軽い気持ちで見に行ったプロセカの映画「劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク」が予想外に良かったので、舐めていた謝罪の意を込めて感想を書かせていただく。
※ネタバレを含みます。
削ぎ落す勇気
正直、期待をしていなかった。大きな理由としては、プロセカが映画化に向いていないコンテンツだと思っていたからだ。オリジナルキャラが20人いる。バーチャルシンガー6人は5ユニット分の姿がある。ざっと数えるだけで登場人物が50人いる。1人1分尺を与えただけで50分潰れてしまう。
どうやってこの難題を解決したのか?
この映画では登場人物の紹介が行われない。わざわざ名乗ることもしない。ゲーム内で知っている前提で話を作っている。思い切った割り切り方によって、映画としてストーリーを展開するだけの尺を確保している。
また、重要な要素である「セカイ」の説明が行われない。これも観客が分かっている前提に頼り切っている。あくまでゲーム内で展開されているシナリオの延長のストーリーが映画になっているという形だった。
プロセカは音楽コンテンツである。たくさんライブシーンを用意して、歌で観客を引き込む手法が採られると思っていた。しかし後述するように肝心なシーンだけに絞ることによって、尺を節約しつつ、クライマックスに見事な盛り上がりを作った。既存楽曲が効きたいなら3Dライブに来てね、という感じなのだろう。
映画は多くの人に届く可能性がある媒体である。プロセカを全く知らない人にも見てほしいという邪念が芽生えても不思議ではない。しかし製作陣は勇気をもって上記を切り捨てた。それが映画を面白くすることに大きく貢献していた。
一貫した思想
5ユニット20人の群像劇を、1本の映画にするのは至難の業だ。実現できたのはシンプルで美しい物語の構成のおかげだと思った。壊れたセカイのミクの1つの想いを、5ユニットがそれぞれの形で歌にするという手法だ。本当にこれしかないぐらいの正解を導き出しているように思う。
プロセカは4周年を迎え、5ユニットの物語も大きく進展したし、ゲームの外での展開も増えた。しかし根幹にある作品の思想は徹底してブラさないように心掛けているように見える。それは、想いを歌に込めて届けるということ。
プロセカの登場人物は1人1人がとても魅力的だが、彼らはスーパーマンではない。等身大の高校生だ。だからそれなりの尺を使って物語を作ろうとしても、世界の危機を救うような壮大なものは作れない。
この映画のストーリーは、プロセカがずっと紡いできた物語の延長上にあり、いつもやっていることを舞台を変えてやったにすぎない。歌で想いを届けること。それが登場人物たちができる唯一のことなので、ライブシーンは日常ではなくクライマックス。ここぞという場面にしか使われていない。
中盤までは物語がどのような構造をしているかわからず、どういう着地を目指しているのかイメージできなかった。ステージのセカイでみのりが、壊れたセカイのミクの想いを私たちで形にしようと言い出した時、ようやく展開を見通すことができた。ああ、ちゃんと"プロセカ"を貫いてくれるんだと。
物語の方に不安がなくなると同時に、これからやってくるであろう見せ場の歌唱シーンに向けて期待が積み上がり始めた。期待のさせ方が上手だった。そしてその期待を見事に超えてくる歌唱シーンは、見ていて本当に気持ちが良かった。
ボカロへの愛
リリース当初から感じていることではあるが、プロセカというコンテンツはボカロミュージックの歴史にきちんと敬意を払っている。というより、コンテンツ制作に関わっている人たちが本当にボカロが好きなんだなと伝わってくる。映画にもそれがにじみ出ていてよかった。
「#初音ミクの消失」のシーンがもっとも印象的だった。「すごい!」というよりも、同じボカロオタクとして「それやりたいよね~」というような共感の思いの方が強く感じられた。思いついてしまったのならしょうがない。やるしかないだろう。
この映画の街中にはボカロミュージックが溢れている。一方で、壊れたセカイのミクは歌えない。対比を作る意図もあったと思うが、前者は制作陣の願望のようにも見えた。そういう世界を目指して、彼らは日々仕事に当たっているのだろう。
挿入歌として使われる楽曲が、誰もが知っているであろう超有名曲ではなかったのも、ボカロオタクらしいなと感じられた。再生数でドライに評価される世界ではあるが、まだ世界に見つかっていない名曲を自分だけが知っている優越感もまた、ボカロカルチャーを構成する要素だろう。
ボカロを愛するすべての人に届いてほしいが、残念ながらこの映画はプロセカをちゃんと知っていないと楽しめないと思う。そういう意味では惜しい作品と言えるのかもしれないが、やりたいことを貫くならこれしかないのだという、制作陣の熱い思いが伝わってくる作品だった。劇場で見られてよかった。