレにとっては一番うれしかった。その時だった。机の向こうから同級のHが言った。
「おい。XX。8月10日こいよな。」
オレは反射的に
「しらねえよ。そんなのシカトだよ。」
と言った。するとヤバイことにそこにたまたま室長のGがいた。
「ダメだよ。シカトなんて認めないよ。」
とGは言った。オレは内心舌打ちした。
(Hのバカ。よけいなこと言いやがって。だまってりゃシカトできたのに)オレは荷物をまとめて、そっと空気のように部屋をでた。西武線に乗り、池袋で山手線にのりかえた。だがGの一言が心にひっかかっていた。忘れようと努力するとよけい意識される。夏休みの間は誰にも、何物にも拘束されたくなかった。オレは内心、シカトすることとシカトしないことのメリット、デメリットを考えていた。やはりシカトすると二学期にGと顔をあわせるのが気まずくなる。小心なオレにはやはりそれはつらいことだった。
 ここで8月10日のオレにとってイヤなこと、とはこんなことである。学園の生徒は夏休みに、地域ごとに順番に、その地域の父母会の子供の夏休みの工作教室の指導をしていた。それが今回は神奈川県ということになった。Gがリーダーで、横浜地域の小学生が対象ということでHとオレとあと一年下の二人A、Bがその「指導」とやらの役になってしまった。どうして学園の生徒が・・・・と思うに学園は進学校ではないかわりに生活や技術の教育の学校と外部では見ているらしかったからだろう。何をつくるか知らなかったが、8月10日にそのオリエンテーションをして、8月20日が本番ということらしい。オレがいやだったのは夏休みの間は学園の人間とは顔をあわせたくなかった、のと、又そんな子供の工作教室に指導者ヅラするのがいやだったからだ。結局、行くとも行かないとも決めかねた状態での気分の悪い夏休みがはじまった。
 夏休み、といっても特にどこへ行く、ということも何をするということもなかった。ただ50mの市営プールで、午前中、人がこないうちに行って泳ぐことだけが唯一のたのしみだった。午後は家でグデーとすごした。何のへんてつもない平凡な日々だった。だが私は夏が好きだった。何をしなくても夏生きていることがうれしかった。夏休みには「自由」があった。だが今年は違った。8月に2回、学園の人間と顔をあわせなくてはならない。それがいやで心にひっかかっていた。
 とかくするうちに8月10日になった。オレはやむをえず行くことにした。やっぱり、行かなかったら二学期にGに会いづらい。オレは小心だった。
 二時に磯子駅で会うことになっていた。が、一時半に磯子駅についてしまった。まだ誰も来ていなかった。これは私にとってとても照れくさかった。私はいやいや行くのだから少し遅れて行ったほうがいい。しかたなく駅からポカンと外をみていた。磯子駅からは丘の上に大きな白いホテルがみえる。待つ時間というものはとても長く感じられる。次の電車でくるか、と思って駅につく電車を待っていた。彼らは三回目の電車できた。二時を数分過ぎている。Gは私を見ると、
「ほんと、かわったやつだな。」
と言った。駅をおりて、駅前の広場でしばし待っていた。駅前の大きな樹でセミがいきおいよく鳴いている。少しすると小学校六年くらいの女の子をつれたお母さん、がやってきた。Gは、そのお母さんにあいさつして少し話してから、座っていた我々の方をみてうながした。我々は立ち上がって電車にそった道を横浜の方へ歩きだした。彼女は今回の打ち合せの人なのだろう。女の子も工作教室にでるのだろうが、それにしても打ち合せにまでくるとは積極的な子だと思った。
 Gは、その子の母親と話しながら先頭を歩いている。少女はお母さんのうしろを歩いていたのだが、夏休みの小学生らしく、何かとても活き活きしている。私はうしろからだまってついていったのだが、どうも気になってしまう。工作の場所は磯子市の公民館の四階の一室だった。その時まで何を作るのか知らなかったが、どうやら二段重ねの本箱をつくるらしい。二枚の横板を、子供の好きなかたちに切って二段重ねにし、あと、横板の外側に子供が何か好きな絵を描く、ものをつくる、ということだった。電動ノコギリで横板を切るのだが、それが小学生では危ないから、我々がそれをやる、ということらしい。結局、電ノコで切ることのために我々が必要なのだ。Gは、電ノコの使い方を説明したあとで、電ノコで実際に板を切ってみせた。少女は一人、Gの説明を一心に聞いている。スカートが少し短くてつい気になってしまう。打ち合せにまでやってくるくらいだから、学校ではきっとリーダーシップをとるような子なのだろう。
 実をいうと私は彼女をはじめてみた時、ついドキンとしてしまった。何か言い表わしがたい感情が、私の心を悩ませていた。彼女の美しい瞳と、年上の中で少し緊張している様子と、普通の子なら、恥ずかしくてこないだろうに、あえてやってきた積極さ、が何か私を悩ませていた。それは短いながらも彼女といる時間がたつのに従ってますますつのっていった。私は惹かれてしまいそうになる自分の気持ちと惹かれてはならないと自制する気持ちに悩まされていた。自制しなくては、と思う気持ちはいっそう私を苦しめた。そんなことで、私はGの電ノコの使い方もいいかげんに聞いていた。またわざとまじめにきくことに反発していた。それに私は子供のころから機械いじりは得意だった。みなが電ノコで板を切った。さいごに私もやった。以外と電ノコは重く、力強く固定しなければあぶない。たしかに小学生では無理だと思った。全員おわると、Gは、
「それじゃあ20日の一時に。」
といって解散となった。みなはいっしょに話しながら帰った。私はみなより一足さきに部屋を出た。夏休みで、一番いやだったはず、だが、もう一回、あの子に会える、と思うと工作はいやながらも、20日には来ようと思った。
 それから又、午前中プールへ行き、午後は特に何もしないという日がつづいた。ある日の午後、国語の先生がすすめた夏目漱石の「三四郎」のはじめの部分をパラパラッと読んだ。たいへんダイタンな小説だと思っておどろいた。日本を代表する作家がかくもダイタンなストーリーをつくるものなのかと文学の自由さにおどろいた。私は手塚治虫の「海のトリトン」が好きで、トリトンのように海を自由に泳ぎまわれるようになりたいと本気で思っていた。私は平泳ぎはできたがクロールはできず、何とか美しいクロールを身につけたかった。
 翌日、私は電車で五つ離れたところにある病院に行った。私はある宿痾があり、二週に一度その病院に行っていた。病院からの帰り、私は病院の裏手から東海道の松林を抜け、海岸に出て、海沿いに駅まで輝く海をみながら歩くのが好きだった。ここは波が荒く、遊泳禁止だった。波がだんだんおそろしいうねりをつくる。ちょっとこわいが今度はどんな大きな波をつくるかが、波と戦っているようで、こわくもおもしろい。少し行くと遠あさで、波がおだやかなためにできている小さな海水浴場にでた。数人の男女が水しぶきをあげている。無心にたのしむ彼らの笑顔の一瞬の中に永遠がある。彼らは自分の永遠性に価値をおいていない。そのことが逆に永遠性をつくりだしてしまう。それは誰にも知られることのない、かげろうの美しさだ。私は松林を上がり駅に出た。
 8月20日がきた。一時からで、ちょうどで、遅刻はしていなかったが、もう、みんなきて、ちょうどはじまったところだった。少し気おくれした感じがする。Gは私をみると
「おう。あそこいって。」
といって左側の奥のテーブルをさした。全部で四テーブルで、各テーブルに小学生が4人から5人くらいだった。私は壁を背にした。あの子は左となりのテーブルにいた。まず、はじめに子供がどのようなかたちで横板を切るか、エンピツで線をひいている。そしてその線にそって我々が電ノコで切るのである。となりでは、あの子が一番はやく線をかいた。そのテーブルではHが担当していたので、彼女はHに切ることをたのんだ。Hは電ノコのスイッチを入れて切ろうとした。どうもあぶなっかしい。もっとしっかり板をおさえなくてはいけない。案の定、板に電ノコをあてたとたん、電ノコはガガガッと音をたててはじかれた。板に傷がついた。彼女は狼狽している。HはGによばれて電ノコの使い方をきかされている。(私はその時すでに、一人、自分のうけもちのテーブルの子が切ってほしいとたのまれたので、すでに二枚、板を切っていて、多少切り方のコツをつかんでいた。)V字だったので両方から切った。私は人とかかわりあいたくない性格なのに自分がうけもたされると精いっぱい相手の期待にこたえなくてはならない、と思う性格があるのを発見した。また、やってみてこうも思った。子供がひいた線を少しもはずしてはならない・・・と。
 となりのテーブルでは彼女が狼狽している。彼女の担当はHなのだから、彼女もHにたのむべきだとおもっている。しかし、彼女がHの技術に不安を感じているのは明らかにみえた。私は内心思った。
「私ならできる。」
私は彼女に、
「切ろうか。」
といいたかった。本当にいいたかった。しかし、それを私の方から言うことはできなかった。絶対できなかった。私は心の中で強い葛藤を感じながら、表向きは平静をよそおっていた。私が切りたく思ったのは、何も私でなくても他の誰でもいい。たった一度のことかもしれないが、この子は大人を信じられなくなる、のではないか。けっしてそんな経験をさせてはならない、と思ったからだ。
 その時だった。Gは
「切れる人はどんどん他のテーブルの人のでも切ってください。」
と言った。彼女は私の方にきて、
「切ってもらえませんか。」
と小さな声で言った。私は内心人生において絶頂の感慨をうけた。だが表向きは平静に
「ええ。」
と、さも自然そうによそおった。だが電ノコを板にあてた時、よろこびは瞬時に最高の緊張にかわった。彼女は不安そうに板をみている。彼女はゆるいS状のラインだった。私は板を力づよくおさえた。電ノコでの切り方には多少のコツがあることを私は前の経験から知った。それは、ミシン目が入ってる所をみるより多少先をみながら切っていった方がいいということだ。私は慎重に、1ミリもはずしてはならない、と自分にいいきかせて切っていった。外科手術の緊張さに近かった。切りおわった。彼女のひいたラインどおりにほぼ切れた。私は内心ほっとした。彼女は本当にうれしそうに笑顔で
「ありがとうございました。」
と言った。私もうれしかった。そののち私はまたもとのテーブルにもどった。
 工作教室は何とか無事おわった。二週間後、高一の夏休みがおわった。私にとってもっともいやだと思っていた、工作教室が私の夏休みにおいて(否、私の人生において)最もすばらしい思い出となった。二学期がはじまった。あれから三年たつ。その後の彼女を私は知らない。しかしきっと明るい美しい高校生になっていることだろう。彼女が友達とゆかいに話している姿が目にうかぶ。





春琴抄

 春琴は美しいアゲハ蝶である。その美しさには春琴が通る時、心の内からたとえようもない、美しさ、心の純真さ・・に魔法にかかったかのように魅せられないものはいないほどである。春琴自身それを逆に感じとり、恥ずかしく顔を赤らめるのだった。
 春琴には彼女にふさわしい逞しく美しい雄のアゲハ蝶の彼Nがいた。二人はともに愛し合っていた。しかしどちらかというと、少し心にたよりなさのある春琴を守りたい・・・という彼の思い、が二人の関係だった。
 二人はこのおとぎの国の美と愛の象徴だった。
 あるポカポカはれた春の日、春琴は、彼女の仲間の蝶とともに少し遠出した。春琴一人では、まよいそうになるほどのキョリのある場所だった。春琴は少しポカンとしたところがあって道に迷いやすい。だが仲間はしっかりした方向感覚をもっていて道に迷うことはない。心地よい陽光のもと、流れるさわやかな微風に身をのせて、いくつか野をこえ原をこえた。
 そこはジメジメしたうす暗い所だった。仲間がキャッ キャッとさわいでいる。よくみると、そこにはクモの巣の糸がはってある。木陰にじっとかくれているクモを仲間がみつけたらしく、からかいのコトバをかけている。
 クモは陰湿な方法でエモノをとる。しかしアミにかかりさえしなければ安心であり、手も足もだせなくてくやしがってるクモをからかうのは何とも、スリルと優越感があっておもしろい。
「みなよ。あんなみにくいヤツがエモノがかかりはしないかとものほしそうにまってるよ。」
と一人が言うと、みなが笑った。
みながクモにツバをはきかけるとクモはくやしそうにキッとニラミ返した。「お前ら。おぼえてろよ。」
というと、みなはますますおもしろがって笑った。
「春琴。あなたもからかってやりなよ。」
と仲間にいわれて春琴はクモに近づいてクモをじっとみた。
春琴の心にはまだいたずらっぽさ、オテンバさ、も十分あった。春琴は、それがいやがらせだと知って、クモをじっとみながら自分の美しさをみせつけながら、そうしている自分に酔い、「ふふふ。」と笑った。クモは恥ずかしそうにコソコソとかくれてしまった。
 そのあと、蝶たちは、もと来た野をもどり帰ってきた。こわいもの、みにくいもの、みたさは春琴にもある。こわいもの、おそろしいものをみると自分が自由であることを実感できる。その夜、春琴は自由を実感して心地よく寝た。
 翌日、仲間達は春琴に、昨日、あそこへ行ったのはクモをからかいに行くためもあったけれど、それに加えて、キケンな場所を春琴に教えるため・・もあったのだと言った。春琴は時々、みなから離れて一人行動するところがあるから気をつけるように、と注意した。
 その年の夏の暮れ、ちょうど以前、あの暗いクモの巣のある所にいったような日のことだった。春琴のこわいものみたさ、は一人でいる時つのって、どうにもおさえきれなくなり、何回かクモを見に行っては、じっとだまってクモをみていた。そして優越感まじりのキョリをとった思わせ振りをして無言のうちにみくだし自分に酔う酩酊をおぼえていた。
 その日、いつものようにクモはいないかと春琴が近づいた。少し近づきすぎた。
「あっ。」
と春琴が悲鳴をあげた時には、春琴の片方のハネ先が糸にくっついてしまっていた。生と死をわける、死の方への粘着である。春琴があせればあせるほど片はねが両はねへ、そして全身へと糸がどんどんからまっていく。もがけばもがくほど糸はどんどんからまっていく。春琴はこの時、神にいのった。「ああ神様。助けて。」
あるいはクモが奇跡にも死んでくれないかと。あるいは仲間の誰でもいい、誰かここへきて、こうなってしまっているのでは、と感づいて来てくれはしないかと。だがざんねんなことにそのどれもきかれないのぞみ、だった。
「ふふふ。」
とクモが、してやったりと、とくい顔であらわれた。
「いや。こないで。」
と春琴がいうと、クモは、止まって、笑いながら春琴の無駄な苦闘をみている。さもたのしそうである。クモはこうして巣にかかったエモノが一人であがき、つかれはてるのをまってから、毒エキを入れ、たべてしまうのである。春琴もそれと同じ運命になるしかない。むなしくあがき、つかれはててグッタリと力なく、うなだれてしまった。ころあいをみはからってクモは春琴の真近にまで来て、春琴の顔をじっとながめた。いつもと逆の立場にたたされた春琴は顔を赤らめ、そむけた。これほどブザマなことはなかった。そして死の恐怖のため、目を閉じて観念した。クモは春琴に
「ふふふ。」
と笑いかけ、
「どうした、いつものいきおいは。よくも今までからかってくれたな。」
と言った。春琴はもう死の覚悟ができていた。むしろこんなブザマな死にざまを誰にもみられないようにといのりたいくらいだった。クモが春琴の体に触れた時は、さすがに春琴も
「あっ。」
と言って身震いした。こんな気持ちの悪いものに触れられてる、と思うと、死を覚悟していても背筋がゾッとする。だがクモは殺す前に思う様、彼女をなぶりあそんでから、と思っているらしく、気色の悪い、執拗な愛撫がはじまった。クモは時々、からかいの言葉をかけながら、春琴の体をくまなく這うように愛撫した。するとどうしたことだろう。はじめはただただ死ぬ以上に気味悪く体を硬くふるわせていた春琴に、不思議な別の感情がおこってきた。それは自分ほど美しいものがかくも醜いものになぶられ、もてあそばれ、そして殺される、という実感。それはいつしか徐々に、そしてついにそれは最高のエクスタシーになっていた。春琴は自分の体から力がぬけていくのを感じた。春琴はもてあそばれることに、おそるおそる身をまかせた。今みじめにも復讐され、もてあそばれ、そして数時間後に自分は殺されて死んでしまっている、という実感を春琴は反芻した。するとそれは、そのたびいいようのないエクスタシーを春琴に返した。クモはあたかも春琴の心をさっしているかのように時々笑う。しかし愛撫の手はやめない。心をさっされると思った時、春琴は、それをさとられることを死ぬ以上におそれた。そして、何とかあざむこうと声をふるわせて言った。
「こ、殺すならはやく殺して。」
だがクモは笑って愛撫をつづける。かなりの時間がたった。春琴の頭からは、すべての想念がなくなり、クモは、春琴の体からはなれた。毒エキの針をさされることを春琴は待った。自分が、今から殺されると思うと、最高の快感で身震いした。だが、春琴はずっと目を閉じていたので、わからないのだが、再び、クモが触れてきた動きは今までとは何か様子がちがう。春琴は自分の体が軽くなっているのに気づいた。目をあけるとクモはいつのまにか、糸をとる油で春琴の体を糸からはなしてしまっていた。はばたくと春琴はプツンと糸から離れて自由の身で宙に舞うことができた。よろこびよりも虚無感が春琴の心をしめていた。辺りの野は一面、けだるい晩夏の午後の陽光に照らされて、静かに燃えるような熱気を放っている。だが相対して目の当りにクモをみた時、春琴は言いようのない恥ずかしさをおぼえた。クモは口元に笑みをうかべ、
「君はまたきっとくるよ。」
と言った。春琴は恥ずかしくなってその場を去った。数日が過ぎた。春琴はうつろな思いで数日を過ごした。仲間が、春琴が近ごろ姿がみえないのでどうしたのか、と思って春琴のところにきた。だが春琴はうなだれて、うつろな表情で一人でいる。春琴にも何か考えごとがあるのだろうと仲間は帰って行った。日がたつにつれ、春琴はいてもたってもいられなくなった。いいようのない感情が起こり、それが春琴を悩ませていた。春琴は相愛の相手であるNと結ばれた。みなが祝福した。幸せな日々がしばらくつづいた。しかし日がたつにつれ、春琴は再び持病のように、あのいいようのない不思議な感情におそわれだした。夜、春琴は夫に自分を何からも守り、愛してくれるよう求めた。夫はそれにこたえ、春琴を力強くだきしめた。二人は幸せになった。夫は逞しく、美しく、春琴を愛し守ってくれる。春琴にも、もとのあかるく、無垢で、純真な笑顔がもどった。だが時々、フッと一人で考えてしまうような時、何かのひょうしに気のまよいがでてしまうのだった。それはあの暗い、こわい、そしてつらく恥ずかしい、死を求める感情だった。小さな幸せの国。美しいアゲハ春琴と逞しいアゲハNがエンペラーのような象徴として調和をたもっている平和な国。しかし、春琴には時々、暗い感情がおこる。それに悩まされ、時々春琴はあの暗い場所を求めにいってしまう。その後、春琴は、クモは、Nはどうなったか。それは作者も知らない。






青鬼の褌を洗う女

 子供のころから、クライ、ノロマ、ブサイク、クサイ、心が内へ内へと向いてしまう。クサイのがイヤなら、近寄らなければいいのに、近づいてクサイのをなおせという。人間、努力して直せるものと直せないものがある。人にメイワクをかけては、いけないと思って一人でいると、ネクラ、孤立しているとしかられる。子供の頃からゼンソクで、数歩走ると苦しくなる。友達なんて、子供の頃からできなかった。学校はこわくていけなかった。運動もダメ。トロくて、いつも誰かにおこられて、ただ、ずーとだまって机を前に座っているだけ。元気がないのが悪いことなら、憲法改正して、元気であることを国民の義務として、ネクラはみんな死刑にすればいい。
お父さんは、つめたい、頭のいい医者で、私は勉強ができないから、医学部なんて入れないし、顔が悪いから、もらってくれる人もできないっていう。
ある時、お父さんが、あいつは、うまくかたずかないなって、言ってるのを聞いた。私のことをかげでは、あいつ、という。うまく、かたずけられるために私は生まれてきたのか。
中学校で、一人だけ、私にも友達ができた。私のことを心配してくれる。友情ってすばらしいなって思った。でも、ある時、彼女が、私のことを言ってるのを聞いた。
「あの人といるとつかれちゃうよ。先生から、内気な子だから友達になってあげてねって、言われて、そうすれば内申書がよくなるだろうから」
高校の修学旅行で、夜おそくなったので、ねたふりをしてた。同室の三人はガヤガヤつきることなく話している。その中の一人に、私によく話しかけてくれる人がいた。私は彼女を友達と思っていた。いつもはやさしいのに、私が眠っていると思って、遠慮なく私の品評をしだした。話題は、徹頭徹尾、私の顔のこと。こんな顔で、よく生きてられるものだ。それにしても、ひどい顔だな。何度も何度もいう。はやく別の話題にうつってほしい。
私はわざと、ちいさな寝息をたてて、寝てるふりをつづけなくてはならなかった。私の涙はとっくに枯れはてていて、ただただ気づかれて、気まずくさせたくなかった。
そのかわり、信じるということをやめてしまった。何もいらない。
私はありったけのお金をもって家出した。私は汽車の中で家からもちだした多量の睡眠薬をまとめてのんだ。

   ☆   ☆   ☆

 気づくと私は、ある観念の中にいた。それは、死の間際にみた夢だったのか、それとも、死後の世界なのか、あるいは、私は夢うつつにどこかの駅でおりて、人もこない山奥に、さまよいこんで、それは現実なのか、わからない。でも、それは、すごく心地いい観念の世界だった。
私はもうその世界から現実にもどりたいとは思わない。私は河原で青鬼の褌を洗っている。カッコウの声が谷間にひびく。私はいつしかついウトウトする。
ややあって私は青鬼にゆすられて気がつく。青鬼はニッコリ笑って私をみる。人は鬼などこわくて、気味悪くて愛せないだろうと思うかもしれない。あるいは私が魔法にかかって、外見の美醜に対して無感覚の状態になってしまってるにちがいないと思うかもしれない。しかし私は彼の笑顔がこの世で一番好きだ。彼のやさしさが手を伝わって私の心にサッと伝わる。私はうれしくて満面の笑顔を返す。青鬼は私たちのために働きに出かける。果樹の手入れをしたり、狩をしたりする。私はうれしくて洗タクの続きをはじめる。私はその時つくづく生きてることのよろこびを感じる。夕方、青鬼が帰ってくる。私は夕食の用意をしている。青鬼は、「今日はこんなものがとれたよ」というように、戸をあけるとニッコリして私の視線を獲物の方にうながす。私はそれをみてほほえむ。私は青鬼といっしょにささやかな夕食をする。私は彼がおいしそうに私のつくった下手な食事をたべてくれるのがうれしい。
でも私はそんな自然の中で生きていく逞しさはなかった。私は高い熱を出して寝込んでしまった。彼は私のかたわらで、ずっと看病してくれる。彼はどうしたらいいかわからず、こまってしまって、ただ私の手をにぎって谷川から汲んできた、つめたい水でタオルをしぼり、頭をひやしてくれる。そのおかげで額はすずしい。私はもうすぐ死んでいくだろうと思う。でも私は幸せだ。こんなに私を大事にしてくれる人に見守られているのだから。青鬼は私がいなくなったら、きっとさびしくなってしまうだろう。彼のためにも生きたい。生きてることのよろこびって、自分がいなくなると自分のことを哀しんでくれる人がいることなんだなって思う。でもだんだん意識がうすれていく。私は目をつぶり涙をながす。
「サヨナラ。青鬼さん」





岡本君とサチ子

 岡本君は都内の、とある商事会社に勤めている社の信望もあつい商社マン・・・である。彼は入社後一年で、大学の時親しかった山下サチ子と結婚した。大学時代、岡本君は野球部のエースだった。彼のピッチングは打者の心理をよみ、直球と変化球のたくみな配球による、どちらかというと、打たせないものだった。豪速球ではなかったが、コントロールがバツグンで、見送りしてしまう打者も多かった。対抗試合では相手チームを完封することもおおかった。野球においてはクレバーで、三振した打者の多くはつい舌打ちした。が、それはスポーツの中での反射的なものだった。彼には悪意というものがなく、頭の回転がはやく、おしつけのない親切があった。あっさりしていて、何事に対しても、こだわり、や、とらわれがなかった。野球部にはマネージャーが二人いた。山下サチ子と堀順子である。二人はともに岡本君に思いをよせていた。が、サチ子の思いはことのほか強かった。岡本君と順子が二人で話しているところをみると必ずサチ子が入ってくる。そのたび、やむをえず、順子はその場を去らなくてはならなかった。親しかった二人だが、その点において、順子は内心、サチ子を快く思っていなかった。そんな状態が卒業までつづいたのである。卒業後、岡本君は、都内のある東証一部上場の商事会社に入った。会社にも野球部があり、仕事はできるわ対抗試合では完封するわで、会社が彼を歓迎したのは入社してから後のことである。おもねりのない彼の性格的魅力にひかれて商談がうまくまとまるのである。入社して一年後、岡本君は山下サチ子と結婚した。
 幸福な日々がつづいたことはいうまでもない。そして、月並みですまないのですが、少したってから多少やっかいなことがおこったのです。そのあらましはこうです。
 ある日、彼女に電話がかかってきたのです。その人の言うところによると・・・岡本君はどうもこのごろ誰かと親しくしている。二人が喫茶店で話しているのをみた・・・というのである。電話の相手はその喫茶店の名前と場所を言った。サチ子は、はじめウソだと思っていた。だがある日の夕食の時、さりげなく言ったさぐりのコトバに、彼女は夫の表情に憂色をみた。ちなみにおかずは有色野菜が多かった。数日後、「今日は少しおそくなるから」と言って岡本君がでかけた日のこと。彼女はとうとう疑心に抗しきれなくなり、岡本君の退社時間より数時間前に、電話の相手が言ったその喫茶店のある場所へ行ってみた。するとたしかにその名の店がある。彼女はその店をみることができる向かいの喫茶店に入った。一時間ほどたった。「あっ。」と言って彼女がスプーンを落とし、我が目を疑ったことは想像に難くない。彼女はいたたまれず店を飛び出した。何もわからなくなってしまった。ただ足だけがうごいて、ともかく家についた。そしてそのまま食卓についた。
 「あの相手の人はいったい・・・」
 日はどんどん暮れていく。
 チャイムが鳴った。
 「ただいまー。」
 岡本君が帰ってきた。ほろ酔いかげんである。ドッカと腰かけ、
 「おい。サチ子。メシは。メシ。」
 これがいけなかった。こういう状態でおこらずにいるにはインドで三年は瞑想修業していなくては不可能である。彼女は今日みたことをすべて語った。そして相手の女性は、どういう人なのか問い質した。みるみる酔いが消えて、かわって蒼白になった岡本君は、このように弁明した。
 「彼女は自分と同期で入った人で、近く結婚するんだ。相手の男を愛してはいるが、僕にも好感を感じるというんだ。来春結婚するが、不安があるというんだ。そのため、自分の気持ちをたしかめるため、一ヵ月だけつきあってくれないか・・・とたのまれた。」
 「それで・・・」
 と彼女はあっさり言った。
 岡本君は冷汗をながしながら、
 「自分には最愛の妻がいるので、それはできない・・・ときっぱりことわった。だが彼女はどうしてもという。」
 「それから」
 「君にはすまないが、彼女の不安も、もっともだ、と思った。」
 「だから」
 「一ヵ月だけ・・・という条件でやむをえず承知した。心の中ではたえず君にすまない・・・とわびていたんだ。わかってくれ。」
 「わかったわ。」
 「そうか。わかってくれたか。」
 岡本君の顔が一瞬ほころんだ。
 「でも一つわからないことがあるわ。」
 「何だい。」
 彼女は急に険しい表情になり、声を大に言った。
 「本当にすまない・・・と思っている人が、どうしてほろ酔いかげんで、オイ、メシは・・・なんて言うの。私は一生浮気はしません。今日は食事をつくる気がしないので食事はありません。例の有色野菜が冷蔵庫にありますから、かじるなり、きざむなりしてください。」
 言って彼女は、その場を去るや、そのまま寝てしまった。これはこたえた。しかたなく岡本君は有色野菜をきざんでマヨネーズをかけて食べた。
 翌日、彼女がそのことを再びもちだそうとした時岡本君はつい、
 「ああ。きのう。そんな夢をみたの。」
 と言ってしまった。こんな賭は、まず成功しない。失敗すれば火に油をそそぐだけである。結果はみごとな失敗だった。
 岡本君の苦難の日々がはじまった。
 彼女はプンとおこり、何もしてくれない。岡本君は困って、
 「なあ。サチ子。おれがわるかったよ。もうカンベンしてくれ。」
 と頭をさげた。だが彼女はふくれっつら。
 「どうしたらゆるしてくれる?」
 と岡本君が聞くと、
 「もう二度と浮気しないとちかう?」
 と彼女は問いつめた。
 「ああ。誓うよ。」
 「じゃ、証拠をみせて。」
 「証拠ってどうすればいいの?」
 「あなたの気持ちを行為で示して。それとバツとしてこのノートにすべて、「サチ子。世界一愛してる。」と心をこめた、きれいな字でびっちりかいて。誠意がみとめられたら今回だけはゆるしてあげます。また浮気したら今度はもっときびしくするからね。わかった。」
 岡本君「トホホ・・・。わかったよ。でも仕事もあるし、時間もかかるから、すぐにはできないよ。」
 彼女、少し考えて、
 「じゃ、二週間だけまってあげるわ。」
 岡本君は内心で、
 「やれやれ。こまったことになった。」
 と言ってため息をついた。

 彼女はよろずのことを岡本君にいいつけるようになった。無条件降伏の立場を感じていた岡本君は、それに従うしかなかった。し、実際従った。彼女はだんだん、これからの結婚生活において、有利な条件を自分が手に入れたことに気づきだした。そして又、彼女は、自分の方から許しを求めず、それをすべて彼女の心に委ねている彼のまじめさに、いとおしさ、を感じるようになりはじめた。だが有利な条件を簡単に手離す気にはならなかった。狡知が彼女にめばえた。
 そんなある日曜日の様子。
 夕御飯は彼女がつくってくれたのだが、彼女に命じられて食器洗いをしている岡本君に、ゴロリと横になってテレビをみながら、ふりむきもせず、
 「ねえ。あなた。おわったら肩もんで。こってるんだから。」
 岡本君は肩を揉みながら思うのであった。
 「トホホ。何でオレこんなことしなくちゃならないんだろう。なんでこんな女と結婚しちゃったんだろう。結婚を申し込んだ時は、無垢な少女のように恥じらいながら、もじもじして「一生、何を言われても最善をつくすようがんばります。」と言ったが、あれはいったい何だったのだろう?それなのにオレが彼女のいうことをきいてれば手をかけた料理をつくって頬杖しながらニコニコして「ねえ。あなた。どう。おいしい?」などと言って本当に幸福そうな顔してる。」
 「ひょっとしてオレはだまされてしまったのかもしれない。」
 と、岡本君は思い、いたたまれなくなって外へとびだし、駅前ののんべえ横丁の飲み屋へ行って安酒をあおり、
 「オレは彼女のおもちゃじゃなーい。」
 と大声で一人どなるのであった。そして酒のいきおいをかりて、一大決心し、
 「よーし。もーガマンの限界だ。今日こそは白黒つけるぞ。」
 と、言って家へひき返し、
 「やい。サチ子。お前はオレをだましたんだろう。ほんとうのことを言え。おれは腹をきめている。お前がほんとうのことをいわないならばオレはお前と離婚する。」
 と問い詰めた。すると彼女は途端につつましく正座した。
 「そ、そんな。だます・・・なんて。ひどいわ。そんなふうにわたしを思っていたなんて、いくらなんでもひどいわ。ふつつかで、いたらない所は多くあるでしょうが、私なりに精一杯、努力しているつもりです。」
 と言って涙をポロポロこぼすのであった。
 「ひどいわ。だましたなんて。あんまりだわ。」
 彼女は何度も、くり返しながら泣きじゃくるのであった。そんな彼女をみていると岡本君はだんだん自分がひどいことを言って彼女を傷つけてしまったように思い、後悔し、
 「わかった。オレがわるかった。うたがってすまなかった。だからもう泣くのはやめてくれ。」と彼女の肩に手をかけていうのであった。すると彼女は、おそるおそる「ホント?」と言って目を上げた。
 「ああ。ホントだとも。」
 「もう離婚するなんていわないでくれる?」
 「ああ。いわないよ。」
 すると彼女の涙はピタリととまった。彼女は居間を出た。なにやら机でゴトゴト音がする。しばししてパタパタと早足に彼女はもどってきた。便箋とボールペンと印鑑と朱肉をもっている。彼女は、それらを机の上に置き、
 「じゃ、こう書いてくれない。」
 とモジモジして彼女が書いたらしい文をそっとだした。それにはこう書かれてあった。 「私、岡本○○はもう二度と自分から、妻サチ子と離婚したいなどとはいいません。もし、自分の意志で離婚を願い出るのであれば、自分の財産はすべて、妻サチ子にゆずり、生活の保障として毎月、収入の六割を妻サチ子に支払います。」
 岡本君が「何でこんなことまでしなきゃいけないの?」と聞くと、彼女は真面目な口調で、 「私たちの愛ってこわれやすく、弱いでしょ。だから今もう一度、私たちの愛の永遠性を誓いあいたいの。」
 と目をかがやかせていう。岡本君は、何かへんだなーと思いながらも、ことば通りを書いて、印を押すのであった。
 でもこんな様子は一日だけ。彼女はまたしても、もとのような態度になった。岡本君は、とうとう本当に彼女の本心がわからなくなってしまい、それを知ろうと一計を案じた。
 それはこうである。
 大学の時、彼女と親しかった、堀順子・・・に自分の留守中に家に来てもらう。サチ子は順子には何でもはなすだろう。バックにテープレコーダーを入れておいてもらってサチ子に気づかれないように二人の会話を録音してもらい、動かぬ証拠をとるのだ。 はたして、それは実行された。順子は、近くに来たからついでによってもいい・・・と聞いて、岡本君の家にきた。ひさしぶりに会ったよろこびから、二人の会話は、はずんだ。順子はさりげなく言った。
 「いいわねえ。サチ子、岡本君と結婚できて・・・。彼にあこがれてた子、多かったのに。私もそうだったわ。うらやましいわ。」
 これはサチ子の優越感をくすぐった。
 サチ子は自慢げに言った。
 「そうでしょ。彼は私だけのものよ。一生ね。」
 「でも彼、結婚しててももてるわよ。そうしたらどうする?」
 「ダーメ。そんなことゆるさないわ。ちょっとでも他の人と親しくしたら、きびしくおしおきしてやるの。」
 「でも彼だって人がいいけど、そんなことしておこらない?」
 「ダイジョーブよ。あの人、頭わるいもん。ちょっと涙みせればすぐ信じちゃうわ。」 彼女は自分の狡猾さを思う所無く自慢した。
 二人はその後、話題をかえ、少しはなしたのち、学生時代と同様、バーイ、といってわかれた。
 その日、彼女はうかれた気持ちで、ダンナさまが帰ってくるのをまっていた。夕方から小雨がふりだした。
 チャイムがなった。
 「おかえりなさい。今日は、あなたの大好きなビーフシチューよ。」
 と、いつも以上の笑顔で言った。
 だが様子が変である。
 岡本君は今まで一度もみせたことのない険しい表情で彼女をジロリとニラミつけたのち、だまって上がっていった。このはじめてみる岡本君の態度に彼女は少し、不安を感じだした。
 「ねえ。あなた。どうしたの。」
 といっても岡本君は何もいわない。
 「おふろを先にしますか。食事を先にしましか。」
 と聞いてもこたえてくれない。
 岡本君は上着をぬぎすてて、食卓についた。そして彼女をひとニラミした。彼女は、おそるおそるテーブルについた。シチューの鍋はさめるのを警告するかのごとくカタカタ音をならしている。雨の音がはげしくなった。
 岡本君はだまってカバンからテープレコーダーを出した。それは、今日のサチ子と順子の会話だった。話が大事なところへきた。それもすべて録音さていた。岡本君は彼女をニラミつけている。彼女の顔からみるみる血の気がひいた。そしてワナワナ、ガクガクふるえだした。岡本君はテープをきった。そしてどなりつけた。
 「おい。サチ子。何とかいってみろ。このおおうそつき女!!このサギ師。オレはお前と離婚する。お前なんかに慰謝料をやる必要なんかない。それとも、このテープをおれとお前の両親にきかせてやろうか。どっちが正しいか、きいてみようじじゃないか。」
 彼女はただワナワナ、ガクガクふるえているだけである。
 「えっ。オイ。何とかいってみろ。」
 岡本君はシチューの鍋をおもいっきり床へたたきつけた。
 「何が永遠の愛だ。人をバカにしやがって。」
 彼女は無力感にうちひしがれてしまっている。だまっている彼女に、
 「エッ。オイ。何とかいってみろっていってるんんだ。」
 とどなりつかた。
 彼女は目からポロポロなみだをこぼしだした。
 「フン。その手はもうくわん。このペテンおんな。」
 彼女は、ますます泣きながら、
 「ゴメンなさい。かるはずみなことをいってしまって。でもあなたを愛している気持ちは本当です。」と訴えた。
 「フン。もうオレはお前の口車には二度とのせられないぞ。」
 彼女は答えられない。
 「でてけ。今すぐでてけ。お前の顔などもうみたくない。」
 と言って岡本君は一万円札を卓上にたたきつけた。でも彼女は、うつむいたまま動けない。業を煮やした岡本君は一万円札を彼女のポケットにつめこみ、腕をつかんで彼女を無理矢理立たせた。そして彼女を玄関まで荒っぽく連れていった。岡本君は玄関をあけると、降りしきる雨の中へ、彼女をつきとばした。そして靴と傘を放りだした。いかりを込めて戸を閉めてカギをかけた。岡本君はテーブルについた。箪笥の上にのってる結婚式の二人の笑顔の写真が目についた。無性に腹がたって、写真をとりだして、二人をひきさいた。それでも気がおさまらず、ズタズタにひきさいた。
 岡本君は台所から酒をもってきてのんだ。のみにのんだ。彼女のものが目につくたびに虫酸が走った。そしてそのいくつかのものを床にたたきつけた。外では雨がはげしく屋根をうっている。気づくと、もう十一時を過ぎていた。岡本君はワイシャツのまま床のついた。このうっとおしい雰囲気から、ともかくはなれたかった。彼女の実家は電車で五つはなれた所である。
 「もうとっくについているだろう。あいつは今、どんな弁解を考えてるだろう。いや、もう弁解なんかかんがえられないだろう。」全部いいきったマンゾク感、翌日が休みである安心感に酒の力が加わって、岡本君はいつしか眠りへと入っていった。外では、あいかわらず、雨がはげしく屋根をうっている。

        ☆     ☆     ☆

 岡本君が目をさましたのは翌日の昼過ぎだった。のんだわりには頭はすっきりしていた。カーテンをあけると雨はもう、すっかりやんでいた。雨上りの虹がかかっている。その美しさは岡本君の心にゆとりを与えた。岡本君は何本かタバコを吸った。
 「考えてみてば、オレもちょっといいすぎたかもしれない。あいつにとってはオレがすべてだったんだからな。あいつは嫉妬深いんだ。雨の中につきとばしたのはちょっとやりすぎだったかな。だがこれで、あいつの方でも、オレがきらいになっただろう。あとくされなくわかれられる。」 岡本君は顔を洗い、パンと牛乳の軽い食事をした。そして新聞をとりにいこうと思って玄関をあけた。すると、そこに一人の女性がうつぬいたまま正座している。全身ズブぬれである。サチ子だった。稲妻のような衝撃が岡本君の全身をおそった。しばしの間、茫然と立ちつくしたまま、彼女をみていたが、彼女は微動だにしない。しばしして、やっとわれに帰った岡本君は彼女のもとにしゃがみこんだ。彼女は、まぶたはさがっていたが、目はとじていなかった。岡本君は彼女のひたいをさわった。かなりの熱がある。
 「お前。昨日からずっとこうしていたんか?」
 岡本君が聞くと彼女は力なくうなずいた。岡本君の目から涙が急にあふれだし、とまらなくなった。岡本君は心の中で思った。
 「ああ。この女だ。おれにとって世界一の女はこの女だ。オレが一生、命をかけてまもってやらなくてはならないhのはこの女だ。」
 岡本君は彼女を力づよくだきしめた。彼女は意識がうすれ、感情もほとんどマヒしていた。ただ一言、
 「ゴ・メ・ン・ナ・サ・イ。」
 と感情のない電気じかけの人形のように言って、たおれふしそうになった。岡本君は彼女をささえ、力づよくだきしめた。
 「オレがわるかった。お前をうたがったオレがわるかった。もう二度とお前をうたがったりしないよ。お前をうたがったオレをゆるしてくれ。」
 すべてを洗いながしたかのごとく降った雨の後の日の光は、ときおりおちる庭の樹の雫を宝石のようにかがやかせていた。

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