新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

我が国の英語教育の質を変えていこう

2022-12-09 09:02:03 | コラム
我が国の英語教育には多くの欠陥がある:

最初に指摘したいことがある。それは「英語とは文化、思考体系、歴史、人種も何も全て違う国の言語であることを、最初からキチンと教えておくべきである」なのだ。小学校から教える必要などないと何度も指摘したが、中学で教え始めるとして、他の数学や社会や理数系等の学科と同じ科目であるような教え方をして欲しくはないのだ。そうとは知らずに「試験で何点取れたから単位が取れて良かった」などと試験の成績ことばかり考えて勉強すべきような科学的なことではないのだ。

現在までの我が国の英語(外国語)教育では「我が国とは物の考え方が違う人種の言語だった」と悟れる日は、先ず簡単には巡ってこないと思う。この点では実際に外国人と接触し交流して失敗でもしない限り、「何が何処でどうダメだったか」は学習しようもないと思う。

実例を挙げてみよう。我が国には「コレポン」(=commercial correspondence)という教科というか勉強の仕方があり「外国との交信の仕方というか手紙の書き方の勉強」があったと聞いている。だが、ここで教えられた形で外国の取引先と文書でやりとして、上手く行かなかった例が多かったと聞いていた。「例えば、アメリカの取引先乃至は見込み先からの返事が遅くて困る」という嘆きだった。

その事で、我が社の社長F氏が公職を兼務した為に超多忙となり、2人目の秘書を採用したことがあった。この女性Sさんは日本人と結婚しておられたアメリカ人で「英会話と秘書になる為の専門学校」の教員をしておられたそうだった。Sさんは「屡々アメリカからの返事が遅いという嘆きを聞かされたが、それはコレポンで必ずと言って良いほど教えている結びの表現の“Looking forward to hearing from you soon.”とか“We will wait until we hear good news from you.”とか“Please respond at your earliest convenience.”などと日本式に謙って相手を立てるようなこと書いているから」とズバリと指摘した。

実は、私はこの類いのコレポンなどを学ぶ機会がなかったままにアメリカの会社に転進したので、「へー。そういう悩みがあり、そのような表現を使って交信していたのか」と、寧ろ初耳の出来事だった。私は社内の遣り取りなので本部の担当者たちに向かっては当たり前のように「日時指定で回答せよ」と連絡していた。その時刻指定にしても「アメリか時間(=your time)か日本時間(=our time)かは明確にしておく必要があるのだ。

Sさんの指摘は「日本式コレポンは全くビジネスライク(business likeは立派な英語だが)ではないのだ。結びの一言は「何年何月何日の何時までに返事をして欲しい」と堂々と要求すべきなのに、例に挙げたような言い方をすれば「それじゃ、ずっと待っていてくれ」となって、他の緊急の仕事を優先してしまうだろう」だった。そして、「剥き出しのビジネスライク的な言い方をしても、決して失礼でも何でもないのだ」と追加した。

要するに、このような何でもないことのようで、「我々と彼らの間には礼儀作法についての物の考え方に違いがあること」などは、その点を承知している人が教えない限り、何時まで経ってもLook forward to hearing from Americaになってしまうのだし、convenienceなどは巡ってこなくなってしまうのだ。

今回はあらためて「我が国に於いて、それほど英語による自分の意志を思うままに表現できるようになる必要があるのか」と「我が国の英語教育の問題点」を論じてみようと思うのだ。そういう議論の前提には「私自身が英語を思うままに操れて自分の意志を表現できることが最低限の必要条件であるアメリカの会社の世界で20年以上過ごしてきた経験」があるからなのだ。

 小学校の低学年から英語を教える必要などない事も重ねて指摘しておこう。「児童の頭脳が柔らかい間に教え始めれば英語も素直に受け入れられるのだ」などと戯けたことを言って小学校3年から教え始めようとなったようだ。私は全く無駄なことだと何度も指摘した。少なくとも「国語である日本語でちゃんと物事が考えられるようになり始める中学校1年からで十分間に合う。現に私は中学に入るまでは英語など見たことも聞いたこともなかったが、アメリカの会社に転じても何の問題もなかった次元に達していたではないかと言うに止める。

 私が「何故現在の我が国の学校教育に於ける英語が宜しくない」と言う根拠をあらためて指摘しよう。先ずは20年以上もアメリカの企業のマネージャーとして我が国の上場企業の需要家や総合商社の方たちと折衝してきたが、アメリカの支配階層にいる者たちを完膚なきまでに論破するとか、論旨を組み立てて説得できる方は、失礼を顧みずに言えば、極めて希だったことを挙げたいのだ。

私は「そのような不十分な英語能力しか備えておられないのは、その方々の責任ではなく、我が国の至らざる英語教育がその責めを負うべきことである」と言いたいのだ。ここで、看過出来ないことは「アメリカでは学校でdebateを教えていること」なのだ。英語で自分の意志を思うように言えない者が、英語で討論をしてアメリカ人を論破出来ないのは当たり前の結果で、当人の責任では無いと思っている。

その点を見事に表していた事件が1990年頃にあった。それは、テレビの討論会に出ておられた女性の高校の英語教師の方が、親御さんの一人が「中学から高校・大学と何年も英語を勉強しても一向に話せるようにならないのが問題だ」と非難をされたのに対して「見当違いである。我々の目的は教科の一つして英語を教え、その成績によって生徒たちを5段階で評価する所にあるので、最初から話せるようにすることなどと考慮していない」と堂々と反論を述べたのだった。私は寧ろ見事だと感心して聞いた。換言すれば「科学として英語を教えている以上、会話能力などは目標にはない」という主張なのである。

 次には「高い英語の能力を万人に備えさせる必要があるのか」を挙げたい。この点を改めて強調しておけば「1億2,600万人が皆英語をペラペラになる必要があるのか」なのだ。私が永年指摘し続けて来たことは「私のようにアメリカの大手企業に彼らの一員として勤務し取引先の諸外国との業務を担当するような者には、相当以上の英語力は最低の必要条件なのである。仮に、その英語の能力がnative speakerと比較しても遜色がなかったとしても、その能力は査定(評価)の対象にはなり得ないのである。換言すれば「特殊な技能」に近いので、誰しもがその段階を目指す必要などないのだ。

こういう職(job)にあれば、アメリカの誇り高き支配階層にある者たちと日常的に接触するので、そこに通用するような英語の格式も品位も求められる。だが、一般的な日本人がそういう階層の人たちと接して、英語力を発揮して高度な会話を楽しめるような次元に達する必要はないと思う。だからと言って、単語を並べることしかできないとか、文法を誤るような英語力では、彼らの支配階層にある者たちとの交際などできないと理解しているべきだ。

 私は時々「外国人に街中で道を訊かれて答えられずに恥ずかしい思いをした」のような、言うなれば自虐的なことを言われて反省する方がおられるのを残念なことだと思っている。敢えて言うが、これは見当違いな反省なのである。それは先ず上記のように「我が国の教育ではそこまでの表現が出来るようになる教え方をしていない」のだ。

次に、英語で道案内すること寧ろかなり高度な次元にある会話なのだ。特に東京のように道路が碁盤目にはなっていない街では、その地位貴の地理に明るくなくても別に恥じ入ることでもないし、日本語で説明するのだって容易ではないのだ。それを英語で言えなくても恥じ入ることなどないのだ。学校教育を攻めて欲しい。私は良く知らない場所を案内するとなれば「時間がありますから、途中までご案内しますよ」と言って歩き出そうと思っている。だが、残念ながら未だそのような機会が訪れたことがなかった。

 ここまでを纏めてみれば、「もし、かなり高い英語の能力を必要とする仕事を選ばれたのならば、我が国の英語教育を忘れて、そこまでの能力を養えるような自分の独自の勉強法を含めてあらゆる手段を講じて追及する必要があるだろう」と指摘したい。また「海外に出てビジネスの分野で活動するか、大学や研究機関に身を置かれるのならば、自分の思うことを表現する能力と読解力を併せて向上させておるべきだろう」となる。何れもが、我が国の学校教育の英語からは逸脱した分野のことになる。そのような能力を自力で習得しなければ、道は開けてこないのと理解しておくべきだろう。

私はnative speakerに教えて貰うことが最上の選択だとは思っていない。その理由は簡単で「彼らは我々日本人がどのようなところで躓くかなどは見当もつかないのだ。彼らの中に彼我の文化と思考体系の違いを十分に認識できている者がどれほどいるのか」を考えれば自ずと解ってくることだ。アメリカ人の中で過ごしても何の支障が無いと自任していた私が、初めてアメリカに入った1972年8月に“I’ll buy you a drink.”とofferされて理解出来なかった。Meadの本社で秘書さんにコーヒーを“How do you take it?”と訊かれて混乱した。

更に言えば「英語の能力の他に、我が国とアメリカ他の西欧圏の諸国との文化(言語・風俗・習慣・二進法の思考体系等)の我が国との違いを十分に認識しておくこと」は絶対に必要条件になるのだ。私は我が国の英語教育の欠陥として長い間「単語の知識などという無益なことを重要視しているが、肝腎の文化比較論を何処まで行っても教えていないこと」を指摘して来た。アメリカ側だってここまでの教育はしていないので、屡々政府や民間での重要な交渉事などで齟齬を来している。

 恥を忍んで回顧すれば「私はアメリカの会社に転じてから10年以上も過ごしてから、漸くその異文化と思考体系と宗教の見えない壁の実態に気が付いて、そこを如何にして乗り越えるかを懸命に考えた」のだった。重ねて言うが、この文化比較論の習得も重要だが、その先にある見えない壁が宗教だと認識しておく必要がある。

彼等アメリカ人の多くは一神教であるキリスト教の信者であるから、物事の考え方の基本に「神の存在を信じるか否か」がある。論旨を飛躍させるが、そこにあるのが「二進法的思考体系」なのである。思うままに英語で自己表現をしようと思えば、この2点を知っておくべきなのだ。だが、学校では教えていないだろう。

 やや飛躍してしまうが、このような不十分な文化や思考体系や宗教の違いを弁えない英語の教え方をしたので、単語の知識だけが豊富になってしまうのだ。このような教え方を変えるべきだと思っているし、何年もそのように主張してきたので、ここに再度主張しておく次第だ。なお、我が国では無闇矢鱈にカタカナ語を製造して濫用する者考え物だと思っている。その辺りはまた別次元の問題なので、何時か機会があれば詳しく述べていこうとも思う。

なお、上記は昨年11月26日に発表した「我が国の英語教育には問題がある」を基にして書き改めたものである


コメントを投稿