油屋種吉の独り言

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フラジャイル。  (1)

2024-05-07 21:24:28 | 小説
 ピーピー鳴っていた笛が突然やんだ。
 しかし、台所にいるはずの陽子から何の返
事もない。
 キャベツを切る音も、包丁をふるう音もし
なくなった。
 床を何かがはうような物音がする。
 何かを求めているのだろう。
 陽子が腰をかがめているらしく、カウンタ
ー越しに彼女の姿が認められない。
 それからバタンとお勝手のドアが閉まる音
がつづいた。 
 「もおう、どういうことよ。そこにいたん
なら何か言ってよ。外に出るんなら出るわよ
って、ひと言、声をかけてくれたっていいじゃ
ない」
 真弓が怒った調子で言った。
 「忙しいのよあたし。学校へ行くんだしね。
探し物もあったの。せっかくきこうと思った
のにきけないじゃないの」
 真弓は台所の方を向き、しばらく立ち尽く
していたが、あきらめたのか居間のソファに
腰を下ろした。
 左手に持っていた歯ブラシを、もう一度口
にくわえ、ふんふんと鼻歌をやりだした。
 首から下げていた、ひも付きの袋の中に入
れてあるスマホを取り出し、グーグルに何や
ら入力すると、小鳥や川のせせらぎの音が出
始めた。
 両目をつぶり、ふかぶかとすわりなおす。
 (今はいい時代ね。面白くない時はこれに
限るわ。すぐに別の世界に逃げられるし)
 あまりに気持ちが安らいだのか、真弓はそ
のままのかっこうで眠りこんでしまった。
 歯ブラシがソファの上に落ちてしまい、彼
女の口はあけっぱなしだ。
 泡だらけで、ふためと見られない顔になっ
てしまい、ついには、すうすう寝息を立てた。
 唐突に誰かに両の手首をつかまれ、真弓は
悲鳴をあげた。
 目の前に、見慣れた人の顔があった。
 笑っている。
 いつもの母に違いないが、どことなくもの
哀しそうなまなざし。
 真弓は目を覚ましたものの、なんと言って
いいかわからない。
 あわてた真弓は、ぐいっと、パジャマの右
手の袖で自分の口のまわりを拭いてから、き
つい目つきを陽子のほうに向けた。
 「やかんが音立ててるの、わたしがせっかく
教えてあげてるでしょ。だったらすぐに返事
してくれるものでしょ。そのうえ、黙って外
に行っちゃうし……」
 言ってる途中で、涙声になった。
 「あっ、ごめんごめん。そんなつもりはぜん
ぜんなくってよ。それにしてもまゆみの寝顔っ
て可愛いわ」
 「うそでしょ、もう……、ごまかしたってだ
めなの」
 「急に、洗濯物を思い出したの。ほら、忘れ
てたの。ゆうべ取り込むのをね。それにして
もよっぽど疲れてるのね。そんなふうに寝落
ちするなんてね。未来の旦那さんに見せられ
ない顔だわね」
 「ふうん、ああそうなんだ。自分がわるいか
らって。ずいぶんいろいろと勝手なことをおっ
しゃるお口ですこと、あっ……」
 真弓が突然声をあげた。
 そろそろと立ち上がると、左手で下腹をお
さえたまま、よろめく足取りで歩き出した。
 「それどころじゃなくなったわ」
 「どうしたの、急に」
 陽子の顔が青ざめる。
 「別にい、心配することってないぞ」
 真弓がわざとらしく、男っぽい声を出した。
 春らしい花柄模様のピンクのパジャマの背中
を陽子に向けたまま、暖簾をかきわけ、一階の
突き当りに消えた。
 
 
  
 
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2 コメント

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Unknown (sunnylake279)
2024-05-08 12:56:09
こんにちは。
何気ない日常のようで、どこか意味ありげなお話だと思いました。
仲の良い母と娘の会話がリアルですね。 
陽子に何があったのか知りたいです。
Unknown (marusan_slate)
2024-05-09 15:05:23
こんにちは🌞
とっても引き込まれて。
…親子仲良しでいてほしい!!😆
次はどうなるか。
お互いステキな一日に
なりますように☆★☆
テル

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