神について、仏教についてのサイババ様の教え | 『真理への翼』(サイババの導きと叡智)

『真理への翼』(サイババの導きと叡智)

これは『哲学の透視図』を改題したもので、サイババとの体験談、教えを通して「人間とは何なのか?」「死をゴールとした人生に何の意味があるのか?」「真理とは何なのか?」といったものの答えを探究していくものです。

 

今回はまず、1997年5月15日のブッダプールニマー祭の時、ブリンダーヴァンのサイラメーシュホールにおいてサイババ様が、仏陀が歩んだ人生、仏陀が説いた教え、仏教が辿った歴史などについて語られたご講話の紹介からしていきたいと思います。

 

なお、ブッダプールニマー祭とは、仏陀の 生涯における三つの重要な出来事、すなわち 誕生、成道、涅槃を祝う、仏教暦の中で最も 神聖なお祭りの一つで、ヴァイシャーカ月 〈四月下旬から五月中旬〉の満月の日に行われる宗教行事であり、お祭りです。

 

『愛の化身である皆さん!

(サイババ様は多くの場合、人々に向かってこう呼びかけておられました) 

 

英知(グニャーナ)とは、単に書物から得た知識を意味するのではありません。そしてまた、この世的な知識のことでもありません。個別の魂(ジーヴァートマ)と宇宙の大霊は一つであると認識した者だけが、真に至高の英知をもつ者(グニャーニ)なのです。真の英知とは、個人と全体が一つであるということに気づいていることです。

 

自分の人間性を知らない者が、どうして自分の内にある神性を認識することができるでしょう? それゆえ、第一に必要とされることは、自分の人間としての特質を一人一人が認識するということです。この真理に基づき、ブッダは、誰もが最初に「サムヤク ドリシュティ」(清らかなヴィジョン、正見)を培うべきであると宣言しました。清らかなヴィジョンを抱いている時にのみ、人は身体と言葉と思考から不純なものを取り除くことができるのです。この清らかさこそが、目と耳を通じて侵入して来る不純なものから人を守ることができるのです。

ゆえに、誰にとっても一番に必要とされるものは、「清らかなヴィジョン」です。

 

二番目に必要とされる性質は、「サムヤク サンカルパム」(清らかな思い、正思)です。誰もが清らかな思いを抱かなければなりません。自分のヴィジョンに清らかさを持つようにしてきた人だけが、清らかな思いを抱くことができます。清らかなヴィジョン、清らかな思いとともに、誰にとっても三番目に必要なものは、行為の清らかさ(サムヤク カルマ、正業)です。誰もが清い行為をすべきです。清い行為をとおして、人は自分のもっている人間としての特質を認識することができます。人は、ただ肉体を与えられたというだけの存在ではありません。善いヴィジョンを身に付け、善い思いを抱き、善い行為を行う、という能力によって人間性を神性へと変容させる力を、人はもっているのです。

 

人が四番目に必要とするものは、「サムヤク スムルティ」(神聖な言葉を聞くこと、正聞)です。神聖でない言葉を聞くならば、神聖でない思いしか抱くことはできません。

 

ブッダが定めた五つ目の性質は、「サムヤク ジーヴァナム」(清らかな生活を送ること、正命)です。「生活する」とは何を意味しているのでしょう? それは、世俗を追い求めることに固執した生活を送ることではありません。真の生活とは、理想的な行いをすることによって、自分の生活を意味あるものにすることです。人の生活は、理想を実行することによって律されなければなりません。

 

《心の中から不純物をすべて取り除くことが真のサーダナ(霊性修行)》

 

次に、ブッダは、誰もが「サムヤク サーダナム」(最高の善を達成すること、正精進)を目指すべきであると宣言しました。サーダナムとは、人の中にある邪悪な性癖を除去し、善い神聖な性質を獲得することを意味します。真のサーダナとは、人の内にあるすべての悪を根こそぎにすることです。聖典を学び、瞑想し、苦行をすることがサーダナ(霊性修行)のすべてではありません。心(マインド)の中の不純物をすべて取り除くことが、真のサーダナなのです。

 

この次に来るのは、ブッダが「サムヤク サマーディ」(正定)あるいはニルヴァーナ(純粋なる悟り、解脱)と呼んだものです。「サマーディ」(三昧、定)の意味するものとは何ですか? それは、光と闇、苦と楽、損と得を同じように扱うことです。「サマ・アディ」つまり、心が等しい状態にあることが「サマーディ」です。光と闇、苦と楽、損と得、評判と批判を同じ心で眺めることが「サマーディ」なのです。ブッダはこの等しい心の状態を「ニルヴァーナ」と名付けました。

 

人間のあらゆる感覚〔感官〕は本質的に神聖である、ということを理解しているところにこそ、真の人間らしさがあるのです。まず最初に、人は舌を清く保っていなければなりません。これは「サムヤク ヴァーク」(言葉の清らかさ、正語)と呼ばれています。舌は、虚言、悪口、毒舌を慎むことによって、清められなければなりません。

 

次に来るのが、「サムヤク ダルシャナム」(正見)すなわち、神聖なもののみを見ることです。あなたの良心を喜ばせるもののみを見なければなりません。世俗のものを何でも見るということは、決して正しい見方ではありません。

 

ブッダは、善いものを見ること(正見)、善いことを思うこと(正思)、善いことを話すこと(正語)、善いことを行うこと(正業)を強調しました。何でも見るというのは誰にとってもよいことではありません。目は、清いもの、神聖なもの、徳を養うもののみを見るために使うべきです。

 

神の化身(アヴァター)たちが皆、善いもののみを見なさいと説いてきたにもかかわらず、人は今日、その教えに従うことなく、化身たちの誕生日を祝うことだけで満足しています。ブッダはヤグニャやヤーガ〔供犠〕には全く重きを置いていませんでした。なぜならブッダは、まず第一に五つの感覚器官の清らかさを確保することが重要である、と感じていたからです。ブッダは、心はなぜ乱されるのかということを探求しました。ブッダは、誰であろうと苦しんでいる人を見ることに耐えられませんでした。老いによって人が苦しめられるのを見ると深く悲しみ、死体を見ると困惑しました。これら自然の出来事はどれも、ブッダに心の平安を与えはしませんでした。ブッダは、惑星や太陽や星の動きを自然現象と見なしていました。ブッダはこれらの自然現象を超越するものを探し出すために、多くの霊性修行を行いました。

修行で答えを見出すことができなかったブッダは、多くの偉大な長老たちの所に赴き、答えを求めました。しかし、ブッダに満足する解答を与える者は一人としていませんでした。

最後に、ブッダはガヤーに辿り着き、自分を悩ませている問題を瞑想するため、菩提樹の元に座したのです。

 

ブッダは、ヴェーダを学習することにも、ヤグニャやヤーガ〔供犠〕を行うことにも関心がなかったために、無神論者と呼ばれていました。これは完全な誤りです。

ブッダは純粋なハートをもっていました。ブッダが生まれた時、高名な占星術師は、ブッダが偉大な王か偉大な出家者のどちらかになるであろうと予言しました。ブッダの父シュッドーダナ王は、これを聞くと、この世で起こる見苦しい世俗の光景が息子の視界に全く入らないようにと、守備を整えました。

子供のころから、ブッダは誰かが苦しんでいるのを見ることに耐えられませんでした。年長者が若者を冷遇し、権力者が平民を苦しめ、大きな魚が小さな魚を飲み込むのを見ると、悲しみに沈みました。ブッダは、誰であろうと他人を傷つけることは誤りであると実感しました。それゆえブッダはこう宣言しました。「非暴力は至高のダルマである」(アヒムサー パラモーダルマハ)。言葉や行動、あるいは他のどんな形であろうとも、誰も他の人を傷つけてはなりません。

ブッダによれば、真のダルマ(正義)とは、思いと言葉と行為において誰をも傷つけないことにあるのです。真理は神です。ブッダは、人は真理を固く守り、それを掲げるべきであると説きました。

ブッダの教えの中で最も重要なものは、サティヤ(真理/真実)とダルマ(正義)です。

この二つは、ヴェーダの教訓である「真理を語り、ダルマを行いなさい」(サティヤム ヴァダ、ダルマム チャラ)ということです。

 

ブッダが生まれたときに付けられた名は「サルヴァールタ・シッダ」でした。シュッドーダナ王は、息子を義兄弟スッパブッダの娘ヤショーダラーと結婚させました。王は、このままでいたなら息子は世捨て人となり、俗世から離れてしまうのではないかと恐れたのです。しかしブッダは結婚生活が自分にふさわしいものであるとは思いませんでした。人は世俗の生活の様々な執着によって縛られていると、ブッダは感じていました。友人や縁者はこの束縛の原因でした。様々な人間関係はこの世の苦しみの原因です。そしてブッダは宣言しました。「すべては苦しみである(一切皆苦)」また、このようにも宣言しました。「すべては束の間のものである(諸行無常)」〔一切刹那〕(サルヴァム クシャニカム クシャニカム)「すべては滅びゆくものである(諸法無我)」(サルヴァム ナシャム ナシャム)

 

ブッダは、真に永続するものは何もないと感じました。

親は、自分の子供を様々に束縛して従わせ、子供たちの人生を惨めなものにしています。

子供が適齢期になると直ぐに、親はやっきになって結婚させようとします。親は、結婚生活から人がどんな種類の幸福を得るのかを分かってはいません。親は、自分自身の結婚生活から、肉体的に、精神的に、あるいは他の点において、どんな幸福を得たのでしょうか? どんなに知識があろうと、この問題について考える人はいません。著名な学者でさえ、感覚を超越するものを探し求める代わりに感覚の喜びを追い求めることに価値があるのかどうか、検討しようとはしません。

ブッダは、両親や他の人々が協力してブッダを結婚生活に縛りつけようとするのを、大変不幸に感じていました。ある日、ブッダは夜中に宮殿を抜け出して、妻と幼い息子ラーフラを捨てました。

 

ブッダは「母もなければ父もない、縁者もなく友もなく、また家も財産もない。目覚めるのだ!」との信念からすべてを捨てたのです。ブッダは、世俗的関係や喜びのすべてを越えた何かを見つけ出そうと決心しました。

 

ブッダは自らに問いました。「人生とは何であるか? 誕生は惨めなものだ。老いは惨めなものだ。妻は悲しみの原因である。一生を終える時にも惨めさがある。ならば、油断なく警戒し、目覚めることだ」

 

幸福はこの世のどんなものからも見つけることはできません。すべては過ぎ行くのです。人は些細で儚い喜びを追い求めて人生を無駄にしています。「ニルヴァーナ」だけが真実です。それは、すべての生命と一体であるという感覚です。心を永遠のものに向けること、それが「ニルヴァーナ」なのです。

 

ニルヴァーナに達する前に、ブッダは異母兄弟のアーナンダを呼びました。ブッダの母親マーヤーデーヴィーはブッダが生まれて七日目に他界し、シュッドーダナの二番目の妻ゴータミーがブッダを育てました。ゴータミーに育てられたため、ブッダはゴータマタマ ブッダと名付けられました。28歳の時、ブッダはすべてを捨てて出家行者になりました。出家という、この段階が意味するものとは何でしょう? ブッダはこう宣言しました。「サンガン(サンガム) シャラナム ガッチャーミ」、すなわち「手は社会の中に、頭は森の中に」。ブッダは社会の安寧を促進することを考えてすべてを捨てたのです。

 

ブッダは「私はダルマ(法)を拠所とする」と宣言しました。ダルマとは何でしょう? 「非暴力は至高のダルマである」(アヒムサー パラモー ダルマハ)。ダルマとは、誰に対してもいかなる害をも与えないことを意味します。

 

《仏教の衰退》

 

この二つの説法を基礎に、ブッダは教えの伝道に努めました。ブッダの教えは、チベット、中国、セイロン、ビルマ、タイ、日本といった多くの国々に広まりました。

 

やがて宗派の分裂が進み、それによって仏教は衰えていきました。

 

ブッダが強調したことは、ただ、日常生活のあらゆる側面における清らかさでした。ヴィジョンの清らかさ(正見)、思いの清らかさ(正思)、言葉の清らかさ(正語)、行為の清らさか(正業)です。ブッダは、犠牲の精神こそが真のヤグニャ〔供犠〕であるとみなしていました。犠牲はニルヴァーナ(世俗的存在の束縛からの解放)にたどり着く手段です。ブッダは、誰であろうと自分の意思に反して世俗の生活を送るように強要する人には断固として反対しました。

 

ブッダが托鉢行者として施しを乞いながら歩いていると、父シュッドーダナがブッダを呼んで言いました。

「息子よ! なぜそなたは物乞いをして歩いておるのだ? 私は王であり、そなたは物乞いの生活を送っている。これはまったく正しいことではないではないか」ブッダは王に適切な返答をしました。

「王様、あなたはブラフマンで、私もブラフマンです。あなたは父ではなく、私は息子ではありません。私たちは二人ともブラフマンなのです。現象世界では、あなたは支配者の部族に属しており、私は出家行者の部族に属しています。私の理想に従うものは皆、出家行者です。あなたの部族は執着(ラーガ)を基盤とし、私の部族は放棄(ヴィラーガ)を基盤としているのです。執着している者にとって、執着は病(ローガ)となります。出家行者にとって、無執着はニルヴァーナ(束縛からの解放)への手段となるのです」ブッダはこのようにして自分の父、妻、息子に教えを説きました。

 

《仏教の祈りの意味》

 

仏教の祈りを正しく理解しなければなりません。仏教徒たちはこのように唱えます。「ブッダに帰依し奉る、ダルマ(法)に帰依し奉る、僧伽に帰依し奉る」(ブッダム シャラナム ガッチャーミ、ダルマム シャラナム ガッチャーミ、サンガム シャラナム ガチャーミ)この祈りが真に意味しているのは、「ブッディ〔理智〕(心)を正しい行い(ダルマ)へと向けなければならない。そして、正しい行いは社会への奉仕を目指すものでなければならない」ということです。これが実践されるなら、社会は清められます。

 

神の化身(アヴァター)や救世主たちの伝記を読むことだけでは十分ではありません。彼らの教えをでき得る限り実践すべきです。人は物質への執着から徐々に脱し、神聖な愛を育まなければなりません。

 

シュッドーダナは、外界のあらゆる世俗的影響から息子を守ろうと、ブッダを宮殿の中に閉じこめ、学校にさえも通わせませんでした。結局、何が起こったでしょう?ブッダは人間存在の真理を探究するためにすべてを捨てる決心をし、最高の善として非暴力(アヒムサー/アヒンサー)を宣言したのです。

 

今日、人に必要なものとは何でしょう? それは三つあります。月のように清らかで汚れのないハート、バターのようにソフトで甘美な言葉、愛と優しさに満ちた顔です。今日の世界にはこれらが欠けています。大気のすべてが恐れを与えています。言葉に荒々しさがあります。ハートに穏やかさがありません。ハートはバターのように清らかで柔らかくなければなりません。ところが今日、人はそれとは反対に硬いハートをもっています。ハートを慈悲で満たしなさい。言葉を甘美に、そして真実で満たしなさい。そうすればあなたは真の人間となるでしょう。

 

《非暴力は最高の徳》

 

ブッダは世に向けて一つの偉大な真理を説きました。ブッダは、ヴェーダや聖典の言葉が真理を構成しているのではないと宣言しました。人は、非暴力が最高の徳であることを心に留めておくべきです。思いと言葉と行為によって誰をも傷つけてはなりません。舌は真実を語るために与えられたのです。ジャヤデーヴァは舌の甘美さを示すため、ゴーヴィンダ、ダモーダラ、マーダヴァといった神の御名を舌に唱えさせました。

 

いくつ宗教があろうとも、ゴールまったくは同じです。

 

この世で日常生活を送るには、人は数多くの使命を果たさなければなりません。しかし、それらすべてをして、真に生きていると言えるのでしょうか? 神を想うことなく過ごした人生を、仮にも人生だと呼べますか? 清らかさがなく、道徳がなく、霊性がないところにどんな人生があるというのでしょう? 道徳と誠実さのみが、人を解脱へと導くのです。今日、この二つが欠けています。人は、道徳と誠実さに人生の基盤を置くように努めなければなりません。人は、イエスが述べたように、神の使いとなるべきなのです。

 

愛の化身である皆さん! 私たちは今日、ブッダ プールニマー〔仏陀の満月祭〕、ブッダ ジャヤンティ〔仏陀の誕生祭〕を祝っています。プールニマー(満月)とは何を意味しているのでしょう? 満月は完全を意味しています。心が愛に満たされている時、心は充足を得ます。心が暗闇(邪悪な思い)に満ちている限り、ブッダ プールニマーを祝う意味はありせん。

闇を払いなさい。ハートに愛の光がないのであれば、外に照明を置くことが何の役に立つでしょう? あなたの心(マインド)に神のランプを灯しなさい。ハートから憎しみと妬みを追い払いなさい。人は二つの邪悪な惑星の被災者です。その惑星とは、執着と憎悪です。その支配から逃れる唯一の方法は、愛を育てることです。』

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.30 C13

 

 

話は変わりますが、世界全体が新型コロナという災厄に呑み込まれてしまった感のある今、もしサイババ様が目の前におられたら

『サイババが神なら、サイババは神の力を使って、自然の力をコントロールし、地震や洪水、干ばつや伝染病といった災害から人々を守ることはできないのでしょうか?」

と尋ねてみたい人は少なからずいるのではないでしょうか。

 

以下は👇サイババ様のお答えです。

                

「アヴァター(神の化身)には、人々を助けることのできる二つの方法があります。
一方が瞬時に解決する方法であるのに対して、一方は長い時間をかける方法です。

瞬時の解決策を用いれば、自然そのものの根本的な性質にも、因果という『カルマの法則』にも反することになります。

大多数の人は、こうしたエゴと欲望に満ちた俗世に生きています。
そのような人たちは、自らの行為(カルマ)の報いを受けます。

行為の報いは、そのひとたちに《進化》や《退化》をもたらします。

もし、その人たちの問題を即刻解決するためにアヴァターが介入したならば、すべての行為、進歩、そして進化すら停止してしまうでしょう。

(したがって)この解決策を認めることはできません。
なぜならそれは、自然の法則をことごとく無視しているからです。

もう一方のより効果的な方法は、長期的な解決策であり、それによってアヴァターは、人々が霊性の法則の真理を理解することができるよう、人々を高次のレベルへと導きます
                            
 (中略)
苦難も困難も、宇宙のドラマの避けることのできない一場面です。
そうした災害は、神が定めたものではなく、人間が自らの悪行の報いとして招いたものです。

それは人間を矯正するための罰なのです。

そうした罰は、人間が(自らに隠されているアートマの本質である)サット(絶対実在) チット(純粋意識) アーナンダ(至福)》・・・すなわち、叡智と至福の実在という、神のごとき状態を体験できるよう、人々に悪の道をやめさせ、正しい道へと連れ戻します。
                           
  (中略)
もしあなたが言ったように、即時の終焉をもたらすためにアヴァターが災難をもたらすとしたら ・・・私はそれができますし、どうしても必要とあらばそれを行いますが・・・ カルマの法則にのっとった、創造のドラマ全体が崩壊してしまうでしょう。

そうした災難は、神が人間にもたらしたものではなく 『人間が人間にもたらしたものである』 ということを覚えておきなさい」

(出典は、実際に20年以上前にあった帰依者の方との会話)

 

 

以下は 

「あるものは神の恩寵を得、ある者は得ることがありませんが、それはなぜですか?」

という問いに対するサイババ様のお答えです。

              ↓

「あるものは神の恩寵を得るが、ある者には得難いと考えるのは正しいことではありません。
神の恩寵は全てのものの上に、常に、等しく注がれています。
あなた方がそれに気づかないために、そうした誤解が生じるのです。

雨が降っているとしましょう。雨水を集めるためには、壺の口が上を向くように正しく置く必要があり、逆さまに置いてはなりません。

それと同じように、神の恩寵を得るためには、あなた方の頭と心を、正しい方向に定めることが必要なのです』

 

 

 

サイババ様について語られる話は、常に奇跡とワンセットです。
そして、その奇跡の話で、一番良く知られているのは、様々な物質化現象と、病の治癒や事故や絶体絶命の危機などからの救出などです。

以下に紹介するのは、側近と呼ばれるような方たちのそうした体験談です。

まずは西洋人の帰依者としては最も有名な方であるヒスロップ博士の体験談からです。

ホワイトフィールドからバンガロールへの移動中の出来事です。

(ホワイトフィールドとはプッタパルティのアシュラムより小さいアシュラムのある場所です。プッタパルティより標高が高く気温が低いため、プッタパルティのアシュラムの気温が40度を超えるようになる夏季期間だけ(大体1~2か月間くらい)プッタパルティのアシュラムを閉鎖してすべての活動がこちらに移されていました) 

 

『ホワイトフィールドからバンガロールまでの道路は、右と左の二車線しかありませんでした。
インドのタクシーの運転手に限ったことではありませんが、とかく運転手というものは待つことが嫌いです。
このとき、タクシーはバスの後ろについて走っていたのですが、タクシーの運転手はバスを追い越して先に行こうと考えました。そこでタクシーはバスの左に少し出ました。

前を見るとライトが一つ見えました。運転手は、おそらくそれは街灯か何か動かないものの光だろうと判断し、アクセルを踏みました。
インドのタクシーはアクセルを踏んでもすぐにはスピードが出ず、徐々にスピードが上がってきます。
車がバスの横に並んだとき、私たちは運転手が重大なミスを犯したことに気がつきました。前方に見えた一つの光は街灯などではなく、非常に速いスピードでこちらに向かってくるトラックの、片方しか点いていないヘッドライトだったのです!
 
 タクシーがバスの横に並んだとき、前からものすごいスピードでそのトラックが走ってきて、ライトが私たちの目を直射しました。私たちはみな、本当に死を覚悟して目をつぶりました。
なぜ死を覚悟したのでしょう?
普通正面衝突しそうになると、どちらかの車が道の脇に突っ込んでそれを逃れようとします。
正面 衝突したら生き残るチャンスはまったくありません。
けれども、道の横の溝に突っ込めば、少なくともチャンスだけは残されます。
このとき、道路の路肩には道具類が積んであったため、避難できる場所はまったくありませんでした。
工事の機材が人間の高さくらい積まれていたので、車が突っ込む余裕すらなかったのです。
ですから、次の瞬間には正面 衝突が起こる状態でした。
そのため、目の前に来た車の光が目に飛び込んできたとき、私たちは目をつぶって死を覚悟したのです。
 ところが、何事も起こりませんでした。振り向いて窓から後ろを見ると、さっき目の前に見えたトラックのテールランプが見えて、それが後方に走り去っていきました。これは本当にありえないことです!

 

次の日、私たちはプラシャーンティ・ニラヤムに行ってババの御足にひれ伏し、「私たちの命を救ってくださり本当にありがとうございました」とお礼を申し上げました。
するとスワミはお笑いになって 
「本当に昨日はたいへんでしたね。あなたはあまりのショックに私のことを思い出すことも忘れていましたね。(ブログ主注釈・サイババ様は常日頃、帰依者に対して、こうした危機に直面した時は、サイババの名前を唱えればすぐに助けに行くので、覚えておくようにと教えておられました。なのでこれは、それを忘れていたヒスロップ博士たちを助けなくてもよかったのだけどね、というサイババ様の軽いジョークです)でも、私はあなたたちを救いましたよ」というようなことをおっしゃいました。
 私はスワミに 「スワミは時間と空間の両方を入れ換えてくださったわけですね?」と言いました。それに対してスワミは笑っていらしただけで、何もおっしゃいませんでした。  

 

こうした「神の救済的出来事」がなぜ起こるかについてサイババ様が語られているものがあるので、そのエピソードを以下に紹介します。

 

体験者はタミル・ナードゥ州 シュリ・サティヤ・サイ・セヴァ・オーガニゼーションの元州会長T.G.クリシュナムールティという方です。

 

「それは 1990 年の 7 月 29 日のことでした。私はバンガロールから、妻と友 人と共に車で旅行していました。私が車を運転して、妻が私の左に座っていました。

友人は後部 座席に座っていました。

車はバンガロールからチッカバッラプルに向かっていました。

チッカバッ ラプルまで約 7 キロのところで、一頭の水牛が道を横切るのが見えました。私はすぐにブレーキ を踏みました。水牛は助かり、走り去って行きました。

しかし、車は空中を 4 回転し、それから車 輪を下にして着地しました。その狭い道の両側には、20 フィート〔約 6.1 メートル〕の深さの溝 がありました。車の屋根 は吹き飛ばされ、車の中から空が見えました。

妻に怪我はないか尋ねると、妻は体を調べて大 丈夫だと言いました。友人にも同じことを尋ねると、彼も大丈夫だと答えました。

私の右の鎖骨 は折れていました。そのせいで、私は右手を上げることさえできませんでした。

燃料タンクは満タ ンでしたが、車は爆発しませんでした。

どうにか車を動かすことができました。牛車のようにゆっ くりと車を走らせ、チッカバッラプルに到着しました。それから、ベンガルールにいる身内に連絡 を取りました。当時は携帯電話がなかったので、私はベンガルールの身内に〔固定電話で〕電 話をかけたのです。 車を見た身内の者たちは、誰も助からなくてもおかしくなかっただろうと思いました。車は空 中を4回転したのですから。

彼らは、検査を受けさせるために私たちをベンガルールの医者へ 連れて行きました。医者たちは私たちの体をスキャンする〔CT やレントゲンなどで画像データを 撮って精査する〕ことを勧めました。私はあまり気が進みませんでした。妻も同様でした。友人も 躊躇していました。

 

私たちが生きるか死ぬかは神のご意志です。私たちの意志ではありません。 私たちは体に頓着したくありませんでした。そう思ったので、チェンナイに戻って、そこからスワミ に次のような電報を打ちました。「スワミ、私は事故に遭ったため、そちらに伺うことができませ ん。できるだけ早くそちらに伺い、ダルシャンを受けるつもりです」。医者は私の骨折した箇所に 包帯を巻いて、21日間で自然治癒するだろうと言いました。3週間後、私はプッタパルティへ行 きました。

                               (中略)

スワミが姿を現わされ、 私をじっと見て、「具合はどうだね?」と尋ねるように両方の眉毛をつり上げられました。私はゆ っくりと自分の鎖骨を見せました。まだ少し腫れていました。

翌日、スワミはブリンダーヴァンへ行かれる予定でした。スワミは私におっしゃいました。 「あなたもブリンダーヴァンに来なさい」。 私はブリンダーヴァンへ(ホワイトフィールド)行きました。 

 

ブリンダーヴァンのホールには、450 人ほどの日本人帰依者たちがいました。

翌朝、 ダルシャンの後、スワミは御講話のためにホールへおいでになりました。

スワミは私にも話をす るよう望まれました。

私はいつも話をする時、『バーガヴァタム』の詩節を引用して、神を称賛し たり神の栄光を讃えたりするのですが、そうしようと思って私が祈り始めると、スワミはおっしゃい ました。

「そんな話はやめなさい。車の事故について話しなさい」

 そこで、私は事故の詳細を 説明して言いました。

「スワミが私の命を救ってくださいました。そうでなければ、私は死んでい たことでしょう」

即座に、スワミはこうおっしゃいました。

  「ノー、ノー、ノー! 私があなたの命を救ったの ではありません」

私は尋ねました。「スワミ、それはありえないでしょう? あなたが私たちの命を 救ったのではないなんて、誰が信じるでしょうか?」

するとスワミはおっしゃいました。

 「私が嘘を言っていると思っているのですか? 私があなたを救ったのではありません。私は本 当のことを言っているのです」

そこで、私はスワミに、ではどうして私が救われたのかを明らか にしてほしいと頼みました。するとスワミはこう説明してくださいました。

「あなたは長年、プッタパ ルティに来てセヴァをしていました。プッタパルティの中だけではなく、地元でもしていました。 人々があなたのセヴァに感謝するたびに、あなたはそれを無視して言いました。『どうか私では なく、神に感謝してください』と。そういうわけで、すべての感謝はあなたではなく、私のところへ 来たのです。なぜなら、あなたはいつも人々に『神に感謝してください』と言っていたからです。 人々は間接的に私に感謝し、私はあなたの善行のすべての結果を私の元に貯金しました。あな たが人々に、『神に感謝してください』と言い続けるにつれて、その貯金は増え続けました。それは、あなたが神の霊性の銀行に霊性の口座を開いたことを意味しています。その資産は、あな たの善行の結果以外の何ものでもありません。例えば、もしあの日の事故の対価が 50 万ルピ ーくらいだとして、あなたが自分の口座に100万ルピーを貯めていれば、その貯金の残高が自 動的にあなたを助けるのです。私は、あなたの善行の結果を管理している(霊性銀行の)管理 人にすぎません。私が救ったのではありません。あなたの善行の結果が、あなたを救ったのです。 これが、私が最初から言い続けているセヴァの目的です。人は、愛と謙虚さにあふれ、どんな利 己心(エゴ)も持たずにセヴァをしなければなりません。それらのセヴァは私の元へ届きます。シ ュリ・サティヤ・サイ・セヴァ・オーガニゼーションの真の目的はセヴァです。セヴァと奉仕には違 いがあります。奉仕の場合、行為のあとで何らかの見返りを期待します。しかしセヴァでは、与え るのみで何の見返りも期待しません。このことから、善行をして、その善行の結果を神に捧げる なら、どのようにセヴァがあなた自身の運命を変えるかが理解できるでしょう」

スワミは次のよ うにもおっしゃいました。

 「私の元へ来なければ、あなたはこれらの善行をすることはなかったでしょう。善い行いをする ことがなければ、あの事故の日にあなたは死んでいたはずでした。したがって、あなたの善行が あなたの命を救い、死は引き下がりました。ですから、このことを肝に銘じておきなさい」

 これが、日本人帰依者たち全員の前で、スワミが私にお話しになったことです。」

 

 

実を言うと、私もこれと似た体験、、、特にヒスロップ博士の体験ときわめて似た体験をしています。

サイババ様のアシュラムに導かれる直前の体験です。

私はこの時、母親を連れて、弟の住むペルーへ旅立つために、実家から母と弟と私と父の四人で熊本空港へ向かっていました。

運転していたのは父です。

(ちなみに私は、自分にはサイババ様に会う資格がないと考えていたのでサイババ様のアシュラムにはいかないつもりでした。行っても相手にされないだろうし、逆に自分にサイババ様に会う資格がないことを思い知らされるような冷たい仕打ちが待っているような気がして恐かったためです。そんな私をサイババ様のアシュラムへ行く気にさせたのは、この旅行の中に用意されていた出来事でした)

 

 

冬の早朝の川沿いの道で、かなり濃い霧が出ていました。片道一車線の県道です。田と川に挟まれた道でしたが、直線が続いている場所なので通る車は常にかなりの速度を出している道路です。

信号があり、そこを反対車線を横切って右折するのですが、その場所が水を張った田んぼに隣接していたため局地的に霧がさらに濃くなっていて、そのT字交差点の周りだけほとんど見通しがきかなくなっていました。

それでも、その場所以外はある程度見通しはきき、右折自体は一瞬でできることだったので、信号が青で、対向車線にもこちらへ向かってくる車がいないことを確かめたうえで父は反対車線を横切って右折したのですが、その瞬間目に飛び込んできたのは、空港へ続いている道ではなくガードレールでした。

つまり、T字交差点で右折したつもりが、実際は霧の中で交差点をオーバーランしていて、反対車線をふさぐ形でガードレールと向かい合って身動きが取れなくなってしまっていたのです。

そしてそのタイミングで、霧の中からこちらへ向かって走ってくる大型トラックが姿を現したのです。

完全に側面衝突すると思いました。

その次の瞬間の記憶はなく、何がどうなったのかは全くわからないのですが、一瞬の空白があり、気が付くと、トラックは私たちの車がふさいでいた道路を車をすり抜けでもしたかのようにして走り去っていました。クラクションも鳴らさず、ブレーキもかけないままに。

物理的にはどう考えてもあり得ない現象でした。

 

こうした自分の身の回りで起きる出来事に神の介在を強く感じさせられる経験は、サイババ様の帰依者となった後、手を変え品を変えといった感じで、南インドのアシュラムでも、北インドの聖地でも、日本でも、17キロ離れた場所を震源地として発生した熊本地震の時も、私の住んでいる町が全国ニュースで紹介されるほどの甚大な被害を受けた水害の時も、樹齢百年近い柿の木に登って柿の実をとっていた時、腰かけていた枝が折れて落下した時など、数えきれないほど何度も何度も経験しています。

しかし、だからと言って、サイババ様の帰依者たちがそうしたものに重きを置いているかと言うとそうではありません。

どちらかというとその逆で、サイババ様への帰依が深くなればなるほどに、そうしたもの、(物質的、現世利益的なもの) への興味は薄れ、求めるものはもっと違ったものになっていきます。

このことについては、サイババ様ご自身が常日頃から 「そうしたこと (物質化現象とか病の治癒とか危機からの救出、富とか、仕事上の成功といったもの) は、神が帰依者に与えようと用意しているものに比べれば、実に、取るに足りない、くだらないものである」 と仰っています。

ではなぜ、サイババ様の周りにはそうした奇跡が神の恩寵として起こり続けているかといえば、それはそれを体験する人の中に、(種がまかれていた畑に、雨と太陽の恵みが振りし注げば、自然と作物が芽吹いていくように) 神の恩寵奇跡として体験するための、過去世で積み重ねてきた良いカルマと、病を患う悪いカルマの双方が存在していたからです。

カルマの問題は、極めて複雑で、深遠であるため簡単に説明することはできませんが、ただ一つ言えることは、カルマ (一般的には行為と訳されていますが) は、肉体をもって何かの行為を具体的にしたことだけを言うのではなく、口にしたこと、心の中で思ったことも含まれていて、いったん思いと言葉と行動によってしてしまった罪は、その後にどんな良いことをしても、それによって (プラスマイナスゼロというよう相殺されて) 帳消しにはならないということです。

自分が他人や他の生物や自然に対してしてしまった罪は、『カルマの法則』 という神の法の中で100パーセント自分に (反響、反射、反作用という形で) 返ってきます。

罪を犯した後にそれを悔いてなした善や、積み重ねた徳は、その過ちの結果として自らに降りかかってくる災厄や病や不運といったものから、自らを救済するものの姿を取ってその人の未来を形作るだけです。

カルマの法則は絶対のものであって、人間が獲得することのできるいかなる力によっても、軽減させたり、消し去ったりすることはできませんが、ただ一つだけ、それを軽減させたり、究極的には無効にできるものがあります。

それは 『神の恩寵』 です。

だからこそ、すべての宗教が、神に祈り、神の救いを求めるように説いているのです。

すべての人には、これまで生きてきた悠久の過去 (それは千年や二千年といったものではなく、もっと遥かな過去) からの無数の人生があり、無数の生物としての生涯があり、その中で無数の罪と、わずかばかりの善や徳をなしてきました。

それを覚えている人は存在しませんが、それらの記録のすべては細大漏らさずその人の人生に神のデータとして組み込まれていて、起こるべき時と場所で運命としてその人の人生に花開き、実を結ぶようになっています。
     

カリユガ(末世である今の時代)は、人類が経験する四つの時代の中で、最も悪に染まり、堕落した時代です。
私たちはある意味、過去のすべての時代において、神の試験に落第し続けてきた人間たちです。

                               

カリユガと呼ばれるこの時代には、他の時代にはなかった、ある一つの大きな恩恵が働きます。
それは、太古からヨギや聖賢、聖者たちによってなされてきた 「人類の救済を願う祈り」 が最大限に蓄積されたことに起因するものです。

                             

神の恩寵を勝ち取るために、何か特別なことをする必要はありません。
ただ、神を求めればいいだけです。

あなたが神のことを知っている必要はありません。
なぜなら、神の方があなたのことはすべて知っているからです。

あなたが神を求めれば、神があなたを救いにやってきます。
カリユガとはそういう時代なのです、

ある意味、全人類が最も神に背いた生き方をしていながら、なぜか、最も容易に神の救済を受けられる時代がこの時代なのです。
そしてこのことは、太古から、インドの聖典や聖賢、聖者たちが明言してきたことです。

しかし、逆に言えば、神が化身してその証を見せて救済の手を差し伸べてもなお、多くの人がそれを信じることができないままそれを無視したままに人生を終えるであろう時代がこのカリユガでもあるのです。

神が起こして見せる奇跡のドラマは、そうした我々の霊的な目を開かせ、帰依へと導くためのものです。

すべては、神への祈りから始まります。
それによってもたらされるものは、神が与える救済のための一本の蜘蛛の糸のようなものです。

誰であれ、それにしがみつきさえすれば、救済され得るものです。

サイババという名前や姿に祈るのが嫌であれば、キリストでも、アッラーでも、仏陀でも、ゾロアスターでも、なんでもいいのです。

結局のところ、その祈りを最終的に受けて取って、その祈りに応える神(創造主)は一つだからです。
その神とは 「サイババ」 という名と姿に限定されるようなものではありません。

それは、サイババであると同時に、キリストでも、アッラーでも、仏陀でも、ゾロアスターでも、ナーナクでもラーマでもあるものです。
それは、水が、雨にも、川にも、海にも、氷にも、雪にも、水蒸気にも姿を変えて私たちの世界に遍在し、支えているように、同じ絶対普遍の神聖原理のとる違った現れとして、この宇宙と、この宇宙以外のすべてを創造、維持、破壊しているものです。

サイババ様と帰依者の物語は、聖書や仏典の中に語られているキリストや仏陀の起こした奇跡が真実に基づいた物語であることを保証するものでもあり、サイババ様とその帰依者だけを特別の存在として印象付けるためのものではありません。

それはただ単に、真実を、あるがままの真実として開示しているだけのものなのです。
 

サイババ様に帰依して以降体験してきたことの中には、「その望みはまだ時が熟していないので、しばらく待ちなさい」あるいは「その望みは、ちょっと無理かも」と諭されるように導きを受けたこともあります。

そして、愚かにもその忠告を無視して、勝手に自分で道を切り開こうとしたが。

当然その試みは失敗するのですが、そうした時でもサイババ様は、子供の時の遊び仲間のようないたずらっぽさと最大限のやさしさでこちらの過ちをたしなめてくださいます。

以下に紹介するのは (かなりザックリとした雑な紹介ですが!(^^)!) そんな私の体験の一つです。

 

私には、サイババ様の教えに出会ってからずっと一貫して、

「宇宙は何によって生み落とされ、何のために存在しているのだろう?」

「この宇宙には時間的な始まりがあるはずだ。だとすれば、この宇宙の誕生以前には何が存在していたのだろう?」

「なぜすべての生物は死ぬために生まれてくるのだろう?」

「なぜ、土や石と同じ単なる原子の寄せ集めでしかない我々人間の肉体に、意識や心といったものが存在しているのだろう?」

「そもそも、自分はなぜ、自分として今ここに存在しているのだろう?」

「この《自分》という意識は、どのようなメカニズムで肉体の中に発生し、死によってどういう運命を辿ろうとしているのだろう?」

「自分がこの宇宙に生まれ、今現在こうして生きているということは、自分を生み落としたこの宇宙と、この宇宙に生み落とされた自分にとって、いったい何の意味があるのだろう?」

そして「神は果たして実在するのだろうか? それとも、実在しないのだろうか?」という問題に対して《自分にしか書けないことがある》という思いがあって、それを人に伝えるための本を書きたいという望みがありました。

そしてそのための原稿を書いて、何度となくサイババ様の祝福を得ようとアシュラムに持ち込みましたが、なかなか祝福してもらえませんでした。

それは冷静に考えれば、何らかの理由で、「その望みは叶えられない」というサイババ様からのメッセージだったので、OKが出るまで気長に待つか、あきらめるべきことでした。

しかし私はそうせず、「ババがOKしてくれないのなら勝手に出版してしまおう」という帰依者にあるまじき暴挙に出ることにしました。(´▽`*)/

書店流通型の自費出版なら出版できるからです。

 

そこで、42日間アシュラムに滞在するインド旅行の前に「真理への翼」というタイトルを付けた原稿を書き上げ、自費出版を扱っている出版社に送ったのちに、「できれば祝福してもらいたい」という思いからその原稿をもう一部プリントアウトしてサイババ様の下に持っていきました。

 

おりしもその時は、サイババ様が突然誰からも(サイババ様の学生も含めて誰からも)手紙を受け取りになられなくなった時期で、滞在期間中私は手紙を受け取ってもらった人を一人も見ていませんでしたが(噂では二人ほど受け取ってもらったらしいのですが)、そんな状況の中でも私は何となくサイババ様に「真理への翼」の原稿を祝福してもらえるような気がしていて、原稿そのものはダルシャン会場に持ち込むことはできなかったので、原稿の表紙だけを手紙という形にしてダルシャン会場に持ち込んでいました。

 

40日間は受け取ってもらえません出したが、帰国する前日の朝のダルシャンの時、1万人近い人々の中から私の横に座っていた西洋人と私の二人だけが特別に手紙を受け取ってもらえました。

40日間誰も手紙を受け取ってもらえなかったのに、帰国する前日に、自分が1万人近くいる人々の中から特別に選ばれた二人の中の一人として手紙を受け取ってもらうという出来事は非常に不思議な感覚のするものでした。

 

そういう特別な体験があったので、これは原稿が自費出版ではなく企画出版されるのではと期待して帰国したら、そのタイミングで原稿を送っていた出版社の編集長という方から返事が来ていて、その内容は「これは、自費出版ではなく、企画出版(出版社が全額負担して出版する出版形態)として出す本であると判断し、一か月にわたって営業部と会議を重ね説得しましたが、「どう市場調査しても需要が見込めない」ということで力及ばず、出版にこぎつけることができませんでした。この期に及んで自費出版を進めるのは失礼だと感じてできませんので、今回はご縁がなかったものとして原稿はお返しさせていただきます」というようなものでした。

 

この話を、東京サイセンターの仲間にしたところ、ほぼ全員が 「それは、出版するタイミングが今じゃないというババからのメッセージだよね」 というものでした。

私もそうだとは思ったのですが、それでもやはり、その本を出版してみたいという欲望に勝つことができず、出版を強行することにしました。

別の自費出版の会社に原稿を持ち込んで、自費出版することにしたのです。

 

その結果どうなったかというと、こう👇なりました(^^)/。

 

出版費用の全額(安めの乗用車一台分くらいの金額)を振り込んだそのタイミングで出版社が倒産するという大爆笑(*^▽^*)な出来事が起こってしまったのです。

 

当然振り込んだ費用は1円も戻ってきませんでした。

それでも懲りずに、最初に送った出版に再び持ち込んで自費出版しました。

結果としては営業部の判断が正しく、まったく売れませんでしたが!(^^)!。

 

この本の校正は編集長自らが不眠不休でやってくださって、その結果脳溢血で倒れ入院されるという事件も起こりました。

その方は、私がサイババの帰依者であると言うと、サイババに非常に興味を持たれましたが 「今サイババに会い行くとインドから帰ってこれなくなりそうなので今はいけないが、いずれ行ってみたい」 とおっしゃっていました。その後どうなったかは謎ですが(私が知らないうちに退社され、出版社そのものが合理化されて変わっていました)。たぶんこの方は京都大学哲学科卒だと思います。会社を訪れた時、この方に 「彼は、今アルバイトで編集を手伝ってもらっている後輩です」 と紹介された男性が京都大学哲学科の大学院生だったので。

この「真理への翼」という本が一体どんな本か興味のある方は、アマゾンで買えるので、買ってください。売れ残っている本が出版社の倉庫にまだ104冊あるようなので。(^^)/

 

(1976年のクリスマス講話)
『私たちには、この世的な知識と、より高次の知識の両方が必要です。

この世的な知識によって、わたしたちは肉体を維持することができます。
神に通じる扉を開くためには、人生のより高次元に関する知識が必要です。

物質界に関する知識は、私たちに生活費を稼ぐ手段を与えます。
神に関する知識は、人生の目的地に至る道を明るく照らします。
              (中略)
どうして私たちはこの世に生まれてきたのでしょう?
世界とはいったい何なのでしょう?
誰がそれを創造したのでしょう?
私たちの人生の目的とは何なのでしょう?

この世界は、私たちが人生の目的を達成できるように、神が、神の本質を素材として創り出したものです。
人生の目的とは、神を捜し、自己の内に神を実現することです。

あらゆる宗教の目的は、人生の本当の目的を開示することにあります。
ただ単に、生活費を稼ぎだすための方法のみを並べているだけの宗教などと言うものは存在しません。
                 (中略)
私たちはいかなる必要を満たすためであれ、神に頼らなければならないということを学ばなければなりません。
私たちは神の本質を、人間の中に導き入れなければなりません。

それが人生の目的です。

神を喜ばせるためには、私たちは、神の原理の生きた手本とならなければなりません。
神の法則に逆らって生きることは、神に逆らうことであり、必ず失敗に終わります。

それは生命の基本的性質に逆って生きることであり、あなたの人生は、生きながらの死となって、いずれかの時に、この誤った行為には終止符が打たれることになります。

もし、生命を維持するための聖なる自然法則があまりにも甚だしく犯された場合には、人類全体が
さらにはまた、生きとし生けるもののすべてが滅びることになります。

地球上の生活環境は絶えず変化しています。
生命を維持するために必要な物が変化します。

それぞれの時代の必要にこたえるために、神は、聖賢や、神の化身を差し向けて、地上の人類の生命を維持します。
                      (中略)
今や人類は、内面的、精神的純粋さにおいて、遥かに高いレベルへと進まなければなりません。
人間が生き残ろうと思うのであれば、意識を純粋なものにしなければなりません』

 

 

 

今回の記事は以上です。

ではまた。

みんな幸せになりますように。

サイラム<(_ _)>