ミッドナイトスワン【「普通」だから「娯楽」として消費していいのか? 正直、不快でしかなかった話題の作品】 [好き放題の映画レビュー]

こんにちは! りんごっちです!

草薙くんが好演していると話題の、
『ミッドナイトスワン』を観てきました。



この映画、監督のTweetが物議を醸していましたよね。
私自身は、
映画を完成させて世に出した以上、
その作品がどういう評価や解釈をされようが、
それは観る側の自由だし、
作り手側がそれについて文句を言うことはできない、
そう考えています。
クリエイターである以上、
その覚悟をもって作品を世に出すべきです。

また、どんな創造物であっても、政治性やイデオロギーからは自由ではありません
ノンポリティカルであるということ自体、
それも逆説的に政治性を帯びているんです。

政治性から完全に切り離された創造物は存在しないし、
それはどんなジャンルの作品であってもそうです。
娯楽作品だから政治的ではない、というのは、
まあ、そう言いたければ言ってもいいけれど、
監督がいくらそう言おうとも、
それはオーディエンス側の解釈の幅を狭めることにはつながりません。
作り手の意図に沿った読み方、解釈の仕方しか許されない作品なんて、
つまらないことこの上ありません。
監督は作品の権威者ではあり得ないのですから。
ですから、監督のTweetには違和感と不快感を覚えたし、
正直、『ミッドナイトスワン』を観に行く気満々だったのに
水を差されたな、この水差し野郎が!
という気持ちがしていました。
とはいえ、草薙君の演技が素晴らしいと聞いていたので、
できるだけ気持ちをフラットにして観てきました。

●あらすじ
トランスジェンダーの凪沙(なぎさ)
男性として生まれながらも、性自認は女性です。
性転換手術を望んではいますが、まだ費用を貯めている途中です。
広島の実家にいる母親は、
自分の息子がトランスジェンダーであることは知りません。

ある日、母親から連絡があり、
親戚の女子中学生・一果(いちか)を預かることになりました。
一果は母親にネグレクトされ、行き場がなかったのです。

新宿の小さなマンションで二人は共同生活を始めましたが、
なかなか心を開かない一果を、
凪沙はひたすら邪魔者扱いします。
一方一果は、近所にあるバレエスクールを覗いたことから、
バレエに興味を持ち始めます。

●感想
噂通り、草薙くんが熱演していました。
ジャニーズを辞めたからこそ、この役を引き受けられたのかな、
とも思い、草薙くんの役者としての成長を感じさせられました。

一果を演じた服部樹咲も、
みずみずしい魅力を見せていました。
これからの活躍が期待されます。

ですがね、
私は、この映画、非常に不快でした。
Twitter観てると非常に評価高いですけれど、
私は、後半、もう不快で、怒りが収まらなくて、
イライラしながら観ていました。

ネタバレを避けながら言いますけど、
結局、この監督は、本人が言うように、
人の死や苦悩を「娯楽」として消費するだけなんだな、
そう思ったのが不快感の正体です。

ホルモン投与を受け、その副作用に苦しみながら暮らす凪沙の姿は、
トランスジェンダーとして生きる人のリアルな姿
私たちに見せてくれたとは思います。
でもね、
凪沙が最後どうなったか、
観た人は分かりますよね?

ねえ、ああなる確率ってそんなに高いですか?
そこまでの悲劇を凪沙に背負わせる必要ありましたか?
結局、トランスジェンダーであることを悲劇、苦悩として型に押し込みたい
そういう欲望が見えてきて、非常に不愉快でした。

監督は「娯楽作品」を作っているとTweetしていましたよね。
内田英治監督が選んだ「娯楽」は、
凪沙に必要以上の不幸を与え
その不幸を観た観客が泣くことを期待する、
そういう感動ポルノのような娯楽だったし、
それは結局、凪沙というトランスジェンダーの存在を
「特別な存在」として利用、あるいは消費しているだけなのではないでしょうか。

LGBTを特別な存在として捉えるべきか
という問題は非常に難しいと、以前もこのブログで触れました。
私は、『ミッドナイトスワン』の前半はとても好きで、
正直、泣きました。
それは、凪沙と一果の抱えている孤独が普遍的なもので、
トランスジェンダーでもない、
ネグレクトされたわけでもない私も共感できたからです。
トランスジェンダーであろうと、そうでなかろうと、
人の感情は普遍的なものです。
そういった意味で、トランスジェンダーの人であろうとも、
私たちと同じ「普通の人間」なのは間違いありません。

ですが、『ミッドナイトスワン』の後半は、
凪沙にトランスジェンダーでなければ起こりえない悲劇、
しかも、トランスジェンダーであっても遭遇する確率が決して高くない悲劇を与えています。
言ってみれば、
多くのオーディエンスにとって「普通ではない悲劇」
凪沙に与えて、そうすることで悲劇を作り上げているのです。
そこにあるのは普遍的な苦悩ではないし、
多くの人が共感し得る悲劇でもありません。
ああ、トランスジェンダーって大変なんだなあと、
トランスジェンダーではない私が一歩引いて見るような、
場合によっては高みの見物ができてしまうような、
そんな悲劇なのです。
私はそんな娯楽は求めていないし、不愉快極まりありません。

自分とは異なる境遇に生きる人に共感することは、
正直簡単なことではありません。
でも、境遇が異なっていても、
そこには必ず普遍的な要素があるはずだし、
想像力をもって相手を理解しようとする努力は
多かれ少なかれ、実を結ぶはずです。
希有な事件、特別でセンセーショナルな事件を持ってくることは、
相手の感情をたやすく動かすでしょうが、
それは同時に格差や差別(あるいは区別)を生み出す危険性もある、
それを意識しなければいけないでしょう。

ただ、これももちろん私個人の感想であって、
作品そのものの価値を貶めるものではありません。
『ミッドナイトスワン』という作品を観て感動した人を否定しないし、
むしろ、観た人が全員同じ感想を持たないからこそ、
『ミッドナイトスワン』は映画としての価値があるのだと思います。

この記事は、映画を観た直後に下書きをしましたが、
あまりにも熱くなりすぎて、
しばらく放置していました。

もっと客観的で冷静な紹介記事をご覧になりたい方は、
MIHOシネマをご覧くださいね。

私もしばらくこの映画について考えて、
追記するかもしれません。
まあ、ともかくも、
私は【お涙ちょうだい】の物語が大嫌いだし、
仮に、作り手側が
それで大衆が喜ぶと思ってるのであれば、
これほど大衆を馬鹿にしたものはないと思っています。
『ミッドナイトスワン』がそうだと言ってるんじゃなくてね、
基本的にそういうスタンスの映画が嫌いだよって話です。

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