新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

昭和16年12月8日に何事が起きていたか

2022-12-08 08:45:02 | コラム
「今日は12月8日だった」:

こう言って「そうだったですね」と、同調してくれる人がどれほどいるだろうか。私はもう何十年も前から西暦で言って貰えないとピンと来なくなってしまったが、この日この年の出来事だけは、元号を使ってだけしか言い表せないほど鮮明に覚えている。念の為に西暦で表しておくと計算しやすくなるかも知れないが1941年で、今から81年前のことだ。

この年に病弱だった私の為に、東京から空気が良いだろう神奈川県藤沢市鵠沼に転地療養で引っ越していた。小学校の3年生だった。丁度その日のその時には隣の叔母の家の台所にいた。未だ「灯火管制」など実施されていなかった頃のことだったが、何となく薄暗い場所だった事を覚えている。そこに突如としてラジオから、忘れもしない「我が軍は西太平洋上において戦闘状態に入れり」と放送が聞こえてきた。

「やった、やった」と、その場に私と叔母の他に誰がいたかの記憶はないが、全員で大騒ぎして喜び合ったのだった。当時は日本放送協会のラジオと朝日新聞くらいしかしか頼りにすべき報道機関がなかった記憶しかないが、我が国と宜しくないアメリカの間に不穏な空気が漂っていたくらいは何となく知らされていた。そのアメリカを叩いたとの報道が聞こえたのだから、皆で喜び合ったのにも違和感はなかった。

その日から昭和20年の8月15日までの4年弱の大東亜戦争が続いたのだった。我々と言うべきか私と言うべきか解らないが、戦況を知るのは主に「大本営発表」であったから、我が国が敵米英を完膚なきまでに叩いて、勝利が続いているとしか知らされていなかった。それが何時の間にか「欲しがりません、勝つまでは」や「贅沢は敵だ」の声に代わり、「出征兵士を送る歌」が聞こえ、赤紙(召集令状)が来て「皇軍」に参加することを称えるようになって行った。

我々子供たちも「小学校」から「国民学校」に名称が変わった学校に通学し、大きくなったら軍隊に入って「鬼畜米英」を叩こうと誓い合うようになって行った。8月15日までの間は非常に長く感じていたが、後になって計算してみれば4年にも満たなかったのだった。その短期間に我が国は大きく変わってしまったのだった。

1945年8月15日を境にして、我が国は「あれよ、あれよ」と言っている暇さえ与えて貰えなかったほど、いきなり民主主義国に変わった。その後に「戦争による荒廃」から立ち上がって目覚ましく復興して成長し、遂には世界第2の経済大国へと変貌してきたのだった。

転校したばかりの小学校の3年生だった私には「戦闘状態に入れり」の意味など全く深く考えられなかったのだ。だが、今になって見れば陳腐な言い方になって恐縮だが「激動の4年弱」だったし、1945年(昭和20年)から後の現在に至るまでは、日本国にとっても私個人にとっても、激動どころか何ものにも例えようがないほどの「激変」の81年間だった。それほどの変化と変動の後で、今や世界には大きな更なる変化に向かう兆しが見えてきたように思えてならない。

それだからこそ、私は我が国においても81年前の12月8日を忘れることなく、81年間に我が国も世界もどれほど大きく変化してきたかと、何故変われたのかを振り返り、見失ってしまっていたかも知れないあの頃に培った成長への力と勢いを取り戻さねばなるまいと思う。私はそうすることで、ここから先に起こってくるだろう更なる世界の大きな変化と変動に備える為の、物心両面の準備が整えられると思うのだ。



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