ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

教育の目的、授業の目標

2021-11-24 08:03:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「目的と目標」11月19日
 特集ワイド欄は、作家・明治学院大教授ドリアン助川氏へのインタビューでした。『生きること 味わえればいい』という見出しの記事の中で、助川氏は、『中高生たちが大人から常々言われていたのが、「目的を持ちなさい」ということだった。特に受験の時なんかね(略)上半期の売り上げの目的を達成すると、その日の夜は宴会になる。だけど翌日からもっと高い目標を据えられちゃって首を絞めていくことになるわけですよ。じゃあ本当に目的は必要なのかと』と目的をもたされて生きる生き方に疑問を呈していらっしゃいました。
 おっしゃりたいことは分かりますし、共感もします。ただ私がこの部分の記述を読んで頭に浮かんだのは、助川氏の考え方に対する是非ではなく、若い頃の授業事前研究における「目的」に関するのことでした。
 ある授業のために学習指導計画及び学習指導案を作成します。そこには、「ねらい」「目標」などの文言が使われます。単元の目標、本時のねらい、学習過程のつかむ段階のねらいなどです。「我が国は経済や文化の交流などで世界の国々と深いつながりをもっていることを理解させる」、「地域に多く生活している○○国の人々の生活や文化の特色を理解させる」、「○○国の人々の伝統衣装がその国の気候に適した素材や製法で作られていることを知らせ、我が国の着物との共通点を考えさせる」などと書かれるわけです。
 若い頃の無知を晒すようで恥ずかしいのですが、当時、目的と目標はどう違うのか、というようなことも知らずに、学習指導案を作っていたのです。私の指導案を見た先輩は、「○君(私のこと)、目的と目標ってどう違うの」と尋ねてきました。私が返答に詰まっていると、「目標という言葉を使った文章を考えてみて」と言われました。
 それでも戸惑っている私に、「今月の売り上げ目標は2000万円です、という言い方はおかしい、おかしくない?」と訊かれました。もちろん、おかしくありません。そうするとさらに、「今月の売り上げ目的は2000万円は、どう?」と尋ねてきます。普通の日本語感覚からすれば、おかしい、馴染まない、違和感を覚えるということになります。私がそう答えると、「目的も目標も、目指すところを示すというイメージで、似てるよね。でも、明らかに違う。どこが違うんだろうね」と質問を重ねてきたのです。
 目標という言葉には、具体的な数値を掲げて違和感がありませんが、目的に数値は合わない、というような趣旨の答えをした記憶があります。私の回答を受け、先輩は「教育には目的がある。人格の陶冶とか、心豊かな人間の育成とか。一方、個々の教科とか授業とかには目的は相応しくない。鎌倉幕府の成立について45分間勉強したからといって、人格が陶冶されるなんてありえないからね」とおっしゃいました。
 さらに、「仮に、鎌倉幕府云々という授業で、心豊かな人間の育成という目的を掲げたとして、評価はできるかい?できないだろう。授業をしてその授業がどうだったか評価ができないというのでは、問題点を改善することもできない、つまり教員として成長することもできないことになる。成長しない先生の授業を受け続けさせられる子供は被害者だよね」と続けられたのでした。
 長々と書いてきましたが、私は先輩とのやり取りから、いつ到達できるか分からない遠い到達点、方向は分かるけれどもゴールは分からない、それが目的。目的に至る道に方向は間違っていないか、どこまで進んできたかを示す目安として置かれた道標が、単元や授業の目標なんだと理解しました。
 当たり前の結論ですが、20年以上昔の私はそんなことも分からずに授業を考えていたのです。そんなことを助川氏の話から思い出しました。

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