絵を描こう 旅に出よう

いつもわくわくしていたい

孫No.2 誕生

2024年04月23日 10時29分18秒 | 日記

4月23日、朝7時5分、二人目の孫、誕生。福岡にて。

息子(もう34歳?)の第一子。男子。

福岡の、お嫁ちゃんの実家近くの病院で産まれた。予定日の前日。3226g。看護師として働いていたお嫁ちゃんは、切迫早産になりそうになったりしたけど、無事お腹の中で大きくなってから出てきてくれた。ありがとう!

名前は何になるのかなー

 

娘の子どもと息子の子ども。

みんな娘の子どものほうが近く感じると言うけど、そうかもしれない。

お嫁ちゃんのお母さまはすでに息子さんちに男女二人の孫がいるので孫経験はあるけど、娘の子はきっとまた格段に可愛いことでしょう。

いまは息子は沖縄勤務だけど、いつか東京に帰ってくると思うので、そのときはたくさん会いに行こう。

男の子かー

私は女の子二人、男の子一人を育てたけど、男の子ってなんか一枚の壁があったような気がずっとしていたなーなんでかなー同居のお姑さんに預けてばかりいたからかなー

 

これからがたいへん。

共働き子育て、頑張ってください!

 

★★★★★★★★★

きょうはこれから、横浜高島屋で、不思議の国のアリス展を観てきます!


中華街親睦会。はったい粉の思い出。

2024年04月21日 06時10分08秒 | 日記

なんだか疲れて2日間更新できなかった。

年取ると体力落ちてくるということを実感として感じたことはなかったのに、電車で遠出して夜帰ってきたときに、あー、疲れたなーって思うようになった。「よる年波」っていうんだねー(しみじみ)

 

一昨日の金曜日は、古い友達SさんとKさんと、中華街でランチして、ベローチェでおしゃべりして、山下公園のベンチでおしゃべりして・・・よく笑うお二人は昔から顔見ると笑っていた。こちらもつられて笑ってしまうので、3人集まるとほんとに明るいおばちゃんたち、となる。

Sさんはシニアのファッションショーのサークルに入っていて、先生に素敵なドレスを作ってもらってモデルになってショーをする(ドレスは買い取りなのでお金がかかる)。その仲間のОさんの写真を見せてもらってびっくり。なんと93歳。どう見ても70歳くらいにしか見えない。

ということで、私もそんなおばあちゃんになろうって、写真をラインに送ってもらったりした。

何と言っても姿勢だね!

背中曲がるともう年寄り。

 

その日は夕方5時から7時まで保育園の仕事も入っていて、おまけにアシスト自転車の電池切れ。「なんだ坂こんな坂」と歌って帰り、帰宅したら子守も入っていて、疲れたわー

出も若者でも疲れるよね。

よる年波、なーんて、言わないこと!

絶好調!と言うこと!

 

今朝の夢。

昔、懇意にしていた喫茶店のマスターにばったり会う。彼はわたしのことがわからない。なぜなら私がとても若返ってるから。

ははは、そんな幸せな夢みちゃう私って、おもしろい。

 

ひすいこたろうさんからの提案。朝の日課のひとつに、鏡の前でコップいっぱいのお水を飲む。そのときに、お水に言う。「若返らせてくれてありがとう」って。

ときどきやってみてる(笑)

 

★★★★★★

では昨日のこと。

一日子守(笑)

バスに乗って天王町のイオンへ。とくに買い物はない。テラスでケンタッキーを食べて帰る。

孫は、はじめ「チキンきらい」「たべない」といったので私が食べてしまったら、「チキンたべる」と言う。ちょっとムッとしたけどもう1つ買ってきた。あの「たべない」は、「いまはたべない、あとでたべる」という意味だったらしい。

食べる、食べない、にはいまだに忘れられない思い出がある。おじいちゃんに作ってもらったはったい粉のおやつ。もっと食べるかときかれ、食べる、と言って作ってもらったら、やっぱりもう入らなくて、もういらないと言ったら、「いらないならもっと食べると言うな!」と怒られた。なんでこんなこと覚えてるのかなーおじいちゃんにしてもらった楽しいこともあったはずなのにー

はったい粉のだんご(?)、あれ以来食べてないなー。はったい粉って何だ!

調べる。

「はったい粉は、オオムギの玄穀を焙煎した上で挽いた粉。ハダカムギを原料とするものもある。麦焦がし、煎り麦、香煎、おちらし粉とも呼ばれる。大豆から作られる「きな粉」と混同されやすいが、色は灰褐色である。夏の季語」

腸にも美容にも良いらしいよ。

 

また思い出話になっちまったぞ・・・

 

ということで、食べないと言ったり食べると言ったりする孫を叱らないことにする。

 

近くの公園でありの観察。えびせんの破片を投げたら、サッとつかんで、巣の方へ運んでいき、少し迷って、自分の巣穴を見つけて入っていった。広い公園、なんで巣の場所へ帰れるのか。こんな小さな頭で。(アリに脳みそあるの?)不思議なことだなー、帰巣本能って。食料が手に入って嬉しいのだろうか、そんなことを感じる心はないんだろうか・・・

 

イオンからまたバスで孫を連れて帰り、昼寝をさせ、肉じゃがとお味噌汁を作り、夕食を食べさせ、お風呂に入れて、寝かす。

1日を子守に費やした土曜日。

健康に感謝だ!病気になって孫の面倒も見れない祖母になるよりずっとずっと幸せ。

 

 


ショーン・タンの鉛筆画を模写

2024年04月18日 07時05分00秒 | 日記

きのうはイレギュラーに仕事がお休みだったので、思い立って、多摩ニュータウンのふる里へ。懐かしい町。今住んでいるところと比べると圧倒的に緑が多い。街路樹の豊かさには、心がホッとする。公園もたくさんあるし。それに電信柱と電線がない!

ヨーロッパにはありえない、この空を覆う電線は、日本の街の景観を汚くさせている。道路に立ち並ぶ電柱の邪魔なこと。日本の無電柱化は遅々として進まず、かえって何万本も電柱は増え続けてるそうだ。

一度できあがったものを、舗装され尽くした町の地下に埋めるのは大変なことだと思うけど、頑張ってほしい。ニュータウンのスッキリとした空を見ながらつくづく思った。

 

★★★★★★

絵の先生のところへ行って、鉛筆画の描き方を習う。ショーン・タンの「エリック」を模写してみる。

楽しいけど、これがなかなか家では集中できない。

擦筆でこすって暗いトーンを作るというのは私にとっては目からウロコ。鉛筆デッサンというのはこすってはいけないと思いこんでいたから。

モチベーションを上げて帰ってきたので、次の絵本のコンクールにむけて1か月、がんばろう、なにか素敵な詩を探そう。物語は作れない。

と、今は思ってるけど

朝のウォーキングも続かなかったし(恥)

ブログも一週間すら毎日更新できなかったし(恥)

 

ま、いいか!

頑張らなくていいよ!もう十分がんばってきました。


久しぶりに運転 車を巡る思い出

2024年04月17日 00時30分57秒 | 日記

きょうは娘にたのまれて家具を運ぶためにレンタカーを借りた。

1年ぶりの運転、はじめはどきどき。

でも走っているうちに昔通り。

非力な人間が重い荷物や人を運べ、夜中でも早朝でもどこにでも行ける。雨でも風でも平気。

座ってハンドルやシフトレバーを操作するだけ。

車は自由と力の象徴のように思える。カーロスを感じた。

 

4年前、愛車を手放して、大分に移住し、そのときは大家さんの車を借りて乗っていたが、横浜に来てから車の無い生活になっていた。2年、3回くらいはレンタカー借りたかな。最後に運転してから1年がたつ。

73歳はもうそろそろ免許返納を考える歳だけど、まだしばらくは乗りたいなーと思った。

でもいったん事故などの不安を抱くと、もういらないやと思ったりする。不便だけど平穏。人に害を与える心配もない。お金もかからない。

 

このブログにも書いたことがあるけど、

二十年前に、長女が交通事故で亡くなった。

あのときの運転手のHさん(名前はいまも覚えてる)は今頃どうしているだろう。亡くなったときには土下座して謝って泣いていた。いまは全く音沙汰はないが、ときどきは死なせた少女のことを思い出すのだろうか。事故は娘にも責任はあった。急に車線の変更をして後ろから来た車にはねられたんだから。でも夜中、その車はライトをつけていなかった。夜中の甲州街道、みんな高速道路並みのスピードで走る。バイクに乗っていた娘はバックミラーでは無灯火の車が来てることを気づかなかったのだろう。娘の頭はその車の右のサイドミラーにぶつかったらしく帽子の毛糸がくっついていたらしい。その車には巨大な犬が2頭乗っていた。

病院で3週間意識のないまま寝ていて、その間に顔の傷が奇麗に治った。でも脳のダメージはやがて彼女を死に至らせた。

私たち両親はなぜかあまりその運転手の男性を憎まなかった。

運命だと思った。

娘が死ぬまでの5年間、わたしたちは娘の生き方の激しさに翻弄されていたので、死という結末が、なぜか、ああ、やっぱりそうだったのか、という受容の気持ちで受け取った。もちろん悲しくなかったのではないし、いまも悲しいし毎日思い出すんだけど、理不尽さからくる怒りよりも、天のやり方に、そして娘に、感謝を感じるときもある。もう一度新しい体でやりなおしに生まれてくると信じることで悲しみをやり過ごせた。

 

実は私は、多摩市の野猿街道で、自転車の大学生をはねたことがある。それは明らかに相手の責任で、ブレーキの効かない自転車で急な坂道からすごい速度で飛び出してきたんだから。こちらは信号のすぐあとで、スピードが出てなかったのは幸いだった。大学生のころび方も上手くて、すみませんといいながらスタスタ歩いてきた。。パトカーと救急車を呼んで病院へ運ばれたけど、骨折もなく軽症。頭も打ってなかった。柔道の受け身が得意だと言っていたっけ。ほんとうにラッキー!

とにかく呪文のように「ありがとう」を唱え続けていた私だった。

警察ではこちらの責任もいちおう問われるということで左前方不注意、となったけど、あれはお巡りさんでもさけられませんでしたよ!

保険会社の交渉でこちらの過失は20%となった。

私の小さな車はかなり壊れて弁償してもらった。彼は個人賠償保険に入っていたらしい。

トラックにでもぶつかっていたら彼は死んでたかもしれない。小さい車でよかった~と言っていたな。もしかしたら私は彼を救ったのかもしれない。

全く迷惑な話だけど、それもなにか私へのメッセージだったのだろう、とは思う。天使か何かがわたしを守ってくれた。

忘れられない思い出。

 

車にまつわる思い出はたくさんある。札幌まで一人で運転して行ったこともあるし、鳥取砂丘へも行った。御前崎、潮岬、野島岬、観音崎・・・たくさんの灯台を巡った。

 

もう終わりにした方がいいのか、もう少し楽しんだほうがいいのか、迷っている。


日曜学校にて

2024年04月15日 02時50分30秒 | 日記

孫の幼稚園はキリスト教の教会の付属幼稚園で、日曜日には礼拝に来るように勧められてる。ママとパパは寝てるので私が連れて行った。

クリスチャンホームで育ったわたしは赤ちゃんのときから母に連れられて教会に通っていた。幼稚園に入ってからは日曜学校へ通った。そこは日曜学校に出る代わりに月曜はお休みになってたと思う。神戸の長田幼稚園。

献金は5円だったか十円だったか。70年前の十円はいまはいくらになるのだろう。

きのうの礼拝では、園長先生がブドウの木のお話をされた。ホワイトボードに枝だけのブドウの木の絵が貼られていて、

これはブドウの木です。冬はこんなふうになっています。春になると葉っぱが出てきて、やがて実がなります(葉っぱと実の絵をマグネットでつける)。でも、もし、ブドウの実や葉っぱが枝から離れてしまうと(一枚の葉っぱと一房の実を木から落とす)、枯れてしまって、実も大きくなれません。ブドウの木はイエス様です。イエス様はわたしから離れることのないように、と教えられました。

と、園長先生は話された。

生まれたときから教会に通っていた私なのに、いまは聖書を読むこともなくなってしまった。でもこんなふうに意図せず日曜学校の椅子に孫と座っている。そしてブドウの木のお話を聴いている。とても不思議な気がした。

わたしが教会に行かなくなったのは、母がエホバの証人になったからだ。日曜学校へ行かせず私たち姉妹をエホバの証人の伝道に行かせた。はじめは父に内緒で。父は悲しがっただろうと思う。あなたがやるのは自由だけど、子どもたちは連れて行くなと言った。でも子どもたちは母のものだった。仕事が忙しく家にほとんどいない父とは親子の絆が結ばれていなかった。

あの頃両親は多分離婚寸前だったかもしれない。でもエホバの証人は離婚は勧めないので、そのまま夫婦の溝を抱えたまま家庭は存続し、父は妻と3人の娘を養い続けた。わたしは夜の集会から帰ったときに父の靴があるととても気まずかった。こっそり部屋に入った。

8歳上の姉はもう高校生だったので母にはついて行かず教会を選び、牧師の妻となった。下の姉とわたしがエホバの証人となり、中学生でバプテスマも受けて、やがて開拓者と呼ばれる全生活を宗教活動に費やす立場になった。

その活動を25歳で辞めることになったきっかけは前にも書いたっけね。

その後、私は教会に戻ることはなく、もう決して宗教組織には入らないと思っている。神様との個人的な関係でいいと思っている。

だからといって日々を祈りのうちに過ごすというわけではないけど。神様ってなんだ?ってずっと思ってる。神様ってもしかしたら自分のことじゃないかとうすうす思っている。神さまって潜在意識のことだってーマーフィーの本から学んだ。でもまだまだ迷いの中だ。

両親は晩年は夫婦仲良くしていた。信仰深い母、忍耐強い父、だった。今生きていたら、いろんなことを話したいなー

 

きのうは、そんなことを考える日曜日だった。

偶然か、昔の職場の友人(フィリピン人)から、教会のイベントに誘われた。


メタ無意識論  そう簡単には理解はできない

2024年04月13日 09時57分38秒 | 日記

梯谷幸司さんの「なぜかうまくいく人の すごい無意識」を聴く。

何かしながら聴くような内容ではないのでしっかり聴く。

私がいつまでも抱えてる問題(経済的問題)を解決するにはとても大切なことを言っている気がする。

 

全部書いておきたい内容だったけど、とくに興味深かったことは、

脳の働きには苦痛系と報酬系がある、ということ。

義務感(やらなきゃ!)でやるときには苦痛系が働き、欲求(やりたい!)でやるときには脳に目的を与え、報酬系が働く。

苦痛系は、視床下部から副腎に命令してホルモンを出させる。

◎コルチゾール→免疫機能が押さえつけられる、血糖値上がる

◎アドレナリン→血圧、心拍数あがり、戦いモード

計算など苦痛系が働く。間違いがあってはならない、とき。

これが続くと心身がやられる。

とくにお金のことを考えると苦痛系が働く。

反対に、欲求でやると、脳の報酬系を働かせて、そのとき分泌されるホルモンは、

ドーパミン→興奮

セロトニン→幸福を感じるとき

これらは心身をリラックスに導く。病気にならない。

クリエイティブ、新しいもの生み出すときには必要。

ほとんどの病気はストレスが原因、いつまでも若々しく元気でいるために、したいことだけするっていうのは納得。

 

他にも、自己認識について、

限定的自我→うまく行ったときのみ自分を認める

絶対的自我→物事がうまくいこうがいくまいが、関係なく自分はこのままでオーケー。

 

生存欲求型と目的欲求型。

ナチの収容所では、単に生き残りたいと願った人ではなく、生き残ってやりたいことがあって目的を持った人は生き残った。

 

はぁ〜、ちょっと書きだしてみたけど、抽象的な言葉、一般的な観点、物質タスクだのなんだのと知らない言葉が並んでいて、理解がついていかない。頭が悪くなってるのだなー文字で読まないからかな。

 

ま、とにかく、ものごとがうまくいかない人とうまくいく人の違いは、脳の働かせ方。

そして脳は言葉で動く。

何かを求めると、その対比として、反対のことが作り出される。脳は反対に動く。

苦痛な記憶、好ましくない記憶を意識に上げること。やらないことリストを作る。ネガティブを利用する。徹底的に自分基準で行動する。

子供は感情的に叱ると他者基準で生きるようになる。自分基準で生きるトレーニングをすること。

ゲームを買って! どうして? 友だちが持ってるから。→ノー!

ゲームを買って! どうして? 楽しいから。→イエス

 

お金は自分でコントロールできる、と思った人のところにお金はやってくる。コーヒー代すら、自分の目的のために使うのだということを脳に言う。

お金にコントロールされてきた私にはここはしっかり脳に考えを変えてもらうこと。

 

ゴールを脳にインプットするための4つのステップ

①避けたいことを書く(お金がない、自信がない、など)

②それと正反対のことを書く、二重拘束となる

③モデルを見つける。あこがれの人を見つける、どうしてそえなりたいか。

好きな有名人、尊敬する人、。とういいう点が?

④具体的にこうなりたいと思う。あこがれの人の着ぐるみに入った感じ。そうすると将来どんな感じになるか、具体的に思い描く。未来の記憶を思い出す

⑤もっと、さらに、という言葉で目標をはっきりさせる。

今は健康、もっと健康に、など。

⑥完全になりきって行動

 

 

ここでわたしは立ち止まって、まずあこがれの人を探そう。きぐるみに入りたい人。

山本容子?

角野栄子?

ヒグチユウコ?

みんな絵本作家だ。

 

まだまだこの本は続くが、きょうはここまで。

オーディブルではこの8ヶ月に三百近い本を聴いた!乱読(聴)のせいで混乱して内容がぐちゃぐちゃ。いいのかなーま、いいか。

 

 


ヨーロッパの街角のお弁当を思い出したらまたどこかへ旅をしたくなる

2024年04月12日 02時00分32秒 | 日記

保育園勤務者には、月に1回検便提出が義務づけられている。一昨日提出を忘れて、きのうはそのためだけに職場に行かなければならなかった。仕事はないのに。

その後は暇だったので、お花見でもしようかと、水筒とお弁当を持って自転車で出かけたけど、結局ファミマのイートインコーナーで過ごして、買い物して帰ってきてしまった。一人旅好きの私もさすがに桜の下のピクニックは一人ではつまらないね。

去年のヨーロッパの長い旅では、タッパー大活躍。いろんなところでお弁当を食べたなーなんせ貧乏旅行だったから。

汽車の中でも、広場の階段でも、駅のベンチでも。

教会の入口で座り込んで食べてたら、ツーリストのご婦人に、「それは日本のオベントウでしょう」、と声をかけられた。日本のベントウは有名らしい。ただの百均のタッパーだったのでちょっと恥ずかしかったけど。このときはスパゲッティ弁当だった。

紫キャベツの炒め物は真っ黒で、なにそれって感じだったな。

ビサの斜塔の下でも食べた。

あのときのタッパーはいまはひっそりと食器棚の隅にある。蓋がひび割れてるんだ、リュックの中で押しつぶされて。

 

★★★★★★★★★★★★

旅人とホームレスは紙一重。

安心して寝る場所がある、体をきれいにすることができる、それはとてもすばらしいこと。

 

あの旅からそろそろ1年、借金して決行した旅だった。ようやく返済は終わったのでまた貯金しよっと!

旅しながら稼ぐという夢は叶うのかなー。

 


ブログ更新、連続記録を作ろう

2024年04月11日 19時22分17秒 | 日記

あれ、今朝は日記を書かなかったのね。

わたしはこれをいつも朝書くのだけど、今朝は忙しかった。孫のお弁当作ったり、せんたくしたり。

娘の家に居候の身、家賃の代わりに家政婦のように働いている。娘を甘やかしている。

私が子育てしてるころは、家事はノルマで、しなければならない辛いこと、だった。でも今は楽しいのはなぜだろう。毎朝の四人家族の洗濯や、夕食の支度、やってあげられることが嬉しい。

こないだは孫の幼稚園の入園のための絵本袋と上履き袋と体操着入れを作った。ヤフオクでミシンを買って。(3000円しなかったのにすごくいいミシンだった!)最近のママたちは買って済ますらしいけど。

ここに暮らすようになって2年。そろそろ孫の記憶にもおばあちゃんと暮らした日々の思い出が残るかな。

感謝すべきは婿が優しいこと。友だちは娘婿となんて絶対に暮らしたくないという人が多いけどね。

 

ま、そういうわけで朝は忙しい。早起きして楽しむ一人の朝時間、紅茶を入れてブログを書く。前向きに、自分の目標に向かって進めるような、建設的な日記にしよう。

 

いまは夜の7時41分。


14年前の日記に追記を書く

2024年04月10日 06時51分07秒 | 日記

昔の日記を読んでみる。忘れてることがいっぱい。不思議なほど記憶に残ってないことが書いてあって変な気持ちになるくらいだ。

 

2010年の4月、息子のことが書いてある記事。就職活動を嫌がってる大学生の息子と姉との会話。その記事に追記を書きながら、彼は一年留年したものの、おかげで無事定職を得たことに心底ほっとする。留年のおかげでヨーロッパの旅もできたし。でも、ほんとにこれでよかったかどうかなんて死ぬまでわからないし、もしかしたらもっと別の、もっと輝く人生があったかもしれないよね。そんなこと誰にでも言えること。終わりよければすべてよし、笑って死ねる人生を送ってほしい。

 

それにしても過去の日記を読むたびに思うこと、この十年で5回の引っ越し。私の目まぐるしく変転する人生、もうこれでいいやと開き直るしかないね。さて次はどこへ行こうか。

 

★★★★

きょうも良い一日でありますように。私にも、読者の方々にも。お天気は晴れ。


また春の嵐。鉛筆の歴史に思いを巡らす

2024年04月09日 09時21分51秒 | 日記

きょうはまた大雨。

孫の幼稚園の入園式だというのに!

でも、発熱で結局のところお休み。

これで桜もいっぺんに散ってしまいそう。花の命は短くて・・・である。桜を見るたび、あと何回お花見ができるか、ってかんがえる。

 

風邪ひきさんの孫は、テレビ(アンドロイドテレビ)でユーチューブのののちゃんの歌を見てる。ののかちゃん、同じ年くらいかな。(今治5歳らしい)。今は、妹もいっしょに活躍中らしい。すごいねー

歌のあとはお絵描き。集中してる。

色鉛筆を削ったら中で芯が折れていた。折れ芯だ。オレシンという言葉を娘は知らなかった。きっと私が小さかったころの鉛筆は品質が悪くて折芯がよくあっけど、娘の時代にはほぼなかったのだろう。戦後10年頃の鉛筆だもの、落としたりしたら折れ心鉛筆になっちゃってたんだろうねー

 

それにしても鉛筆考えた人偉いなー

調べてみたら、1564年、イギリスで黒鉛がものを書くのにちょうどよいと発見され、手が真っ黒になるので木で挟んだり布を巻いたりして使い、また黒鉛の粉に粘土を混ぜるようになり(色の濃さはその配合で変わる)、19世紀、木に細い溝を掘って芯を入れて重ね合わせる製法が開発され、どんどん改善されていったそうだ。

何も知らないで当たり前のように使っている鉛筆。鉛筆づくりに命かけた人もいるんだろうなーありがとうね。

 

こんな知識も、即座に手に入る時代。百科事典も図書館もいらない。なんてこった。

 

風がやんだ。午後は仕事に出かけるので助かった。少し部屋を片付けて、私もお絵描きしてみよう。