ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

知っているのに知らぬふり

2024-04-15 07:43:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「記者の意識」4月8日
 連載企画『子どもっておもろい 作文のチカラ』が始まりました。『なにわ作文の会』の活動について報じる記事です。記事によると同会は、『月1回、土曜日に開催され、発表者を決めて、担任する子どもが書いた作文を発表する』のだそうです。
 『書きたいことを、書きたいだけ、書きたいように』が原則で、『テーマは自由。原稿用紙に何枚でも書いていいし、1行だけでも全く問題ない』『子どもに自由に作文を書いてもらい、学級通信などに載せてクラスで読み合う取り組みを続けている』とのことです。
 記者は、特に印象に残ったこととして、『勉強会の主題が、作文の書き方、教え方ではなく、教師が作文を「どう読むか」だったことだ。表現の上手下手は気にしない。その子はなぜそのような作文を書けたのか。作文の背景にある子どもの心の動きや暮らしとは-。会場に子どもはいなかったが、議論の中心にはずっと子どもの存在があった』を挙げています。
 私も担任時代、「書く」ことを重視してきました。同会の取り組みや理念はよく理解できます。しかし、私はこのような記事を目にするたびに、とても疑問に思うことがあります。記事を書く記者は、教育問題を担当している方だと思われます。そうであるならば、学校という制度や仕組みについて基本的なことは理解しているはずです。
 学校の授業は、各教科、道徳、特別活動、総合的な学習の時間などごとに、内容と時間数の基準が決められています。上記のいずれにも当てはまらない授業はあり得ないのです。では、同会の教員が行っている「作文」は、何の授業なのでしょうか。国語でしょうか。国語だとして、原稿用紙の3枚描く子供と1行書いて終わりという子供が混在しているとき、1行を1分で書き終えた子供は、残りの時間は何を何をしているのでしょうか。国語の時間ですから、他の教科の学習をさせるわけにはいきません。ドリルでしょうか、漢字練習でしょうか。自習させるのでしょうか。教員が個別指導するのでしょうか。
 公立学校の教員は、週案簿という形で、1週間の授業計画を校長に提出し、校長の許可を得て授業に臨みます。そこには、国語:作文、早く終わった子供は自習とでも書かれていて、校長が認めているのでしょうか。
 また、公立校は学習指導要領だけに則っていればよいのではなく、各教委ごとに制定されている教育の基本方針、各学校ごとに編成した教育目標・教育課程に則って教育活動を進める必要があります。基本的に、同学年で各学級毎に異なる内容の授業を行うことはありません。
 もちろん、実際には担任ごとに授業の進め方は異なりますから、1組はある単元に6時間を費やし、2組は7時間で学習を終えるということはあります。1組は学習班ごとに学習を進めていて、2組は個人の調べ学習を中心に進めるという違いもあります。国語でいえば、1組は三読法、2組は一読総合法で指導するということもあるでしょう。しかし、同じ時期に1組は作文、2組は教科書の教材を使った読解の授業ということは、違う理由、年間を通したときには同じ学力形成が見込まれる根拠を保護者に説明して納得を得なければ、学校への不信感をもたらすことになります。
 また、そこで行われる「評定」「評価」についても説明が必要になります。小学校でも、私立や国立の中学校への進学や中高一貫校への進学など、いわゆる「お受験」が一般的になりつつある現在、内申書や報告書という形で、評定が合否に影響してきます。1行書いた子供と1200字書いた子供について、評価においてどのような基準や視点で行われたのか、保護者も子供も気になるはずです。学校も公的機関として、説明責任があるということは記者は皆知っているはずです。
 私が今ここで書き並べたことは、教育を担当する記者であれば瞬時に頭に浮かぶことばかりです。こうした点について、同会の実践には問題点はないのか、そのことを点検しないまま、『子どもたちの豊かな言葉があった』というような情緒的な表現で肯定してしまう姿勢に、教育報道はこんなことでよいのか、という疑問を抱いてしまうのは私だけでしょうか。

 

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