慶応3年(1867年)5月に建設された島原大門。
豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、
これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され六条三筋町として栄えた。
その後朱雀時に移ったがその急な移転騒動が時あたかも九州島原の乱の直後であったため、
それになぞらえて島原と称されるようになった。
ここ輪違屋は大夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688~1704)の創業と伝える。
現在の建物は安政4年(1857)に再建されたといわれるが、
その後増改築がなされて、明治4年(1870)にはほぼ現在の姿になった。
この建物は建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、
京都市指定有形文化財に指定された。
島原花街の正式名称は西新屋敷。
6つの町で構成されている。
1976年に京都花街組合連合会を脱会し現在は前述の輪違屋のみが
正式なお茶屋の鑑地を有して置屋兼お茶屋の営業を行っている。
ここ島原エリアの中にある湯の宿松栄と誠の湯。
旅館松葉は露天風呂・檜風呂もある充実の浴場施設が自慢。
このお風呂は京都市内随一のものだとか。
一方誠の湯はスーパー銭湯。
タクシードライバー曰く「ここは新選組が好きな方に人気があるとか」
どうして?
この風情ある日本建築は島原遊郭と関係あるのかわからないが、
その存在感に思わずシャッターを押してしまった。
ここで再度島原の歴史を振り返ってみると、島原は元禄期に最も栄えた。
立地条件が悪かったこと、また格式の高さが原因となって祇園町、祇園新地、
上七軒二条などの遊里に人が流れ、次第に衰えていった。
この角屋(すみや)は寛永18年(1641)の島原開設当初から連綿と続く揚屋
(今でいう料亭で、江戸期京都では民間最大規模の宴会場)だ。
揚屋は江戸の吉原になく、京島原と大阪新町にあった。
揚屋は置屋から太夫(傾城の最高位)や芸妓を呼び、遊宴をするところだった。
幕末ごろは、新選組の局長クラスの宴会があり、また隊士が勤皇派を探索に来たが
ここでは池田屋のような乱闘はなかった。
因みに新選組局長芹沢鴨は文久3年(1863)9月18日に角屋で
行なわれた局長クラスの宴会に出席し、その夜屯所で暗殺された。
この角屋の向い側には「角屋饗宴もてなし文化研究所」がある。
昨年12月から休館していたが、3月15日から「四条派と角屋の交流」という企画展が始まるそうだ。
又島原の歴史に戻ると幕末、西郷隆盛、久坂玄瑞や新選組らが出入りした。
昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数が減りついにお茶屋組合が解散して普通の住宅地と化した。
因みに太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。
江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌、連俳等の文芸が盛んで、
中でも俳階は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた。