⑳“時間軸”から観た“素直な生き方”
Osann :「ところで、桜良が亡くなって1ヵ月ほど経ってから、
春樹は 桜良が読んでいいよと言っていた共病文庫を
見せてもらうために、桜良のお母さんに会った時、
確か こう言われたよね。
『本当にありがとう。あなたのおかげで、
あの子はしっかり生きることができた。』
ハジメ:「うん、そうだったよね。」
Osann :「“素直に生きる”ということが “しっかり生きる”ことに
繋がっていくんだけど、実は、この『しっかり生きる』
ことに、“時間軸”というものが深く関係してくるんだ。」
ハジメ:「えっ❔ つまり····❔」
Osann :「人の体自体は“今ここ”にあるのにもかかわらず、
その人の想いは“過去”に生きていることもあるし、
逆に、“未来”に生きていることもあるんだ。
つまり、人の肉体は物質次元(=物理次元)に属するもの
であるから3次元というこの世に生きるしかないんだ
けど、人の想いというのはそのような制約を受けない
ため、過去に縛られて生きることも可能だし、また
未来に想いが飛んでしまっていることもあり得るんだ。
例えば、他人や自分をゆるすことができない人、誰かに
何らかの恨みや憎しみを持っている人、後悔や未練や
悔しさや悲しみなどを持っている人などは、まさに
過去に引きずられ、過去に囚われ、過去に縛られている
にで、いわば“過去に生きている人”であると言えるんだ。
一方、まだ実際に起こってもいないことを心に自分で想い
描いて、不安や怖れ、心配に押し潰されそうになって
いるような人、今 現在の状況をありのまま受けとめたり、
認めたりすることができず、今ある現実を悪いもの、
嫌なものと決めつけたり、あるいは、現状に不平不満を
感じているからという理由で、今ここから逃れたい、
今を変えてしまいたいと考えて、自分の願望を神に祈ると
いうのも、ある意味、未来に想いが飛んでしまっていて、
“未来を生きている”と言えるんだ。
いずれの場合も、地に足が着いていない、“今ここ”に
おいて命が輝いていない、内なる光が暗くなっている·····
というわけなんだ。」
ハジメ:「ということは、“しっかり生きる”ということは、体が
置かれている“今、ここ”に、想いもしっかりとどまって
いるということ·····。つまり、両者の時間軸が
“今 この瞬間”において一致しているということが、
“しっかり生きる”ための秘訣というわけなんだね。」
Osann :「そういうこと。
人の想いというのは、過去であっても未来であっても
自由に飛んでいくことが可能なんだけど、でも想いの
軸足も、体が存在している“今 この瞬間”にしっかりと
置いておくことがとても重要なんだ。
ところが、ほとんどの場合、想いの軸足を“今という
この瞬間”に置いてないために、体だけを“今ここ”に
置いてきぼりにしたまま、想いだけが“過去”や“未来”に
単身赴任してしまって、体がいる“今ここ”にずーっと
戻ってこない状態が続いているというわけなんだ。
で、そんなふうに体が生きている時間軸と想いが生きて
いる時間軸との間にズレが生じている時に、葛藤や
ストレスが生じてしまうことになるんだ。
不安や心配 思い煩い、恐れ、取り越し苦労、怒りや
苛立ちの感情などといった“お荷物”を、今ここ”に置いて
きぼりにされている体に頻繁に送りつけてくるんだ。
そのように送られてくる余計な“お荷物”にふりまわされて
ばかりいるので、生きるために使うべきエネルギーが
過去や未来に分散してしまって、“今というこの瞬間”を
しっかりと充実して生きることができなくなってしまう
·····というわけなんだ。
さて、桜良のお母さんが『あなたのおかげで、あの子は
しっかり生きることができた』と言ったということは、
桜良が“今というこの瞬間”を充実してイキイキと命を
輝かせて生きていたことをお母さんも気づいていたと
いうこと。
で、桜良が“今、この瞬間をしっかり生きていたこと”は、
『君の膵臓をたべたい』の映画のどのシーンからわかると
思う❔ 実は、それについては 前にもチラッと話した
ことがあるんだけどね。」
ハジメ:「ちょっと待って·····。思い出してみるから。
確か、つかの間の外出許可をもらって、桜良が自分の
寿命があと僅かしかないことに気づいた、あの病院の
屋上でのシーンあたりじゃない❔ その時、点滴を
つけたままで 長イスに腰かけたよね。」
Osann :「まさに、そのシーンなんだ。そこで、桜良はこのように
言ってたよね。
『最後に彼ともう一度旅行して、桜を見に行く約束を
した。 いつか 恭子と3人でも行きたかったな···。
でも、十分幸せ。彼と一緒にいられる。
そう思えるだけで幸せ。』
そして、桜良は顔をあげて微笑んだんだ。
ここで桜良が語っている言葉にしっかりと耳を傾けて
もらいたいんだ。
ここで、春樹と もし旅行に行けたら幸せ·····とか
一時退院して春樹と一緒にいられたら幸せ·····という
ふうには、桜良は言わなかったんだ。
もしそうなら、春樹と会って一緒にいられるという
“近未来”に幸せがあって、まだ春樹に会ってもない、
一緒にいられていない“今、この瞬間”においては幸せ
でなくなってしまうんだ。
これが、体が“今ここ”にあるのに、想いは未来に飛んで
行ってしまっていて、両者の時間軸にズレが生じている
状態と言えるんだ。このような状態においては、十分な
幸せというものは存在し得ないんだ。
なぜ、病院の屋上には春樹がいないにもかかわらず、
“今ここ”で 桜良は十分な幸せを感じて、微笑むことが
できたのか❔
その秘訣は、桜良が語っていた言葉にしっかり耳を
傾けるとわかるんだ。桜良は、『でも、十分幸せ。
彼と一緒にいられる。そう思えるだけで幸せ』と
言ったんだ。これは、桜良が想いの軸足が、桜良の
体が存在している“今この瞬間”に置きながら、近未来
起こるであろうことを“今この瞬間” において想いに
よって捉えているんだ。だから、“今ここで”桜良は
幸せでいることができるんだ。
ある意味、“今この瞬間”こそが『リアルな時間』と
言えるんだ。
そういう意味では、“過去”も“未来”も『幻想』と言える
のかも知れない。
ところで、“信仰の薄い者”とは“思い煩う人”のことで
ある·····山上の説教の中でこのようにイエスが言って
いるんじゃないかって、私には思えてならないんだ
(マタイによる福音書6章25節~34節を参照)。」
ハジメ:「もう少し、その点を詳しく説明してくれない❔」
Osann :「“思い煩い”というのは、人の想いの軸足が“今この瞬間”
から離れてしまって、想いが過去のことや将来のことに
囚われてしまった時に、生じるものなんだ。
“今この瞬間”をしっかりと生きていないことを示す
サインが“思い煩い”と言えるのかも知れない。
それはまた同時に、その人の“信仰が正常に働いていない”
ことを示すサインでもあるんだ。
話が横道に逸れてしまったので、話を戻すね。」
**二人の興味深い会話は、まだまだ続く(お楽しみに)**
(2019年1月27日~2月5日、2月17日に補足改訂)
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