映画 ご(誤)鑑賞日記

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『キャンディ・キャンディ』に思う[4]

2021-11-14 | 番外編

『小説キャンディ・キャンディ FINAL STORY』から感じること②

 

 

 この記事では、便宜上、マンガ『キャンディ・キャンディ』を「正編」『小説キャンディ・キャンディFINAL STORY』を「小説F」と表記しています。

 また、“あのひと”が誰かを考察する趣旨ではありません

 

~小説Fをお好きな方は、以下お読みにならないでください。読まれるならば自己責任でお願いします。~

 

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>>>>[3]からの続き

 

 もう1つ強く感じたことは、原作者は、正編の“テリィとキャンディの永遠の別れ”を軌道修正したかったんだな、ということ。


◆続編にほかならない2つの新要素

 正編の終わり方では、テリィとキャンディは“訣別”、2人の未来はないとしか読者は受け止められない。それはもう絶対的なものとして。だからこそ、多くの読者は嘆き、落胆したわけよね。原作者にもその嘆きは数多く届いていたというくらい。

 裁判経緯を記した原作者自身のHPで見ると、リメイクの話が泥沼裁判の発端だったようだが、リメイクの話が立ち消えになったのは、リメイクのはずがいつのまにか「続編制作」にすり替わっていたから、だという。原作者は、正編でキャンディの物語は完結しているという姿勢を崩しておらず、正編後の話をするつもりは、当時はなかったということだろう。

 けれども、小説Fでは、思いっ切り「続編」にも等しい、2つの新要素(スザナの死と、テリィからの手紙)をぶち上げたわけだ。

 これは、正編の余韻を大切にしたければ書くべきことではないし、書く必要のない要素でしょう。でも敢えて書いたということは、余韻を損なうことになるのは承知の上だったということ。そうまでしてこの新要素2つを入れたというのは、“あのひと”が誰であれ、テリィとキャンディの未来に含みを持たせたかったとしか思えない。つまり、軌道修正したわけだ。

 実際、“あのひと”が誰かは曖昧にした、と原作者自身が書いている。正編でキャンディの物語は完結した、という原作者の姿勢を貫くのであれば、これは禁じ手に等しい。

 別に2つの新要素を書いたことを全否定するつもりはないが、前述のとおり、雑だし安易だという感は拭えない。

 これだけ、“あのひと論争”を長引かせるほどに、小説Fは巧みな仕掛けがされている証拠であり、そこはさすがと言うべきところなんだろうけれど。

 私が小説Fの担当編集者だったら、これはナシだと言うだろうな。原作者でなければできないことを敢えてしないばかりか、実に中途半端なことをしている。ま、編集者のタイプによるけれど、私ならNGだ。

 恐らく、原作者は、自身の手で決着をつけるのが怖いのだろう。“あのひと”をアルバートさんと明記しちゃえば、テリィ派は絶望し、再び嘆き悲しむ。でもテリィとしちゃえば、アルバート派は憤るだろう。どっちにしても、原作者は非難される。引いては正編の価値を更に貶めることになりかねない。

 “あのひと”が誰かをきちんと描くには、長い物語が必要なのです。けれど、それを書くことはもうないでしょう。《下巻p.336》

などと「あとがき」に記しているが、まさに、その「長い物語」を書かなければいけなかったんではないの? こんな新展開をチョイ見せするくらいならば。これでは、ファンに媚びただけであって、ファンの期待に応えたことになっていない、、、ということを、どうして編集者は言わなかったのだろうか。

 若しくは、原作者は「長い物語が必要」などともったいぶって言っているだけで、実はそんなものは頭の中にさえなかったのか。そうは思いたくないけどね、、、。

「それを書くことはもうないでしょう」などとセンチなこと言ってないで、今からでも遅くないから書けば良いのに。アルバート派だろうがテリィ派だろうが、全ての読者が満足・納得する物語なんてそもそも存在し得ないのだから、著者の信念で書けば良いだけでは。マンガの連載のように、読者の反応を過剰に気にすることなどない。そう思っている読者も多いはず。

 私はテリィ派だが、キャンディとハッピーエンディングでなくても構わないですよ、と著者にはエールを送りたいなぁ。だからといって、アルバートさんと……てのは生理的に受け付けないのだが(義理とはいえ親子、、、)。キャンディには自立した女性として、富豪との結婚なんて安易な落とし所に収まって欲しくない、というのが本音。

 原作者がどうしてもそれは書けないというのなら、新要素2つなどぶち上げず、もっと人物描写を細やかに、正編を知らない読者でも読むに耐える骨太の小説を書けと、私が編集者なら説得するね。それこそ、『あしながおじさん』や『赤毛のアン』に匹敵するような後世に残る児童文学を目指して書け、と。それが出来るのは、原作者であるあなたしかいないのだよ、とね。アラフォーのキャンディなど登場させずとも良いではないか。

 ただまあ、これは私のただの勘繰りだが、「あとがき」で、小説Fの執筆については迷いがあったが、版元から度々口説かれたというようなことも書いてあり、恐らくこの版元には下心はあっても志はなかったのかな、という気はしている。真相は分からないからこれ以上の言及は控えるけど


◆小説Fの意義

 ……とイロイロ文句を書いたものの、何度も言うが、原作者の真意は分からない。

 感じるのは、原作者よりも、小説Fの担当編集者の方が罪深いかも、ってこと。少なくとも、小説Fは、独立した小説としては後世に残り得ない代物になっているのだから。正編をリアルタイムで読んでいた、今や50代のテリィ派の傷を舐めるだけの作品、、、というのが言い過ぎならば、リアルタイムの読者たちで内輪ウケするだけの作品、かな。

 正編終了後にいろんなことがあり過ぎて、原作者の考えが根本的に変わったということは大いにあり得るし、あって良い。それに、原作者が小説Fを後世に残る作品にしようなどと、ハナから考えていなかった可能性も十分にある。……であれば、小説Fが往年のファンを楽しませるだけのものであっても構わないわけで。

 皮肉にも後世に残るのは、発禁となった正編であって、間違っても小説Fではない。将来、著作権が切れて復刊があるとしても、それは正編だけだろう。つまり、キャンディの「物語」は、どこまで行っても、あの作画者による絵と一体となったマンガ『キャンディ・キャンディ』のことのみを指すのだ。

 だから、小説Fが正編の価値を貶めていたとしても、それは今だけ、せいぜい今後数年かそこらだろう。けれど、正編は今後、発禁が続いても語り継がれて永く残り、少女漫画史上から消えることはない。萩尾望都著『一度きりの大泉の話』の中でも言及されていたしね。正編の存在は、おいそれとは消えないはずだ。だから、小説Fが正編にとってどんな存在であれ、キャンデイの「物語」は自立しており、正編で語られていることが全てなのだ。

 私にとって、小説Fは、いずれ2人は一緒に幸せになれるのだよ、、、と思えることで、正編の「テリィとキャンディの生木を裂くような別れ」のシーンを読むときの絶望感が緩和される、、、、という存在でしかない。

 なので、小説Fについて言及することは、多分この先あまりないと思います。私にとって、やはりキャンディの「物語」は、マンガ『キャンディ・キャンディ』に尽きるからです。

 ……というわけで、次回以降は、テリィについて思うところを書いて行こうと思っております。

 


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