一晩が経ち実感が湧いてきた。興奮はさめやらない。
東京オリンピックの開会式。選手入場のBGMとしてゲーム音楽が使われた。ゲーム業界の片隅にいる人間として、これがどれだけ意義のあることなのか語りたい。断じて「オタクを喜ばせるためだけの浅い演出」などではないと思っている。
オリンピックの開会式で使われること
オリンピックが大きな祭典であることは言うまでもないが、これから自分が展開する話において何が重要なのかを書き出してみる。
①「注目度」・・・世界中から参加者が集まり、世界中の人の視線が集まる
②「伝統と格式」・・・由緒正しい、歴史のあるイベントである
③「経済規模」・・・放映権やスポンサー費用を巡って莫大な額のカネが動く
この3点においてオリンピックと肩を並べるイベントは多くない。
使用楽曲のトップバッターはドラゴンクエストであった。初代ドラクエ発売は1986年。オリンピックの開会式で楽曲が使われるに至るまで、実に35年もの歳月が流れた。
ゲームは子供のための玩具、もしくはオタクが好むサブカルチャー。2021年でもそんな捉えられ方をされていることは知っている。しかし、オリンピックというあまりにも重要度の高いイベントにおいて、世界に向けてメッセージが発信される開会式の場で採用されたことは、ゲームの地位が著しく向上していることを示している。
オリンピックの持つ価値に照らして、ゲームにスポットライトが当たったことは次の2点から重要である。
①「文化」・・・日本が世界に誇るべきものとしてゲームが採用されたこと
②「マーケット」・・・ゲーム業界とそのファンがカネを使える存在だと認知されたこと
任天堂とソニーという2大プラットフォマー、大小様々なソフトウェアメーカー、クリエイターたち。たくさんの作り手の血のにじむような努力で築き上げられた「文化」と「マーケット」である。その中心に日本人がいたことは間違いなく、心の底から誇らしく感じる。
ゲーム音楽が"正しく"使われること
「オタクを喜ばせるためだけの"浅い"演出ではない」と書いた。ゲーム音楽が果たすべき役割が正しく理解されていて、適材適所で活用されていることが素晴らしいと感じた。
ゲーム音楽はゲームの付属品ではない。ゲームを構成する大事な要素の1つだ。ゲーム音楽がなければゲームは今の形にはなっていない。
開会式でゲーム音楽が果たした重要な役割は以下の2点。
①「ファンファーレ」・・・オープニングを告げるもの
②「BGM」・・・ゲームプレイに寄り添い、雰囲気を盛り上げるもの
1曲目のドラゴンクエスト「序曲:ロトのテーマ」は選手入場を告げるアナウンスとともに再生された。ドラクエシリーズはゲームの起動時に流れるオープニングで一貫してこの曲を使ってきた。この曲が流れるとドラクエが"始まる"と感じる。
異世界へのいざない、冒険の開幕、非日常への切り替わり。この楽曲がドラクエをプレイする人たちにもたらしてきた演出的価値が、正しく理解され、正しい場面で使われていた。素晴らしいことだと思う。
2曲目以降の楽曲は、選手入場の裏で鳴り続けた。大部分のゲーム音楽はBGMとして制作される。どのようなゲームプレイのお供として楽曲が聞かれるかを想像しながら、作曲家はゲーム音楽を作り上げる。ゲーム体験を邪魔することだけはしないように、しかし最大限雰囲気を盛り上げられるような曲を書く。これは本当に独特なクリエイティブだと思う。
選手入場のメインは選手たちだ。4年に一度の晴れ舞台のために研鑽を積んできたのだ。彼らの行進をゲーム音楽は邪魔しない。当たり前だ。そのように作られているのだから。かといって存在感がないわけではない。この絶妙なバランスこそゲーム音楽の真骨頂だ。
選手入場というのはゲーム音楽が使われる場面でこの上なくぴったりだった。ゲーム音楽が長年培ってきたものを、演出の方々が正しく理解していたのだ。涙が出るほど素晴らしい瞬間だったし、あの行進が永遠に続けばいいとさえ思った。
おわりに
開会式演出チームには不祥事が相次いだ。任天堂楽曲は1曲も使われていなかった。採用された楽曲の制作陣の過去が完全にクリーンかといえばそうでもない。
サラリーマンをやっていれば、大人の事情というヤツが嫌でも想像できる。手放しでは喜べないことは理解している。それでも、ゲームがまた1つ大きな一歩を踏み記したのではないかと自分は思う。
ゲームが小説や映画のような芸術的文化の1つとして認められる世界に貢献したい。これは自分がゲーム業界に就職を決めたときに胸に抱いた密かな野望である。自分が何もしなくともゲーム文化は前に進んでいくだろう。そこに少しでも力添えできたら、いい人生だったと心から言えると思う。これからも頑張っていきたいと思わせてくれる、素敵な瞬間だった。ありがとう。