富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「平和の王イエス」マルコによる福音書11章1-11節

2022-04-10 22:29:08 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

受難節第6主日     2022年4月10日(日)  午後5時~5時50分

 

                            礼 拝 順 序                    

                 司会 辺見 順子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 298(ああ主は誰(た)がため)

交読詩編  118(恵み深い主に感謝せよ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マルコによる福音書11章1-11節(新p.83)

説  教      「平和の王イエス」

祈 祷                                           

讃美歌(21) 311(血しおしたたる)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

                  次週礼拝 4月17日(日)  午後5時~5時50分

                  聖書  マルコによる福音書16章1-8節

                 説教題  「キリストの復活」

                讃美歌(21) 327 72 328 27 交読詩編 118

受難週 3月10日(日)~4月16日(土)

本日の聖書

11:1一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 2言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 3もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 4二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。 5すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 6二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。 7二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 8多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 9そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。10我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

本日の説教

本日から、受難節に最後の一週間、受難週が始まります。

イエスがエルサレムの城門に、子ろばに乗って入城するとき、民衆が木の枝を道に敷いて、イエスを迎えたことから、「しゅろの日曜日(パーム・サンデー」と言われています。実は「しゅろ」ではなく、「なつめやし」の枝です。聖書協会訳が「しゅろの枝」(ヨハネ12:13)と訳したことによります。新共同訳聖書では、「なつめやしの枝」と訳しています。(英語では、branches of palm trees)   

                       

 なつめやしの木           しゅろ(棕櫚)の木

イエスがエルサレムに入城する記事は、マタイ21:1-11,ルカ19:28-40、ヨハネ12:12-19にもあります。

 一行はエルサレムへ上って行く途中、イエスはエルサレムで自分の身に起こることを十二人の弟子に話しました(マルコ10:23-34)。「人の子は・・祭司長たちに捕らえられ、死刑の宣告を受け、殺されるが、三日目に復活する」と話されました。そして一行はエリコの町に着きました(10:46)。

イエスは、エリコからエルサレムを目指して進みます。エリコはエルサレムから北東20キロほど離れています。当時は30キロもある山道でした。エリコは地中海水面よりも250メートル低い町です。エルサレムに上るためには、エルサレムの台地が標高750メートルなので、標高差約1000メートルもある上り坂を歩くのに、10時間も要したものと思われます。

   

 

オリーブ山はエルサレムの東、キドロンの谷を挟んで広がる丘陵地で、標高は809メートルです。北から南に傾斜しています。エルサレム(旧市街)より50メートルほど高い丘陵です。そのふもとには、ベトファゲとベタニアの二つの村があります。べトファゲ(「未熟のいちじくの家」の意)はエルサレムから東、約2キロのオリ―ブ山東斜面にある村です。ベタニア(「なつめやしの実(Dates)の家」の意)は、エルサレムからの距離は約3.2キロです。

イエスはベタニアにさしかかった時、二人の弟子を使いに出そうとして、「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい」と言われました。二人の弟子とは推測の域を出ないが、ルカ22:8と結びつけるとペトロとヨハネが想像されます。向こうの村とはベトファゲのことと思われます。

「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」と言って、弟子たちを送りました。

弟子たちは言われたとおりにつながれていたロバを見つけ、そこに居合わせた有る人々にイエスの言葉を伝えると不思議と許してくれました。すべてがイエスの言葉どおりに実現し、二人は子ろばを連れてイエスのところに戻り、自分たちの服を連れてきた子ロバの背にかけて鞍の代わりにすると、イエスはそれにお乗りになりました。

「だれも乗ったことのない子ろば」は、神にかかわる聖なる目的に使用されるためには、まだ一度も使用されていないものでなければなりません(民数記19:1-9)。「主がお入り用なのです」の「主」とは、神を指すことばと思われます。ここでは、ご自分のことを「主」と言い、そのように呼ぶことを弟子たちに求めたとも思われます。

イエスがろばに乗って都入りされることは、ゼカリヤの預言の成就のためです。マタイ21:5には、ゼカリヤ9:9が引用されています。

「娘シオンよ。大いに躍れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ。あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」と、あります。

 また、ヨハネ12:15には、「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる。ろばの子に乗って。」とあります。

 イエスの一行はリラヤから来た過越しの祭りに参加する多くの巡礼者と一緒にエルサレムを目指します。多くの人々は衣服を道に敷きました。また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷きました。服(上着)を敷くことは王の即位を思わせます(列王下9:13)。葉のついた枝を道に敷くことも王に対する尊敬を表します。

ヨハネ12:13には、大勢の群衆がなつめやしの枝を持ってイエスを迎えに出たと報じています。

 イエスの前を行く者も後に従う者も、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫びました。

「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように(11:9b)」は、詩篇118:25-26aの引用です。これは本来エルサレム神殿を訪れる巡礼者たちに祭司がのべる祝福の言葉ですが、ここでは神から遣わされたメシア的王としてのイエスに対する歓呼とされています。

「ホサナ(ヘブライ語のホ-シャナ-)」は「救ってください」という意味ですが、イエスの時代には単なる讃美の叫びの言葉になっていました。「ハレルヤ」という言葉が、「神を讃美せよ」という本来の意味よりも、むしろ、強烈な喜びの表現として用いられるようになったのと同様です。万歳の歓呼の声と似た言葉になっています。

「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」「我らの父ダビデの来るべき国」はユダヤ人が待ち望んでいた地上的メシア王国です。ダビデは、エルサレムをイスラエルの王都として定め、築いた、王の中の王です。ダビデ以降、歴代の王たちはこのエルサレムで国を治めてきました。ダビデの来るべき国とは、ダビデ王の子孫にイスラエルのまことの王である救い主が現れ、その王国が実現する時、イスラエルの民の救いが実現する、という旧約聖書の預言の成就を期待したのです。 メシアと呼ばれるまことの王、救い主が来て、ダビデの王国を再現して下さる、そういう救いをイスラエルの人々は待ち望んでいたのです。人々が主イエスを王としてエルサレムに迎えたのは、ダビデの王国を再現するまことの王ではないか、という期待によってなのです。過越祭の巡礼者たちはその実現を熱狂的にイエスに期待したのです。しかしそこには政治的な意味はないように思われます。

これまでは自分が誰であるかを誰にも言うなと弟子たちに繰り返し警告してきたイエスですが、いよいよ自身の目的の成就が近づくにあたり、自分の入城が歓呼で迎えられることを否定しません。群衆はイエスをメシア的王として迎えたが、イエスは王にふさわしく馬に乗って威勢よく入城したのでなく、通常の「王」らしからぬ謙虚な姿で入城したことは「受難のメシア」としての入城だったからです。ろばに乗るという象徴的行為が示すように武力によって支配する王でなく、人々の嘲笑を受けつつ自己を十字架にささげるという徹底的無抵抗の王であることを示しています。

エルサレムに入られた主イエスは、先ずその神殿に行かれました。神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれました。

主イエスが与えようとしている平和は、力の均衡によって保たれるようなうわべの平和ではありません。私たちの心の中に生れる平和です。戦争や憎み争いの原因は、どこにあるのでしょうか。人間の争いは、心の中の欲望に原因があります。主イエスは、全人類の罪を贖い、復活によって神への道を開いて下さいました。だれでも罪を悔い改めて主イエス・キリストを信じるならば、神は私たちと共にいてくださり、神の愛が私たちの心の中を支配してくださるようになるのです。キリストの苦難をしのび、感謝しつつ、喜びの復活の日を迎えましょう。

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