研ぎ澄まされた孤独

とりとめのない思考を無理に言語化した記録

2023年を始めるにあたって 目標「軽やかに」

あけましておめでとうございます。

しいたけ占いによれば、2023年上半期は「 新しいスタート兼クライマックス」だそうです。 これまで準備してきたことを一気にぶつけて、やったことのない未来に向かって自信をもって時速300kmで突き進んでいく、みたいな年になるらしい。

僕のなかでは、2023年のテーマは「軽やかに」 に決めている。

かつて、僕は(いまよりも)比較的軽かった。たとえば会社のデスクにいて、ちょっとつまづいて転びそうになったときのこと。 隣にいる先輩に「いま転びそうになったね」 と笑いながら指摘されたのだが、そこで「え? 僕いま何かしました?笑」ととぼけた。先輩は「〇〇 くんってたまにそうやってとぼけるよね笑」と笑った。

ーーということをやっていた。そういうことができていた。

その軽さが失われ、 鈍重な人間になってしまったのはいつからだろう?

べつに決定的なきっかけがあったわけではない。 時間の重みがのしかかって、テリーヌみたいに密度を増していってしまっただけだ。

ーーって書くとそんなに悪いことでもないような気がするな。 テリーヌおいしいし……

いずれにせよ僕は軽くなりたいのです。どちらかといえばスポンジケーキみたいに。テリーヌの濃厚な味わいを残したまま、スポンジケーキのようなふんわり感を取り戻したい。

「軽やか」というキーワードには、「軽さ」とか「軽薄な感じ」 をポジティブに捉えなおす、という問題意識も含めている。

 

よりラフな文体に

昔からブログを書くときは「だ、である」にするか「です、ます」 にするかを最初に決めていました。決めずに書き出すと、途中で混在してしまうことがある。「やべえ、トンマナめちゃくちゃだ」と統一の強迫観念が立ち上がってくる。

でもそれをしないことによるグルーブ感もある。たとえば前述のしいたけ占い。たとえばここ数年流行っているベストセラー『20代で得た知見』のf。常体と敬体をラフにスイッチングする文体がわりとスムースに受け入れられる土壌ができつつある。

このブログのタイトル下に、「とりとめのない思考を無理に言語化した記録」と書いてあります。これはブログを開設した大学生の時に考えた文言です。人は言葉なしに人と考えを共有できない。伝達するには言葉を使わなければならない。

言語化とは、ふわふわしたものに輪郭を与える作業のこと。あいまいで所在が不明確なものにビシッと形を見いだすこと。

不安な気持ち、 悲しい気持ちというのはたいてい直視するのが嫌でそっぽを向いているから、具体的な姿が見えないがゆえに怖い。わからないから、漠然と怖い。

そこでちゃんと見てみたら「幽霊の正体見たり枯尾花」 みたいなことになるわけです。

映画「幸せへのまわり道」でトム・ハンクスが言っていた"Anything mentionable is manegable."(言葉にできることは対処できる) もそう。

そういうわけで、不安で悲しいこともままあった 2022年は、とくに意識して言語化に取り組んできました。

 

言葉にすることの暴力性

けれどもいろいろ経験して考えるうちに思ったんですが、 言語化って必ずしもいいことばかりではない。輪郭ができるからこそ、 固くて痛いものになってしまうということもある。 ふわふわした気体とかさらさらした液体だったのに、 固体になって辺や角ができて、当たると痛い。

明晰に言語化する作業にはそういう暴力性もあると思ったんです。

何事も境界線をはっきりさせることがいいとは限りません。

イヤホンにはダイナミック型とバランスドアーマチュア型というのがあり、一般的に後者の方が音の分解能に優れ「解像度が高い」と言われます。じゃあ前者はぼんやりした音で良くないのかといえばそうではない。D型はひとまとまりの音楽として楽しんで聴くのに向いている。BA型はモニタリングには向いてますが、聴き疲れしやすい。音の波間にたゆたうような心地よさはD型のほうがあるわけです。

コミュニケーションにも似たところがあると思っている。例えば何かの景色を見たときにその感動や美しさを要素分解して言葉で説明することが必ずしも楽しさには結びつかない。むしろ表情とか声色とかそういうところで表現した方が良かったりする。

というか、世の中には言語で説明できない喜びや悲しみっていうのもあると思うんです。それは言葉に還元することができない感情であり、ダイナミックに表現するしかないと思うんです。

これ以上説明できない感情、不安。 そういったものが一方にあるのならば、説明できない癒やし、 安心というものもこの世にはあるんじゃないだろうか。 たとえば愛情とか。

説明不能な不安/安心。その2つのバランスを取ることができず、 いよいよ高まってくる狂悖の性を解体するために際限なく不安の言語化をつづけている、というのがこんにちの僕の状況なのだと思います。じゃあどうするか。

 

ロジックを手放す

……っていってもここから先は生煮えで、アイデアスケッチという感じなんですが書いてみます。まず、これまでの僕はやや規範的な書き方に執着していたところがあると思います。こまやかに言語化したいとか、整った文章にしたいとか、ロジカルライティング志向なところがあった。もちろんそれは社会人として正しいことなんですが、代わりに冒頭で言ったような「鈍重な感じ」がつきまとってしまった。

そこから「軽やかに」行くための方法として、とりあえず文脈を気にしないというのを挙げたいと思います。ロジカルに読める文章をめざさない、ということです。

これまでの僕は、こんな要素のあとにこんな要素を置いて、こういうふうにつなげればきれいな文章になるな、などというふうに構成を考えていました。センター試験の英語の文章整序問題みたいに。でもそういうのってあんまり気にしなくても、読者はわりといい感じに読み取ってくれることがある。エイゼンシュテインのモンタージュ理論みたいな感じで、シーンとシーンを置いておけばいい感じに脳が間をつないでくれるわけです。星座みたいに。

あとは不必要に精緻な言語化をしないでいいのでは、というのを最近思っています。たとえば占い。しいたけ占い以外にも占いの文章を読んだんですが、まあ思っていた通り、わりに抽象的、あるいは誰にでも当てはまりそうなことを言っている(バーナム効果)。「基本はAですが、notA的なことも起きるでしょう」みたいなことも平気で言うわけです。けれどもそれはそれで読者はうれしかったりする。

 

ぼんやり、でもバイブスは込めて

で、ここからどんな示唆を得られるかなんですけど、そこはまだちょっと解明しきれていないんですが、たぶん大事なのはバイブスなんじゃないかなと。しいたけ占いを読んでいて最初に思ったのが「何を言っているかはわからないがバイブスはすごい」でした。

で、これって数年前に僕が映画レビュー投稿サービスのfilmarksとかでやろうとしていたことなんですよね。当時僕は、映画について細かく考えるのが面倒で、「●●が●●するシーンがあった。ウオオオオオ!!! いやめっっっっちゃかっこっよすぎんだろ!!」みたいな感じのレビューを書いていました。言葉ではなく、雰囲気や勢いで映画の感想を伝えようとしたのです。

しかしですね、こうしたレビューを後年読み返しても、どんな感想だったかわからないのですよ。自分で書いたにもかかわらず。「これはイカン」というのが言語偏重に切り替わった一つのきっかけでもあったかもしれません。しかし今、その時への揺り戻しを起こそうとしている。その時に、完全に戻ってしまうのではなく、しいたけ占い的な何か……メタファーやパワーワードを駆使した、ぼんやりしてるけれどバイブスはすごいという文章で表現をする方向に行けないか、などと思っています。

昔の僕は軽すぎた。でも今の僕なら、一度言語化に執着した僕なら、軽やかにそういう表現をすることができるんじゃないかと、ちょっと期待しているわけです。