ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

東畑開人 なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない 新潮社

2022-07-11 21:04:14 | エッセイ
 臨床心理士・東畑開人氏の著作で、読むのは3冊目となる。『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)、『心はどこに消えた?』(文藝春秋)。ほかに、『現代思想2021.2月号 精神医療の最前線―コロナ時代の心のゆくえ 』(青土社)掲載の齋藤環氏と臨床心理士・東畑開人氏の対談「セルフケア時代の精神医療と臨床心理」も読んで、このブログで紹介している。
 いつもながら、東畑氏の文章は読んで心地よい。何だろう、どこかテイストが、村上春樹の文体に通じていくところがある、みたいな。表紙のイラストのせいもあるのかもしれない。

【港区白金高輪の夜の航海】
 東京都港区白金高輪の眺望のよいビルの一室が彼のオフィスである。

「ベランダからは、東京のまちが見渡せる。」(3ページ)

 東京には、東京らしいクールな生活がある。

「僕らはものすごく近くにいるけど、永遠に他人のまま。
…そういうときに、…ものすごく当たり前のことを思う。
数えきれないほどの窓の向こうに、数えきれないほどの小さな部屋があることを。
 そして、そこでは数えきれないほどの人が暮らしていて、働いたり、愛したりしていることを。
 そうやって、それぞれがまったく異なる人生を営んでいることを。」(4ページ)

 クールとは言っても、洒落ているばかりではない方のクールである。冷たさ、冷酷さ。
 東京のまちでは、なんでも見つかる。お金さえ出せばなんでもある。なんでも手に入れることができる。しかし、それぞれの心は、それぞれの小部屋に閉じこもっていて、他人の心を見ることができない。心を見つけることができない。希薄な人間関係。

「僕らは今、無数の小舟がふわふわと浮遊している世界で生きている。
 それぞれの小舟は、ときにくっついたり、ときに離れたりするけれど、本質的にはポツンと放り出されている。
 これがこの本の原風景。」(5ページ)

「…寄る辺のない小舟です。目印のない海に、ひとりで放り出されている。
 僕らは今、ひどく孤独になりやすい社会で生きている。」(10ページ)

 そして、もちろん、この孤独は、東京のまちに先鋭化されているけれども、東京に限定されたものではない。多かれ少なかれ、日本全国どこでもそうだし、日本に限定されたことでもない。

「小舟はいかに方向を見出し、いかにして航海をしていくのか。
 言い換えるならこの自由で過酷な社会を「いかに生きるか」。
 これがこの本のテーマです。」(12ページ)

【夜の航海の二種のサポート、処方船と補助船】
 寄る辺ない過酷な社会という暗い夜の海を、頼りない小舟は、どう渡っていけばよいのか。公認心理師である東畑氏は、小舟に伴走する「処方船と補助船」ならぬ「処方箋と補助線」を準備しているという。
 まず、1章は「生き方は複数である/処方箋と補助線」。

「深層心理学者のユングは、誰の身にも起こりえるこのような危機の時期を「夜の航海」と呼びました。そういうときの僕らが、まるで小舟で荒れた夜の海をいくように寄る辺ないからでしょう。」(24ページ)

 なるほど、夜の航海に準えるのは、ユングに出典があるわけか。

「そういうとき、…なんとか航海を続けていくためには、なんらかのサポートが必要です。実を言うと、そのサポートには、二種類ある。ここがポイントです。」(24ページ)

「カウンセリングには二つのフェイズがあります。
 一つ目は、混乱した状態から、安全な港まで避難するための段階です。専門家の間では「マネージメント」と呼ばれる時期で、一度態勢を整えるために、処方箋が有効に働きます。
 二つ目は、安全な港から出て、夜の海へと漕ぎ出す段階です。クライエントは暗中模索しながら、自分なりの人生の目的地を探すことになります。この段階を「セラピー」と呼びます。」(31ページ)

 サポート法のひとつ目は「心の処方箋」であり、それが「マネージメント」の段階では有効であるという。具体的な対処の仕方を示すことである。

「夜の航海に投げ込まれて混乱しているとき、行き先を照らす灯台があると気力がわいてきます。進むべき方角さえ分かれば、あとは手を動かすだけになるからです。
 それはいわば、「心の処方箋」です。」(25ページ)

 それは例えば、ハウツー的な自己啓発本だとか、ポジティブ心理学の本とか、宗教的な説教だとか、セミナーとかの類でもあるようだが、もちろんそれだけではない。

 ふたつ目は「心の補助線」である。「セラピー」の段階では「補助線」が必要となる。
 数学で使う「補助線とは複雑な図形を複雑なままに扱うための技術」であるが、「心の補助線…は複雑な心を複雑なままに扱う技術」(34ページ)なのだという。

「普遍的な正答があるわけではなく、あっても役に立ちません。必要なのは。彼女が自分にとっての結論を出すことであり、彼女自身が納得のいく物語を見出すことです。」(30ページ)

 そのために、「心の補助線」を引く。
 東開氏はこの書物で、その例をいくつか取り上げ、ひとつひとつ詳しく描いていく。

「心は複数である。これが心理学の大前提です。
 心理学とは補助線の学問です。それは心が複数のプレイヤーから成り立っていることを明らかにし、それらがどのような関係にあるのかを解き明かす学問だと言えます。」(50ページ)

 心理学が「補助線」の学問だというのは、つまり、具体的な対処を示す「処方箋」を与える学問ではない、ということである。ここは、大事なところだと思う。

【馬とジョッキー、意識と無意識の間奏曲】
 最初の補助線は「馬とジョッキー」である。

「心に補助線を引くと、馬とジョッキーが現れる。
 意のままにならない馬と、その馬を意のままにしたいジョッキー。」(51ページ)

 馬とジョッキー、これは、つまり、精神分析的な無意識と意識に他ならない。

 書物の中間点に、アンテルメッゾ(間奏曲)のように、「焚き火を囲んで、なかがきを―なぜ心理士になったか―」が置かれる。
 テレビで、焚き火を囲んで3人の人物が語る静かな番組がある。冒頭に、また、対話の合間に何にも語られずに、パチパチと焚き火の燃える有様だけを写すシーンが挿入される。それがなんとも心地よい。そういう不思議な番組。BGMは一切ない。焚き火は、心の奥の無意識に対して何かを働きかけるに違いない。
 閑話休題。
そこで、興味深いエピソードが語られる。東開氏は、カトリック系の高校に通っていたそうで、倫理の教師は、若き修道士(ブラザー)であったらしい。

「ブラザーはその日、「無意識」について話をしていました。心の奥深いところには「無意識」と呼ばれる領域があって、それが僕らを突き動かしている。
「自分の中に自分の知らない自分がいるんだ」
 彼は言いました。」(111ページ)
 
「まるで「大洪水がやってくる、神も一緒にやってくる」と叫ぶ預言者のようでした。…
「お前たちは自分を知らない」
そう熱弁し続けたのです。」(112ページ)

 そして、東畑氏は、心理学徒となった。以上がなかがきである。
 あえて、ここで列記はしないが、ここからさらに「心の補助線」をいくつか取り上げ、実例(もちろん、フィクションを織り交ぜ匿名化された実例である)を挙げながら叙述は進められていく。それが、この書物の本論をなすことになる。どれもこれも、興味深く読ませていただいた。

【夜の航海の道標、社会学と臨床心理学のミックス】
 あとがきで、東開氏は、自身の研究テーマを明かしている。このテーマに沿って、この書物は書かれた。

「心と社会はどのような関係にあるのか。資本主義が徹底され、「小舟化」―社会学がいうところの「個人化」―が極限まで進行しようとしている私たちの社会にあって、心はどのように病み、そしてどうなったら回復したと言えるのか。」(276ページ)

「…社会学と臨床心理学をミックスすることで、私なりの新しい考えを提示しようとした…」(277ページ)

 なるほど、そういうことか。「社会学と臨床心理学をミックス」したところに立ち現れるものとは「精神保健福祉」であり、もう少し広く「社会福祉」に他ならないはずである。

 上で言う「処方箋」、カウンセリングにおける「マネージメント」のフェーズとは、単純化して言えばソーシャルワーカーの役割である。緊急の必要に応じて、さまざまな社会資源、たとえば医師につなぎ、入院や、薬の処方の可能性を考慮する。仕事を休むことを勧め、休養を促す、職場への連絡を行う。福祉事務所の生活保護、障害福祉、母子福祉につなぐ、児童相談所につなぐ。
 セラピーは、もちろん、セラピーであって、臨床心理士の出番であることは言うまでもないが、一方、精神保健福祉のソーシャルワーカーが、処方箋を示してそれで役割完遂とはならないことも言うまでもない。補助線を示して、下に引くようなプロセスを支援することこそが求められる。

「普遍的な正答があるわけではなく、あっても役に立ちません。必要なのは。彼女が自分にとっての結論を出すことであり、彼女自身が納得のいく物語を見出すことです。」(30ページ)

 臨床心理士が、個人の内面の心理のみに限定されては仕事にならないし、精神保健福祉士も、心理を知らずに仕事はできない。
(ここでは、単純化して言ってしまったが、「処方箋=社会的アプローチ」ではないし、「補助線=心理的アプローチ」でもない。心理面でも処方箋的対応となる場合があるし、社会関係の調整にも補助線を使ったアプローチが必要である。いずれ両面が必要ということである。)
 私に言わせれば、臨床心理と精神保健福祉は、重点の置き方が若干違うだけで、同じことなのである。
 東畑氏は、個人の心理に閉じこもらない、社会に開かれた心理士ということで、たいへんに好ましい著者である、と思う。
 「こころが見つからない」というのは、この本を読み始める前の前提であるが、この書物には心の問題がたっぷりと描かれている。東畑氏のおかげで、こころが見つかった、というような按配となる。
 ところで、今、唐突に思ったのだが、今後、精神科医は、医師の資格と同時に精神保健福祉士とか社会福祉士の資格を持たないとなれないと制度化すべきではないか?世の(一部の)精神科医が、医療機関の経営面を含む制度的に負わされた責任の重大さに関わらず、上の二つのフェーズの中のごく限定された部分でしか役割を果たしていないのではないか、などという疑念も思い浮かんではいるが、それは、また別の機会に探求したい。(ちらっと漏らしてしまえば、字義どおりの薬の処方箋を書く、という役割である。)









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