サイババ様のキリスト教徒と仏教徒の皆様へのメッセージ | 『真理への翼』(サイババの導きと叡智)

『真理への翼』(サイババの導きと叡智)

これは『哲学の透視図』を改題したもので、サイババとの体験談、教えを通して「人間とは何なのか?」「死をゴールとした人生に何の意味があるのか?」「真理とは何なのか?」といったものの答えを探究していくものです。

今回の記事は、本題に入る前に、プロローグとしてJ・S・ヒスロップという方の体験談をまず紹介しておきたいと思いますので、お付き合いのほどよろしくお願いします

 

ちなみに、J.S.ヒスロップ博士プロフィールは以下のようなものです。

                     ↓

カリフォルニア大学教育学部で博士号取得→カリフォルニアのリバーサイドカレッジ商業教育学部長→カリフォルニア都市開発会社副社長

霊性の道には18歳の時、タヒチ島に1年居住して神智学を研究した時から入る。神智学会のリーダーとして最も有名なクリシュナ・ムルティ及びアニー・ベサント博士とともにオーハイのアーリャーヴィハラで2年間生活を共にする。1958年チベット国境近くの「聖者の谷」にマヘッシュヨーギの代理として瞑想都市を建設するためにインドにわたり、その後の10年ウバキン氏の指導の下に瞑想の修業を重ね、1968年1月にシュリ・サティア・サイババに会って、米国サティア・サイ・オーガニゼーションの統括を務めた…。

 

スロップ博士は初期の西洋人帰依者としては最も有名な方で、これから紹介しようとしている体験談も話そのものはサイババの帰依者であれば誰でも知っているといっていいほど有名なものでなのですが、本当に確かな話となるとほとんど誰も知っていないというレアなもので、私はこの話を、、、20年以上前から探していたのですが見つからずあきらめていたものです。

 

ちなみに、その体験談とは、サイババ様が、クリスチャンである彼のために、実際にキリストが磔にされた木で作ったキリスト像を物質化して与えてくださったというもので、それを今回、偶然に見つけてしまって、それをこうして皆様に紹介しようとしているのですが、この体験談を見つけてた経緯がちょっと 《サイババ様のリーラ感》 のするもので、その経緯をざっくりと紹介しておきます。

 

私は以前の記事で何度か書いているように、つねに手を変え品を変えたしつこいサイバー攻撃を受けていて、その攻防の中にあるのですが、最近一度だけ、登録していたリンクが知らないうちに解除されていて、リンク先から送られてくるはずの情報が来なくなっていたという事態が発生していました。

 (この記事を書き始めてしばらくした時も、1時間ほど、一文字キーボードをタップすると、その瞬間に意味不明の文字が何文字も書き込まれて、記事が書けなくなるというバグが発生しました。今はほぼ収まっていますが、時折、句読点を打つとその前後に前に書いたセンテンスがコピーされるというバグが発生したりしています(*^▽^*)/)

 

今回紹介しようとしている話は、その削除されたリンクを復活させるために、リンク先のサイト内をあちこちうろついている時に偶然発見したものです。

 

そしてそのときそのサイト内に、お宝の山のようなサイババ様の未知の御講話が大量に貯蔵されていることも発見してしまいました。

 

そのサイトとはSSOJのホームページなのですが、問題の貯蔵先は私が東京センターを離れた後に設けられたものであり、なおかつ滅茶苦茶わかりにくい形で貯蔵されていたものなので、もし今回のことがなければ私にはこの先も永遠に探し出せないはずのものでした。

それを今回偶然探し出せたのは、ひとえに私への嫌がらせのために仕掛けれれたサイバー攻撃のおかげです。 ニコニコ/イェェエーイ!

 

というようなわけで、これから紹介する御講話はすべてそこに貯蔵されていたものです。(^^)/

 

 

 

 

《《《・・・車は道の脇に停車し、私たちは川沿いの低い砂地に向かって土手を這うように降り始めました。

私(ヒスロップ)はババの脇にいました。低木の茂みを通り過ぎたとき、スワミは二本の小枝を折って取り、それらを交差させて私にお尋ねになりました。
 「これは何ですか、ヒスロップ?」
 「そうですね、スワミ、それは十字架です」 と私は答えました。
 すると、ババは手の指と指をつけて閉じ、その二本の小枝の上にかぶせて親指と人差し指の間からややゆっくりと三回息を吹きかけられました。

それから、ババは手を開いて、それが十字架に磔(はりつけ)になったキリストの姿であることを明かし、それを私にくださいました。

 

 

「これは、芸術家たちが想像したり、歴史家たちが語ったりしたキリストではなく、実際にキリストが肉体を去ったときの姿を示しています」

腹はへこみ、あばら骨はすべて透けて見えていました。

「キリストは8日間、何も食べていなかったのです」とババはおっしゃいました。

私はその十字架を熟視しましたが、言葉が見つかりませんでした。

それから、ババはお続けになりました。
「その十字架は、実際にキリストが磔にされた十字架から取った木材で出来ています。

二千年前の木を見つけるのに、少々手間取りました! 

その姿はキリストが肉体を去った後のものです。それは死に顔です」

 

 


私はちょっと奇妙なことに気づいたので、ババに尋ねました。
「スワミ、この十字架の一番上にある穴は何ですか?」
ババは、十字架は杭(くい)に掛けられてぶら下がっていたのだとお答えになりました。
                    (中略)

それから二、三週間の内に、私たちはメキシコの自宅に戻り、やがてその十字架にまつわる一連の驚くべき出来事を目撃することになりました。

その十字架はとても小さかったので、キリストの肖像の細部は目に見えませんでした。

友人のウォルターが私たちの家にやって来て、十字架のカラー写真を何枚か撮りました。

キリストの肖像の長さは1インチ〔2.54cm〕しかなかったので、ウォルターは細部を明らかにするために写真を少し引き伸ばすことになっていました。

ウォルターがプリントの見本を郵送してきたとき、妻と私はあっと驚きました。

私はウォルターに、その写真を世界中の人々が見れば、美術的にセンセーションを巻き起こすだろうと書き送りました。

私の見るところ、それは、これまでシュリ サティヤ サイが帰依者たちを喜ばせるために物質化した中で、最も驚嘆すべき物です。

 

数週間後、ウォルター夫妻は引き伸ばした十字架のカラー写真を持って再びやってきました。フランス窓から海が見渡せる居間のテーブルの上に、当の十字架と共に拡大された写真の数々が広げられていました。
時間は午後の五時ごろでした。

写真の引き伸ばしによって露わになった細部はあまりに非凡なものだったので、そこにいた全員が、このキリストの驚くべき姿とシュリ バガヴァンの神秘と不思議に集中していました。

この日の午後、メキシコの海岸は晴れやかで穏やかでした。

ところが、突然、何の前触れもなく耳をつんざく雷鳴が響き、窓のほうに目を向けると、一瞬前には快晴の空しかなかった所に暗雲がたれこめ、稲光が走りました。暴風が激しい力で窓や扉を開閉しながら家を通過したため、ガラスのコップが粉々に砕け散る危険がありました。

カーテンはあらゆる方角へはためきました。
私たちはこの事態の変化にびっくり仰天しましたが、すかさず妻が言いました。

「午後五時は、キリストが十字架で息を引き取った時間です。今、ここで起こっていることは聖書に書かれていますよ」

妻が後で聖書を持ってきて、私たちは該当する詩節が見つかるまでページをめくり続けました。
そこには、キリストが自分の命を手放したとき、稲光と雷を伴うひどい嵐が起こり、神殿の垂れ幕〔カーテン〕が裂けたと書かれていました。(*訳注)私たちは、今しがた目撃した不思議な出来事は、自分たちの想像力を遥かに超えたものであるという結論に達しました。

私たちの目の前で起こったことは、十字架にまつわる出来事の再現に他ならなかったのです。

翌日のサンディエゴの新聞は、エンセナーダ付近のメキシコの沿岸で、何の前触れもなく起こった突発的で奇妙な嵐を解説する短い記事を掲載しました。
私たち夫婦と友人夫妻は、二千年ほど前キリストの十字架での受難のときに起こった出来事の再現は、ババによって物質化された小さな十字架とキリストの肖像に何らかの関連がある偉大な力を示している、と結論付けました。

一年ほど後、私はEruch.B.ファニブンダ医師の著書、“Vision of the Divine”のために、医師にその出来事の詳細を書き送り、医師はそのメモをババに見せました。
メモを読んだ後、ババは、その出来事はそこに書かれている通りに起こり、それに帰する意義も正しいものである、とおっしゃったそうです。

その十字架に関する物語はこれで完結したと思われるかもしれませんが、後日談があります。1975年、私はババにアメリカ訪問を約束していただくという願いを抱いて、その手筈についてババにご相談するため、前触れなくインドを訪れました。スワミには私が訪問することを知らせておらず、私が到着したときはご旅行中で不在でした。

その日、スワミは、数人の年長の帰依者たちとの昼食の最中に、こうおっしゃったそうです。

「ヒスロップが、今しがたバンガロールに着いて、私を待っています」 その食事の席に着いていた帰依者の一人(後日私にこのことを教えてくれた人)が言いました。
「スワミは彼に十字架をお作りになったのでしたね」
ババはお答えになりました。
「ええ、私はヒスロップのために十字架を作りました。私がその木材を探しに行ったとき、十字架の粒子はすべて風化してしまっていて、元素を戻さなくてはなりませんでした。
私はその元素に手を差し伸べて、小さな十字架を作るのに十分なだけの材料を復元したの
です。
スワミが自然に干渉することはめったにありません。
しかし、時折、帰依者のために、それが為されるのです」
》》》
 

John S.ヒスロップ医師 著『MY BABA AND I』より

翻訳:サティヤ サイ出版協会


※イエス・キリストの昇天については、『新約聖書』に下記の記述がある。
 「時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた。そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた」(ルカ伝23:44-46)「イエスはもう一度大声で叫んで、息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った」(マタイ伝27:50-52)
 当時のユダヤ暦では、昼間を6等分した時間や日没から日の出までを12等分した時間などが用いられており、季節により日照時間の差から1時間の長さも長短があった。そのため、イエスの昇天時刻が現在の何時に当たるかは定かではないが、そのとき何らかの天変地異が起こったとのことである。
(参考文献:『新約聖書』日本聖書協会発行1954年改訳版、『図説・歴史のなかの聖書』)
 
 

 

サティヤ サイ ババによるクリスマスの朝のダルシャン 

*年月日不明  プラシャーンティ ニラヤム

 (月間サイ メール マガジン2011年クリスマス特別号 掲載動画)

 

 

以下に紹介するのは1980年12月24日 の御講話より抜粋したサイババ様によるキリスト教徒の方々へのメッセージです。       

 

『クリスマス(Christmas)というのは、キリスト(Christ)の誕生日に開かれるミサ(Mass、マス、カトリック教会の祭儀)のことです。

クリスマスは根本的に神聖な宗教儀式です。

クリスマスを、飲んだり踊ったりするためのお祭りであるかのように扱うこと、さらには、イエスを思い出す日として扱うことさえも、大きな間違いです。

クリスマスの日は祈って過ごさなければいけません。

クリスマスの日だけでなく、日課として、祈るという霊性修行を深めなければいけません。

世俗的なことを目的とした祈りは神〔至高神〕には届きません。

それらは各領域を扱う半神たちに届くのみです。

一方で、清らかな愛から生まれた祈り、奉仕をしたいという私心のない熱い願いから生じた祈り、すべてを思いやるハートから生じた祈りは、神に届きます。

なぜなら、神はまさに愛の化身であるからです。

月を見るには月の光を通さなければならないということを知っていますね。

それと同じように、愛である神は愛を通してのみ、見ること、顕現させることができるのです。

愛は神です。愛に生きなさい。

これが私があなた方に贈るメッセージです』

 

『アヴァター(神の化身)の目的は人類に奉仕することです。神は愛と情と慈悲により、人間の神性意識を目覚めさせるために人間のレベルに降りてきます。

神こそが人間の中心核であるにもかかわらず人が必死になって自分の外に神を探しているのを見つけると、神は人間の中に神がいるということを人に気づかせます。

                          (中略)

神は永遠不滅の力であり、全知全能です。

神は原因であり結果です。神は陶芸家であり、土であり、陶器です。神がいなければ宇宙はあり得ません。

神が意志して宇宙が生まれました。

宇宙は神の遊戯であり、神の力の顕現です。

人間は神の意志、神の力、神の英知の具現です。

ところが、人間はその栄光に気づいていません。

無知という雲がその真理を覆い隠しているのです。

神は真理を覆っているベールを取らせるために、聖人、賢者、預言者を送りました。

そして、人を目覚めさせて解放するために、神自らもアヴァター(神の化身)となって顕れました。

                          (中略)

今日、クリスマスが祝われています。

イエスが語った言葉、イエスがした助言、イエスが与えた警告に心を向け、イエスが敷いた道に沿って日々の生活を送りなさい。

イエスの言葉をハートに刻み、イエスの説いたことをすべて実践する決意をしなければいけません。

                          (中略)

「死は命の衣である」 とイエスは明言しました。

イエスは神がすべてを意志しているということを知っていました。

それゆえ、十字架の上で激しい痛みに苦しんでいたときでさえ、イエスは誰のことも悪く思わず、自分と共にいた者たちに、万人を神の意志の道具と見なすようにと訓戒しました。
                           (中略)
イエスは12年という長い年月、固い決意を持って人里離れた場所を行脚して、勉学に励み、霊性修行を積み、神を瞑想しました。(ブログ主注釈・キリストが行った霊性修行の足跡のいくつかはチベットの僧院の太古の記録の中に残っていると言われています)
もちろん人は体を守り、保持しなければなりません。
体は神からの贈り物であり、輪廻の海を渡って神へと到達するための道具を積んだ小船です。(ブログ主注釈・輪廻転生やカルマの法則はヒンドゥー教や仏教のものでキリスト教にはないというのが現代では一般的な考え方ですが、これは間違いで、6世紀以前のキリスト教にはこれがあったと言われています。以下は、「あるヨギの自叙伝」の著者としても名高いパラマハンサ・ヨガナンダによるこの件についての解説です。「初期のキリスト教会は、グノーシス教徒や、三世紀のアンドレアのクレメン神父、有名なオリゲン神父、五世紀の聖ジェローム神父など多くの神父たちが提唱した再生説を受け入れていた。ところがこの説は、紀元553年コンスタンチノーブルで開かれた第二回キリスト教会議で異端と決められた。これは、あまりに広範な時間と空間を包含する再生説が、人々に早く救いにあずかるように勧めるうえで都合が悪かったからである。だがこうして抑圧された真理は、いろいろな誤りを生み出す結果となった。人々はこの生涯を、神を求めるために費やす代わりに、この世の生活をたった一度限りのものと思い込んで、その快楽だけを追い求めることのみを考えるようになってしまった。しかし実際は、人間は神の子の意識状態に到達するまで,名度でも地上に生まれ変わって来るのである」
それが人生の目的であり、体という小船が病気や怠惰や老衰によって浸水して崩壊しないうちに、目的地に辿り着かなければなりません。
体と心と魂の健康を油断なき注意をもって育まなければなりません…(以下略)』
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.10 C39
 
 

(講話日及び出典は不明)

『イエスは、この聖なる惑星の、神の栄光のために生きました。

イエスの行動そのものが、周りの人々のためのものでありました。

イエスにとっては、人々のために捧げる犠牲は、たとえどのようなものであっても、決して大きすぎる
ということはなかったのです。

イエスは、人類の幸せのために自分の肉体の血を犠牲にしました。

 

今日はこの聖なる人の誕生日です。

 

今日は、イエスが地上に現れた日を記念する日です。

そのような神聖な日を、ご馳走を食べるために使うことに、いったいどのような意義があるというのでしょう? 

感覚のコントロールの達人であったイエスの誕生日全体を、私たちの感覚を過度に満足させるのに費やすのは神聖なことですか? 

今日という日を、あなた自身と人類にとって有意義で有益なものとしなさい。

イエスが人々に説き、また、彼がそのために命を捧げた様々な理想の中のいくつかでも実践しなさい。

 あなたがたは
(ブログ主注釈・イエスと同じように、すべての人がその本質は)生きた神の愛の化身です。

イエスの誕生日を記念して、あなた方は自分たちの生き方を変え始めなければなりません。

イエスが行動したように行動することによって、私たちの記憶に今も残るイエスの想い出を敬わなければなりません。

私は、あなた方がそれを実行するよう希望します。

 

今日から他の人々を非難しないように最善を尽くしなさい。

非難は、嫉妬と憎悪という炎に燃料を与えることになります。

今日という日を限りに、自分自身を誉めずにはいられない状態にあることを止めなさい。

自己賛美はエゴを膨らませ、あなた方を神から遠くに追いやってしまいます。

あなた方の時間を、神の愛の光の中に生きることに使いなさい。

 

神の愛を、神の仕事をするために使いなさい。
あなた方が出会うすべての人々に愛を注ぎなさい。

自分たちの所属している社会に奉仕しなさい』


(これも御講話がいつされたものかは不明)

      ↓
『もし、一人ひとりが献身的に自分の義務を果たすなら、光はすべてを照らすことができます。

しかし、心のドアが光に対して閉じられていれば、暗闇が消えることなどあり得るでしょうか? 

 

何もせずに傍観したまま、神の化身があなたの中に平和と喜びをもたらしてくれるのを期待することはできません。

 

神の化身は、警告し、導き、目覚めさせ、道を示し、愛の光を放つためにやって来ます。
けれども、人間は希望と信仰を抱いて耳を傾け、学び、従わなければなりません。


知恵と富が、かつて自分たちの相対的な重要性について、しばらくの間、大きな声で喧嘩をしたという昔話があります。

 

富は、もし自分がいなければ肉体は弱くなり、頭はぼんやりし、知恵は「鬼火」(人を惑わすもの)であると主張しました。

知恵はそれに鋭く言い返し、もし自分がいなければ、人間は富と富でないものを見分けることができないしもし自分がいなければ、人間は富と富でないものを見分けることができないし、どうやって富を稼ぎ、富を使うかもわからないと主張しました。

 

魂が仲裁に入り、知恵と富の両者は共に等しく重要だけれども、それは両者が正しく使われた時だけだと言いました。

知恵のない富は、搾取と暴政の道具となります。

富のない知恵は単なる空想であり、さまざまな青写真(計画)の束にすぎません。
使用すればそれらは価値あるものとなり、誤用すれば災いを引き起こします。

それはナイフのようなものです。

凶暴な人の手に渡れば、ナイフは殺人の道具になります。

外科医の手に渡れば、命を救う道具となります!

 

 皆さんは富を善良に使っているでしょうか?

 知恵を他人に恩恵をもたらす方法で使っているでしょうか? 

 

それがテストです。

 

今日、キリストの誕生を祝うこのクリスマスの日に、弱者や困窮者や絶望している人々に、愛のこもった奉仕の人生を送る固い決意をしなさい。

忍耐と自制、慈善と寛容をつちかいなさい。

イエスが定めた理想を大切に守り、日常生活において実践しなさい。


クリスマスが祝われているやり方は、人がどれほどそれらの理想から離れてしまっているか、イエスの御名の上にどれほどの不名誉を積み上げているかを示しています!

 

 真夜中の時間があがめられ、照明が用意され、クリスマスツリーが置かれます。

そして、その夜は飲んで踊って過ごすのです。

それは聖なるアーナンダ(至福)の夜です。

ころが、そのアーナンダは陶酔の有害な興奮のレベルにまで落ちています。

 

飲酒はとても有害で悪い習慣です。

(お酒を)飲み始めると、人は(お酒に)飲まれてしまい、そこから逃れることができません。

最初に、人はワインを飲みます。

それから、ワインがより多くのワインを飲み、最後にワインがその人自身を飲み干します。

人は飲みふけり、酔いつぶれます。お酒は人間の中にある人間性を破壊するのです! 

それでどうして、人間の中にある神性を現わすことができるでしょうか?

 

 人は神聖な至福の中で踊らなければなりません。そうする代わりに、人は有害な代用品である官能的なダンスにふけっています。

あなたのハートを純粋にし、あなたの活動を神聖なものにしなさい。

そうすれば、あなたの感情が万人のために役立つでしょう。

 

それが、キリストの誕生を祝う最善の方法です』

 

 

 

以下に紹介するのは
☆2000年5月21日にブリンダーヴァン で行われた 仏陀プールニマーの御講話であり、仏教徒の皆様方へのサイババ様からのメッセージです。

(なお、文字数が限界に達している関係でこの御講話の文字には色付けすることができませんでした)


『愛の化身である皆さん!(ブログ主注釈・サイババ様は多くの場合、聴衆にこう呼びかけられていました)

同胞を愛すれば愛するほど、より大きな至福を味わいます。

他の人を愛すれば愛するほど、より幸せを感じます。

ですから、ずっと幸せでいたければ、つねにすべての人を愛さなければいけません。

愛は神へと到る王道です。

神へと到る一番の方法は、すべての人を愛し、すべての人に奉仕することです。

 

これぞ仏陀が人類に説いた教訓です。


仏教徒は次のように唱えます。

ブッダム シャラナム ガッチャーミ
ダルマム シャラナム ガッチャーミ
サンガム シャラナム ガッチャーミ

〔仏陀(理智、ブッディ)に帰依し奉る
法(ダルマ)に帰依し奉る
  僧団(社会、サンガ)に帰依し奉る〕


この3つの箴言は、人は第1に知性と霊的な識別力を研ぎ澄まさせなければいけない、第2に理性は社会への奉仕に使われなければいけない、第3に奉仕はダルマすなわち正義に根差したものでなければならない、という意味を含んでいます。

この3つのステップは、従う者を至福へと導きます。

多少なりとも決してどんな生き物も傷つけてはなりません。

「つねに助け、決して傷つけてはならない」――これが仏陀の教えの真髄です。


思いによっても、言葉によっても、行いによっても、決して他の人を傷つけたり害したりしてはなりません。あなたは、「そのようなことが可能だろうか?」といぶかしむかもしれません。

それは可能です。

ただし、あなたに固い決意があるならば、です。

揺るぎのない決意をもって固く決心したならば、この世に成し遂げられないことはありません。

そこで障害となる一番のものは恐れです。

同一の神性がすべての人に備わっているということをひとたび認識すれば、どんなことをも、どんな人をも、まったく恐れることはなくなります。

                              (中略)

すべての人が幸せを望んでいます。

そうした望みは自然なものであり、人間の真の性質は至福であるという事実から生じるものです。

至福は神ですが、人はそれを理解していません。

人は、自分が神から生じたこと、生命の底流が神であること、人の最終目的地が神であることを理解していません。

 

人は至福から生まれ、人生の基盤は至福であり、人の目的地は至福です。

実を言えば、人生の基盤は何か、人生の目的は何であるべきかを知るのは難しいことではありません。至福が人生の目的であるべきであり、人は真剣に至福を手に入れようと努めなければいけません。

人の体は束の間のものであり、体が人に与えることのできる喜びもはかないものです。

ですから、人は永遠のもの、つまり「神」、あるいはそれと同じものである「至福」を捜し求めなければなりません。

永遠ではない道具を使って至福を捜し求めることは無意味です。

体は肉体的な喜びしか与えることはできず、心〔マインド、マナス〕はせいぜい心の満足しか与えることはできません。


仏陀は至福の秘訣を探求するために家を出ました。

遊行中、仏陀は1体の屍と、1人の老人と、1人の病人を目にしました。

その痛ましい光景は仏陀を深い探求へと向かわせました。

死は避けることができないということを、仏陀ははっきりと理解しました。

人は幼年期、青年期、中年期へと自然と達するのと同じように、老年期からも逃れることはできません。こうした変化は物質的な世界の本質的な部分を占めており、それ自体はかないものです。

これらの変化は自然なことなのですから、人は変化に対してうろたえたり、心を乱したりしてはなりません。

 

仏陀は、
「死の原因は何か? なぜ人は老齢や病に襲われるのか?」
と自問しました。

長い熟考の末、仏陀は、体は水の泡のようなものにすぎず、体の病は心に起因するという結論に達しました。

現代の言葉で言うなら、その人の心理的傾向がその人の行動と振る舞いを決めるということです。

                              (中略)

遊行中のある日、仏陀はある村にやって来ました。

村の住人たちはヤグニャの最中で、儀式の一部として1匹の動物を生贄にする用意をしていました。

仏陀はそれを見て、生贄を供えないようにと戒めました。

「どのような習慣であろうとも、生類に傷害を負わせてはならない。神はすべてのものに宿っているのだから」
と仏陀は述べました。

イーシャーナッ サルヴァヴィッディヤーナーム
イーシュワラ サルヴァブーターナーム
神は智慧である
神はすべての生きものに宿っているということです。

 

仏陀は、
「これは私が学んだことだ。神はすべてに宿っている。ゆえに、人は神であり、神は人である。それゆえ、その動物を殺めるのは間違っている」
と付け加えました。

 

すると司祭長は、
「殺めようとしているのではございません。解脱を与えようとしているのです」
と答えました。

 

仏陀はその返答に驚いて言いました。
「そなたは解脱を求めていない動物に解脱を与えようとしている。

ならば代わりに、解脱を求める人間に解脱を与えてはどうか? 

そなたの反論は聖典に基づいたものではない。

どのヴェーダもそなたの言っているようなことは唱えていない。

そなたの所見は誤りであり、真実ではない。

そなたは危害や痛みや傷を負わせることで解脱を授けられるとでも思っているのか? 

それはできぬ! 

そなたの父、母、妻、息子、皆が解脱を欲している。

その者たちを生贄にして、望み通り皆に解脱を授けてはどうだ?

 そなたは解脱を欲さぬ動物を解脱させることにめっぽう熱心であるが、解脱を切望する人類同胞を解脱させることには気が進まない。

それはどんな類のゆがんだ論理だろうか? 

そなたがしようとしていることは最も重い罪である

。危害を与えること、傷害を負わせること、殺めることは、決してしてはならない」

このようにして仏陀は、
アヒムサー パラモー ダルマハ
非暴力は至高のダルマなり
という観念を伝えました。

 

アヒムサー(非暴力)は万人にとって最も重要なダルマです。

人に本来備わっている愛の原理は、鳥や獣を含むすべての生きものにも等しく存在しています。

ですから、人はすべての生きものの生命に同じ価値を置かなければいけません。

あなたに内在している愛を、人類同胞のみならず、自然界のすべての生きものと分かち合いなさい。

これが真の普遍なる愛の原理です。

この原理こそが人生の基盤であるべきです。


人々は解脱に関して奇妙な観念をもっており、解脱には天国に行って永遠に生きることが含まれると想像しています。

解脱はそのようなものではありません。

解脱とは、無私の愛という、不変で、衰えることのない、完全なるものを獲得することです。

人が到達しようと努めるべき状態はこれです。

この状態に達して、初めて人は真に解放されます。

 

解脱のためと称して、求道者たちはあらゆる霊的な道を試みています。

そうした修行はどれも、せいぜい一時の満足をもたらしてくれるだけです。

 

あなたを本当に解脱へと到らせ、永遠の至福を授けることができるのは、純粋な愛の道のみです。

 

                            (中略)

 

解脱を望むのであれば、こんこんとあふれ出る愛がその実践に伴っていなければいけません。

あなたがどの道を選択しようとも、その底流に純粋な愛がなければいけません。

実に、すべての霊的な試みにおいてそうでなければいけません。

すべてのことを、神への愛から、そして神のために、しなければいけません。

これが真の信愛です。

バクティ〔信愛〕とは、単に御名を唱えたり、儀式礼拝を行ったり、ヴェーダを学習したりといったことを意味しているのではありません。

そうした活動はどれも信愛の1つの側面を示しているにすぎません。

 

真の信愛は、あなたからまっすぐに神へと流れゆく愛の流れです。

神に対する無条件で無私の愛が真の信愛です。

神への礼拝はいかなる要求とも無縁でなければいけません。

 

とりわけ、世俗的な欲を叶えることや、世俗的な報いを期待することがあってはなりません。

しかしながら、人々はいつも多大な私利私欲を抱えて神を礼拝しています。

 

これは真の信愛ではありません。

あなたが神に捧げるものは、純粋で無私の愛でなければいけません。

そのような愛だけが解脱を確保してくれるでしょう。

実のところ、その愛自体が解脱です。

なぜなら、そうした愛はあなたを世俗的な欲から解放してくれるからです。

スワミがよく言うように、「モークシャ」〔解脱〕は「モーハクシャヤ」〔モーハの除去〕、つまり、執着と欲望からの解放が真の解脱です。


書物で純粋な愛を学ぶことはできません。

人から教えてもらうこともできません。

純粋な愛は心の奥深くからわき上がって来るべきものです。

あなたのハートは永遠の歓喜と永遠の至福の源です。

あなた自身がアーナンダ ニラヤム、すなわち、至福の住む家なのです。

あなたのハートから生じる愛は、神に捧げられなければいけません。スワミは先日こう言いました。

デーホー デーヴァーラヤッ プロークトー ジーヴォー デーヴァッ サナータナハ
体は神殿であり、そこに宿るものは神


同一の神がすべての体に宿っています。

ですから、あなたは自分を愛するのと同じくらい他の人たちを愛さなければいけません。

 

これは体であり(スワミはご自身を指差しました)、あれも体です(スワミは別の人を指差しました)。

体はそれぞれ異なっているかもしれませんが、体に内在している神は同一です。

自分の息子から父と呼ばれている人がいます。

その人のことを義理の娘は義理の父と呼び、孫たちは祖父と呼びます。

同一人物でありながら、呼び名は呼ぶ人によって様々です。

それと同じように、同一の神が、各宗教に従う者たちによって別の名前を付けられているのです。

 

人々は神を、アッラー、ジーザス〔イエス〕、ラーマ、クリシュナ、仏陀などと呼びます。

名前は様々であっても、神は同一です。

ですから、異なる宗教に属している人々の間で争いが起こる余地など、まったくないのです。

あなたは自分の選んだ御名で神に呼びかけるでしょうが、どの呼びかけも同じ受け手へと向かいます。目的地は1つであり、神も1つです。ですから、神に関して見解の違いがあってはなりません。

 

実際には、
サルヴァ ジーヴァ ナマスカーラム ケーシャヴァム プラティガッチャティ
誰にお辞儀や挨拶をしても、すべて神に届くのです。

 

同一の神がすべての人に宿っているのですから、カーストや宗教や人種などに基づいた意見の相違が入り込む余地など、どこにあるでしょう? 

スリランカの外務審議官(先のスピーカー)は、「自分たちは皆、人類というカーストに属している」と述べました。

カーストはただ1つ、それは人類というカースト
宗教はただ1つ、それは愛という宗教
言語はただ1つ、それはハートという言語
神はただ1つ、そして、神は遍在


この1なる神に、あなたの選ぶどんな名前でも付けることができるのです。

そうした様々な名前はあなた方が神に付けたものですが、実際には、神はそういった類の名前は持っていません。

神は名前なき者、姿なき者です。

神は純粋な意識であり、純粋なエネルギーです。

神のエネルギーと意識は、あなた方にも内在しています。

あなた方は、その並外れた力と能力を、神聖な活動のためにのみ、敬虔な態度で使わなければいけません。


神はあなた方に純粋な愛を授けましたが、この世の混乱状態とあなた方の食習慣や生活様式のせいで、愛が汚されてしまっています。

カーマ(欲望)、クローダ(怒り)、ローバ(貪欲)、モーハ(執着)、マダ(慢心)、マーッツァルヤ(嫉妬)によって、その愛に不純さが混じってしまいました。

今日見られる神聖な力の逸脱と汚染は、もっぱら食べ物と習慣のせいです。人間に適した食品は浄性の食物(サットウィック フード)です。

なぜなら、浄性の食物のみが、善良さ、気高さ、信心深さを養ってくれるからです。

仏陀は浄性の食物のみを食し、そのことによって、ブッディすなわち理智の完全なる開花へと導かれました。ヴェーダは宣言しています。

                            (中略)

皆さんはどうやって果物ができるかを知っていますね。

果物は、最初は花で、それから小さな実になり、それがだんだんと大きくなって青い果実になり、最終的に甘い果物へと変わります。

花と小さな実と青い果実は、同じものの進化の段階を示しているにすぎません。

それと同じように、神への道において、カルマ マールガ(行為の道)、バクティ マールガ(信愛の道)、グニャーナ マールガ(叡智の道)は、同一の根本原理の別の側面を示しています。

その根本原理はプレーマ〔純粋な愛〕であり、公言されている3つの道は、人が神に対する自らの愛を示すための3つの異なる方法です。

プレーマ〔純粋な愛〕は基本であり、あなたが焦点を合わせるべきものです。

 

あなたは一方で謙虚さを育み、もう一方で神聖な思いを育まなければいけません。

仏陀プールニマーの祝祭は、プレーマ〔純粋な愛〕はプールナム(完全性)への道であるということを人に思い出させるために祝われます。


仏陀は国の隅々まで行脚して、人々に神聖な愛の道を歩むようにと説きました。

そうしているうちに、仏陀の体は消耗しきってしまいました。

そのため、仏陀はある村に滞在していくらか休息を取ることに決め、自分の代わりに弟子の1人に村人たちに説法するよう頼みました。

 

弟子はその幸運を喜んで勢い勇み、その説法の中で、
「仏陀は愛と叡智と慈悲の人であられます。これほど高貴なお方はかつておらず、これからも現れないでしょう」

と語りました。

それを聞いて村人たちは感動し、拍手喝采で応じました。

身を休めていた仏陀は、その音を聞くと部屋から出て弟子のところに行きました。

 

そして、説法をやめるようにという身ぶりをしながら、
「息子よ、そなたの歳は?」と尋ねました。
「釈尊、25歳でございます」と弟子は答えました。

 

すると仏陀は、
「これまで訪れた地は?」と尋ねました。

弟子は地名を述べました。

 

仏陀は言いました。
「そなたは若く、経験も浅く、この世のごくわずかしか見ていない。そのような限られた知識で、いかにしてそなたは、この仏陀に並ぶものはこれまで現れたこともなければ、今後現れることもないなどと確証できるというのか? そなたは過去も知らなければ、未来も知らない。現在のことすらすべてを知っているわけではない。それでどうして過去と未来の両方について断言する権限があるだろう? そなたの説法のやり方は単にそなたの無知をさらし出しているにすぎない」

それから、仏陀は宣言しました。
「多くの偉大な人物が過去に生を受けており、将来はもっと多く現れるであろう。この真実を否定することは誰にもできない」

仏陀は、虚飾、誇示、へつらいを嫌いました。

仏陀は質素で、いつも穏やかで、純粋で、謙虚で、つねに愛と慈悲に満ちていました。

仏陀の偉大さの真価がわかるのは、仏陀と同じくらい愛に満ちた人だけです。


愛の化身である皆さん!

仏陀プールニマーの日だけ幸せでいても十分ではありません。

つねに歓喜を感じることができなければいけません。

それは仏陀の教えに従うことによって可能となります。

今日、人々は演壇でスピーチをしているときには偉大な英雄(ヒーロー)ですが、実践においては零(ゼロ)です。

雄弁なスピーチをすることよりも、仏陀の教えを実践することのほうがはるかに重要です。

それこそが幸福を享受するのに適った方法です。

これは仏陀への尊敬と崇敬の念を表すのに適った方法でもあります。

仏陀の教えは気高く、高尚で、神聖です。最も重要な仏陀の教えは、
アヒムサー パラモー ダルマハ
非暴力は至高のダルマなり
というものです。

 

アヒムサー、すなわち非暴力は、すべてのダルマの中で最も偉大なダルマです。

仏陀はこの教えを非常に強調して力説しました。

仏陀はさらに、ものの見方が神聖でなければならないとも説きました。

 

仏陀は、
「神聖な見方は純粋な生活を送るために必須である。サムヤク ドリシュティ(善いものだけを見る習慣)とサムヤク シュラヴァナム(善いものだけを聞く習慣)を養うべし」
と述べました。

 

仏陀にはすべてが純粋で神聖でなければなりませんでした。

池に小石を投げると、波紋が生じ、池のふちまで広がります。

それと同じように、あなたのハートという池に善い思いという小石を投げ込めば、波紋が生じてあなたの体中に広がります。

その波紋が目に届くと、目は清らかな見方を刺激します。

その波紋が耳に届くと、耳は神聖な音に傾きます。

手に届くと、手は善い行いへと動きます。

そうして体中にその波紋が広がると、体全体で神聖な活動という交響曲を奏でます。

ですから、善良で高貴な思いが神聖な活動の基礎なのです。

これは仏陀の偉大な教えです。

 

あなたはそれにどう応えますか? 

あなた方全員が、仏陀の教えの含まれている本を読んだことに疑いはありません。

しかし、本を置いた瞬間に、その教えはすべて忘れられてしまいます。

 

白檀は、よく研いで初めてその甘い香りを十分に嗅ぐことができます。

サトウキビは、よく噛んで初めてその甘さを味わうことができます。

それと同じように、神聖な教えをずっと継続して実践していくことによってのみ、至福へと導かれることができるのです。

過去の偉大な人々は、従うべき無数の教えと、倣うべき理想的な手本を残しています。

そうした過去のすばらしい教えの中から1つか2つでも実践するなら、それで十分です。


神は人間に時間という贈りものをしました。

それは何のためでしょう? 

 

人間が時間を神聖なものにするためです。

 

しかし、あなたはそうしていますか? 

自分はどのくらい時間を無駄にしているか、内省して割り出してごらんなさい。

時は神です。

時間を無駄にしてはなりません。

時間を無駄にすることは人生を無駄にすることです。

今日、人々はありとあらゆる方法で時間を無駄にしています。

人々はテレビに貼りついている時間を作ることはできても、奉仕をする時間や神聖な行いをする時間は持てません。

なぜ価値のない気晴らしのために時間を無駄にしなければならないのですか? 

そうする代わりに、どうしてその時間を慈善活動や奉仕活動に使えないのでしょうか? 

これらは仏陀がしたことです。

 

仏陀はつねに他者に奉仕していました。

                         (中略)

仏陀が森で休んでいたときのことです。

そのとき仏陀は独りでした。

恐ろしげな悪魔が仏陀の前に現れて言いました。

「私はとても腹が減っている。私の餌食となる覚悟はできているか?」
仏陀は微笑んで答えました。
「ああ、覚悟はできている! 死はいつの日か必ずやって来る。ならば、今日私が死んだとしてもおかしくはあるまい? とりわけ、それで私がそなたの飢えを満たすことができるなら」

決して死を恐れてはなりません。

なぜなら、死は必然であり、誰も死を逃れることはできないからです。

仏陀は死を恐れていませんでした。

それゆえ、仏陀は悪魔の餌食となる覚悟ができていたのです。

 

その返事を聞くやいなや、悪魔は鳩に変じて言いました。
「今日、あなた様は莫大なる犠牲を示してくださいました。これから私も、必ずや、いたる所にあなた様の教えを広めます」


仏陀の教えは愛の原理に基づいています。

サイの教えも同じです。

 

すべての化身の起点は愛です。

 

この根本的な真理を理解しようと努めている者は誰もいません。

あなたは無私の愛を育てなければいけません。

あなたがそれをするならば、世界中があなたの支配下となるでしょう。

この愛は至福あふれる甘美なものです。

甘露の甘さには限りがあるかもしれませんが、神の愛の甘さには限りがありません。

神の愛の甘さはいかなる度量も超えています。

 

神の愛は言葉では言い尽くせません。

神の愛はただ体験し得るのみです。

 

仏陀はその愛を見出し、体験し、その愛と一つになりました。

神と愛は別のものではありません。

水泡は、水中で生まれ
水中で成長し、水中で生き、
ついには水に融合する
人間は水泡であり、神は水である!


人は水から生まれた泡であり、水は神です。人は神であり、神は人です。両者は人々が想像しているような、異なるものではありません。

愛の化身である皆さん!

すべての人をまさしく神の別の姿であると見なしなさい。

あなたの両親はあなたに名前を付けました。

それはあなたが自分の名刺に印刷する名前です。

あなたが神に贈る名刺には、あなたの名前ではなく愛が書かれていなければいけません。

名刺を人に見せると、相手は名刺にある名前や住所によってあなたを認識します。

一方、神は、愛、愛、愛だけを認識します!

一日を愛で始め
愛で過ごし
愛で終えなさい
これが神へと到る道!

 

聖典の学習は、人を(世俗的な意味あいの)学者にすることはできますが、人を賢者にすることはできません。

誰が真の学者でしょう? 

誰が真の賢者でしょう? 

どんな状況においても完全なる平常心と不動心をもっている者だけが、学者や賢者と呼ばれ得るのです。

学者は書物を熟読し、自分はすべての聖典に精通していると主張し、自分には高い教養があると公言します。

そのような自画自賛は明らかにエゴ〔アハンカーラ、自我意識〕のしるしです。

 

エゴは非常に危険なものです。

なぜなら、エゴは確実に人を破滅へと引きずりこむからです。

単なる勉学が何の役に立つでしょう?

 学者たちは自分が学んだことをわずかでも実践しているでしょうか?

 まずしていません。学

識は人を守ってもくれなければ、救ってもくれません。

 

それができるのは純粋な愛だけです。

純粋な愛は、速度制限のない、きれいに舗装された一方通行の道路のようなものです。

あなたは自分が出したいどんなスピードででも、神に向かってその道を急ぐことができます。

同じように、川もこの原則を物語っています。

すべての川は勢いよく山から流れ出ます。

 

川はある所に向かって急速に流れます。どこに向かっているのでしょう? 

海です。

その過程で、川は大きな石や岩を越え、巧みに障害物を避けていきます。

川は決して止まることなく、つねに目的地に向かって移動し続けます。

人生は、神と呼ばれる海に向かって勢いよく流れる川でなければなりません。

その流れは、決して止まることも、衰えることもあってはなりません。

あなたは、すべての障害を乗り越えながら、神へと向かって勢いよく流れ続けていかなければなりません。

それがあなたの霊性の旅の特質でなければなりません。意志を強く持ち、決意を固くし、決然として、誠実でありなさい。

わずかでも弱さの入り込む隙があってはなりません。

あなたのものの見方、聞き方、思考、感情、そして、行いが善良であれば、あなたは至福だけを体験するでしょう。

神の指示に従い、愛を広げなさい
愛の化身である皆さん!

神を探しに出かける必要はありません。

神があなたを探しに来ます。

 

神はお寺やモスクや教会には住んでいません。

それらは人間がこしらえた建造物です。

神は自分が建てた寺院に住んでいます。

それは人間の体です。

 

人間の体は、生ける寺院であり、歩く寺院であり、語る寺院です。

人間の建てた寺院には、力と神聖さにおいて、神が建てたこの寺院に匹敵するものはありません。

この寺院は、レンガとモルタルで建てられたものではありません。

建築家が設計したものでも、技術者が建てたものでもありません。

この寺院は神の意志によって出現しました。

 

                         (中略)

人は飲み食いをして楽しく浮かれ騒ぐために生まれたのではありません。

もちろん、生命を維持するには食物は欠かせません。

ビクシャーンナム デーハ ラクシャールタム
ヴァストラム シータ ニヴァーラナム
食物は生命を維持するためにあり
衣服は体を覆うためにある

これが指針です。

 

食物と頭は、あなたを神だけに導かなければいけません。

神以外のところに導いてはなりません。

食物と頭と神の間には完全な調和がなければいけません。

 

                          (中略)

 

愛の化身である皆さん!
 

あなた方は仏陀の教えに従う決意をしなければいけません。

 

仏陀は気高い人物でした。

 

仏陀プールニマーを祝う一番の方法は、聖人仏陀の教えを実行に移すことです。

この祭日だけ幸せでいても十分ではありません。

この聖なる日の体験を絶えず心の中で再現することによって、つねに歓喜を体験していなければいけません。

 

牛はまず草をはみ、それから静かに座って前に食べたものを徹底的に反芻します。

動物にそれができるなら、人が自分が習った教えについて同じことができないことがあるでしょうか? 

家に戻ったら、今日習ったことを反芻しなさい。

 

今日の体験を何度も思い起こしなさい。

これが、自分が習ったことを消化して、幸せでいるための方法です。

これを行って、初めてこの地への旅は価値のあるものとなるのです。

ここから離れた瞬間に教えを忘れるようではなりません。

霊的な教えがあなたの血液の中にしみ込んで、あらゆる所に広がっていかなければいけません。

                            (中略)

あなた方は、自分の面倒を見て自分を守っているのは自分であると思っています。

これは真実ではありません!

 実際にそれを行っている者は神です。

ぐっすり眠っていて自分の周囲で何が起こっているかわからない時にあなたを守っているのは、誰だと思いますか? 

その時あなたの面倒を見ているのは誰でしょうか? 

それを行っているのは神です。

 

実のところ、神はつねに、あらゆる場所で、あらゆる状況において、あなたの面倒を見ています。

神がつねに守護しているのですから、痛みも苦しみも恐れる必要はありません。

困難は必ずやって来るものですが、必ず去って行くものでもあります。

困難は永遠に留まるものではありません。困難は過ぎ行く雲のようなものです。

 

一方、神は、定まった永遠なるものです。

神をあなたの生活の基盤とし、いつも神を想っていなさい。

これが、この地への巡礼の一部として、あなた方が今日、しっかりと理解しなければいけない教えです。』
出典:Summer Showers in Brindavan 2000 C8
 

 

今回の記事は以上です。

ではまた。

みんな幸せになりますように。

 

皆さんよいお年を!

サイラム <(_ _)>