若者言葉や略語が頻繁に使われる昨今、正しい日本語を使用できない子供や心情を読み取れない、社会的常識を認識できない子供たちが急増している。
日本の教育問題の課題もあるが、メディアやデジタルに頼り切りになった現代社会の弊害ともいえる現象のように感じます。


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■国語力をめぐる現場の先生たちの強い危機感
――なぜいま〈国語力〉が問題なのでしょうか?
長年、不登校や虐待の問題など、子供たちが抱えた生きづらさをめぐって、当事者や関係者に多くの話を聞いてきました。取材を通して感じたすべての子に共通する問題点は、「言葉の脆弱性」でした。
あらゆることを「ヤバイ」「エグイ」「死ね」で表現する子供たちを想像してみてください。彼らはボキャブラリーが乏しいことによって、自分の感情をうまく言語化できない、論理的な思考ができない、双方向の話し合いができない――極端な場合には、困ったことが起きた瞬間にフリーズ(思考停止)してしまう
そしてあるとき僕自身、都内の小学4年生の授業で、新美南吉の『ごんぎつね』を子供たちがとんでもない読み方をしているのを見て、衝撃を受けました。


■社会常識や人間的な感情への想像力が欠如
――どんな授業だったんでしょうか。
この童話の内容は、狐のごんはいたずら好きで、兵十という男の獲ったうなぎや魚を逃してしまっていた。でも後日、ごんは兵十の家で母の葬儀が行われているのを目にして、魚が病気の母のためのものだったことを知って反省し、罪滅ぼしに毎日栗や松茸を届けるというストーリーです。
兵十が葬儀の準備をするシーンに「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていました」という一文があるのですが、教師が「鍋で何を煮ているのか」と生徒たちに尋ねたんです。すると各グループで話し合った子供たちが、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」と言いだしたんです。ふざけているのかと思いきや、大真面目に複数名の子がそう発言している。もちろんこれは単に、参列者にふるまう食べ物を用意している描写です。

――「死体」を煮ているとは、あまりに突飛な誤読ですね!

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■様々な要因で広がる家庭格差
――近年、PISA(国際学習到達度調査)の学力テストで、OECD諸国のなかで日本は読解力が15位だったことが大きな話題になりました。
PISAの読解力テストはテクニック的な側面も大きいと思います。たしかに文脈をロジカルに読み解く力自体も弱まっているのでしょうが、それ以上に深刻なのは、他者の気持ちを想像したり、物事を社会のなかで位置づけて考えたりする本質的な国語力――つまり生きる力と密接に結びついた思考力や共感性の乏しい子が増えている現実です。現場の先生たちが強く憂慮しているのもその点です。
こうした国語力は自然と身につけている家庭環境の子にとっては何の問題にもなりませんが、様々な要因で家庭格差が広がるなか、「できない子」にとっては著しい困難を伴います。本質的な国語力の衰退がいまや一部の子に限った話ではないことを認識しなければ、いくら教育政策で「読解力」向上に力を入れても上滑りしてしまうでしょう。


■交際相手の行為を“恐喝”と思わない女子高生
――従来から言われている「読解力低下」問題とは違う次元の深刻さを感じますね。
象徴的なのは、ある女子高生に起きた恐喝事件です。その子は、わりと無気力なタイプで、学校も来たり来なかったりデートの途中で黙って帰ってしまうようなルーズな面がありました。こうした態度に怒った交際相手の男子生徒が、非常識なことをしたら「罰金1万円」というルールを決めます。それでも女子生徒は反省せずルールを破り、毎月のバイト代のほとんどを彼氏に払い、しまいには親の財布から金を盗んで支払いにあて続け、発覚したときは100万円以上も払ったあとでした。
ところがとうの本人は、自分の被害を全く認識できず、「言われたから」「ルールで決めたから」と相手の行為を“恐喝”とすら思っていないんです。男子生徒のほうも「同意あったし。金は二人で遊びに使ったし」と平然としている。
当人のなかでは「ルールを決めた→同意した→実行した、何が間違っているの?」というプログラミング的な理屈で完結しているのですが、社会の一般常識や人間関係を考えたら明らかにおかしいわけです。搾取されているゆがんだ関係や親の金を盗んで渡していることに疑問すら持たない。


■子供たちの国語力が身につきにくい要因
――問題の根深さを考えさせられる事例ですね。
こうした国語力の低下は、実はよくしゃべる子にも当てはまります。乏しい語彙と短文で一方的な自己主張や好きなゲームの話とかはべらべら話すけれど、友達とのトラブルにならないよう相手の話を聞いて折り合うとか、周りに意思を伝えて物事を打開するとか、自分が生きやすくなる形で言葉を使えない子も多い。
不登校児たちを見ていても、自分の気持ちを言語化できない子供たちの一方で、よくしゃべるのにどうしてこんなにメンタルが弱いの? と大人が戸惑うようなタイプもいます。どちらも生きる力と結びついた国語力を育めていません。

――なにがこうした国語力の低迷を招いたのでしょうか。
本書で多角的に詳しく取り上げましたが、一言でいえば現代社会を取り巻く諸問題が重なった結果です。家庭格差と言語発達の問題、ゆとり教育からつづく教育行政の落とし穴、深刻な教員不足と予算のなさ、ネット・SNSという特殊な言語環境、これらの要因が複雑に絡み合って、子供たちは生きる上で必要不可欠な国語力が身につきにくい環境におかれています。ギガスクール構想やアクティブラーニングなど、次々と目新しい教育プログラムは導入されているのに制度が形骸化しがちです。


以上