私が地球市民教育(Global Citizenship Education;GCED)という言葉と出会ったのは一昨年のこと。
先日、インスタのストーリーで簡単なアンケートを取らせて頂いたところ、地球市民教育という一見うさんくさい単語への認知度がとても低いことを知りました。
そこで今回はザッと私とGCEDとの出会いについて書き残してみようと思います。
地球市民教育は、まさにわが家がこれまで家庭教育やホームスクーリングの中で重視してきた、ウェル・ビーイングを主軸とした様々な価値観を集約したものでした。
初めて知った時には、それまであちこちに散らばっていた点と点が大きな丸になった感覚でした。(線じゃなく)
人種、ジェンダー、貧困、格差(特権)、紛争、気候変動、プラゴミ問題、エシカルな消費、ワークライフバランス(キャリア教育)、など。
この単語に出会うまでは、モンテッソーリ教育のなかでも特に大好きなエッセンスである、「地球人としての感覚」を大切に子育てに邁進していました。(もちろん今もですが)
地球人、つまりGlobal Citizen。
日本人というアイデンティティが育ってしまう前に、まずは地球という星に住む一人であるという感覚を身に付けて欲しかったのです。
そこから派生してカテゴライズするとすれば、先の人種やジェンダーといった分野にまたがるような教育を意識してきました。
(その他の子育ての柱については、ブログカテゴリーを参考にして頂ければと思います。)
と言っても、幼児のうちに難しい話は通用しない。
私としても、子どもの育ちにおいて親が先回りして知識を植え付けるような育て方は、絶対にしたくなかった。
(今も子どもたちの質問には基本、答えません。)
・・・ので、何をしたかと言えば読み聞かせと、体験学習。
すべてご紹介することは出来ませんが、選書にはかなり気をつかってきたつもりです。
これは私の持論ですが、日本は島国ゆえに、淡々とただ暮らしていたら他の国の人と接する機会はゼロに等しい。
接する機会が滅多にないということは、相手を知る機会がないということ。
相手を知らないということは、無意識どころか意識的なバイアスを生みやすい、と思っています。
よって意識的に他国の人と接する機会や体験、他国について知る機会を作ってきました。(先進国、途上国のバランスも意識しました)
以前、インスタで人種差別についてうるさく語っていた時に(BLM運動の頃)、「人種差別をネガティブな側面ではなく、愛で変えられるということを教えたい」というような事を言われたのが、今でも忘れられません。
人種差別って、そんな簡単ではないです。
差別を受けたことのない人(多くの場合、自分の持つ特権に気付いていない人)が、「愛」という曖昧な言葉を振りかざして、うやむやにして良い問題ではないと思っています。
差別を根絶させるためにあらゆる手を尽くしていくプロセスの中に、愛が絶対的に必要なのであって、その土俵にも立っていない人が、声高に叫んで自己満足感を得るような、そんな単純な問題ではない。
だから、こんなに何十年も、何百年も、解決しないまま続いているのです。
日本ではジェンダー差別を感じられる場面は、とくに女性であれば非常に多い。
なんなら毎日がジェンダー・バイアスの学びの宝庫です(笑)
でも、人種差別を体感できる場面はほとんどない。
私はアメリカに住んでいた頃、肌の色によって「白い目で見られる」ことが本当にあるのだと知り、衝撃でした。
差別された経験が何度もあるからこそ、今、大人になって在日コリアンや日本に住む難民問題に関心があるのかもしれません。
話をもとに戻しましょう。
毎度毎度、パソコンでこの文字を打つたびに胡散臭さを感じる、地球市民教育
文科省の公式HPでは、以下のように定義されています。
「GCEDとは、教育がいかにして世界をより平和的、包括的で安全な、持続可能なものにするか、そのために必要な知識、スキル、価値、態度を育成していくかを包含する理論的枠組みである。」
分かりやすく言うと、SDGsを達成するために行動を起こせるような態度を養う、ということだと解釈しています。
SDGsってメディアなんかだとどうしても「エコ」の部分が大きくクローズアップされがちですよね。
プラスティック汚染、気候変動、エシカルな消費といった環境問題の部分。
でも貧困やジェンダー差別、人種差別、フェアトレードといった社会課題も半分くらい含まれているんですよね。
このいずれも実は「環境」「社会」とはっきり線引きできるものではなく、相互に関係し合っている。
だからこそ、SDGsの目標17でグローバル・パートナーシップの活性化が強調されているように、世界全体が抱えている問題をともに解決に導いていく必要があると思うのです。
とくに自然環境はもう待ったなしの状態の最中に生まれてきた私たちの子ども世代には、地球全体でともに育ち合える世界を目指すための教育が不可欠なのだと。
そんな風に理解しています。
これって、私の中ではモンテッソーリ教育の「環境への配慮」(care for the environment)から、コスミック教育の文化領域へと子どもの興味関心が深化・進化していくプロセスに非常に似ているなと思っています。
「全体から個へ」というモンテッソーリ教育において大切にされている思考の流れにしたがって、動植物ふくめ地球全体の生き物へ想いを寄せる幼児期をへて、生きとし生けるもののなかでも人間という「(全体のなかでの)個」への興味の変遷。
長女を観察していて、とても自然な流れで、興味の矛先が時間をかけてシフトしていったのを感じていました。
(モンテ関連書は色々読みましたが、やはりこれに戻ってしまう。)
モンテッソーリ教育を知った当初は、3年ごとという発達の区分に半信半疑でしたが、いやはやまさにその通りに育っているじゃないですか
(心理臨床に携わっている者として、発達心理学的にも半分は納得していました。)
ウェルビーイングからスタートしたわが家の家庭教育。
自己肯定感という絶対的な土台の上に、モンテッソーリ教育と人権教育(理論的にはほぼ同じですがw)という二つの太い柱が立ち、その柱を固めているのが地球市民教育。
そんなイメージです。
すべては、わが子が自分という唯一無二の存在を大切に、愛せるようになるために。
日々をいきいきと生き、主体的に動き、幸せに生きられるように。
勉強ができなくたって、得意なことがこれといってなくたって、自己肯定感さえ高ければ人生楽しく生きていけると思っています。
わが家の目指す子育てはこれが軸なんだと、今は胸を張って言える!
親も自分たちらしい子育てを模索するのに必死ですよね
枝を伸ばす方向はあちこちブレそうになりながらも、「自己肯定感」という根っこにあるパワーワードはずっと揺らぐことがありませんでした。
ウェルビーイング、人権教育、地球市民教育。
言葉は変われど、本質的なものはすべてに共通しているのかもしれません。
やっぱり教育って愛、ですね!!!(まさかの)