富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「宣教の開始」 マルコによる福音書1章21-28節

2022-01-16 01:36:22 | キリスト教

                        ↑ 「イエス、悪霊を追い出す。」

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

降誕節第4主日 2022年1月16日(日)   午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

                           礼 拝 順 序

                                                              司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  57(ガリラヤの風かおる丘で)

交読詩編  100(全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マルコによる福音書1章21-28節(新p.62)

説  教       「宣教の開始」   辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                 

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 510(主よ、終わりまで)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                                                                            次週礼拝 1月23日(日) 午後5時―5時50分

                                                                            聖書  詩篇51篇12~21節

                                                                              説教題 「清い心を創造する神」

                                                                              讃美歌(21)441 449 27 交読詩編 51篇

   本日の聖書

1:21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

 本日の説教

「一行はカファルナウムに着いた。」一行とは、イエスと四人の弟子たちです。四人はガリラヤ湖の漁師たちで、シモン(ペトロ)とその兄弟のアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの四人ですカファルナウム(今日のカペナウム)は、ガリラヤ湖北西岸の町です。シモンとアンデレの家もこの町にありました。この町には収税所があり徴税人マタイはイエスの弟子になりました(マタイ9:9)。イエスはナザレを離れて、この湖畔の町を本拠としてガリラヤ伝道をされました。

     

                          ガリラヤでのイエスの宣教

イエスは安息日にカファルナウムの会堂に入って教え始めました。安息日はユダヤ教の休日で、今日の土曜日にあたります。ユダヤ教の会堂は、律法の講義をしたり、宗教教育を行う場所で、安息日には礼拝を行う場所です。会堂司(つかさ)の許可があれば、だれでも自由に説教をすることが出来ました。イエスは安息日に会堂に入って教え始められました。

人々はその教えに驚きました。律法学者のようにではなく、神の権威をおびた者として教えられたからです。律法学者の主要な職務は律法の戒めを新しい状況に適用するための解釈とそれに基ずく規則を教えることです。しかし彼らは、律法を形式的に解釈し、伝承の権威に基づいて、その戒律を人に強いるだけで、律法を与えた神のみ心を理解し、そのみ心に生きることをしませんでした。

イエスは単なる律法の解釈者ではなく、律法を与えた神のみ心を知り、これに生き、律法の愛の精神を実行できる方でした。イエスは「父の名によって地上に来られた方」であり(ヨハネ5:43)、神の権威を帯びておられました。

イエスは律法を完成させるために来られた方です(マタイ5:17)。主イエスはすべて御自身の確信するところを語られました。マタイ5章~7章に記されている山上の説教は、の権威を示しています。神の支配がイエスと共に始まったということがよく分かるような言葉で語ったイエスの教えが会堂にいる聴衆の魂に迫ったのです。

そのときこの会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて、叫びました。それまでは、この人は会堂に自由に出入りしていたのです。彼は、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫んだのです。

「汚れた霊」は悪霊を表すユダヤ的表現です。<汚れた>という形容詞は人間を宗教的に汚れた者にし、神への礼拝、神との交わりを不可能にする悪霊を指すと思われます。「汚れた霊」は、神の支配に逆らう力です。

「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」この叫びはイエスに対する防御と拒絶の言葉です。「我々」は仲間の悪霊すべてを表します。イエスがこの世界に来たのは悪魔的な力をことごとく滅ぼすためです。汚れた霊はイエスがだれであるかを超能力をもって知り、それを言い表すことによってイエスを支配しようとします。「神の聖者だ」はメシア(救世主)の称号ではなく、イエスが神に属する聖なる者、超越的・神的存在であることを意味するものと思われます。いずれにせよ<汚れた霊>と<神の聖者>が対立します。

しかし、イエスが、「黙れ。この人から出て行け」と、より強力な沈黙命令によって叱り、その試みを抑え、汚れた霊を追放すると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行きました。その人は汚れた霊から解放され、癒されたのです。<叱る>は、この語によってイエスの神的権威が暗示されます。イエスはガリラヤで神の福音を宣べ伝えたとき、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:14)と言われました。神の国の到来を告げるイエスの教えの正当性は悪霊追放によって証明されたのです。

人々は皆驚いて、論じ合いました。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」と言いました。

    

          イエスの時代のパレスチナ

  イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まりました。ガリラヤは当時ヘロデ・アンティパスの領地で、北はヨルダン川の上流のフレー湖のあたりまで達してシリアと接し、東はヨルダン川とガリラヤ湖が境界で、北西は地中海沿岸のフェニキヤに隣接します。南はサマリヤです。

「汚れ霊」とか、「悪霊」と言うと、それは現代人には通用しないことであり、昔の人の迷信的な考え方に過ぎないと思われるかもしれません。現代の人間はもっと科学的に考えている。どんなことでも科学的に説明する。わけのわからない力などは信じていない。しかし、キリスト者は罪の力に打ち勝つ、神から与えらえる聖霊を信じています。キリスト者を支配しているのは、汚れた霊ではなく、聖霊であり、聖霊の導きを求め、聖霊に生かされています。「自然の人は神の

「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです」(Ⅰコリント2:14)とあります。また、世には、「人を惑わす霊や、悪霊」があるので、「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい」(ヨハネの手紙一、4:1-3)と警告しています。科学的に説明できない霊の力があるのです。大阪の診療内科の放火・殺人で男女25人が犠牲となる凶悪な事件がありましたが、容疑者は死亡したので真相究明は困難になったが、気が狂った精神病のせいだとするだけでは納得できません。まさに凶悪な悪霊に取りつかれた病める人であったと思うしかありません。昨日は東大受験生二人と大人一人を刃物で襲った高二の生徒が逮捕されましたが、同じような事件は多発しています。罪のはびこる世の中を、正していく神の支配が求められます。「主よ、御国を来たらせ給え。」

霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです」(Ⅰコリント2:14)とあります。また、世には、「人を惑わす霊や、悪霊」があるので、「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい」(ヨハネの手紙一、4:1-3)と警告しています。科学的に説明できない霊の力があるのです。大阪の診療内科の放火・殺人で男女25人が犠牲となる凶悪な事件がありましたが、容疑者は死亡したので真相究明は困難になったが、気が狂った精神病のせいだとするだけでは納得できません。まさに凶悪な悪霊に取りつかれた病める人であったと思うしかありません。昨日は東大受験生二人と大人一人を刃物で襲った高二の生徒が逮捕されましたが、同じような事件は多発しています。罪のはびこる世の中を、正していく神の支配が求められます。「主よ、御国を来たらせ給え。」

 

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