富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「どんなことでも、思い悩むな」 マタイによる福音書6章24~34節

2020-09-25 23:22:40 | キリスト教

    ↑ 主イエスが山上の説教をされたイスラエルのガリラヤ地方の春の野の花

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

     日本福音教団 富 谷 教 会     週  報

     聖霊降臨節第十六主日  2020年9月27日(日)       午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                       礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 361(この世はみな)

交読詩編   118(恵み深い主に感謝せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書6章24~34節(新p.10)

説  教   「明日のことまで思い悩むな」辺見宗邦牧師   

祈 祷                            

讃美歌(21) 460(やさしき道しるべの)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                 次週礼拝 10月3日(日)午後5時~5時50分  

                 聖 書  ルカによる福音書18章35~43節

                 説教題   「主の憐れみー盲人を癒す」

                 讃美歌(21) 449 311  27 交読詩篇 16

    本日の聖書 マタイによる福音書6章24~34節

 6:24「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 25「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 26空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 27あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 28なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 29しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 30今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 31だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 32それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 33何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 34だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

   本日の説教

マタイ福音書によると、イエスは群衆を見て山に登られ腰を下ろすと、弟子たちが近くに寄って来たので口を開き、教えられた(マタイ5:1,2)、と記されているように群衆よりも主に弟子たちに語っています。山上の説教は祝福の言葉で始まっていることからも、単なる戒めや倫理ではなく、弟子たちが恵みとして与えられている神の国の生き方が勧められています。

主イエスは、「だれも、二人の主人に仕えることはできない」と言われます。当時の奴隷は一人の主人に仕えて、全面的にその主人の意志に従わなければなりませんでした。神に仕えて永遠の命を得るか、富に仕えて滅びに陥るか、その何れかを選びなさい。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と主イエスは言われました。神を信じながら、富に仕えるということは出来ないのです。一方に親しんで他方を軽んじることになるからです。

主イエスは富の所有を全く否定しているのではありません。神の御栄のために富を正しく用いることを求めているのです。金銭的な富への執着だけでなく、地上的ないろいろな欲望も、過度の欲望となると、その貪欲は「偶像礼拝」にほかならないものとなります(コロサイ3:5)。私たちを真に幸せにしてくれるのは過行く地上の富や欲望にあるのではなく、永遠の神にあることを忘れてはなりません。清い心と澄んだ目を与えられ、生涯誤ることのない正しい人生の選択ができるように、主のお導きをいただかなければなりません。

人生の拠り所を富に求め、それを自分の努力で確保しなければならないと考えるとき、人は思い悩みから免れることは出来ません。主イエスは富についての思い悩みを捨てて、神に全面的に信頼して生きるように勧めます。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」と主は言われます。私たちにとって経済生活の問題は身近で、しかも重要な問題です。主イエスは食物や衣服のような日常生活を送るうえで、基本的に必要な物の問題を取り上げ、「思い悩むな(メ ・メリムナテ)」と強く否定し、さとされます。この世に住むすべての人にとって、思いなやみ、心配に陥ることぐらい自然なことはないと思われます。しかし、ここでは日常生活における配慮や計画や労苦のすべてが拒否されているのではないことはもちろんです。

この25節から34節の間で、主イエスは「思い悩む(メリムナ)」という言葉を六回も用い、「思い悩むな」と三回も警告を繰り返えしています。「思い悩む(メリムナ)」とは、人間が心の奥底深く抱いている心配、懸念、悩みのことで、心が分散して精神が統一できなくなり、混乱することを意味しています。

主イエスは、「空の鳥をよく見なさい」、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と言われます。この言葉の前には、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われています。神に従って生きるのか、富を求めて生きるのか、という人間の生き方を問う中で、空の鳥・野の花を見なさいと勧めているのです。

鳥も花も弱い、はかない存在に過ぎません。明日も知れぬ存在です。かんばつや大災害が神を信頼する人間だけでなく、鳥や花の両方の生物の生命を短縮してしまうことがありますが、しかし普段は創造主の手の中で守られ、生き生きと美しく、今日の日を生きています。この従順と絶対的信頼に注目しなさいと主は語られるのです。ソロモンの豪華な衣装にも勝る美しい衣で、神は野の花は装ってくださっています。空の鳥も野の花も、神がなすままに身を委ねきっているではないか。あなたがたはそこから神に信頼することを学びなさい、と言われるているのです。そして、空の鳥と野の花に目を向けさせた主は、この小さい名もない鳥や花にさえ生命を与え、成長させたもう方に目を向け、生命の真の支配者である神に信頼して生きるようにと呼びかけておられるのです。

神は必要とあれば、何でもくださることがおできになる方です。主イエスは無計画な空の鳥のような自然的生存に身を任せるようにと勧めておられるのではありません。人間はカラスや野の花のように、働かないで生きてゆくことはできません。私たち人間は知能と人格を与えられ、人間として良き業に励む生活をしなければなりません。しかし、わたしたちが生きていけるのは、わたしたちの力によるものではなく、命を支える力がわたしたちを生かすから生きていられるのです。

それゆえ、主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われます。「神の国と神の義」の「と」は、二つのものを対等に並べる接続詞ではなく、「すなわち」の意味です。「神の国」を求めることは「神の義」を求めることに他なりません。「神の国」とは神のご支配を意味し、「神の義」とは神の正しさ意味します。「義」は神様のご性質です。「神の義を求めよ」とは、神が「正しいと認めること」、「よしとされること」を求めなさい、ということです。

神様に正しいとされるのは、なにか良いことをする、善行を積む、祈る、断食をするということではありません。ただイエス様の救いによって、その救いを信じる信仰によって、わたしたちは神様に正しいと認められるのです。わたしたちに、その救いの業、救いの恵みをこそ求めなさいと、イエス様は言われています。そして、その救いに既に与ったものは、その救いに感謝して生き、神様のみ心を求め、神様の正しさのなかを生きていくことが求められています。そうすれば、わたしたちに日々の糧や、魂に必要なもの、生きるに必要なすべてを整えてくださるのです。

アブラハムが主を信じたとき、主はそれを彼の義(彼を正しい)と認められました(創世記15:6)。「神の国は・・・聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)と使徒パウロは語っています。義とは、聖霊によって与えられる正しさであり、神に良しとされ、迎え入れられることです。「思い煩い」に対する解決策は、神に対する信頼であり、「神の国と神の義を求める」ことによって与えられる、聖霊による平安です。神によって精神が統一され、混乱した心は静まり、平安が与えられるのです。

「だから、明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と主イエスは言われます。神の国と神の義を求めて生きることは、それなりの労苦があります。しかし、思い煩いからは解放されています。「その日の苦労は、その日だけで十分である」とイエス様はいたわってくだいます。今日を生きる苦労は、神様の恵みと支えによって乗り切きることができます。だから、明日も主が必ず支えてくださると信じて、明日を迎えること出来るのです。

 「どんなことでも、思い煩(わずら)うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう(フィリピ4:6~8)」と使徒パウロは告げます。思い煩いとは、人間が神の導きを信じることが出来ずに、神の救いに委ねることをしないで、自分の力にのみ頼って生きようとする時に生まれるものです。もし、主の導きによる解決に自らを委ねるのであれば、思い煩いから自由にされるのです。そして、そのようなときには、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いとをささげ、求めているものを神に打ち明け」るという歩みがなされて行きます。人間的に見れば思い煩いに支配されてしょうがいないような状況な中で、尚、神様が問題に対処してくださり、解決してくださことを信じて主にすべてを委ねる時、感謝の思いを抱かずにはいられないのです。わたしたちに先立って進む主の導きを信じ、求めているものを神に祈り求め、聖霊による真の平安を与えらて、一日一日を精一杯生きることが、信仰者の生き方なのです。将来のことは神に委ねましょう。全面的に委ねましょう。主が常にあなに先立って歩んでくださることを、かたく確信しましょう。

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